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黒の女神  作者: 紗月
空の章
78/179

Ⅸ.願いを 76

76.



ジオがその名を呼ぶ。



「セリナ。」



セリナは目を大きく見開く。

今は見えないはずの大きな月が輝いた気がした。

心臓が跳ねる。

組んでいた両手が震えた。

空の青が、草原の緑が、花の赤が、湖の光が、霞んだ。


目の前の人物が揺れて、記憶の中のシルエットと重なる。





「セリナ様?」

イサラに声をかけられて、ビクリと体を揺らす。

「どうされました? 食欲がないようですが、どこか具合でも……。」

「いえ、平気よ。」

にこりと微笑んで、セリナはフォークを口に運んだ。

草原の北側。

セリナは、陣営の中央に張られた天幕の中で昼食の席についていた。

心配をかけまいと食事の手を進めるが、セリナは上の空だった。

見上げられたサファイアの瞳。

これまでの記憶が次々と浮かんでくる。


―――セリナ。


冷静な時に名前を呼ばれたのは、初めてだった。

それに思い至って、セリナははっとする。

(『私が名前を呼ぶといつも泣くだろう。』)

冷静だったから、ようやく気づいたのだ。

ジオの声をセリナはずっと前から知っている。

(初めから、気にかかっていたはずなのに、どうして今までわからなかったんだろう。初めてしゃべった時も、受け入れてくれたあの時も、あの夜も、全部。)


―――芹奈。


そう呼ぶ人とよく似た声音。

自分では制御できない渦巻く感情を、穏やかに戻してくれた声。

押し殺していた心を、外へ出していいのだと教えてくれた声。





グラスの水を飲み干すと、セリナは天幕の外に出た。

背中にイサラとアエラの声がかかるが、それはどこか遠くで聞こえた。

頭上から太陽の光を浴びて目を細める。

その先に、アシュレーの姿を見つけて、誘われるように足を進めた。

アシュレーはセリナに気づくと、ゆっくりと頭を垂れた。

「御機嫌麗しく、ディア様。」

「こんにちは。」

緊張した面持ちのセリナを見て、アシュレーは表情を引き締めた。

「お話なら、伺いますよ。」

セリナは迷いながら顔を上げ、アシュレーの瞳にぶつかると再び俯いた。

「……アシュリオさんは、知っていたんですよね?」

「?」

穏やかな顔のまま首を傾げる。

「昨日の話の続きです。あなたは私を見つけたのが誰なのか知っていた。」

「……誰だったのか、わかったのですか?」

セリナは頷く。

その可能性をセリナは最初から消していた。そんなはずがないと思い込んでいた。

「口止め、されていたんですか? リュートも知っていた?」

アシュレーは肯定も否定もしなかった。

けれど、あの翌日、セリナの問いに微妙な表情を見せたリュートから答えは自ずと知れる。

「そんなことをできるのは彼しかいない、少し考えればわかることだったのに。あなたをあの部屋に呼んだのも彼でしょう?」

笑みを崩さないまま、アシュレーは無言でセリナを見つめる。

「語るのはあなたじゃない……のね。でも1つだけ聞かせて。」

すっと顔を上げて、セリナはまっすぐにアシュレーを捕える。

「アシュリオさんがアルテナの間に来た時、そこにもう陛下はいなかったの?」

迎えを待つことなく、離れてしまったのか。

「ソファに寝ていたのは1人だったと申し上げました。」

「…………そう、だったわね。」

視線を落としたセリナに、アシュレーは口角を上げた。

「私が部屋に行くまで側についていたお方は、ディア様の傍らに座っていましたから。」

「!!」

核心を交わしていたくせに、こんな時だけ直球で答えが戻って来る。

不意に泣きそうになって、セリナは無理矢理笑顔をつくる。

彼は、知っていたはずだ。

けれど、それを口にすることは決してない。

「言ったはずです。力を持つのは、あちらだと。」

そう言って指をさしたのは、今度は天空ではなく丘の上だった。

「あ。」

そこにはジオの姿があった。

「……ありがとう、アシュリオさん。」

「どうぞ、これ以後はアシュレーと。」

真顔でそう付け加えられて、セリナは思わず目を瞬いた。

そういうことを言われるのはもう何度目になるのか、というやりとりだ。

(いつも注意されているのに、うっかりしてた。)

了承の意を示しかけて、思い直したセリナは青銅色の髪を持つ騎士に笑いかけた。

「では、アシュレーも、“ディア”と呼ぶのをやめなくてはね。」

思いがけない切り返しだったのか、アシュレーは目を丸くした後、困ったような顔で笑うとゆっくりと頭を下げた。









「ここの景色は、あなたのお気に入り?」

ジオの側に近付きながら、セリナは声をかけた。

返事はなく振り向きもしないが、少しだけ笑った気配がした。

風になびく髪をヴェール越しに押さえて、セリナはジオの横に立つ。

広がる景色は相変わらず心を震わせる。

―――バッカスは、まだ成長しますわ。

見てきた景色も出会った人も、すべてがセリナの心に響く。

いつの間にか「精一杯に生きること」が強迫観念のようになっていた。

それと気づかず追い詰められていたセリナを、ここまで救い上げてくれたのはこの世界だ。

(心が死んでいた私に、もう一度息を吹き返すチャンスをくれた。)

狭い世界で呼吸できなくなっていたセリナは、今立つ場所から世界は果てしなく広がっていることを思い出した。

世界に色があることを思い出せた。

自分に感情があることを、それを外に出してもいいのだと思い出した。


広がる景色を目に焼き付ける。


「あの夜、黙って胸を貸してくれたのは……アルテナの間に運んでくれたのは、あなただったのね。」


父親だと思って抱きつき、幼子のように号泣して、疲れて眠って。

(名乗り出なかったのには、理由がある。)

胸を貸したのは自分だと、ジオが自らそんなことを告げるはずがない。

あの時はまだ、信用なんてされてなかったはずだ。

夜に1人、庭に立っていれば誰でも不審に思うだろうし、それが、そこにいるはずのない相手ならなおさらだ。

妙な噂を立てるのを嫌うなら、自分から軽々しく公言するはずがない。

2度目の号泣時、セリナがジオの言葉に救われたと認識するよりも遥か以前から、彼はセリナの救いになっていた。

(ラシャクさんじゃなかった。)

確認するように考えて、セリナは一気に理解した。

(そう、最初から私は彼の声に惹かれてた。父に似ている彼の声に。そして、彼を知る度に気持ちは動いていた。)

父親を求めたわけではない。

けれど、良く知る声に似た音は、いつだって何より深くセリナの心に響いた。

厳しい現実を突きつけるくせに、わかりにくい気遣いを見せてくれる。

それに気づくたびに、嫌われているわけではないのかもと、期待する気持があったのは事実。


―――本当に知りたいのなら、本人に訊いてみるのも手ですよ。


「あの声は……あの時、宥めてくれたのはあなただった。」

ゆっくりとジオの横顔を見上げる。

「そうでしょう?」

「……。」

「ずっとお礼を言いたかったの。迷惑をかけてしまったけれど、突き放さないでいてくれてありがとう。」

セリナに視線を向けないまま、ジオは小さく息を吐いた。

「どうしていいかわからない、と言っただろう。」

その答えに、セリナはふふっと声をもらした。

「舞踏会の夜も、部屋を出たのは、『あなた』を追って……のつもりだったの。」

「!」

さすがに意外だったのか、表情を動かしたジオに、セリナはその後を思い出して苦笑いを浮かべる。

「知ってのとおり。まったくの別人で……ひどく迷惑をかけてしまったのだけど。」

「礼のためだけに?」

「そう。」

「……。」

「とても感謝していたから。」

恥ずかしくて合わせる顔もないと思いながら、ずっと会いたかったのだ。

風が吹き抜ける。

心地いい沈黙。

きらめく湖面に目を奪われて、セリナは小さく微笑んだ。

(あぁ、なんてこの世界は…………。)


「ねぇ、ジオラルド。」


初めて口にのせた名前に、少しだけ緊張が混じる。

「この世界は美しい。」

「……。」

「この国は優しくて、人は温かい。景色も、人も。この世界に触れてから、何度も心が震えたの。」

同じ風景を眺める人に、セリナは前を見たまま語りかける。

今から口にすることが、正しいかどうかはわからない。

けれど、ただ1つ言えるのは、その時『あまりにも世界は美しかった』のだ。

「お願いがあるの。」

人々が誇るこの人が、守りたいものであるならば。

(自分がソレを壊すことなんてしたくない。)


ずっとどうするべきかを、考えていた。

その時、どうすることがいいのか、ずっと悩んでいた。


ゆっくりと視線を向けるジオに、セリナは穏やかな気持ちで告げた。

「私がこの国に災いを成す存在ならば。」


持ち上げた自分の手の、その指先で心臓を押さえる。




「世界を壊してしまうその前に、私を『止めて』ね。」




―――願わくば、眩し過ぎる存在の貴方の手で。


「容赦しない」と宣言してくれた人だから。

民を守るために、必要ならば自らの手を汚すことも厭わない人ならば。

(きっと世界を守ってくれる。)

それは、心優しい人に願う、残酷な頼み。

「なぜ、君がそれを口にする。」

握りしめた拳。

苛立ちの表れた声とは異なり、その表情は苦渋に歪む。

「命を繋ぐ、責任。」

「!?」

「バッカスの視察で聞いたの。同じだと気づいたわ。“女神”を保護すると決めたあなたは、その責任を自分が負うことを厭わない。」

一度瞳を閉じて、ゆっくりと目を開く。

今なら、あの行動の意味を推し量ることができる。

セリナは自分の首に右手を添わせた。

「あれは、脅しじゃないでしょう?」

意味はそれだけで誤解なく伝わる。

あれは事実であり、彼の覚悟でもある。

「あなたはこの国に必要な人だから……私もこの国を好きだから、自分がこの国に災いをもたらすなんて嫌なの。」

「セリナ!」

「あなたに頼んでごめんなさい。でも、あなたになら……。」

「この国は、君を受け入れようとしている。それがわからないか?」

「わかるよ。それが嬉しいから言ってるの。ジオラルド。もちろん、諦めないよ。私は生きてるもの。」

鼓動を刻む心臓を押さえて、ジオを正面から見つめる。

あんなふうに『必死に』生きることを、自分に課す必要なんてなかったのに。

見えなかったのだ。

「それと気づかずに、自分を追い詰めながら生きてた私に、この世界は命を吹き込んでくれたの。息の仕方を……世界の広さを、人の優しさを…もう一度教えてくれた。そうして生かされている私は…私の存在は、人に災いをもたらすためなんかじゃ、絶対にない。」

「……セリナ、君は。」

「私が、“黒の女神”でも“災厄の使者”でも、ココを煩わせる存在にはなりたくないの。」



「だから、あなたに。この願いを。」



そう言ってセリナは微笑む。



「……。」

ジオはセリナから顔を背ける。

やがて握っていた拳から力を抜くと、再び視線を向けた。

「―――ならば。」


風が吹いて、赤い花びらが1枚―――空を舞った。


Ⅹ.追い風 へ続く

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