XI.交渉 84
84.
「あ、セリナ!」
女神のために用意されている南側の天幕に戻ったところで、声が掛けられた。
聞き覚えのある声に振り向けば、天幕の間で緑色の髪の女性が片手を上げて笑っていた。
「ジーナさん!」
彼女は、ラヴェリエの騎士を無視して、すたすたとセリナに近づく。
「元気そうで良かった。まったく、使えない私の上司ときたら、サヨナラさえ言わせないのだから困ったものよ。」
「誰が使えない、だ。」
さらに向こうから、呆れたような声が続く。
「ルーイまで。」
「よっ、交渉お疲れさん。」
警戒と困惑のリュートたちに、大丈夫だと伝えてからセリナは、アジャートの制服を着た兵士たちに向き直る。
ルーイの後ろには、副官ロベルト=ウォルシュの姿もある。
「女神ディア・セリナ様にご挨拶申し上げます。」
「あら、わからないなら言い直した方がいい? 使えないシャトーヴァレット所属テトラの軍隊長ルードリッヒ=オーフェンという私の上司……ぶっ!」
「黙れぃ。」
「レディの頭をはたくなんて、横暴っ。」
「ジーナ=ノーファー、見知った顔があったからといって、いつものように気軽に声を掛けるものではありませんよ。ここは隊舎でも、ましてアジャートでもないのですから。」
「和平が成ったのだからいいじゃない、カタイこと言わないの。」
「皆さん、相変わらずのようで。」
繰り広げられる嚙み合っているような、いないような会話に、セリナは思わず笑みをこぼす。
すすっとセリナの横に近づいて、ジーナがこそっと告げる。
「セリナを待っていたのよ。私も、ルーイもね。」
「え?」
ルーイの方に目をやれば、彼と目が合う。
居心地悪そうな顔で、ルーイは自分の頭を掻く。
「無事に、フィルゼノンに戻ったとは知ってたけど、ちょっと心配だったからな。」
心配?と首を傾げたセリナに、ルーイが言い訳するように言葉を足す。
「セリナの帰還を任せたつもりだったのに、アイツ。用意していた案内人とは別の奴に任せたって言って、戻って来やがったから。」
(なんと。)
「案内役に待たせていた者が、ディア様が来ないと言って慌てていました。城内があんな状況でしたので、こちらも一時騒然としたのですが。」
「当の本人は平然としたものだったけどねー。」
呆れたようなロベルト。ジーナは肩をすくめる。
「近くに手頃な者がいたから、そっちがどうにかするだろうって。まったく。セリナが、フィルゼノンへ戻ったと聞くまで気が気じゃなかったっつーの。」
ルーイもはぁ、とため息をつく。
(あれはクラウスの独断だったのね。相手がリュート…ラヴァリエの騎士だとは、ばれてない?)
「とりあえず、両国の情勢を考えて、不法入国者の件は、無かったことになってるから、そこは安心しろ。」
(あ、ばれてた。)
セリナの後ろにいるリュートにも、会話は聞こえているだろう。
思わず、セリナがちらりと彼の様子を窺うと、目が合ったリュートも、何とも言えない微妙な表情を浮かべていた。
「あ、で彼は? 姿が見えないけど。」
「リシュバインまでは来てたんだが。気が乗らないから、砦に残るって言ってな。」
そう言って、声を落としてルーイはセリナにだけ聞こえるように続ける。
「まぁ、顔見知りがいないとも限らないから。ここには近づかないだろうよ。」
「あ。」
「何か妙な真似をする、という気もなさそうだし、放っている。」
「どうしてわかるの?」
復讐を秘めた男が、フィルゼノンの中枢に近づく絶好の機会ではないのか。
ルーイは、少し考える素振りを見せる。
「和平そのものではなく。セリナが、その仲介に立つことに興味を示していたから、付いて来たのは、そっちが理由だろう。あれが、交渉を邪魔することはない。」
「そうやって、ルーイ様が甘やかすから隊の規律が乱れるのですよ。」
「そう言うなよ。帰りにまた合流するだろ。」
「また、そんな適当な。」
「私は、セリナに会えたから満足よ。」
「ジーナは、今回同行する必要なかったけどな。」
うふふーと自身の両頬に手を当てジーナは、美しく笑う。
呆気にとられているラヴァリエたちを気の毒そうに見て、ロベルトは肩を落とした。
「これだから、威厳がないなんて言われるんですよ。」
ルーイが、副官の肩をポンポンと叩く。
「気にすんな。」
「ルードリッヒ様のことですよ。」
ロベルトの嘆きを無視して、ルーイは表情を引き締めた。
「んで。用件は、もう1つ。」
「うん?」
あーと呻いて、ルーイが頭を掻いた。
「セリナに、伝えておきたいことがあってな。」
セリナは、首を傾げる。
「グレーティア様から、事は終えた、と聞いた。オレが言って、巻き込んだようなものだから。もし、セリナの負担になったとしたら、悪かった。」
悄然とした様子のルーイを見て、セリナは息を吐いた。
「仲介役にしても、イザークの件にしても、ルーイが謝ることなんて何もないよ。私も気がかりだったことだから、知れて良かったと思ってる。」
そうか、と呟いて、ルーイが小さく頷いた。ふと、顔を上げた彼が、じっと視線を向けていたセリナに気づく。
「なんだ?」
「グレーティア様は、解呪と表現していたけど。ルーイにいつそんなことがあったのかなって。少し疑問で。」
「……やはり無自覚か。」
セリナの言葉に、ルーイが僅かに顔をしかめた。
「わからないなら別に構わない。」
「ちょっと。」
「ただ、セリナのためにこれだけは教えておいてやる。」
反論しかけたセリナを制して、ルーイが片手を上げる。
「そうだ、と思ったのは。セリナが、オレの腕を掴んだ時だ。どこかに引きずり込まれそうな思考が、急にクリアになった。霧が晴れるのに似て、我に返ると言えばいいのか。おそらく、セリナが『触れる』ことが、きっかけなのだろう。」
ルーイの言葉に、セリナは考え込む。
(心当たりがあるとすれば、謁見の間で上からルーイのところに下りた時…よね。)
あの襲撃の日、エドと何か話していたルーイの様子は少しおかしかった。
(触れる? 確かに、何かした自覚はないけど。……あ、まさか。)
考えて、はっとする。
(さっきのグレーティア様も? 支えようと掴んだ手を、離そうとしたら握りしめられた。あれは、そういうこと? じゃあ、イザークももしかすると同じ?)
セリナが触れた時、大きく体を震わし、激しい動揺を見せた。
力の理屈はわからない。けれど、そうだったと、知っていることは無駄ではない。
セリナは、自分の両手を眺めた。
「そう…なのね。」
「セリナも、センティスのことを聞いたんだろ?」
問われて、小さく頷く。
「オレも聞いた。解かれて初めて気づいた、その力のことを。」
「ルーイ?」
少し表情が暗くなったのに気づいて、セリナが名を呼べば、相手は取り繕ったように口元を緩めた。
「知って。それで、理解できることも、納得したこともあった。まぁ、正直複雑な気持ちだが。知らないより、マシかーってな。」
***
それはずっと前の、幼い時の記憶だ。
ルーイがまだ4つか5つだった頃こと。
そっと部屋の中の様子を窺い、人の気配がないのを確かめてから、ルーイはコンコンコンコンと窓を叩く。
「あにうえー?」
小声で呼びかけると、少しだけ間があって、寝間着姿のエドがひょっこり顔を覗かせた。
扉の鍵を開けて、驚いた顔でエドを招き入れてくれる。
「バルコニーからなんて、どうやって来たの。ルーイ。」
「部屋の前には警備兵がいるから、隣から来ちゃった。」
外を指差し、えへへと笑う。
「飛び移って来たってこと? 危ないよ、落ちたらどうするの。」
「平気。」
「だめだよ、二度としないこと。」
「気をつける。」
「気をつけてもだめ、危険なことは二度としないって約束して。」
強い口調で叱られて、ルーイはしゅんと項垂れる。
「ごめんなさい。もうしません。」
怒ってないよと、微笑みながら問われ、ルーイはパッと顔を明るくする。
「それで、今日はどうしたの?」
「あにうえ、熱下がった? お医者様が帰ったって聞いたから、会いに来たんだ。」
「心配してくれてたの?」
「うん、おとといのパーティにもいなかったから。」
ルーイは、ズボンのポケットを探る。
「これね、『お見舞いの品』なの。」
取り出された丸い缶のふたを開けると、中にいたソレが「ゲコ」と鳴いた。
小さな緑色の生き物。
エドが、目をぱちくりさせる。
「ルーイが捕まえたの、かな?」
「うん! この間、メイドにあげたら大きな声上げて元気になったよ。」
「あー、そうか。それは、そうかもしれないけど、ううーん。」
受け取ったエドは、小さい生き物を眺めて笑う。
「ありがとう、ルーイ。元気になったよ。」
「ほんと?」
喜びを浮かべるルーイの頭をエドが撫でる。
「だから、この子もお家に帰してあげないとね。一緒に行きたいけど、まだ僕は外には出かけられないから、ルーイにお願いしていいかい?」
「わかった。」
うむ、と神妙に頷いて、エドからの願いを承諾する。
「あとメイドに贈るのは、やめておいた方がいいかもしれないね。」
「そうなの?」
首を傾げると、エドがくすくすと笑った。
その様子が元気そうに見えて、ルーイは安心する。
コンコン、とノックの音がして廊下から声がかかる。
「エドワード様、王妃様がお越しです。」
はっとして、ルーイは慌ててバルコニーに出る。
エドが入り口を気にしながら、申し訳なさそうに眉を下げる。
「あにうえ、元気になったら、また一緒に遊んでね!」
ルーイは、バイバイと手を振って自分で戸を閉めた。
部屋の扉が開くと同時に、エドがカーテンを引く。
「母上。」
「あら、起きていて大丈夫なの、エド。ほら、そんなところにいないで、寝ていないと。おいで。」
カーテンの隙間から、王妃がエドワードを呼びよせ、抱きしめるのが見えた。
「熱が下がったからといって、無理をしてはだめよ。食欲はあるかしら? エドの好きな果物を持ってきたのよ。」
そんな声を聞きながら、ルーイは隣のバルコニーに移動する。もうしないとさっき言ったばかりだが、仕方ない。
早く遊びたいな、と思いながら。
あにうえはいいな、と羨ましくも思う。
あんなふうに、母親に心配してもらえるなんて、いいなと。
エドワードは、頭のいい人だった。
勉強嫌いのルーイが、エドにわからないところを教えてもらうこともあった。機会としては1回か2回だが、教え方は上手かったと記憶している。
調子に乗って騒いでいた時、高い絵画にぶつかって落下させ、破損させた時も、一緒に怒られてくれた。ルーイと共にふざけていた令息たちは、さっさといなくなってしまったのに。
落ち着きがあって、優しくて。小さな頃から、病弱で寝込みがちのために、あまり公にも姿を見せることはなかったけれど、ルーイは彼のことを慕っていた。
アジャート王家は、他の兄弟間での交流がほぼないため、エドだけが特別だったとも言える。
ただ、周囲は彼らの交流を良しとせず、大人の顔色を窺って会えないことも多かった。
活発なルーイは、城内だけでなく、乳兄弟のロベルトと城下に頻繁に出かけるような自由な幼少期を過ごしていた。
体の強くない兄とは反対に、運動神経に恵まれたルーイには武術の才があったらしい。
師匠から筋を見込まれ、父王から直々に指導を受ける機会もあって。それは、第3王子の地位にいた彼の、足元を固めた。
得意なことが、周囲に求められる力であることを嬉しく思ったし、この国を守る剣になるために強くなろう、とそう思った。
「賢い君のことだから。アンネリーゼ様も、王位継承に関心がないって気づいているでしょう?」
謁見の間で、囁かれたエドワードの言葉は、ルーイの図星をついていた。
あの時、セリナが来てくれてなければ、そのまま引き込まれていたかもしれないくらいには。
―――『君の』王位継承には。関心がない。
国への忠誠。王を守る剣として生きる。
病弱だが心優しい義兄を支える人物になりたかった。
それは、幼い頃の約束。
アジャートの剣となる。その思いに揺らぎはない。
やがて来る先に、その椅子に座っているのは、第1王子だと。誰に言われたわけでもなく、そういう未来を描いていた。
「あにうえ……。」
呼んだ声は掠れていて、本当に発したかどうか自分でも定かではないほどだった。
「アンネリーゼ様も、君を王にしたいとは思っていないみたいだし、だからルーイも執着がないのかな? まぁ、昔からアンネリーゼ様が興味を示すのは、潔いほど陛下のことだけで、自分の子どもですら関係なく、いつでも“寵姫”であったけれど……ね。」
―――彼女は。ルーイに、関心なんてない。
その指摘は、自覚のある現実。
ルーイは、乳母であるロベルトの母親・ウォルシュ夫人に育てられた。
母は、美しい人で優しくも穏やかでもあったけれど。その目は、いつも国王に向けられていた。
美しいものや綺麗なものが好きな彼女は、可愛いものに含まれる子どもも、嫌いではなかったようだ。ただ、それは、母親としての感情ではなかっただけで。
賢い寵姫は、王の機嫌を損ねるような政治の話は口にしなかったし、妃が増えて拗ねることはして見せても、嫉妬で王を煩わせることはしなかった。
華やかな生活が問題視されながらも、糾弾されるまではいかなかったし、後宮の勢力争いもしなやかに生き抜いて来た。
時折、我が子を食事に呼んだり外出に同行させたり、剣術大会の試合を見に来たり、ということもあるにはあった。
けれど、庭ですれ違い、挨拶を交わして背が伸びたわねと気まぐれに肩に触れて、ではね。と美しい顔でルーイを置き去りにして行くような、形容しがたい空虚さを味わったような記憶の方が先に出る。
妹が生まれた時、離宮に移り住んでいた時期があった。王も度々足を運んで来たその離宮での短い生活は、ルーイの記憶にある中で、唯一、家族が揃っていた時間だ。
そこから城へ戻ると、離宮での幻のような記憶は虚しさを増幅させただけで、都合よく振り回されることへの嫌悪を生んだ。ごっこに付き合わされ、人形のように扱われるのも、誰かの飾りにされるのも冗談ではないと。
兵士ゆえに駒として動くことを承服した上でも、誰かの思い通りに動かされることを厭う気持ちは変わらない。
命令を遂行するのと、自分の知らないところで誰かに利用されるのはまったく別物だ。
ルーイは隊舎や城下に、居心地の良い場所を見つけ、後宮から足は遠のいた。
剣を振るうのは楽しかったし、やった分だけ実力がついた。
母親と会うのは遠征や戦の前後の挨拶、または、気まぐれな呼び出しに応じた時、その程度だ。
ウルリヒーダ王が崩御し、後宮は解体された。正妃グレーティアは、離宮に居を構え表向き退くが、新王の後見として、今後も国政に関与することになるだろう。
神殿に移る側妃や臣に降嫁する側妃がいる中で、アンネリーゼは、以前に王からもらっていた別邸に移り住むことになった。
継承権を持つ息子の母として、侍女を引き連れ美しい屋敷で過ごす。
ただ、彼の王位如何には興味ないだろう。彼女の望む生活に影響するものでないならば。
むしろ、その方がいいのかもしれない。
和平交渉の後、ルーイ軍は、銀の盾の拠点があった南部防衛の任へ赴くことになっている。
その能力を活かしつつ、中枢権力から外される配属-――要は左遷だが、それだって彼女の気にするところにはないのだから。
「ルーイはいいね。みんなと外で遊べて。」
「兄上?」
体調を崩したエドに、こっそり会いに行ったいつかの夕暮れ。
「僕は、体力がないから剣の授業はあまりさせてもらえないんだ。こうやって、すぐに熱が出るし。」
げほげほとベッドの上で、エドがせき込む。
「軍事大国と呼ばれるこの国の王子なのに、父上みたいに強くなれないなんて。悔しい。」
寝台の横に膝をつけて、ルーイはエドの腕に触る。
「師匠が言ってた。武は体力だけじゃなくて、知略も大事だって。」
確かに、実技では不利なエドだが、兵法の授業では優秀な生徒だ。
「僕は、そっちはよく怒られるから、あまり好きじゃないけど。」
もじもじと、ルーイはエドの居る寝台のシーツを掴む。
「でも、ダリウスがルーイを褒めていたよ。筋がいいって、将来が楽しみだって。」
「師匠が? 本当?」
「本当だよ、すごいね。ルーイ!」
「僕、もっと強くなれるかな。」
「なれるよ。ルーイが、アジャートを守る将軍になれば、この国は安心だ。」
「じゃあ、もし兄上が王様になったら、僕は一番えらいショウグンになる!」
「それなら、僕も剣術ができないなんて、弱音を吐いていてはだめだね。早く元気になって、アジャートのために強くならなきゃ。」
「僕もがんばる。」
勢い込んでそう言うと、エドワードがにっこり笑った。
嬉しくなって、ルーイも笑った。
「僕、兄上を守る剣になる。強くなれるようにがんばるよ!」
笑い合う2人のいる部屋の外。日の沈む赤い空の端から、夜の闇が広がり始めていた。
***
(……多分。自覚していた以上に、オレは囚われていたんだろうな。)
偽りではないし、後悔することでもない。
ただ、少し。大事な思い出に、苦いものが混ざっただけだ。
慕っていた兄だった。それは作られた感情ではない。
見過ごせない罪を犯した彼を、止められなかった。悔いるなら、その点であって、かつて笑いあった日々ではない。
それでも。
そう思いはしても、心に残る重いモノを無視することは、できそうにない。
センティスという魔法が、どこか盲目的な作用を引き起こしていたのではないかと。
「まぁ、とにかく。改めて礼を言わせてくれ。セリナには、感謝しているんだ。」
礼を言ったルーイの笑顔は、どこか寂しげで、セリナは少し目を伏せた。
グレーティアの言うとおり、セリナ自身にセンティスが効かないというわけではなかった。
彼らの話を聞いて気づいたのは、『解呪』に万能さはないということ。
(ルーイたちの言葉が本当だとしても、いつでも誰にでもそれが無意識にできていた、というわけじゃない。自分への効果も不明だし。私が違和感に気づくか、認めた後でなければ、他人への効果もないのかも。)
未知の力で初めから『解呪』が可能だったのなら、セリナ自身がセンティスの影響を受けることはなかったはずだ。
それに、“銀の盾”のメンバーはともかくして、少なくともイザークには、もっと前にも機会があったはずだから。
―――お前の言葉は上辺だけだからだ。
(今なら、わかる気がする。)
あの冷淡な態度。アジャート王は、あえてエドの言葉を聞かなかったのだ。
理想的で正義に満ちた言葉。そのすべてを初めから反対意見で返すことしかしなかった。
彼の言葉の正当性ですら、おそらく切り捨てて来たのだ。
そうしなければ、彼の言葉に喰われるから。
―――アレの言葉に取り憑かれたな。
エドの主張のすべてが、嘘だったわけではない。間違っていたわけでもない。
それをアジャート王はわかっていた。
そして、彼の理想が歪んだものの上に立っているということも、全部わかっていたのだ。
一部を認めれば、そこから綻びが生じる。己に迷いが出る。己の思う、正しい道を見失う。
そうわかっていたから、王はすべてを拒否した。
エドの野心も知っていた。エドのしていたことも知っていて。
きっと、誰よりエドワードという王子のことを理解していた。
―――王の器ではない。
遠ざけて、彼の言葉を黙殺して。城ではなく神殿へと身を置かせる、それが彼を守っていく方法だった。
救えなかった、と王妃に告げた言葉に含まれた思いは。
セリナに想像のつくものではないけれど。
セリナが謁見の間で見た2人のやり取り。
王の頑なな態度に反発心を覚え、エドの境遇に心を痛めた。
けれど、セリナはエドの元に駆け寄れなかった。彼らの力を借りて、戦を止めようと思っていたのに。
セリナは、アジャート王の言葉を否定できなかったのだ。
これまでの違和感を喚起させ、突き付けられて、気づかないでいることは限界だった。
アジャート王の態度が、セリナをそうさせた。
(エドは自分の隣に、自らの意思で立つ“女神”の姿が欲しかった。)
「お礼を言うのは、私の方だよ。」
「セリナ?」
「教えてくれて…、こうして、会いに来てくれてありがとう。私、あの時、ルーイの言葉に甘えて、逃げ出してしまったのに。」
「おいおい。それは、セリナが気にすることじゃないだろ。行け、と言ったのはオレだし、アジャートに残っていたら、今日の和平は成せてないかもしれないって、セリナもわかってるだろ? っつーか、あんなことに巻き込まれて、怒っていいくらいなんだが。」
セリナは、首を横に振る。
ルーイには、たくさん助けてもらった。
「……セリナ。」
困ったような表情を浮かべたルーイの、指先が動く。
「そこで何をしている。」
低い声が聞こえて、セリナは顔を上げる。
後ろでラヴァリエたちが、頭を下げた。
「陛下。」
近衛を連れたフィルゼノン王が、そこにいた。
「おっと、長話が過ぎたか。」
肩をすくめて、ルーイは伸ばしかけた腕を引っ込めた。
「お人好しな姫君だな。悪い相手に引っかからないか不安になるぜ。」
セリナの隣に立った王からの剣呑な視線には気づかないフリで、ルーイは軽口を利く。
「女神の天幕の前で、何をしている。」
「畏れながら、ご挨拶をさせていただいておりました。」
「あの、ジオ?」
緊張の走る空気に、セリナがおずおずと声を出す。
天幕の前で、アジャートの王子と話し込むのは少し失敗だったかもしれない。
かけた声は聞こえていないのか、ジオの視線はルーイに向いたままだ。
「用件が済んだなら、戻られよ。」
恭しく頭を下げて、ルーイは一歩下がる。
その後ろで、ロベルトとジーナもアジャート式の敬礼をしていた。
そのまま戻るのかと思いきや、顔を上げたルーイと目が合う。
あ、嫌な予感。とセリナが思うのと同時に、相手が口を開いた。
「そういや、セリナ。オレのプロポーズは、まだ保留にされていたな。」
「っ!?」
なぜ、今。急に、こんなところで! とセリナは狼狽のあまり、口をパクパクさせる。
周りの空気が凍った気がする。気のせいではない気がする。
「まー。返事は、今じゃなくていいや。」
「いや、今でいいよ。お断りします!」
「即答かよ、容赦ねぇな。」
ふは、と眉を下げつつも、ルーイが笑う。
「ま、どのみち出世から脱落した今のオレには、女神様を迎え入れる器には足りないからな。もっと、力を手に入れて、出直すことにするか。」
え、脱落?どういうこと?と、違うところに引っかかったセリナを無視して、ルーイはあっけらかんと笑う。
「……貴様。」
低い呟きを聞き留めて。
ルーイは一瞬だけ笑みを見せ、胸に手を置き深々と頭を下げた。
「お騒がせいたしました。では、御前を失礼いたします。」
「ちょ、ルーイ?!」
「じゃ、またな。セリナ。」
セリナの隣から漂う空気が、異常に冷たく感じた。
「アジャート側までお送りします。」
全く笑っていない笑顔のラヴァリエたちが、セリナたちの間に割り込んで、アジャートのお客を急き立てる。
「さぁ、どうぞ。」
と、丁寧に促すリュートの言葉が、「さっさと、歩け」に聞こえたのはセリナの空耳である。