四話 ラーメン醤油味
四話 ラーメン醤油味
加奈との仲は元通りとは言わないまでも良好だ。一緒にトイレに行くし、SNSの会話も再開した。瑠香としては弁当の他に購買のパンも食べられるようになるほどの幸せだった。が、別の問題が発生していた。
「瑠香さーん!」
寧である。告白した翌日から、放課後になると校門で待っているのだ。彼は決まって焼きそばパンを持っており、クラスメイトからは「焼きそばパンの彼」と呼ばれ、瑠香をからかうネタになっていた。
「焼きそばパンです」
寧が差し出した焼きそばパンもすでに七個目である。瑠香はそろそろ別の物が食べたくなっていた。
「寧パイセン、焼きそばパンはもう……」
「やっぱり迷惑ですか?」
見当違いの問いに瑠香はイラ立った。だから教えてあげる。瑠香が寧に願うことを。
「別の物が食べたいな。例えばラーメンとか」
今はこれだけである。
「じゃあ、この焼きそばパンはもういらないですね」
愛想笑いをして焼きそばパンをポケットにしまおうとする寧。
瑠香はその手を握りしめた。
「ヒュー」
下校途中で事情を知っているクラスメイトがはやし立てる。しかし彼女達が考えているようなことは瑠香の頭の中にはない。
瑠香は腕力を使って焼きそばパンを奪った。
「もったいないからもらってあげる」と言って。
決してツンデレとかではなかった。本当にもったいないから取りあげたのだ。
しかし寧は顔を赤くして自分の目を見ている。自分を好きだと言っている男も瑠香を理解できていない。寧パイセンは私のどこを好きなんだろうか? そう思う。
焼きそばパンを早速食べるていると、SNSの着信音がした。加奈からだった。
『私、いて大丈夫?』
焼きそばパンで失念していたが、瑠香は加奈と一緒に帰っている。毎日である。このメッセージも七回目なのだ。
瑠香は焼きそばパンを食べてから返信する。
『大丈夫。おごってもらえるよ加奈も』
『いやいや、後が怖いって』
『これだけ食わせたから、キスさせろとか言うかもよ』
『そんなこと言ったら永遠にサヨナラだよ』
血のついた刃物のスタンプが表示される。瑠香が送ったのだ。
加奈は震えて怯えるキャラクターのスタンプで返してきた。
「寧パイセン。今から行ける?」
瑠香は寧に詰め寄る。
寧は距離を取って頷いた。
「ラーメンでしたら、すり鉢ラーメンっていうやつがあります。十分で食べられると無料なんですけど、失敗したらかなりの額を取られるんです」
「それって首里軒?」
「そうですけど」
瑠香はがっくりと肩を落とした。
「どうしたの?」
加奈が聞く。
「首里軒はすでに出禁になってるの」
「出禁?」
「タダになるから毎日通ってたの。そしたらブチ切れられて……」
それを聞いて加奈だけでなく、寧もため息をついた。
「他の店で出禁とかはありますか?」
「ここら一帯の飲食店は出禁なの。だから食べ物をもらうために願いを叶えてたんだよ」
「瑠香。威張ることじゃないから」
「事情は分かりました。そうなると瑠香さんを僕の母に会わせるしかないですね」
寧の発言に場が凍りつく。付き合うか付き合わないかという微妙な時期に、実家へ連れて行って母親に会わせるとか、瑠香にとってはありえない選択肢であった。
加奈とともに軽蔑の眼差しを向けると、寧は両手を振って違うというアピールをしてくる。
「会うっていうのは語弊がありました。母にラーメンを作ってもらおうと言おうとしたのです」
「マザコンか」
「人聞きの悪いこと言わないでください。加奈さん」
「男はみんなマザコンなんでしょ? あってるじゃん」
「むむ。瑠香さんはどうします? 僕んちで食べます?」
相変わらず寧の顔は赤く、鼻息は荒い。おそらく瑠香が来てくれることを想像して、シミュレーションして、興奮しているのだろう。何をされるか分かったものではない。たとえ腕力でそれを封じ込められるとしてもだ。
だが瑠香はあえて死地に飛び込むのだ。ラーメンのために。
「加奈は連れてくよ」
「そうですか。そうですよね。はは……」
寧は乾いた笑いを浮かべた。おそらく目算が違ったのだろう。
「行くよ、加奈、寧パイセン。ラーメンを食べに」
瑠香はもう一度寧の手を握り、すぐに手を離した。焼きそばパンを包んでいたビニールを渡しただけなのは言うまでもないことである。
寧の家は一軒家だった。が、山の上のほうにあるため、階段を上らなくてはならなかった。おかげで加奈は息を切らせていた。
「運動したら? ご飯がおいしくなるよ」
「じゃあ、ラーメンおいしくなるね」
「そうだよ。楽しみだなラーメン」
瑠香が素直に答えると加奈はガッカリする。瑠香はその反応に首を傾げた。運動後の食事は本当においしいのに。
「あの、ラーメンと言ってもインスタントですから過剰な期待を抱かれると……」
「インスタントかあ、じゃあ三個入れてくれる? 麺」
「そんなに食べるんですか?」
「すり鉢ラーメン毎日食べてた女だよ。ホントはもっと食べたいけど、五個ワンセットだから三個で我慢したの」
自慢しつつ、二人に対して気遣いのできる女をアピールする。
しかし加奈には効いていないようだ。
「それ、私が二つ食べたいって言ったら破綻するよね」
「加奈も一個じゃダメなの? 太るよ」
加奈は無言で瑠香の両頬をつかんで引っ張る。何度も何度も。喋らないことで加奈の怒りの大きさが分かった。
「いひゃいひゃにゃ」
「寧さん、この食欲魔人のラーメンを一人前にしてもらいましょう。作るのは寧さんのお母様なんでしょ?」
「そうですけど……」
寧は瑠香に心配そうな目を向けた。その間も瑠香はつねられている。
「多分瑠香さんは満足しないですよ。それに母は姑息なことをすると見抜いちゃうんです。刑事ですから」
「ちっ」
加奈は舌打ちした。
そのスキに瑠香は頬の拘束を振りほどき、
「私は三個食べる。絶対に!」
と宣言した。家の前でやっていたので、玄関の引き戸が開き、背の小さな寧にそっくりの女性が顔を出す。
「あ、寧。誰? その子達」
「あ、私達、塚江さんの友達の井伊加奈と葦木瑠香です」
「寧の友達? 女の子が?」
本気で驚かれていた。寧自身も友達がいないと言っていたので、ホントに珍しいのかもしれない。
「寧パイセンにはお世話になってまして」
「パイセン? お世話?」
じっと見られて瑠香はドキドキした。別に悪いことをしたわけではないのに冷静ではいられない。それほどの眼力だ。司馬至の睨みなどかわいいものである。
「母さん、実は母さんに頼みがあって」
寧がかばうように寧の母と瑠香の間に立った。
「何? 家をあけろは容認できないわよ」
「違うって!」
寧は声を張り上げると、寧の母の近くへ寄って小声で話し始めた。
「えー? なんで? 食べてくれば良かったでしょ。司馬軒で良いじゃない」
「あそこはダメだから」
「何が?」
「とにかく作ってよ」
「うーん、女の子って男の母親の手料理嫌がるんじゃないの?」
「嫌がりません! 私は残さずに食べます」
瑠香は寧を押しのけて、寧の母の前に立つ。
寧の母は圧倒されたようだが、チラッと加奈のほうを見た。そして何かを確信したように頷く。
「分かった分かった。なるほどなるほど。そっちかあ」
寧の母はニヤニヤ笑っていた。
「母さん?」
「あ、名前言ってなかったわね。寧の母の塚江照です。よろしくね、葦木瑠香さん」
照は瑠香の手を握る。近くにいるからだと思ったのだが、加奈には手を振っただけだった。何だろう? この差は。瑠香も不審に思ったのだが、照が機嫌を損ねてラーメンを作らないと言ったら困るのでやめておいた。瑠香は照のラーメンを食べに来ているのだ。妥協して他の物を食べるなど考えられない。
「あの私、結構食べるほうなんですけど……」
「いっぱい作っちゃうから安心して」
「はい! ありがとうございます」
瑠香は満面の笑みを浮かべた。これで今日のおやつが食べられる。ラーメンだっておやつになれるのだ。
照は瑠香に五人分の麺を振る舞ってくれた。古くからあるインスタントラーメンの醤油味。瑠香の家にも常備されているなじみの味だ。しかし照のラーメンにはトッピングがあった。メンマにナルトにチャーシュー、そして海苔。それだけで瑠香のテンションは上がる。
「おばさん、ありがとう」
寧の家の居間で、コタツを挟んで向かい側に座る照に笑いかけた。
「照さんね、照さん」
鋭い視線のまま笑顔になった。おばさんと呼ばれるのがイヤみたいだ。
「照さんちはトッピングあるんですね。うち、素ラーメンなんで嬉しいです」
怖いので逆らわないとにした。
「そう言ってもらえると作り甲斐があるわ。どんどん食べてね」
瑠香は言われるまでもなくラーメンを食べる。分量が多いので少し固めに茹でられている。食べている間に伸びるのを計算に入れたにくい心遣いだ。
照は瑠香の食いっぷりをじっと見ていた。何やら機会を伺っているような鋭い目つきだった。
瑠香がメンマを一切れ食べて小休止すると、照は待ってましたとばかりに話しかけてきた。
「葦木さんの通ってるところは女子高なのよね」
「はい」
「何年生?」
「二年です」
「だから寧パイセンか。ご両親はどんなお仕事を?」
「母は金融会社の社長で、父は何をしているのか分かりません」
「分からない?」
「働いているところを見たことがありません。だから知りません」
「警察署の署長なのは……」
「兄貴です。兄貴は優秀で、比べられて困ってます」
瑠香は再びラーメンをすすった。照は食べているときには話しかけて来ず、瑠香が食べ終わるのを待っていた。食べづらいと思った。
「そのお兄さんとは仲が良いのかしら?」
瑠香がチャーシューを食べて小休止したのを見計らって聞いてきた。
「もう社会人なので特別仲が良いってわけでもないです」
「そっか」
照はがっかりしている。何かを頼もうとしていたのかもしれない。
「瑠香さん」
「はい」
呼びかたが変わって、ビックリした。
「寧とは付き合ってるの?」
その問いを加奈にもするのかと待っていたら、照は瑠香の答え待ちをしていた。瑠香だけに聞いていたのだ。答えよりもまずその疑問を解消したくなった。
「照さんはどうして私が寧パイセンと付き合ってると思ったんですか?」
「質問で質問をやり過ごすか。まあ良いわ。瑠香さんが寧と付き合っていると思ったのは二つあるの。一つは呼びかたね。加奈さんは塚江さんって言ったけど、瑠香さんは寧パイセンって言っていて親しそうだった。二つ目は寧の態度。瑠香さんがピンチになったら、かばうように割って入ってきたの」
「すごいですね」
「誰でも分かるよ。ねえ」
照は加奈に同意を求めてくる。加奈は戸惑いながらも同意していた。
「で、付き合ってるの?」
「断りました」
「断ってるのに、ラーメン食べに来てるの?」
「告白して断ったらあきらめようとしたんで叱ったら、寧パイセンがアプローチして来るようになりまして」
「なるほど。寧が瑠香さんを好きなのは確定したわ。じゃあ瑠香さんはどうなの?」
「え?」
「寧と付き合える?」
「今は無理です。寧パイセン、カッコ良くはないんで」
「今はってことは将来はありなの?」
「分かりません。寧パイセンも私もどうなるか分かんないし」
「だってさ。良い男になんなきゃね」
照はニヤニヤしながら寧に笑いかけた。
寧は二度目の拒否にかなりのダメージを受けているようで、大したリアクションはなかった。
息子のノリの悪さに、照は頬を膨らませて抗議する。
「昭和……」
加奈は呟いたのを聞いて、瑠香は思わず笑ってしまう。
「何を笑ってるのかなぁ?」
「いえ、何でもないです。おいしいです」
瑠香は会話から逃げるためにラーメンを食べた。その間はなぜか話しかけて来なかったが、早く食べ終わって欲しいというプレッシャーが半端ない。息継ぎのためにすするのを止めねばならず、会話の中断は短いものだった。
「で、なんで笑ったの?」
「えーっと」
現職の刑事の追及をかわせる自信が瑠香にはない。そこで加奈に助けを求めた。密かにアイコンタクトを求めたが顔をそらされてしまう。仲直りしたはずなのに、おかしい。
今度は寧に目を向けた。寧はダメージから復活していて力強く頷き、
「母さん、瑠香さんに意地悪しないでよ」
と言ってくれた。
すると照は何かに気付いて、考え込んだ。
瑠香はとりあえず追及がやんだことに安堵した。ラーメンを食べて、照の第二波に備える。ナルトを食べて小休止すると照は言った。
「なんでイラついていたのか分かったわ。だから嫁姑問題ってなくならないのね」
「え?」
「質問を変えるわ。寧とはどうやって知り合ったの?」
質問の内容は変わったが、質問責めからは逃さないと言った感じだった。もめる要素がなくなった分、瑠香としては答えやすかった。
「スーパーの前で私から声をかけました。マカロニが欲しくて」
「マカロニ?」
「チーズマカロニ作るのにどうしても必要で」
「それでなんで?」
「寧パイセンの願いを叶えてあげるかわりにマカロニを買ってもらったんです」
「願い?」
「寧パイセンの敵である司馬至を倒してくれって」
「え? 司馬君? マカロニで? なんで?」
質問が多すぎて、瑠香はどれから答えて良いのか困ってしまう。とりあえずラーメンを食べて気分を落ち着ける。
「司馬君がどうして敵なの?」
照は初めて食事中に会話を挟んできた。それほど動揺しているのだ。
当然瑠香は答えられないので、肘で寧をつついた。行儀が悪いのは分かっているが、緊急避難というやつである。
寧は刺激を与えられて、身体が揺れた。そこに照の視線が移る。寧はあたふたしていた。
「寧、教えなさい。司馬君と何かあったの?」
寧は答えない。
「瑠香さん達をここに連れてきたのは司馬軒に連れて行きたくないからなの?」
瑠香の箸の動きが止まった。寧に注意がいっている間にかなり食べ進めたが、気になってそれ以上食べられない。瑠香は教室で真面目に授業を受けていた小学校低学年の頃を思い出して、まっすぐ手を挙げた。
「照さん、質問。司馬軒って店?」
シリアスな空気が完全にブチ壊れた。照は唖然として、すぐに答えられないでいる。はからずも攻守が逆転してしまった。
「ねえ、照さん。教えてくださいよ」
普段人前で使ったことのないような甘えた声を出し、寧も沈黙させる。
「司馬軒は中華料理店で、司馬君の実家よ。小さい頃は寧をよく預かってもらってたの。うちは夫が死別して、私が働かなくてはならないから」
半ばうんざりした顔で照は説明してくれた。
それを聞いて瑠香は憤慨する。決して照のラーメンがイヤなわけではないが、司馬軒ならば他のメニューも頼めたのだ。当然、非難の目が瑠香に向けられる。だが気にしている余裕はなかった。寧を糾弾するのだ。
「寧パイセン、私がなんで怒ってるか分かるよね」
寧は黙ったまま頷いた。
「私は寧パイセンが焼きそばパンばかり買ってくるから、ラーメン食べたいって言ったよね。そしたら首里軒のすり鉢ラーメン勧めてきて、出禁だって言ったら、寧パイセンの家に連れてこられた。照さんのラーメンもおいしいけど、私は炒飯も餃子も食べたいの。寧パイセンなら分かるよね」
寧は黙ったまま頷いた。
「じゃあなんで司馬軒を内緒にしてたの?」
寧は答えることなく、逃げ出してしまう。いたたまれなくなったのだろうが、客を残していなくなるなんて最低のホストだ。
「帰ろうか、瑠香」
加奈が声をかけてきた。瑠香だけにラーメンが出されていたので、機嫌が悪そうである。
「ダメだよ。まだ残ってるじゃん」
そう言うと、瑠香はラーメンを食べ始める。
加奈は呆れた顔で瑠香の食べっぷりを見ていた。
「ぷはあ」
瑠香は満足気に息をつくと照に言った。
「照さん、これから寧パイセンを締め上げるけど、良いですよね?」
「え?」
食べ終わるのを待っていた照はビックリしていた。
「ラーメンのお礼に寧パイセンが司馬至を嫌う理由を探ってきます。そのために締め上げます。襲ってきたらボコボコです」
拳を握って見せ、照にアピールする。
照はまだ理解できていないらしく、
「瑠香さん、どうして? 加奈さんの言うように今帰ってもかまわないのに」
と聞いてきた。
瑠香は当然だと言わんばかりの顔で言う。
「明日も寧パイセンに食べ物をもらうためです」
照はため息をついた。
「あなたのこと心配になってきたわ。なんかあったら相談に乗るから頼ってね」
「はい」
「それから署長に好印象を与える情報を流してちょうだい。うちの生活が向上するから」
「はい……」
瑠香は照の質問をかわし、照の信頼を勝ち得た。その信頼を確固たるものにするため、寧をとっちめる。ついでに司馬軒を紹介してくれなかった文句もぶつけてやるのだ。
瑠香は仕込みをしてから、ゆっくりと階段を上った。寧の部屋は右側の部屋で向かいはトイレである。とりあえずノックをすると、力が強すぎて大きい音が出てしまった。
「開けないからな」
寧はいつになく威圧的だ。
ドアノブをひねると鍵がかかっていて、ガチャガチャとまた大きい音を立てた。
「開けてよ、寧パイセン」
「え? 瑠香さん?」
「そう、瑠香さんだよ。寧パイセンは内弁慶なんだね」
寧は返事をしない。
「内弁慶ってことは寧パイセンは親しくなると偉そうになるってことでしょ。私は寧パイセンには今までと同じでいて欲しい。んでもって、司馬軒にも連れて行ってほしい」
瑠香にとっては寧と司馬至の確執よりも重要なことだ。
「それはできません。司馬至に瑠香さんを会わせたくないからです。瑠香さんは一度司馬至に食べ物で釣られてます。だから会わせたくないんです」
正当な理由でぐうの音も出ない。焼きそばパンで寧を売った過去を彼はなかったことにはしてくれないらしい。
「だったらなんで言ってくれないの?」
「母の前では辛いです」
「あ、そう」
納得した。だが司馬軒に行きたいという欲求を瑠香は抑えられなかった。
「寧パイセンが司馬至から守ってくれれば、司馬軒に行っても大丈夫だよ。多分」
「あいつは強いです。今、兄貴に鍛えてもらってるんでいずれは勝ちます」
「いずれっていつ? 私はそれまで司馬軒に行けないの?」
「できれば行かないでほしいです。僕のわがままですけど」
確かにわがままである。瑠香としては勝手に行っても良いが、ここは寧の顔を立てておこう。こんな余裕のある考えができるのは下でラーメンを食べ切ったからに他ならない。
「じゃあ、私が実力を見る。ここを開けてスパーリングよ」
瑠香はガチャガチャとノブを動かして、音で急かそうとする。
「いや、瑠香さんを攻撃するなんて」
「じゃあ、黙って耐えろ」
「イヤです。開けません」
「むむむ」
生意気だ。寧のくせに。
ガチャガチャガチャ。
瑠香は乱暴にノブを捻って、ドアに体当たりを繰り返した。なんとしても中に入って寧を殴る。その一心でドアと格闘する。
するとミシミシと音を立て始めた。あと一押しだ。
「くらえ!」
扉に向けて渾身の鉄山靠。
ドアを倒した。これで寧と戦って心理的に優位に立ち、必要な情報を聞き出す計画に踏み出せる。しかし寧の姿が部屋のどこにもいなかった。
「マジック?」
ドアを踏んで中に入る。ドア越しに生物を踏んだ感触がした。寧だった。倒れたドアの下敷きになっていたのだ。
「ごめーん、離れるように注意すんの忘れてた」
「ひどいです。瑠香さん」
瑠香がドアを横にずらして寧を救い出すと、お礼の代わりに言われた。
「文句あるなら戦おう」
「僕は戦いません。司馬至とだけ戦います」
「どうしてそんなに嫌いなの?」
「瑠香さんは関係ない」
「あるよ。寧パイセンは私と司馬至に仲良くなって欲しくないんでしょ? いくら私のこと好きだからって、私は寧パイセンの言うことには従わない。司馬至もくれたしね、焼きそばパン。ケチだけど」
瑠香は千円分の焼きそばパンが食べられなかったことを根に持っていた。激しく怒らないのは照のラーメンと寧の焼きそばパンのおかげだった。瑠香の食は満たされている。その幸せを分けるため、瑠香は照に協力しているのだ。
「近付いてほしくなかったら私を説得してみて。寧パイセンの熱量で私に司馬至を嫌いにさせてよ。私は寧パイセンのおかげで加奈と仲直りしたよ。寧パイセンもホラ」
両手を広げた。
寧は腕組みをして考えている。
瑠香はイライラしてきた。
「早く」
このままでは司馬至のときのように寧に殴りかかってしまいそうだ。我慢するために行ったシャドーボクシングを見て、寧は焦り出した。
「えと、その」
「早く喋らないとシャドーじゃなくなるよ」
「はいっ」
寧は話し始めた。
寧と司馬至は物心つく前からの仲で、照と司馬至の母が大親友なのだそうだ。刑事という仕事柄、あまり家にいない照は司馬軒に預けていた。それは長期間続き、寧は司馬軒に居候している感じになっていたという。
寧が小学校高学年くらいになると店を手伝うようになった。今まで受けた恩を返そうと思ったからである。しかし司馬至はほとんど店を手伝わなかった。次第に司馬至の両親は司馬至を非難するようになった。その頃から司馬至は今のような見た目になったそうだ。
「僕は司馬至から嫌われ、相当な嫌がらせを受けました」
「ちょっと待って」
瑠香は話を止めた。司馬至から聞いた感じと違うからだ。
「司馬至のほうが嫌ってたの? 寧パイセンは?」
「僕はあのとき好かれようとしていたんです。それは間違いでした」
中学になって預けられることもなくなった頃、寧の家に司馬至がやって来るようになった。その度に寧の物がなくなった。
そして照の金が消えたことがあり、寧は照に責められたことがある。寧は無実を主張したが信じてもらえなかった。それどころかこんなことを言われた。
「司馬君はあんな格好してるけど良い子なのにあんたは……」
司馬至はその頃照に取り入って信頼を得ていたのだ。かつての寧がやってしまっていたことをしたのだ。悪意を持って。
「僕は物が盗まれたことよりも、母に信じてもらえなかったことが悲しい。僕よりも司馬至が大事なんだ」
「そっか」
「僕は司馬至から離れようとしました。別の高校に行って、あいつのいない生活を送ろうとしました。なのに一緒の高校に通うことになってました。多分母が教えてしまったんでしょう。そして他のやつから守る名目でパシリにされました。それは瑠香さんに会うまで続いたんです」
寧は泣き出した。
「今まで……誰にも、言えなくて。母さんは司馬至の味方だし」
「頑張ったね」
寧の頭をポンポンと撫でた。
「瑠香さん!」
感極まったのか、抱きつこうとしてくる。
貞操の危機を感じた瑠香は左へスウェイで逃げつつ、脇腹にパンチを打ち込んだ。
寧は殴られた驚きと痛みで、泣き顔ではなくなった。おなかを押さえ、呻いている。
「セクハラ禁止だよ」
瑠香はビシッと言ってやった。親しき仲にも礼儀ありである。
「瑠香さんは厳しいです。もっと甘えさせてください」
今の寧は泣き言を言いたい時期なのだろう。でも瑠香は許さない。
「寧パイセンはパイセンなんだから、私を甘えさせるの。まずは司馬至に勝って、司馬軒で祝勝会。分かった?」
「はい」
とりあえず照の聞きたいことは聞き出せた。司馬軒行けない問題も妥協案を提示したし、スパーリングをやる気も失せた。
「じゃあね。また照さんが非番のときに来る」
部屋から出ようとすると寧に呼び止められた。こちらにもう用はないのに、まだ何かあるのかと振り返る。寧は恥ずかしそうにしながら言った。
「あの、さっきのこと母には……」
「大丈夫。言わないよ」
瑠香は即答した。もとより言うつもりはなかったからだ。
「お願いしますよ、母にラーメンをおごるとか言われても喋らないでくださいね」
「そんなに信用ない?」
「はい。前科があるので」
最後の最後でダメージを食らった。日頃の行いのせいなので言い返せない。
瑠香は部屋を出て、階段を下りていく。瑠香は途中でスマホを取り出した。照と通話中になっていて、少し泣き声が聞こえる。
「言ってはないもんね」
通話を切って、悪戯っぽく笑った。
瑠香は照を一頻りなぐさめたあと、加奈と帰っていった。
「瑠香は寧さんを育ててるの?」
「え、何が?」
「振ったのに焚きつけたり、司馬至と戦わせようとしたり」
「寧パイセンは食べ物をくれるんだよ。繋がりをなくすとそれがゼロになるんだよ。それに司馬至に勝てば、寧パイセンは何のわだかまりもなく司馬軒に連れていってくれる。全てうまくいくんだよ」
「瑠香の都合じゃん」
「そうだよ。私は食べ物をもらうために努力してるんだもん」
「普通はお金稼ぐよね。それで買い物して食べる……でしょ?」
「お金はお母さんの領分だから。私がお小遣い以外のお金持ってると盗んだって疑われて……」
「へえ、変わってるね」
明らかに加奈が引いていた。
「うちの親が普通じゃないのは分かってる。でも親だから影響を受けないのは無理なんだよ」
加奈の顔がその答えとは違うと言っていた。瑠香には正解が分からない。困っていると加奈が瑠香の肩に手を置いた。同時に二人の歩みも止まる。
「瑠香。本題に戻るけど、寧さんが強くてカッコ良くなったら付き合うの?」
「それはないかな」
「なんで?」
「だって寧パイセンと付き合って、もしできちゃった結婚とかしたら、私、塚江瑠香になるんだよ。イヤじゃん」
加奈は腹を抱えて笑い出した。
「何よ。私本気なんだから」
瑠香はバカにされたと感じていた。加奈は違うと思ってたのに。昔名前をバカにした男子と同じだったのだ。
「瑠香ってめちゃめちゃ保守的だね。付き合うくらいで結婚まで考えないよ」
瑠香の思ってた答えと違った。驚いて、反撃が思いつかない。
「何? まさか子供の名前まで考えてるとかじゃないよね」
加奈の勘違いが始まった。とりあえずこっちの勘違いは伏せて、瑠香は首を横に振る。
「違うよ。加奈は結婚って考えたことないの?」
「無理だからね。社会が変わらなきゃ」
注意をそらす質問なのに加奈は真剣に答えてくれた。が、瑠香には意味が分からなかった。
「どういう意味?」
加奈は穏やかに笑いながら、歩き出した。
「待ってよ、加奈」
瑠香は後を追う。
動けば空気が変わる。場の空気も変わる。並んで歩く位置に瑠香が来たときにはもう別の話題を持ちかけられていた。
「今度みんなでカラオケ行こうか」
「カラオケは食べ物シェアするから苦手」
「あ、そう。じゃ、遊園地は?」
「行ったことない」
「いつか行こうよ。、遊園地」
「うん、約束だよ」
念には念を入れて指切りした。
加奈は嬉しそうだった。
翌日の放課後、寧は来なかった。その日送られてきたメールに、
『今、兄貴と鍛えてます』
と書かれ、上半身裸の寧の写真が添付されていた。腹が出ていないアピールなのか知らないが、瑠香のおなかを満たすことよりも司馬至に勝つほうを優先したのだ。もう昨日までの寧はいない。
「寧パイセンめ」
瑠香がけしかけたから、寧が打倒司馬至に燃えるのも分かる。だが差し入れを持ってくる習慣をやめるのは違うと思う。そのことをクラスメイトに愚痴っていると、ある噂が流れた。瑠香が寧に愛想をつかされ、振られたというものである。
「振られてないし」
瑠香が頑強に主張しても信じてもらえない。瑠香はそのことが気になり、また弁当だけしか食べられなかった。