XI.交渉 86
86.
「それって……。」
―――確かに、異母兄は『いた』。だが、今はいない。
あの時、その言い方に疑問は持った。けれど、亡くなったから今はもういないのだと、セリナはそう思っていた。
(お兄さんが生きていて、それがエリオスさんで。英雄が、兄?)
存命なのに、それでももういないと。そう言わせてしまうような何かが。
(2人の間に、何が。)
「知りたいか?」
問いかけられて、セリナはジオを見つめる。
少し逡巡するようにジオの瞳がさまよい、彼は踵を返した。
「なら、中で話そう。」
近衛騎士隊長が開けた天幕の入り口をくぐり、ジオはセリナの後ろにいた侍女に視線を向ける。
「……イサラも同席するといい。貴女にとっても、無関係ではない話だ。」
淡々と告げられた言葉に、イサラは無言で頭を下げた。
天幕の中は広かった。
帰路の準備のため片づけをしていた侍従が、入って来た人物を認めると頭を下げ、そのまま天幕の外へ出て行った。
女神のためにと用意されたものより大きいが、待合として休憩できるように設えられたセリナがいた天幕とは違い、実用を重視した王の天幕はあっさりしていた。
会議に使うためなのか、大きな長机に椅子が並んでおり、ジオはその一番奥の席に座った。
ゼノに椅子を引かれて、その左隣の席にセリナは腰を下ろした。
机の上に、ゼノが青い石を置く。
こつん、と小さな音がした。
防音の役割を果たす魔法石を、セリナは以前にも見たことがあった。
それを置いた騎士は、イサラとともに、一歩下がった位置に控えた。
机の上に置かれていた細いグラス。
揺れる琥珀色の中身に一度口をつけてから、ジオは口を開いた。
「先王アジュライト、先王妃フィリシア。近衛騎士隊“メビウスロザード”所属で王妃専属の騎士レンブラント。側室リコリエッタ、側室の子で第1王子のエリオス。それから第2王子。」
静かに列挙するその声は、どこか傍観者の響きがあった。
「16年前、ダイレナンであの事件が起こるまでは、王城内の雰囲気はそう悪くなかった、と記憶している。」
ジオは、母に仕える剣の腕に優れた騎士・レンブラントを慕っていたし、エリオスともよく遊び、まるで兄が2人いるように思っていた。
明朗で面倒見のいい騎士を、兄のように慕っていたのはエリオスも同じはずだった。
フィリシアは、ジオとエリオスの交流を歓迎し、エリオスに対しての態度も、王子に接するそれだった。
微笑む母が、褒めたり頭を撫でたりして、エリオスが照れたような顔をする姿は珍しくなかった。
***
「あらあら、泥が。エリオス王子、こちらへいらっしゃい。」
呼ばれて、素直に王太子妃のフィリシアに近づく。
大きな日傘の下、ベンチに座った彼女の腕の中では、生後半年の第3王子がふにゃふにゃと笑っていた。
「またジオのいたずらに巻き込まれたのね、本当にあの子ときたら。」
呆れたように微笑みながら、フィリシアは優しくエリオスの頬を白いハンカチで拭う。
「あ、りがとうございます。フィリシア様。」
「ははうえー、僕も僕も。」
走って来たジオが、エリオスの背に突進し、両手を差し出し汚れた手の平を見せびらかす。
「あぁ、こら。王子の服にまで泥が。ジオは、一度顔と手を洗ってらっしゃい。」
微笑まし気な空気に包まれた中で、侍女がジオを手洗いへと誘導する。
「拭くより、着替えた方が早そうねぇ。」
困り顔を浮かべてフィリシアが頬に手を当てる。
目を丸くしていたエリオスは、朗らかに笑う。
「このくらいは。」
「先日の水浸しに比べれば、マシでしょう。あーれは、豪快でしたから。」
剣の柄に腕をかけて、王妃の後ろで騎士レンブラントが笑う。
彼は、他の近衛騎士に比べると細身だが、専属騎士の座を実力で勝ち取った男だ。
深緑色の長い髪を後ろで1つに結び、すらりとした体躯で綺麗な顔立ちをした騎士は、美姫と名高い主人と並んでいても様になる。
「エリオス兄様。」
戻って来たジオが、再びエリオスに抱き着き、彼は勢いのある小さな体を受け止めた。
「コルシェ卿、また剣の稽古を付けて欲しいんだけど。」
エリオスからの視線を受けて、レンブラント=コルシェはにやりと笑う。
「構いませんよ、そうですねぇ。」
いつにしますか、と顎に指を置く騎士の足元で、ジオが飛びはねた。
「ラント、僕も!」
はいはい、と慣れた様子で王子たちに接する騎士と、楽しそうにそれを眺める侍女たち。
思い出したように、もぞもぞとおくるみの中で動いていた一番下の王子の頬を、ジオがつつく。
「お前ももう少し大きくなったら、一緒にやろうね。」
それは、穏やかで和やかな、いつかの昼下がり。
軽やかに風が吹き抜けて木々の葉が揺れる、メルフィス城の日常的な光景だった。
***
アジャートとの不和は、国家間の利害を絡めて、徐々に深刻化していた。
話し合いをしたところで、無理な要求を突き付けられれば、態度も硬化する。
悪化する一方の隣国との仲を回復させる見込みも薄く、停滞した空気は城だけでなく国中に影響していた。
アジュライトがフィルゼノン王に即位した4年後。
アキュリス歴1767年。
16年前のその日。
王妃フィリシアは、“緋の塔”への慰問を行った。
情勢不安定な国境付近への外出を、周囲は止めたが、王妃は聞き入れなかった。
その意向の強さに、王も渋々ながら許可を出した。
塔の記念行事があり、王室からの参席という名目、アジャートからも外交官が参加するという機会に、非公式な会談の場を期待したと考えられている。
そして、この時、2人の王子が勉学の一環で同行した。
国境付近の塔やラグルゼを知るのに、元々そういう視察の機会が設けられることが予定されており、王妃の公務とは別行動ではあったが、警備や魔法陣の発動などの都合から、日程を揃える形で実施された。
ジオとエリオスは、予定通りなら視察を終えて王妃より先に城に帰るはずだった。
ジオが遠乗りで馬を走らせすぎて、ダイレナン近くまで行き、さらに悪天候に遭って、そのままダイレナンへ避難せざるを得なくなったりしなければ。
***
その視察で予定されていた日程は、終えていた。
ラグルゼから緋の塔へ戻るだけで良かったのだが、余った時間に遠乗りと称して、塔を過ぎて北方ルディアス領まで足を延ばそうとしたのはジオの我が侭だった。
護衛騎士たちに反対され、半ばまで行かず馬の足を止めることになったが、高台からカルダール山脈を背負うルディアス領を見渡すことができたので満足はした。
護衛騎士がそろそろ戻らなければ、と言い出すと同時に、空の色が変わり、風が強くなる。
メビウスロザード所属で、ジオの専属騎士であるルドロフが、空を見上げて眉を寄せた。
湿った風、黒い雲が急速に頭上を覆い、外套を被る間に雨粒が落ちて来た。
「仕方ない、ダイレナンに避難する。ここからなら塔より近い。」
右手を上げ、騎士たちに指示を出す。
「メイヤード卿は、エリオス王子を。」
メビウスロザード所属の新人で、エリオスの護衛騎士であるグリフ=メイヤードが、ルドロフの指示に頷いた。
降り出した雨に追われ、彼らはダイレナンへ避難する。
門をくぐり、屋根のある場所に着いて馬を下りる。
出迎えたダイレナンの将軍に、突然の訪問を詫び、ルドロフが事情を伝える。
その間に、王子たちもそれぞれ馬を下りたが、ますます強くなって来た雨は、風のために玄関前にも吹き込んでいた。
建物の中から出て来た兵士が、彼らの馬を預かり、入れ替わりに彼らは中へと案内された。
そこでようやく、彼らは灰色の外套のフードを下ろす。
ジオとエリオス、それぞれに付く2名の護衛騎士という6名を部屋に通して、将軍は口を開いた。
折からの大雨により、数日前にルディアス領の東でがけ崩れが起きて道が塞がれ、ダイレナンの兵士の多くもその災害現場へ派遣中なのだという。
さらに、この天候で今日戻ってくるはずの兵士も、村で足止めを受けており、ダイレナンの人員は常よりもずいぶん足りていないのだとも。
「せっかく殿下方が滞在なさるというのに、なんのもてなしもできず申し訳ない。」
エリオスが、頭を下げる将軍を手で制す。
「謝罪など不要です。急な訪問の受け入れに感謝する。」
「恐れ入ります。」
「こうして雨が凌げる場所があり、幸運でした。」
ルドロフが言い、ガタガタと激しく揺れる窓を見た。
「こんな天気の急変はよくあるの?」
同じように外を見ながら、ジオが将軍に問う。
「今日は特に予兆僅かにして、荒れましたが、この時期この周辺の空は変わりやすいのですよ。我々は、たいてい風を読みます。」
「風を……、そうなのか。」
一度将軍を振り返り、それからジオはまた窓に打ち付ける雨粒を見つめた。
「エリオス王子、どうぞこちらでお召し替えを。」
将軍の言葉にエリオスが頷き、ジオを手招きする。
ジオに続いて動く護衛騎士に、ルドロフが声を掛けた。
「私は、ダイレナンへの滞在を塔に報告して来る。王子を頼む。」
「承知しました。」
「ルドロフ?」
側を離れようとした護衛騎士に、ジオが振り返る。
「もう日も暮れますし、この雨です。今日はこちらに留まり、明日雨がおさまってから緋の塔へ戻りましょう。」
ジオの前に膝をつき、ルドロフが説明する。
「……母上、心配するかな。」
眉尻を下げたジオに、ルドロフが少し頬を緩ませた。
「しているでしょうね。」
予定の行程を外れた時点で、ジオの騎士であるスリンガーがその報告のために先に塔へ戻ったことは知っていた。
道を逸れたことは既に母の耳にも届いているだろうが、戻らないとは思っていなかっただろう。
「すぐに戻るつもりだったんだけど。」
「仕方ありません。」
はっきりとした彼の返答は小気味いい。
「ジオ。」
隣に立ったエリオスが、彼の頭をポンポンと撫でる。
上目遣いに兄を見つめて、ジオは自分の服の裾を両手で握った。
「帰ったら、ちゃんと謝ります。」
「そうですね。戻ったら、皆で一緒に怒られましょう。」
ルドロフの言葉に、塔を通り過ぎて勝手をした自覚はあるジオは、複雑そうな表情でうぅと唸った。
「早く着替えよう。濡れたままだと風邪を引く。」
「はい、兄様。」
濡れた服を着替えるために部屋を移る王子たちの背を横目に、ルドロフが立ち上がる。
「塔へ連絡を取りたいのですが。」
「ならば、こちらへ。」
何気なくジオが振り返ると、ルドロフと将軍が廊下へ出て行くところだった。
久しぶりの遠出で、兄と一緒の時間を過ごせるのは貴重なことだった。
昔はよく一緒に遊んでくれていたが、最近はどこか距離ができたように感じていた。
8歳になったジオは剣術も魔法も学んでいたが、大人な兄はもっと先を行っていて、4歳の年の差がひどく大きな壁に思えた。
だが、今回の視察では、城外に出た解放感からか、以前のような気安いやり取りができていた。
それが嬉しくて、この視察に感謝しなければ、などと思っていたのだが、調子に乗って予定外の事態になってしまった。
(もう少し、エリオス兄様と一緒にいたかっただけなのに。)
着替えを終えて、部屋に戻った時、まだルドロフの姿はなかった。
廊下かな、と何気なく扉を開けて、そこで思いがけない顔を見つけた。
「ラント!」
名前を呼ぶと、相手が驚いたように振り返った。
「っ!?」
ジオの声に引かれて、エリオスも扉に手をかける。
覗いた顔に、近衛騎士レンブラントが明るい茶色の目を丸くした。
「……どうして、殿下方がダイレナンに。」
エリオスが簡単に事情を伝え、同じ疑問を返す。
「コルシェ卿こそ、なぜこちらに。」
「使いを頼まれたのですが、同じくこの大雨に足止めされまして。」
「母上と一緒?」
「い、いいえ。王妃様は塔に。」
なんだ、と興味を失ったジオとは対照的に、エリオスは不思議そうに目を瞬いた。
「それは……。」
エリオスが言いかけた言葉は、ガラスの割れる音で中断された。
「何事だ!」
どうした、なんだ、と俄かにダイレナンの内部が騒がしくなる。
ジオたちも音のした方へ向かった。
「窓が。」
廊下の先、割れた窓から雨が吹き込んでいた。
「どうやら、風で飛ばされた物が当たって割れたようです。お騒がせして、すみません。」
兵士がエリオスに説明する後ろで、塞ぐ物を、ガラスを片付けろと指示が飛ぶ。
「危険ですので、エリオス様もジオラルド様も窓に近づかないようにしてください。」
兵士に言われ、エリオスが腕を伸ばして窓から庇うようにジオを背に隠した。
レンブラントは、兵士に声を掛ける。
「私も手伝いを。」
「いえ、近衛の方の手を煩わせるわけには。どうか殿下たちを安全な場所に。」
もっともな言葉を受けて、レンブラントは足を止めて頷いた。
「部屋に入っていましょう。」
2人の王子の肩を押して、来たばかりの廊下を戻るよう促す。
彼の大きな手と背中が、彼らを包むように守っていた。
バタバタと慌ただしく兵士が動く。
人は多くない。そのせいでかえって忙しさが増している。
他の窓にも補強を、戸締りを確認しろ、と声が響く。
「こちらにおいででしたか。」
部屋の前いた将軍は、ほっとしたように胸を撫で下ろし、騒がしくて、と先程の兵士と同じように謝った。
「僕たちも手伝おう。」
ちらりと廊下を振り返って、ジオはラントを見上げる。
「ジオラルド様。」
「戸締りの確認をすれば、いいんだよね。」
「ジオラルド殿下にそのようなこと。」
ぎょっとする将軍に、今度はエリオスが口を開いた。
「いや、一晩世話になるのだし、今は兵士も手薄なのだろう? 協力すれば、早く済む。」
いえ、そんなと困惑を浮かべる将軍は、レンブラントに助けを求めるように視線を送る。
「騎士たちにも手分けさせよう。」
「さすが、エリオス兄様!」
いい考えだ、と2人で納得し合うと、止められる前に。と、さっさと近衛騎士たちに伝えに行くことにした。
彼らの協力を断ることは諦めたらしく、西区域の戸締りをジオとエリオスと近衛騎士たちが見回ることになった。
とはいえ、中央棟と東区域、外門、別棟の倉庫と大部分は、ダイレナンの兵士たちが担当だった。
幸いにして、彼らの確認した結果、施錠も問題なく他に窓が割れているという被害もなさそうだった。
ゴロゴロと遠くで雷の音が響く。
「1階はここで最後ですね。」
少々複雑な造りのダイレナンで、西区域の端の部屋のドアをラントが開く。
ラントが燭台を掲げ、光灯の明るさを強めると、客間らしき部屋の中が照らされた。
特に、風の吹きこむ音もない。
「階段がありますね。上は、私が見て来ます。」
この部屋自体に2階があり、レンブラントは手摺りを掴む。
「では、僕たちは窓の確認を。」
燭台を持つエリオスの言葉に、視線を走らせて1階の室内に異常がないことを確認した上で、騎士は頷いてから階段に足をかけた。
「僕も見るー。」
「あ、ジオ! 走らない!」
二か所ある窓のうち、入り口正面の出窓にエリオス、西側の庭に出られるアーチ窓にジオが近づく。
異変を想定していなかったジオだったが、窓を確認してエリオスの方を振り返る。
「鍵、開いてる。」
特に意味はなく、ジオはその事実を示すために戸を開けた。
途端に、雨音が大きくなり、吹き込んだ風がカーテンを揺らした。
風の強さに、わ、と思わず目をつむる。
同時に、雷光が空を照らした。
「っ!!」
急に肩を引かれて、ジオは体重が後ろに傾いた。
「に、兄様?」
左手に燭台を持って、右手でジオの肩を押さえたエリオスの目は、部屋の外に縫い付けられていた。
雨の中。2階のバルコニーを支える柱の陰。
「誰か、いる。」
「!?」
おろおろしていると、エリオスがジオに燭台を押し付け、彼自身は、腰に佩いていた剣に手をかけた。
遠くで雷音が響く。
「そこにいるのは、誰だ。」
警戒を露わにしたエリオスの声。
燭台を持って部屋に入ったのだから、相手の方が先にこちらの存在に気づいていたはずで、それでもそこにいたということは、相手には逃げる気が初めからないということだ。
不審者なのか、ここの関係者なのか判断が付かなかった。
人影が動く。
黒い外套を頭から被った大男だった。顔はフードのせいでよく見えない。
相手は無言のまま、雨の中に立ちはだかるも攻撃態勢ではなかった。
何かを考えているのか、少し首を傾げたようだった。
「お下がりください!」
険しい声が飛んで、2人の前にレンブラントが立つ。
腕を広げ、ジオたちを部屋の中へ下がらせる。
「エリオス様、ジオラルド様を連れて早く。」
雷光。敵が剣を抜いた。
男の口元が、かすかに動く。
何を言ったのかは、聞き取れなかった。
敵意を察し、ラントも素早く剣を抜く。
目線は補足できない。けれど、黒衣の男の意識がジオに向いていることは、わかった。
「早く!」
ラントが外へ飛び出し、風で窓が閉まった。
エリオスに腕を掴まれ、強く引かれる。
背後で、剣のぶつかる音がした。
「エリオス兄様! ラントが!」
体勢を崩した騎士の姿が、視界の端を掠めた。
「卿の言う通りにっ。」
エリオスの顔は蒼白だった。
背を向けたことが意外だった。剣術に秀でた兄なら、立ち向かうと思っていた。
部屋を出る。何がぶつかったのか、ガラスの割れる音がした。
「兄様!」
廊下を走る。ジオは足を踏ん張り、背後を憂う。
強い力で掴む腕に抵抗して、ジオはエリオスの手を振り払った。
ジオが手を広げ、そこに精霊の加護を発現させる。
「援護なら僕にもできる!」
もちろん帯剣だってしている。
訓練も積んでいる。才も筋も褒められることが多く、自信も持っていた。
がしっと手首を掴まれ、きらきらとした加護の光が消える。
「だめだ、足手まといになるだけだっ。」
「ラントを見捨てるの!?」
「―――っ!」
エリオスが廊下の先と遠くなった部屋の扉を交互に見る。
「…わかった、僕が戻る。ジオは、将軍を呼んでくるんだ。」
「兄様!」
「いいから行け!」
上げた抗議の声は、切り捨てられた。
「こんな言い争いしてる暇はないんだ! 早くしろ!」
「っっ!」
こんなふうに声を荒げられたのは、初めてだった。
殴られたような衝撃を受け、ジオは狼狽した。
自信があった。戦えると、できると疑っていなかった。
けれど、兄の判断はそうではなかった。
戻ったところで、ジオは、ラントの助けになれないと。
足手まといだと、言ったエリオスの言葉は、きっと正しいのだろう。
そして、それが彼の本音。
眉を寄せ、両手を握りしめてジオは中央棟へ走った。
途中で、メビウスロザードの騎士やダイレナンの兵士に行き会わないかと視線を巡らせたが、どこにも姿がない。
廊下を曲がったところで、窓から中央棟につながる2階の渡り廊下に人の姿を見た。
渡されてから握ったままだった燭台を手放し、ジオは窓を開けると、上階に向かって声を張り上げる。
「将軍! 侵入者だ!!」
雨音に邪魔されながら、何度も叫ぶ。
やがて、将軍は声の主を探して、少し周囲を見渡し、それからジオを見つけた。
もう一度叫ぶ。
「西棟の一番端!!」
渡り廊下の端に身を乗り出した将軍が、ジオの叫びを理解し、険しい顔を見せ兵士に指示を出す。
その横に顔を出したルドロフが、緊迫した表情でジオラルドの名を呼ぶ。
すぐに行くから、そこで待つように、と。
おそらくそんなようなことを叫んだ近衛騎士に背を向けて、ジオは今来た廊下を駆け戻る。
(エリオス兄様、レンブラント!)
そうして、将軍たちを待たずに先に戻ったジオは、入り口で動きを止めた。
レンブラントは、侵入者に剣を向け、相手の男も近衛騎士を狙っていた。
割れた窓の左右、室内で対峙している彼らとは離れた位置、入り口に近い場所でエリオスが剣を構えている。
立ち尽くしたジオは、エリオスと目が合う。
「なんで、戻って……。」
驚愕とも、絶望とも取れるような顔で兄が、言葉をこぼした。
状況が、理解できなかった。
雷光。
(なぜ、エリオス兄様がラントに。)
雷音。
動いた敵に、騎士が応戦する。剣を弾いて、互いに少し距離があく。
エリオスの剣先が揺れる。彼の目に動揺があった。
ラントに視線を戻した時には、冷酷な影が騎士の間近に迫っていた。
空が光る。
「―――…っ。」
騎士を背後から突き刺した剣が、銀色に光る。
交戦した大男と同じ黒い外套を纏ったその影が、どこから現れたのか視認できなかった。
仲間がいたのだと、この瞬間までその可能性に思い至らなかった。
騎士が血を吐く。
ラント、と呼んだ声は、音にならなかった。
深手を負いながらも騎士は、剣を振るい、2人目の敵との距離を取る。
影と剣を振り切って、叫んだのはレンブラントだった。
「ジオラルド殿下!」
彼に視線を奪われていた間に。
もう1人の大男が、部屋の入り口まで迫っていた。
男の持つ剣がジオを狙う。
硬直したジオの前に飛び出したのは、騎士の声に弾かれて動いたエリオスだった。
階段の前にいたエリオスが、剣を両手で構えてジオへの攻撃を横から邪魔する。
一度は逸れた剣だったが、すぐに次の攻撃を繰り出す。
エリオスがジオを突き飛ばした。
勢いで尻もちをつき扉に背を打ち付けたジオが見たのは、男の剣を受け止めた兄の姿。
「ジオラルド様!」
「殿下!」
廊下の先からダイレナンの将軍や近衛騎士たちが走って来る。
大男の意識が他に向いた一瞬の隙に、エリオスが男に剣を振り上げる。
けれど、その空いた上体に男が蹴りを入れたことで、小さな体が飛ぶ。
「ぐっ!」
エリオスは階段の手摺りにぶつかって、そのまま床にうずくまる。
加勢が踏み込む前に、男はその場に背を向けた。
「退くぞ。」
低い声。
無言で頷いた男の仲間が、窓から雨の中へ駆け出る大男の背を追う。
2人の姿を雨と夜の闇が隠してしまう。
将軍が鋭く指示を飛ばす。
「追え!」
「兵士を回せ!!」
割れた窓から、侵入者を追いかけて兵士が外へ飛び出して行く。
メビウスロザードの騎士たちは、それぞれの王子の元に駆け寄る。
入り口で座り込んだままのジオとは異なり、エリオスはお腹を押さえつつも既に立ち上がっていた。
兵士たちに支えられながら、レンブラントは剣を握りしめる。
「敵は、アジャート兵だ。殿下を、狙って…いた。すぐに追……っ。」
途中で咳き込み、彼は血を吐く。
「騎士殿!」
「コルシェ卿、しっかりしてください!」
「っラント!」
今度は、声が出た。
立ち上がり、重傷の騎士に駆け寄ろうとして、エリオスに腕を掴まれた。
なぜ止められたのかわからず、急激に怒りが沸いた。
兄の手を振りほどく。
廊下でそうしたより、強く。
もっと明確に。拒絶の意図をもって。
はっと、怯んだようにエリオスがジオを見た。
払った手が宙で固まったことには関心を向けず、ジオはレンブラントに駆け寄る。
「殿下、ジオ…ラルド殿下。」
膝をついて、騎士がジオに目線を合わせる。
深緑色の長い髪が、彼の肩をさらりと流れ落ちた。
「ラント、無理してしゃべらないで。」
「お怪我は、殿下はご無事で?」
「平気、どこも、なんともない。」
それを聞いた騎士は、ほっとしたように笑んだ。
「……良かった。」
「ラント、大丈夫だよ! すぐに手当てしてもらうから。」
色を失った顔で、傷口を手で押さえた騎士は、眉を下げた。
王子の背後の騎士に視線を向ける。
「……ルド、ロフ君。」
「はっ。」
「殿下を…安全な場所へ、お連れして。」
承知しましたと応じ、騎士はジオを促す。
「治療の妨げになりますから、我々は出ていましょう。」
手当てのためにラントを支える兵士たちに場所を譲り、ちらちらとラントを気にしながらもジオは護衛騎士に従い、その場を後にした。
結果として。
さらに何名かの負傷者を出しながらも、悪天候の中逃亡した敵を、フィルゼノンは捕まえることはできなかった。
襲撃の報は、すぐに“緋の塔”と王城の知るところとなった。
転移の魔法陣により、“塔”にいた王妃がダイレナンを訪れる。
その日、魔力が足りないために発動できない、と言われていたそれが使用されたことが、どれだけの緊急事態なのかを示していた。
「ジオ! ジオラルド、怪我はしていない?!」
フィリシア王妃は、ジオを強く抱きしめ、無事を確かめる。
「エリオス、怪我は? 2人とも無事で、本当に良かった。」
白い腕を伸ばし、エリオスを抱きしめた。
フィリシア王妃が、自分の護衛騎士の最期を看取った翌朝。
昨夜の激しい雨が嘘のような明るい朝日が差していた。
泣きはらした顔で、震えながら。
彼女は2人の王子を強く抱き寄せた。
「エリオス。ジオを、守ってくれてありがとう。」
「ごめんなさい、こんな危険な目に遭わせてしまって。」
レンブラント=コルシェの死を悼み、献花で溢れる彼の葬儀は悲痛に沈んだ。
王妃専属の護衛騎士が王妃の元を離れていたことに、ほんの一時、批判的な噂が出たが、それが指示されたものだったことは、王妃自身が認めており、ジオラルド王子を守ることは王妃を守ることと同じだとして擁護する声が圧倒的に優位であった。
自身の忠誠厚い騎士の死を嘆く王妃を、アジュライト王が慰める。
その横で、ジオは体の横で両手を握りしめて、肩を震わせていた。
悲しくて、悔しくて、やるせなくて。
ラントにも、母にも申し訳なくて。
こんなことになるなんて、想像もしてなかった。
あの日の、あらゆる選択が全て後悔に染まる。
遠出しなければ、見回りを言い出さなければ、部屋の窓を開けなければ。
―――あんな言い合いなどせず、もっとすぐに、将軍たちを呼びに行っていれば。
浮かぶのは、最後に見た「良かった」と言って笑った顔。
ごめんなさいと、震えて俯くジオを、フィリシアが包み込む。
「ジオは何も悪くない。謝ることは1つもないわ。」
そうして悲しみに沈む2人を、アジュライトがそっと抱き寄せた。
騎士を弔い。白王宮の侍女たちや、仲間の騎士たちが、言葉少なにその場を後にする。
ジオの傍らのルドロフでさえ、目元が僅かに赤くなっていた。
とぼとぼと、歩き始めてジオはすぐに足を止める。
皆が集まっていた場所から少し離れたところにある木の根元に、エリオスが立っていた。
ジオと共に、彼も幼少から慕っていた騎士だ。
目の前で刺されて、命を落とした。
悲しくて当然だし、悲壮な表情を浮かべていてもおかしくない。
(どうして。)
浮かんだ疑問を、ジオは誰にも言えなかった。
―――どうして。あの時、エリオスはレンブラントに剣を向けていたのだろうか。
以前からなんとなく感じていたエリオスとの『壁』は、この事件を境に明確になった。
エリオスは、ジオのことを殿下と呼ぶようになり、ジオが兄様と呼ぶのも拒否して、兄弟として接することがなくなった。
やがて、王籍を離れ臣に下ると、その年のうちに緋の塔の騎士となって、城からもいなくなってしまう。
アジャートとの関係悪化で、国境では小競り合いが続き、やがて“緋騎士”との異名がついた。
戦功を立てるが、特攻のような個人プレーが多いことや、“緋騎士”というのが、戦場での返り血を浴びた様子から生まれたという話には、眉をひそめざるを得なかった。
やがて、彼の活躍の1つとして、かつてダイレナンでジオをアジャートの襲撃者から助けたという話が取り上げられるようになる。
当時、フィリシア王妃もエリオスがジオラルド王子を助けたことを感謝していたと。
どれも事実で、けれど、緋騎士を持ち上げるためにどこか脚色された話は、否定や訂正を受け付けずに大いに広まり、“英雄”の逸話になった。
語られる話に、ジオ自身も特段の手を打つことをしなかった。
時間が経つにつれ、見間違いだったのではという思いも否定できなくなって、確かめる術もなく持て余していた。
あの日の、彼らの立ち位置には距離があったので、対峙していたとは言えない。
体勢や剣先、その場の状況によって、勘違いしている可能性もあるだろうと。
そう考えながらも、一度芽生えた不信感は、容易に拭えなかった。
フィリシア王妃が、ホワイトローズで療養することになったが、その間、エリオスが訪れることはなかったのも、不信が増した一因だ。
王妃が亡くなった後も、エリオスは臣下であり騎士だった。
アジャートとの衝突が頻発し、アジュライト王や宰相たちの状況を見かねたジオが、なんとかしたくて“緋の塔”へエリオスを訪ねて行ったことがある。
けれど、自分は兄ではなく臣下だと言われ、二度と来るなと追い返されてしまった。
幾度かの城に戻って来て欲しいというジオの願いが届いたことはないし、アジャートに王都を侵攻された時も、アジュライト王が亡くなった後も、彼に向けて伸ばした手が握り返されたことはない。
口ではジオや国への忠誠を語りながら、城ではない場所において、彼は自身の力で功を積み上げていく。
王族の身分を捨てた代わりのように、彼が築いていくものは、まるで当てつけにも見え、線を引くように置かれた距離が、縮まることはなかった。
それに、あの頃には考えもしなかったが。
王位や後継者というものを視野に入れた関係で言えば、第1王子の立場は微妙だった。
側妃のリコリエッタが、あの頃どのように暮らしていたのか、ジオはよく覚えていない。
エリオス=ナイトロードに恨まれている、という可能性を否定できるだけの材料を持っていないのだ。
それに、その真偽がどうであろうと、ジオにはエリオスを非難することもできなかった。
繋いでいたエリオスの手を、先に振り払ったのは、ジオラルドの方だったのかもしれないのだから。
***
話を終えて、ジオはグラスに指をかける。
「信用していないのか、と聞いたな。」
セリナが、肩を揺らす。
誰かに。
王が国の英雄を疑っているのか、と問われれば、否と答える。
だが。
黒曜石の瞳と、視線が合った。
「彼が何を考えているのか、わからない。」
持ち上げないまま、ジオはグラスから手を離した。
「手紙の件は聞いている。行動を制限するつもりはないが、あまり無暗に関わらない方がいいとは思っている。」
セリナに見つめられて、直視できずに視線を逸らす。
直後、外の気配を感じた。
「クルスが戻っているようだ。外を、確認して来る。」
机に片手をついて、ジオは、静かに立ち上がる。
ジオ、と名を呼んだセリナの声に、彼は目を伏せた。
「……今のは、聞き流してくれて構わない。」