二話 チーズマカロニ
二話 チーズマカロニ
「今日、家に私だけしかいないんだ」
放課後の教室で、加奈が無駄に色っぽく言った。瑠香は親友の発言に硬直する。意図が分からないからだ。
「それは私めに泊まりに来いと、そうおっしゃるので?」
「うむ。遠慮はいらんぞ。我輩が瑠香のご飯を作ってしんぜよう」
加奈はノリを合わせてくれる。が、瑠香はもう飽きていた。
「じゃあ、チーズマカロニとかどう?」
「良いけど」
はしごを外されて加奈は不満顔だ。
「じゃあ決まりね。気を利かせてステーキとか無茶を言わなかったんだから感謝してよ」
「それ、無駄なんだよね。うちに材料がないから」
「は?」
「だ・か・ら、食材を持ち込んできてもらいたいの。瑠香に」
瑠香は加奈の事情を察した。ご飯を食べたいが、食材を買う金がないのだろう。作った物を振る舞う体で、自分の腹を満たそうという意図だ。断ると友情にヒビが入りそうだし、何より加奈の作ったチーズマカロニを食べてみたい。
「OK。チーズとマカロニでしょ」
「瑠香、料理をナメちゃいけないよ。チーズとマカロニだけじゃおいしくはならないんだよ。ホワイトソースを混ぜないといけないんだ」
「じゃあ小麦粉と牛乳とバター?」
「ノンノン、今はホワイトソースの缶詰という便利な物があるんだよ。これを使えばダマになった小麦粉を口に入れるというリスクが綺麗さっぱり無くなるんだよ」
レトルト感が強くなった。でも作ってもらうのに文句を言うと、「瑠香は食べるだけだもんね」とか嫌味を言われるのだ。親友でも、いや親友だから我慢できない。だから下手なことを言わないほうが良いのだ。
「頑張ってね。瑠香ならできるよ。自分で肉まんとあんまんを調達できたんだもん」
停学になった経緯は学校のほぼ全員が知っている。加奈が悪意なく口の軽いクラスメイトに話してしまったのが原因だ。
「今日はいつになく意地悪だね」
「おなかがすいてイライラしちゃって。お父さんの給料日前はいつもそう」
「分かった。私がおごってあげよう」
「さすが親友。あ、後塩。備蓄しておきたいから、二袋ね」
こうして瑠香はチーズマカロニの材料を集めることになった。
瑠香が買えたのは塩二袋だけであった。これでは塩ご飯にしかならない。いや、加奈の家には米があるか分からないので、塩ご飯もできないかもしれない。加奈の家の晩御飯は七時。今は四時だから、時間もない。
とりあえず家族に相談することにした。お泊まりの報告もしておかなければならないので、決して横着をしているわけではない。
連絡先の欄から母である葦木蘭の名前を選択。
「ダメだよ」
第一声がそれだった。何にもこちらの言い分を聞いていないのにその言葉はあんまりだ。
「あの、今日加奈んちにお泊まりすることになったんだけど」
「あ、それなら良いわ。金ならあげないし、貸さないわよ。言っておくけど」
母に話の展開を封じられ、涙目になった。
「まさかそのつもりだったの? やめてよ。何に使う気だったの? 聞いてあげるから」
瑠香が話すと母は呆れてため息をついた。
「あんた食べ物のことになると麗より頭が悪くなるわよね。思い切り利用されてんじゃない」
「加奈の作るチーズマカロニが食べたいんだよ」
「あんた生き方改めないと不幸になるわよ。金貸しの私が言うんだから間違いない」
それから説教が始まったので、黙って電話を切った。まともに聞くと三時間経ってしまうからだ。しばらく母は頼れない。
兄に電話した。
「兄貴? オレオレ」
「警察官にオレオレ詐欺の電話をかけるな」
冗談の通じない兄はこれだから困る。
「それで今度は何だ?」
「食材を買いたいんだけどお金が……」
「母さんは?」
「説教されそうになった」
「だろうな」
「兄貴、助けてよ。私にマカロニととろけるチーズとホワイトソースの缶詰を」
「分かった。今仕事で抜けられないから、後でな」
「何時頃?」
「うーん、夜中になるな。捜査本部が立ち上がって、県警の人が来てるんだ。署長が真っ先に帰るわけにはいかないだろう」
それでは間に合わない。仮に食べられたとしても、夜中のこってり飯は太ってしまう。却下だ。
「ごめん、兄貴。もう良いわ」
「役に立てなかったか」
「兄貴は忙しいからしょうがないよ。妹のワガママも聞いてあげられないほどなんだから」
「ちょ、待てよ」
誰かのモノマネのモノマネのようなセリフを吐いたので反射的に切ってしまった。多分むちゃくちゃ落ち込んでいるに違いない。この前の「愛してる」も真に受けて、学校を退学にならないように働きかけてくれた。慌ててメールでフォローを入れておく。
後は父しか残っていないが、気が引けた。御多分にもれず、瑠香も父が嫌いな時期に突入しているので話したくないのだ。
瑠香はスマホをしまって、例の看板を鞄から取り出した。持ち運びできるサイズに改良を加えたのが役に立った。効率を重視して、塩を買ったスーパーの前で依頼を待つ。
しかしすぐには来ない。園子のときでも時間がかかったし。
「何とかしないと」
この前は待つだけだったが、声を張り上げた。
「誰か助けてくれませんか」
依頼を受けるよりも食材をなんとかしたいほうが優先されてしまった。しかし、瑠香は気付かない。加奈のチーズマカロニを食べるために必死なのだ。
その必死さが功を奏したのか、気弱そうな高校生くらいの男子をつかまえることに成功した。瑠香は逃すまいと彼の両肩をガッチリとつかんで言った。
「君の願いは何なのかな?」
「えっと僕はその……」
「何なのかな?」
威圧的に聞いて、反論を封じる。彼に逃げられたら、チーズマカロニは食べられないのだ。
「えと、僕はその、今焼きそばパンを買いに来させられてまして」
焼きそばパンという単語に口の中の唾液量が増える。だが目先の焼きそばパンより将来のチーズマカロニである。ここは唾液と「焼きそばパンを寄越せ」という言葉を飲み込んで話を促すことに決めた。
「今放課後だよね。焼きそばパンは昼間買いに行かされるもんじゃないの?」
「あいつは『放課後もお前に自由はない』とか言って買いに行かせるんだ。僕の金で」
語気が強まった。普段隠してるであろう殺意がひしひしと伝わってくる。瑠香にとってはいい迷惑だ。
「ではそいつをぶちのめしてやるのはどうかな?」
「君が?」
「そうだよ。この前、児童に声かけをする不審者をぶちのめしたからね。肉まんとあんまんで」
「え?」
「報酬に肉まんとあんまんをもらったの。あんたには…… そうだな。マカロニをもらおうか。できるだけたくさんのマカロニを」
「それって……」
「ああ、チーズマカロニを作ってもらうんだ」
「でも……」
「アフターケアは万全だよ。食べ物をくれれば何度でもそのいじめっ子をぶちのめしてやるから」
安定して食べ物が手に入るし、いじめ撲滅に手を貸すことになる。まさにウウィンウィンの関係だ。
「それって君と連絡先交換するってこと?」
「そうなるね」
「じゃあお願いします」
瑠香は肩から手を離してスマホを取り出した。SNSでのやりとりを要求されるも、瑠香はかたくなにメールでのやりとりを主張した。 SNSは友達(加奈だけ)とのツールだから他の人には使いたくないのだ。
しぶしぶ彼は受け入れてくれ、メアドを教わった。そこで初めて名前を知った。彼の名前は塚江寧。瑠香とは別の高校に通う三年生らしい。彼も瑠香みたいにイジられそうな名前だ。塚江寧……使えねーか。現に寧は焼きそばパンを買いに活かされているわけで、名前のせいと言えなくもない。特殊な名前は特殊な運命を背負っている。瑠香はそう思う。だから瑠香もチーズマカロニの材料を集めなければならないという運命を背負っているのだ。
「葦木……さん?」
「瑠香さんって呼んで」
名前をイジらなかったので、瑠香は名前で呼ぶことを許可した。寧は偉そうな瑠香の態度が気に入らないらしく、「僕のほうが先輩なのに……」とか言っていたが、瑠香は無視して肩を組んだ。
「じゃあまずは中に入ろうか。寧パイセン」
「え?」
突然くっつかれて、ドギマギしているのが伝わってくる。瑠香はイラっとして、表情を険しくした。
「え? じゃないって。マカロニ先に手に入れんの。分かった?」
「はい。瑠香さん」
「よろしい」
これでマカロニが手に入ると思うと瑠香は笑顔になるのを止められなかった。
マカロニを五袋手に入れ、ホクホク顔の瑠香。後材料は二種類あるのでちゃっちゃと終わらせなければならない。
「そういえば敵はどんなやつ? もやしっ子なら楽勝なんだけど」
「司馬至っていって、今時創作物にしか出ないようなスタイルのヤンキーだよ」
てんこ盛りの悪意を差し引いても、この前のおっさんよりは強そうだ。
「格闘スタイルは?」
「戦っているのを見たことがないんだ。睨まれただけで負けてたから」
「寧パイセン。ヘタレだね」
「じゃなきゃ、僕は瑠香さんに絡まれて……じゃなかった。助けてもらえていないかな」
「後で良いこと言っても台無しじゃん」
「ごめんごめん」
「で、司馬至はどこにいるの?」
「河川敷だよ。あいつは物思いに耽りながら、僕の買った焼きそばパンを食べるのを日課にしてるんだ」
瑠香はスマホを開いて、時間を確認した。もう五時だ。
「走るよ!」
瑠香が駆け出すと当然のように寧は出遅れた。距離があいた時にこのまま逃げようかとも考えたがやめた。寧が困ったときに助け続ければ、食べ物を何度でももらうことができる。一回で手放すのはもったいない。
「もう、行くよ」
瑠香は寧に近付き、彼の手を握った。触れられてまたドギマギしている。瑠香はイラっとして、「早く片付けるよ」と言い放ち、強引に駆け出した。
河川敷に着く頃には寧の息が上がりきり、手を離すとその場に寝転んでしまった。しばらく役に立たないだろう。そんなことよりも司馬至だ。
捜していると土手に寝転んでいる男子がいる。寧の言っていた見た目をしていた。多分彼が司馬至で間違いない。
忍び足で近付き、攻撃だ。
「誰だ?」
敵は瑠香が 一歩踏み出した時点で声かけをしてくる。すでにこちらの存在に気づいていたようだ。威嚇する顔はイケメンの部類に入り、出会い方が違えば恋してたかもしれない。だが瑠香は寧と先に出会った。そしてマカロニを手に入れた。報酬分の働きをしないといけないのだ。
「お前をぶちのめしに来た。マカロニのお礼に」
「はあ?」
「悪いがおとなしくやられろ」
鞄を捨て、平らな場所に駆け下りた。土手のような不安定な場所だと、体幹の勝負になるので、筋力では劣る瑠香には不利になってしまうからだ。
「俺は女だからって手加減しないぞ」
「そう言うやつは大抵負けている」
司馬至が土手から下りると、瑠香はファイティングポーズをとった。
さて問題はここからである。格闘スタイルもどの程度の強さかも分からないのは厳しい。唯一の必勝法は敵が実力を発揮する前に倒すことだが、一度奇襲に失敗しているだけあって踏み出す勇気が持てない。
「お前、誰に頼まれた? めぐみか? 愛か?」
今のセリフで最低男なのは確定した。
「うんにゃ。違うよ」
「キラーズ のやつらか? いや、女一人差し向けてくれなんてありえないし……。まさかの三浦会か⁉︎」
司馬至の疑心は果てしなく広がり、この地域一帯をシマする三浦会まで持ち出してきた。キラーズというのは瑠香には分からないが、良い存在ではないだろう。
「私は……」
「とうとう俺にヒットマンが向けられるようになったか。俺も有名になったもんだ」
制服姿の瑠香をどう見ればヒットマンになるのだろう。想い違いもはなはだしい。
瑠香は真実を告げてみることにした。寧へのいじめが激化するかもしれないが、何度でも司馬至をぶちのめすれば良いことだ。瑠香には食べ物が手に入るし。
「私の依頼人は寧パイセンだ。塚江寧だよ」
「は? 塚江だあ? なんだよ。女ヒットマンじゃねえのかよ」
露骨にガッカリしている。寧に対する報復を考えている気配は一切ない。そう断言できるほどに感情的であった。
「まぁ、あんたをぶちのめすのは本当だから」
「よっしゃ。敵だな? 敵なんだな?」
また嬉しそうにしている。
「塚江の 刺客ってのが気に入らねえが、返り討ちにしてやんぜ」
瑠香は腹を決め、距離を詰めた。まだ攻撃はしない。射程距離が司馬至よりも短いためだ。
司馬至は自分の拳が届く距離に瑠香が来ると、プログラムされていたかのように拳を繰り出してくる。牽制の左ジャブだ。
瑠香は司馬至の拳を横に押して、そのまま肘を曲げ、司馬至の胸の辺りに叩き込んだ。麗にやられたことのある技を覚えていたのが役に立った。
「ぐ……」
すかさず体をひねり、背中で体当たり。これがあの鉄山靠。ゲームの字もバカにできないのだ。
「お前、少しはやるようだな」
司馬至は距離をとって、シャドーボクシングを始めた。瑠香の戦い方を脳内でシミュレーションしているのは明白だ。
瑠香はまずいと思った。相手のジャブに乗せられて、格闘技をやってしまった。瑠香の持ち味は卑怯な急所攻撃なのだから。
「来い。司馬至」
瑠香は自分を冷静に引き戻し、右の手のひらを上に向けてそろえた四本の指をクイクイッと動かした。一度やってみたかったのだ。
司馬至は距離を詰め、右ストレートを繰り出してきた。
瑠香は半身になってかわし、挑発に使った手で抜き手を右目に向けて放つ。
人はかなりヤバいときには素早く動くものだ。目を狙われた司馬至も例外ではなかった。顔反射的に傾けて直撃を避けたのだ。しかしあまりに強引な回避だったために次の行動に移れないようだ。一方の瑠香にも誤算が生じていた。かわすことは想定に入っていたが、距離が近すぎた。打てる手立てが限られる。瑠香はその中で1みぞおちへの膝蹴りを選んだ。勢いが足りなくて、手ごたえが薄かった。
「このアマぁーっ!」
敵は怒りと発声を選んだ。
その間に距離をとる。だが相手もすぐに間合いを詰めて来た。
「オラァ!」
容赦なくボディーを殴られた。瑠香はスタントのように派手に吹っ飛んで威力を殺した。まともに食ったら、敗北が決定的になる。幸いにも骨が折れないようだ。
瑠香は安堵した。もし折れていたらチーズマカロニが食べられないからだ。
「瑠香さん!」
土手の上から寧の声が聞こえた。声に心配が込められている。それは瑠香を案じてのものか、自分の身を案じてのものか。前者であると前者であると瑠香は信じたい。
「塚江! お前、何したか分かってんだろうな?」
寧はその場から動かなかった。睨まれただけで言うことを聞いてしまう彼に瑠香を助けられるはずもない。せめて近付いて欲しかったが、注意を引いて時間を稼いでくれた。立ち上がり、作戦を考えることができた。
格闘技だけでは攻略される。だが奇襲だけでは無理そうだ。合わせ技で戦うしかない。とりあえず注意を自分に向けておく。
「司馬至!」
「まだやる気か?」
「私の今後のためにも司馬至、あんたに勝たないといけない。この先何度でも食べ物を手に入れるために」
「何言ってんだ?」
答えとして、拳をプレゼントだ。
だが簡単にかわされ、フックが打ち込まれる。
瑠香はパンチを打った右腕で上にかち上げ、無防備になった脇腹に左の拳を打ち込んだ。利き手じゃないので、手応えが弱い。効いている様子もなく、左でジャブを打ってくる。
瑠香は肩を内側に入れて、鉄山靠。バランスを崩して、ジャブが止まる。その隙を瑠香は逃さなかった。
「おらぁっ!」
思い切り繰り出した蹴りは司馬至の股間に命中し、司馬至は股間を押さえて地面を転げ回る。瑠香は追撃として、踏みつけようとするが逃げられる。
「瑠香さん!」
寧が近くに来ていた。脅威が弱まったからに他ならない。
瑠香の注意が一瞬司馬至から離れた隙に、司馬至が体育のマット運動でしか見たことのないような見事な後転を連続でして、距離をとった。そして立ち上がる。
「くそ……」
司馬至はそう言うのがやっとなほど息が乱れていた。勝てるかもしれないと思った。そのとき、
「瑠香さーん!」
と聞き覚えのある、でも初めて聞く音量の声がした。園子の声だ。目を向けると土手の上に園子がスーツ姿のいかつい大人と手を繋いで立っていた。まさかまた事件に巻き込まれたのか。でも今は司馬至をなんとかしなくては。
視線を戻すと司馬至が目の前にいた。 一度ならず二度も同じ過ちを犯してしまうとは不覚だ。
「シュッシュッ!」
声と連動して左右のワンツーが、瑠香が防御に使った両腕に打ち込まれた。痛くてその場から動けなくなる。
司馬至はチャンスとばかりに両腕にパンチを連続で打ち込む。痛みに力が入らずにガードが下がっていった。顔をとらえられるのも時間の問題だ。
「手こずらせやがって! 死ねえ!」
最後に右ストレートが放たれる。これはヤバいなと瑠香は思い、目を閉じた。今回は負けた。だが次は負けない。準備を整えてボコボコにしてやる。
瑠香がそんなことを考えることができるほど時間が過ぎたが、いつまで経ってもパンチの感触が来なかった。
目を開けると、園子の側にいたはずのいかつい大人が司馬至の右腕をつかんでいた。瑠香を助けてくれたのだ。
「てめえ、女を殴るたあどういう了見だ?」
いかつい大人は司馬至に頭突きをしそうなほど顔を近付けて睨みつける。助けてもらってなんだが、この状況を警察が見たらこの人が真っ先に逮捕されるんだろうなとか、不謹慎なことを瑠香は考えてしまう。
「お父さん!」
園子が近付きながら声をかけてきた。
「え?」
驚いてからふと横を見ると寧も驚いていたので、瑠香の驚きも正常な反応だと認識する。
「ヤクザがカタギにケンカを売っちゃいけないって若い人に言ってたでしょ」
園子の冷静な指摘に、振り向いたいかつい大人の険しい顔が緩んで、気持ち悪い笑顔が浮かぶ。
「だって園ちゃん、こいつ、瑠香さん? を殴ってたんだぜ。悪もんだろ。絶対」
「お父さんのほうが悪もんだよ。三浦会の若頭補佐なんだから」
「何⁉︎ 三浦会だと?」
「おいよ。三浦会若頭補佐、三笠千観様だ」
表情がさっきのいかついものに戻っている。娘には相当甘いという印象が焼きついた。
「まさか本当に三浦会が出てくるなんてな」
司馬至は右腕をつかまれたまま、笑った。多分笑うしかできないのだろう。嘘から出たまことが今まさに彼を襲おうとしているのだから。
「三浦会と分かって戦うか? それとも瑠香さんに謝罪するか? 選べ」
数十秒後、司馬至はつかまれた腕を引いて解こうとした。
千観はあっさりとその手を離して、司馬至の喉に腕をぶつけた。司馬至は喉を押さえて、二、三歩後ろに下がって咳き込んだ。
「戦うで良いんだよな? 良いんだよな?」
千観は拳を振り上げ、殴りかかった。シンプルなパンチだった。奇襲専門の瑠香にはハードルが高い攻撃だ。そのパンチは司馬至の頬をとらえて、そのまま吹っ飛ばした。瑠香の見立てでは彼女自身が攻撃を受けて飛んだときよりも遠くへ行っている。大人のパンチ力は別格だと思った。寧からは「すごい……」という単純な驚きが漏れていた。
「大丈夫ですか? 瑠香さん」
園子が声をかけてくる。倒したことを娘にアピールしている千観を無視して。
「お父さんと仲悪いの?」
瑠香は思わず聞いてしまう。
「いえ、ヤクザなお父さんが好きじゃないだけです。うちでは良いお父さんですから」
「でも助かったよ。腕が痛くて、もう戦えないから」
「なんで戦ってたんですか?」
「今日チーズマカロニパーティーをやるんで、寧パイセンの依頼をマカロニで受けてね」
それを聞いて園子は納得して呆れていた。
「瑠香さんらしいですね。後足りないのは何ですか?」
「ホワイトソースの缶詰ととろけるチーズ」
「時間ないですね」
「そうなんだよ。七時までだから……もう一時間しかない!」
痛む腕を動かして、スマホで時間を確認する。これから二つ依頼をこなすなんて不可能だ。
「無理だったんだよ。三時間で全ての材料集めるなんて」
すっかり心が折れた瑠香。
園子が瑠香の手を取って揺すってもリアクションがなかった。
「お父さん!」
園子が声をかけると、千観はまた気持ちの悪い笑顔を見せて近付いてきた。
「何? 園ちゃん」
「今日、瑠香さんとチーズマカロニパーティーすることになったから、材料を差し入れして欲しいの」
千観だけでなく瑠香も驚いた。嬉しい提案ではあるがそれは都合が良すぎると思う。それにチーズマカロニパーティーは瑠香と加奈の 二人で行うつもりなのだ。園子を混ぜるわけにはいかない。
「園子ちゃん……」
断ろうとしたが言葉が出てこない。身体がチーズマカロニを欲して、抵抗しているのだ。
「でも今日はお父さん忙しいんだよ。この後組に詰めないといけないし。それにお母さんが寂しがるよ」
「行きたいもん」
そう言った園子は、瑠香が見た中で一番子供っぽかった。
「瑠香さんに迷惑がかかるでしょ」
自分が子供の願いを却下する理由に使われるのは瑠香は好きではない。でもパーティーの主催者は加奈なのだ。ここで瑠香が安請け合いして加奈が断ったら、そっちのほうがかわいそうだ。
「行くもん」
願望が宣言にすり替わっていた。ここまで来ると黙っているわけにもいかなくなった。
「友達に連絡してみて、OKだったらってことで」
後は加奈の返答次第。それが対立する二人に瑠香が出せる妥協案だった。
千観は納得している様子ではないが、電話をかけるのを黙認してくれる。加奈はすぐに出た。
「なんか問題発生?」
「うん、その……メンバーを増やすのってありかな?」
「誰?」
「園子ちゃんって子なんだけど。ほら、肉まんとあんまんの……」
「それで今度は何をもらったの?」
「これからなんだけど……。ホワイトソースの缶詰ととろけるチーズを」
「それ断ると塩マカロニだよね。選択の余地ないじゃん」
「ありがとう加奈」
「瑠香もそっち側か。覚えてなさいよ。瑠香の黒歴史を園子ちゃんとやらに吹き込んでやる」
「加奈ぁ」
「嘘だよ。ちゃんと連れてきな」
「加奈……」
「それから食材は忘れないでよ」
「私が食べ物のことを忘れると思う?」
その問いに電話口の向こうから笑い声が聞こえた。
「加奈?」
「信じてるよ。後でね」
「うん」
電話を切ると期待と不安の混ざった表情で園子が瑠香を見ていた。何かの映像で 見た親指を立てて笑顔になるという仕草にチャレンジする。しかし園子はピンと来ていないようだ。
「園子ちゃん、OKみたいだね」
「ホント?」
園子の問いに瑠香は大きく頷いた。
「やったぁ!」
「そうしたら、連絡をもらったら若いのを園ちゃんの迎えにやるよ」
「はい。お泊まり会なので朝になると思いますが」
瑠香が慣れない丁寧語を使うと、千観は瑠香の両肩に手を置いて、司馬至と対峙したときのような怖い顔をしてくる。
「園子ちゃんのことよろしくお願いします」
瑠香は「はい」と返事をした。頼むというより脅しだよねと思いながら。
司馬至は殴られた後ずっと気を失っていたので、スルーして、千観や園子とスーパーに向かった。そこで念願のとろけるチーズとホワイトソースの缶詰を買ってもらった。肉も買ってやると千観に言われたが園子が断ってしまう。娘に逆らえない千観は申し出を引っ込めた。瑠香は文句も言えずに心で泣くしかなかった。
さらにお泊まり会ということで商店街の衣料品店で子供用のパジャマを購入。なぜか二セットだ。
「麗ちゃんも呼びましょう」
はしゃいだ園子が言う。当然瑠香の答えはこうである。
「ダメだって。あいつ何にもしてないもん」
「お友達呼んじゃダメですか?」
園子は嘘泣きを始める。すると隣にいる千観の機嫌がどんどん悪くなってきた。このコンボは瑠香には対処できない。
「分かったよ、もう。園子ちゃんの 意地悪」
「えへへ、ごめんなさい」
園子はすぐに携帯で連絡を取る。麗が断るわけなく、合流してきた。そこでようやく千観が帰っていった。
瑠香は麗が増えたことを加奈にどう言い訳しようか考えた。でも気の利いたものを見つけられずに加奈のアパートに着いてしまった。もう素直に言うしかない。
チャイムを押すとビーと古めかしい音。すぐに小走りで玄関に追ってくる音が聞こえた。ドアが開けられると、瑠香は加奈に向かって愛想笑いを被った。
「ちょっと増えちゃって……」
加奈は瑠香の背後を見たまま固まった。麗はやはり余計だったかもしれない。その割には加奈の目線が麗よりも高めなのが気になった。振り返ってみるとそこには寧が言った。
「ちょっと! なんでいるの? 寧パイセン」
予想外の出来事に瑠香の語気が強くなってしまう。司馬至と一緒に河川敷に置いてきたとばかり思っていたのだ。
「みんな僕のこと忘れてるから気付くまでついてきたんです。そしたらここまで来てしまったんです」
瑠香と園子は顔を見合わせ、
「いたっけ?」
「さあ」
と訝しがる。
寧は目をウルウルさせて、「瑠香さん、酷いよ」と言った。そんなことを言われても、瑠香は困ってしまう。
「どうしよっか?」
とりあえず加奈に助けを求めた。
「入ってもらって。うちの前泣かれたら私がその人と何かあると思われる」
「うん」
あまりに冷たく言うのであまりに冷たく言うので、瑠香はビビって、おとなしく従た。
加奈の家はそんなに広くない。玄関を入るとキッチンとダイニングがあり、すりガラスの引き戸の奥に寝室兼居間がある。
キッチンに食材を置いて、居間でお茶を出してもらい、一息つく。居間 にあるちゃぶ台を囲むように座るのだが、瑠香の隣に寧が座ってくる。加奈は瑠香と向かい合う 位置に座り、 寧を見ていた。
「寧さん……でしたっけ? 瑠香とはどういうご関係で?」
「僕はその、スーパーの前で瑠香さんに絡まれて……」
「ちょっと寧パイセン。依頼は遂行したでしょ。司馬至の撃破」
「倒したのは私のお父さんでしたけど」
「ぐ」
確かにそうなので反論できない。実際来なかったらどうなっていたか。考えたくもない。
「瑠香、へぼい」
「うるさい! 今回は焦りすぎて失敗したの。素手で挑む必要なんてなかったんだから。次会ったときはバールのようなものでやってやる」
瑠香は再戦に意欲を燃やした。
それを聞いた加奈はため息をつく。
「それじゃ、寧さんが司馬至って人に仕返しされちゃうんじゃないの?」
「だから再戦するの。寧パイセンからのSOSはスマホで受け取れるし」
スマホを見せて瑠香は自信をみなぎらせる。
「ふうん」
加奈はスマホではなく寧をじっと見つめた。
「あ、どうも」
「ま、合格かな。後は強くないとね」
「ダメだよ。強くなったら寧パイセンから食べ物をもらえないじゃん。寧パイセンは今のままで良いんだよ」
瑠香の身勝手な発言に加奈だけでなく、園子も麗も呆れていた。しかし寧は違った。
「ありがとう、瑠香さん」
寧は頭を下げる。
「瑠香が感謝されてる」
麗が驚愕していた。
「うるさい! 園子ちゃんだって感謝してたろうが」
「園子ちゃんは警察を呼んだから感謝してない」
独自の理論を展開されて、園子は慌てた。麗に向かってヒソヒソと話し始める。意見のすり合わせが行われているようだ。
「でも、僕はもう人の言いなりになるのはイヤなんだ。だからそう思わせてくれた瑠香さんに感謝している」
瑠香には寧が何を言ってるのか分からなかった。瑠香の言いなりになるのはイヤで、そう思わせてくれた瑠香に感謝するってどういう意味だろう? と。
考えていると加奈が言った。
「強くなりたいってことでしょう」
「え? じゃあ寧パイセンは私に依頼したくないってこと? 司馬至を倒せなかったから?」
瑠香が寧に迫る。寧は首を横に振った。
「僕は強くなりたいんだ。瑠香さんを……」
「だったらお父さんに頼んではいかがでしょう?」
寧の発言を遮るように園子が言った。寧は邪魔されて不完全燃焼っぽい。
「ヤクザは悪い人ですが強いですよ。お兄さんでもあのとんがり頭くらい倒せるかもしれません」
「ねー」
園子と麗が 頷きあっている。もう話し合いは終わったのだろうか。
「いや、あの……」
「ダメですか?」
「うん、ごめん」
園子は麗の耳元で何か囁いた。麗は嬉しそうに頷き、こう言った。
「園子お姉ちゃんのお父さんは…… 園子お姉ちゃんを泣かしたやつを許さないの」
誰が見ても言わされてるのが分かる。そして園子が嘘泣きをし始めた。
「分かりました。分かりましたからやめてください」
寧は小学生に丁寧語を使った。結局寧は人の言うことを聞かなければならない運命らしい。彼が幸せになるためには誰の言うことを聞けばいいのだろう。高校生を翻弄して父親に電話報告する園子の声を聞きながら瑠香は考えた。それが自分だったら、食べ物に困らないかもしれない。
「あのさ、寧パイセン」
「瑠香さん」
「ヤクザ、がんばってね」
瑠香が励ますと寧の目から涙が流れた。そんなに感動してくれるなんて、瑠香は感激した。
「僕帰感激した。
「僕帰ります」
ヨロヨロと立ち上がり、引き戸を開け、玄関のほうへ歩いて行ってしまった。
加奈は立ち上がり、居間を出る。その後玄関のドアが開く音がして、「さよなら」という加奈の声が聞こえた。寧は帰ってしまったらしい。
戻ってくると加奈は言った。
「これでしばらく依頼来ないかもね」
「やっぱりそうかあ」
ちゃぶ台に肘をついて頭を抱える。
「良いじゃないですか。チーズマカロニ食べられますし」
「そうだね」
園子の励ましに復活した。将来の食べ物より近々のチーズマカロニである。
「加奈! 早く食べよ」
「今から作るから、麗ちゃんと喧嘩しないでよ」
「……分かった」
瑠香は神妙な面持ちで頷いた。食べ物を目の前にぶら下げられた瑠香は誰よりも素直だ。
「それから園子ちゃん」
「はい?」
「あなたを敵に回したくない子だわ。もちろんお父さんのことがなくてもよ」
「そうですか?」
「絶妙のタイミングだったし」
「リア充が好きじゃないんです。馬に蹴られて死んでしまいますね」
園子は自虐的に笑った。
「ホント、敵に回したくないのにね」
加奈はそう言うとキッチンに行ってしまう。
2人の会話の意味は分からないが、仲良くなった雰囲気ではなかった。これからチーズマカロニを食べるというのに、ケンカにでもなったら大変だ。
「加奈は悪い子じゃないから、敵にならないでね。園子ちゃん」
「大丈夫です。加奈さんは同じ気持ちを持ってる同志でライバルですから」
瑠香が思っているより仲良くなっているようで、安心した。だから次の質問をする。
「馬に蹴られて……って何? 馬いないよね」
「えっとですね……」
園子は答えに窮して、麗に目で助けを求めた。大好きな園子のピンチに彼女は立ち上がる。
「瑠香! 園子お姉ちゃんが困ってるだろうが」
「分からないことを聞いて何が悪い。殴るぞ」
睨み合いをしていると、 引き戸が勢い良く開いて加奈が姿を現した。
「瑠香! ケンカするなって言ったでしょ!」
親友に怒鳴られ、意気消沈する瑠香。それを茶化すように麗が笑う。
「麗ちゃんもよ」
低い声と言われ、姉と同じようにうなだれた。
「園子ちゃん、監視しといてね」
「はい」
加奈は園子に向かってニッコリと笑い、ピシャッと引き戸を閉めた。
葦木姉妹は打たれ弱いのですぐには立ち直れなかった。テンションが戻ったのはチーズマカロニが目の前に現れてからであった。
「ようし、食べるぞ」
瑠香の宣言を合図に今日最後の戦いが始まる。
加奈の作ったチーズマカロニは、ホワイトソースに溶け込むチーズの比率が高く、少しの量でも食べ応えがあった。麗や園子は 一人分にも満たない量でお腹いっぱいになり、脱落した。残るは加奈だが、彼女は一般人レベルだ。瑠香は争うことなく大量のチーズマカロニにありついた。会食を戦いと認識していた瑠香は拍子抜けした。
「自分で作っといてなんだけどよく食べられるね」
「おいしかったよ。今度他の料理を食べさせてよ。食材があるときにね」
もう食材集めはこりごりだと思った。
「任せといて。今度はグラタン作ってあげる」
「ホワイトソースがかぶってるんだけど」
「間開けるから、問題ないて。ご馳走してもらうくせにワガママはダメだよ、瑠香」
「普通だと思うんだけどなあ」
加奈の次回作はグラタンに決まってしまった。
「私も食べる」
麗が学校にいるときのように挙手してアピールしてくる。
ここで瑠香が許してしまえば、麗は加奈と仲良くなってしまう。自分より加奈と仲良くなるなんて許せることではなかった。
「あんたには園子ちゃんがいるでしょ」
「園子お姉ちゃんは料理できない」
「言い返せないのが悔しいです」
瑠香に対する口答えの横で園子が落ち込んでいた。
「ねえ、加奈。加奈はこんなやつにグラタン作ったりしないよね?」
向かいに座る加奈にすがるような目を向ける。瑠香は麗だけには食べさせたくないのだ。
加奈はため息をついた。
「瑠香が困るのは別に良いんだけど、ここに警察を呼ばれると困るのよね」
「警察って……」
「呼ばれたでしょ?」
「そうだけど」
園子を見てしまう。彼女を責めているわけじゃない。でも麗に見つかり、「園子お姉ちゃんは悪くない」と猛抗議を受けた。反論しようとすると加奈に手で制される。
「そう、園子ちゃんは悪くないよ。食べ物が絡むと瑠香はバカになるの」
母親と同じことを言われてビックリした。信用評価を訂正しようという考えすら刈り取られてしまったほどだ。
「でもね。瑠香は私の親友なの。親友と親友の妹、どっちが大事だと思う?」
「親友の妹」
「んなわけないでしょ。親友よ、し・ん・ゆ・う」
「麗ちゃん無理がありますよ」
「だって私もグラタン食べたいもん」
「じゃあお父さんに頼んで、今度洋食屋さんに連れてってもらいましょう。グラタンのほかにオムライスとかカツレツとか食べられます」
「そっちにする」
麗はあっさり前言を翻した。
園子と加奈は安堵する。
しかし瑠香は納得できなかった。なんでゴネた麗が洋食屋に行けるんだ? と思わずにはいられなかった。だからつい言ってしまう。
「園子ちゃん、私も行って良いかな?」と。
この場にいる全員の怒りを買って、集中砲火を受けた。なんとか平謝りしてグラタンを作る約束だけは死守したが、すっかり評判を落としてしまった。
「ホラ、やっぱりバカになった」
加奈に言われて、瑠香は泣きそうになった。