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黒の女神  作者: 紗月
大地の章
174/179

XI.交渉 82

82.



天幕を出て行くイザークを見送って、セリナは息を吐き出した。

ラヴァリエたちが、剣から手を離す。

ずっと緊張感に満たされていた空間の空気が、ようやく緩む。

イサラに促されて、セリナは握っていたハンカチを彼女に渡す。

セリナはグレーティアに向き直り、口を開いた。

「ご説明、いただけますよね。」

扇を揺らしたグレーティアは視線を逸らして、天幕の入り口を見た。

「陛下をお待たせしてしまいそうですね。心苦しくはありますが、致し方ないでしょう。」

開始時間はまだだが、時間に余裕があるというわけでもない。

「グレーティア様が、私に求めた『仲介』は、先程のイザークの件だったと。そう思って良いでしょうか?」

「……本当に、此度の和平の仲介役をお願いしたのですよ。ただ、そうですね。わたくし自身の目的は、ほぼ果たせたと言ってしまっても差し支えないでしょう。」

閉口するセリナの様子を眺めて、赤い唇が弧を引く。

「まずは、お座りになられては?」





人払いを求めたグレーティアは、自身の侍女だけを背後に控えさせていた。

グレーティアの筆頭侍女である彼女のことは、アジャート城の後宮で案内を受けた相手なので見知っている。

「ディア様が心配なら、そちらの護衛は残して構いませんよ」と告げた相手は、ただし口の堅い者をお願いしますね、と扇の下から釘を刺して来た。

セリナとグレーティアがそれぞれ椅子に座り直す。

「イザークを捕まえること……が、第一目的ではなかったのですよね。」

確かめるように、セリナは問う。

ふ、と小さく息を吐いて、グレーティアは視線を落とした。

「彼を、助けたかった。のですか?」

「面識もない相手のためだけに、このようなことはしません。」

「……では、エドワードのために?」

グレーティアは首を振る。

「あの子のため、などと言う資格はない。ただ、我が子が行ったことの、責任を、親として取ろうとしていただけです。」

責任という言葉に、少しだけセリナの胸が痛む。

「グレーティア様が、私を同席させた上で、イザークと話すことを望まれたのは、女神なら、橋渡しや緩衝材のような役目を果たせると思われたからでしょうか。」

「あの少年は、最後まで、エドワードのために働いていた子であり、一番の被害者でもあるのです。」

グレーティアが僅かに瞳を細めた。

「ウルリヒーダ様も、あの従僕のことは憐れんでおいででした。ですから、余計にそのままにしておくわけにはいかなかったのです。できれば、あの子から解放してやりたかった。けれど、我々だけではそれも難しいとわかっていました。」

「……。」

「迂闊に、牢番も近づけられない少年なのです。」

セリナは、きゅっと膝の上で拳を握る。

「ディア様が、どこまで気づいているのかわかりませんが。」

そう前置きをして、彼女は扇を閉じた。

「エドワードには、魔力が宿っていました。」

魔法使いと名乗るほど確立した魔力ではなかったが、確かに彼には、魔法が使えたのだと。

「アジャート王家に珍しく、精霊の加護を受けて生まれた男児。その祝福は、奇跡で。アジャート王国の喜びそのもので。」

グレーティアの声が震えた。

「喜びそのもの、だったはずだったのに。」

懐かしさと後悔の色が、グレーティアの瞳に浮かぶ。

「あの子の魔法は、人の心を操るものでした。」

セリナは、グレーティアの言葉を、ただ黙って聞いていた。

「いえ……操る、というのは、少し言葉が違うかもしれませんね。意のままにというわけではなく、元々ある気持ちを増幅減退させるような効果なので、自分を含めて、人の心に影響を与える力が強くある。という作用でしょうか。“センティス”という精霊の加護で、しかも守護精霊自体それなりに力の強いモノでした。」

淡々と説明を続けるグレーティア。

「上手に力を制御できれば、人をまとめ上げ、偉業を成し遂げることも可能だったでしょう。人を鼓舞したり、敵意を収めたり。実際、あの子の言葉は、基本的に未来を良くする方を向いていたのですけど。」

一度、小さく息を吐く。

「エド自身にも、暗示のようにかかるせいなのか、理想への思いが強かったのか。彼の言葉は、まるで甘い毒のようでした。それと気づかず、気づいても戻れない。元は自分の心で、それは己の意志だから。」

グレーティアは、どこか遠くに目をやる。

「魅力的で、心を動かされるような、何か。強制されることもなく、ただ自分がそれを選択し、実行する。己の信じる道だと。」

「それは。」

呟いて、セリナは言い淀む。

「正しいと心から信じているから、つき進める。そうすべき以外に方法はないと納得して、望みを叶えようと行動する。他人を害することであっても、その罪を犯してでも、自分はそうすべきなのだと、何かに突き動かされる。」

伏せた瞼。まつ毛が揺れる。

「衝動、あるいは盲目。嫉妬や劣等感と自覚した上でも、相手を排除しようとする。それを正当化する『理由』があるなら。自分こそが正しいと思えるなら。」


「正義を口にする。免罪符のように。」


「目が覚めて気づくわ。それが、どれだけ独りよがりで身勝手な行いかを。そして打ちのめされる、『正しい』自分の選択の結果、どれだけの犠牲を払ったのか、周りに払わせたのかを知った時に。」

「グレーティア様。」

誰の話なのか、わざわざ尋ねることはできなかった。グレーティアが、力なく笑った。

背後の侍女が心配そうに彼女を窺うのを見て、あぁ、と納得する。

あの侍女は、すべて知っているのだと。

だからこそ、この場に居る。

「甘い毒は、己の心を突き付けられることでもありました。それは、まるで彼に関わった者たちへ課せられた試練のように。」

諦観を含んだような顔を見せて、グレーティアは緩く首を振った。

「心のままに生きることが、必ずしも正しくはないのだ…と。本人も周りも、あのままでは危険でした。それが、あの子を城に置いておけなかった理由です。」

グレーティアと瞳が合った。

思わず、セリナはぎくりとして体が強張る。

その一瞬を見て取って、グレーティアは視線を落とした。

「ディア様にも、心当たりがありそうですね。」

言葉に詰まったセリナを見ないままで、彼女は扇を揺らした。

「彼に、悪意はない。いえ、逆でしょうか。とてもとても純粋な悪意なのかもしれません。」

さわり、と赤いドレスの裾が音を立てる。

「先程の従僕に言っても、きっと本心から否定されるでしょう。『そんなお方ではない。どうして、実の母親が、そんなふうに貶めるのか』と。返す言葉もないのですよ。惨いことをしている、あの子が可哀そうだと。わたくしだって、そう思っているのだから。」

ふぅとグレーティアは再び息を吐く。

「けれど、わたくしはこうも思っている。『可哀そう』……そんな簡単な話ではないのだと。」

誰を憐れみ、何を憎めばいいのかもわからない。

「どちらもわたくしの本心。けれど、相手の言葉に思いが引っ張られてしまうのです。あの従僕と話すのに、ディア様に間に入ってもらったのは、だからこそです。」

「それ…は、イザークにも、エドと同じような魔力の作用があるということですか?」

「長い間、一番近くにいて、さらにエドワードを深く信望していた人物です。1度の聴取で、彼の尋常ではない忠誠と信頼は明らかでした。聴取官が絆され同情を覚えるほどに。」

「聴取で……。」

「優秀な官吏ですから、流されこそしませんでしたが、本人も驚いていました。言ったでしょう、迂闊に牢番も近づけられない。」

グレーティアは、ひたりとセリナを見据えた。

「増幅された想いです。全て本心。言葉に嘘がない、その熱量は相手の心に響いて当然とも言えます。」

ここで、イザークの話を聞いていたセリナ自身、気持ちが引っ張られたのは確かだ。

イザークを天幕に招き入れ、彼の主張を聞いた当初。

彼の願いに、セリナは、どういう意味かと聞きかけて口を閉ざした。

尋ねることを躊躇したのだ。

(うまく説明できないけれど、前と『同じ』になる気がして、言葉を飲み込んだ。)

彼にそこまでさせているのが、誰なのかをわかっていたから。

「……。」

「ラジエッタの意見によると。イザーク=ユーバイトは、魔法使いではない。そうではないけれど、これまで受けたセンティスの魔法の影響力が彼自身にまだ残っているのではないかと。他の者も程度差はあれど同様で、そのせいで、エドワードから影響を受けたことがある者には特に、あの少年の言葉でもセンティスと同等の効果が発生してしまっている可能性があると。」

グレーティアの言葉に、セリナは口元を押さえる。

「加えて、彼は長い間、傍でエドワードの言葉を聞いていたのです。魔法による増幅減退の効果がなくとも、効果的な話し方や言葉選びを学んだのではないかと、わたくしは考えています。」

「学んだ?」

怪訝に聞き返したセリナに、グレーティアは静かに頷いた。

「ラジエッタを通じて、あの少年にいろいろと情報を流したのは、それを聞いてどう行動するか確認したかったからでした。」

どうりで、とセリナは目を瞬いた。

セリナが交渉に同席することをイザークが知っていると、グレーティアが確信していたはずだ。

(そう仕向けたのは、グレーティア様。)

「逃走を図ることは想定済みでした。想定外だったのは、逃走した少年を、アジャートの兵士がいつまでたっても捕らえられなかったこと。城内から抜け出せたことも、交渉団に紛れていたのに気づかなかったというのも、あり得ない事態です。怪我の状態からすれば、脱走もここまでやって来ることも考えられないのですけれど。」

驚きを浮かべたままで、セリナは両手を握りしめた。

「そんなこと、ただの従僕にできる芸当ではありません。」

(そう、フィルゼノンの騎士を出し抜くようなこと、普通の人にはできない。)

天幕の陰から飛び出して一瞬で拘束された割に、縄を切って、起こした行動は、あまりにも鮮やかな手並みだった。

(多分だけど。彼の懇願に、リュートも少し懐柔されかけていた。私がそうだったように。)

当初、イザークに躊躇いを覚えたセリナでさえ、同情し同調しその心を痛めた。

イザークと会話をしたことのないはずのセリナの騎士でさえ、警戒から困惑の色に移り変わっていた。

「訓練を受けたアジャートの兵士より、遥かに優秀だということです。」

「イザーク本人は、ずいぶん自己評価が低いけれど。やはり、そうですよね。」

振り返って、冷静に考えればわかること。けれど、その時には、気づかない。

「……後で、調べてその理由がわかりました。同時に、身寄りのない哀れな少年を引き取ったエドワードの慈善行為が、果たして純粋な厚意だったのかどうかも疑わざるを得なくなってしまったけれど。」

疲れたような顔を覗かせた相手に、セリナは恐る恐る確認する。

「戦火で村を失って、家族も失ったと。それをエドが引き取った、のではないのですか。」

「間違ってはいません。ただの美談で収まらないのは、そこが、普通の村ではなく、戦闘員を育てる組織だったということです。」

「な。」

「物心もつかないうちに攫われてか、売られてか、集められた者たちは、当たり前のように戦いを学び、武器を扱う。そこから戦闘員や、暗殺者となる。彼のいたその村がどういう経緯で滅ぼされたのか、何かに巻き込まれたのか、意図的に壊滅させられたのか、わたくしにはわかりません。神殿が、どうしてその場所に慰問に訪れたのかも、今となってはわからない。戦火を受けた結果、近くの村落と一体化して見えたのかもしれないし、行程のついでや、偶然だったのかもしれませんが。」

一度、口を閉ざしたグレーティアの持つ扇がひらりと舞う。

「ただ、従僕の少年の能力の高さを、エドが知らなかったということはないでしょう。盾の聴取によれば、自分の片腕として、常に側に置いていたのだから。神殿では小姓、活動時には、世話役として。」

ほんの少し一緒にいただけのセリナでさえ、イザークが足手まといではないと思っていた。

「わたくしは、優秀だという自覚が本人に一片もないことを、恐ろしく思います。」

「……。」

「そう、刷り込まれているのではと。主がいなければ何の役にも立てない凡庸な人間だと、思い込まされて来たのではないかと思えて怖い。」

セリナに、ぞわりと言いようのない感情が沸き上がる。

(あの時、謁見の間の2階で感じたような、それと似ている。)

どこまでも理解できる正しさ。それなのに、拭いきれないそれへの違和感。

説明も、否定もできない。ただ、掴み切れない漠然とした不安が掠めるような違和感。

「そんな者が、強い信望を抱えたままでアジャートの内に居ることの脅威。」

「女神を挟めば、それを取り除けると? そんな確証は、どこにもなかったはずです。私が、協力するかどうかだって。」

「確信などありません。賭けでした。それに、協力してくれるかどうかより、会えるかどうかが大事でした。貴女が、力を使うのは無自覚で、お願いして使えるようなものではなさそうですし。」

グレーティアが手を頬に当てて、少し首を傾げる。

「は?」

「いかようにも処し難いあの少年の件で、頭を悩ませていた時、どこで聞きつけて来たのか、打てる手があるかもしれないと進言して来たのは、第3王子でした。」

「ルーイ?」

「ディア様なら、解呪できるかもしれないと。まぁ…、それならばと、お願いしたくとも、殿下は、ディア様をさっさと手放してしまっていましたけど。」

残っていても軍部が処遇に口出しして、煩わしかったでしょうから、あの時点では致し方なしとは言え、ねぇ?と、これまでとは違う種類の溜息を吐く。

「え、え? 解呪?ってなんですか。」

「詳細は聞いていませんが、実体験に基づくような口ぶりでしたから、そうなのでしょう。エドワードの言葉を解いたのが、貴女だったと。」

「解いた……私が?」

「王子殿下の言っていた通りね。きっと貴女は気づいていないだろう、と。それに。」

困惑するセリナを眺めてから、グレーティアは頬の手を下げる。

「先程、彼の言葉に飲まれかけたわたくしから、靄を払ったことにも気づいてはいない。」

呆れたように王太后は肩をすくめて見せる。

「推察するに、その力の行使に、然程意志を必要としないのでしょう。ラジエッタの見解に倣うのなら、わたくしに残っていたセンティスの魔力が、少し晴れたという感覚ね。ルードリッヒ王子の言っていたことを、少し理解できた気がするわ。」

セリナは、呆然と自分の手を眺めてみた。

「便宜上、解呪、という言い方をしましたけど、実態は不明です。ディア様には、センティスの魔法を、打消し・無効化するような力があるのだと、そうこちらが認識しているということです。」

(私が?)

瞳を瞬き、腑に落ちないままセリナがグレーティアに視線を戻すと、彼女がやれやれというような表情を浮かべた。

「ただ、ディア様自身にも、センティスの影響が及んでいたということなら、事はそう単純でもないのかもしれませんね。まぁ、ディア様がその辺りを調べたいのなら、こちらより魔法大国の方が適任でしょう。」

無効化、という言葉が、セリナの頭に引っかかる。

(それって、魔法防壁を通り抜けるのと同じ理由なのかな。)

むぅっと、知らず眉間に力が入る。

「ウルリヒーダ様もそうでした。」

「え?」

「センティスへの対応のために、フィルゼノンを頼ったのです。」

静かに告げられた台詞に、セリナは目を見張る。

「加護を受けた王子に喜んでくださったけれど、その魔法を制御しきれない上に、周囲に大きな影響を及ぼすことになった苦悩は計り知れません。」

ちらりとセリナに目を向け、その後ろに立つフィルゼノンの騎士にも視線を送る。

「魔法大国フィルゼノン、アカデミー時代の友人に。頼ったこともありました。」

セリナは、息をのむ。

「それは……。」

「アジャートにも、魔法使いは多くいますよ。けれど、賢者とまで行かなくとも、優秀な魔法使いを探す当てはそちらに向かう。実際、何名か紹介を頂いて、優れた者にも来てもらいました。」

グレーティアの扇が閉じる。

「ただ、思うようにはいかなかった。力及ばない者もいましたけれど、魔法使いたちの実力だけの問題ではなく、他の事情も重なり。両国の亀裂の一端にもなってしまって。」

悔恨。

グレーティアの表情が厳しくなる。

「亀裂…両国が、疎遠になった一因だと?」

「あぁ、ディア様がご存じないのも当然ですね。」

あまり軽々しく口にすべきではないのですが、と前置きして、彼女は端的な言葉を選んでそれを伝える。

「派遣された魔法使いが命を落とすことになって、それまで通りというのは難しい話。フィルゼノンからしても、不幸な事故という一言では片付けられはしないでしょう。」

「っ。」

「アジャートにも、一連の流れの中で、魔法大国との差を恨んだり憎んだり、そういう感情が生じてしまい。そうして、こじれてしまったものを、元に戻す術はありませんでした。」

眉を下げたセリナは、膝の上で拳を作る。

(喜びだと言っていたのに。)

我が子のその魔力を制御しようとして、でも、うまくいかなかった過去を。

そこで生じた感情、亀裂や歪みを。

(絡み合って、解けなくて。切るしかなかった縁を。)

「とにかく、良い方向へあの子の力を導くことは困難を極めたのです。結局、ラジエッタという魔法使いが、周囲に魔法効果の打消しをかけ続けるという方法で凌いで来ました。慕う者や志に共感した者たちへの解呪では、あの者にずいぶん苦労をかけたわ。」

「イザークにも。」

「一番頻回に、魔法をかけた相手でしょうね。けれど、ああなっては、もう解呪の範疇ではない。だって本心なのですもの。彼自身の『心』は、他人がどうこうできるものではなく、彼だけのものだから。」

「……。」

口を閉じたセリナを見て、グレーティアは天幕の入り口に目を向ける。

セリナから求められた事情の説明について、責任を果たしたと判じてのことだ。

「ディア様を巻き込んだこの件について、わたくしからは以上です。誠実に、できるだけ公正に。こちらの事情を説明したつもりです。」

グレーティアが、セリナを見つめる。

「すべてはディア様を信用してのこと。王家内部に関わることですので、これはここだけの話としてくださいませ。」

少し目を見開いたセリナは、ややあってから無言で頷く。

それを確認したグレーティアが立ち上がり、つられてセリナも席を立つ。

「あの、最後に1つ。イザークや銀の盾の処遇は、どうなりますか。」

「国家への逆心は重罪です。相応の償いをすることになるでしょう。」

「……。」

「それについては、わたくしが決定することではありませんので。」

ふ、とグレーティアが視線を落とす。

ややあってから、彼女は扇を広げた。

「ただ個人的な意見として、ディア様に申し上げるならば。先程の……お茶会が、実現できることを祈っております、とだけ。」

「グレーティア様。」

セリナがグレーティアを見つめると、さっさと顔を逸らされた。

「では、引き続き和平交渉の仲介役も、どうぞよろしくお願いいたします。」

グレーティアは、綺麗なお辞儀を残して身を翻す。

赤いドレスの裾が舞う。

侍女がそれに続き、セリナは頭を下げて彼女を見送った。



グレーティアたちが見えなくなってから、セリナは肩を落とした。

「……というようなことになりました。」

天幕の横にいた騎士姿の男を上目遣いに窺う。

「事情は理解した。」

外套のフードを外して、顔を見せたジオが苦笑を浮かべる。

気配を消して、同席していたフィルゼノン王。

セリナの後ろに立っていたリュートは、気が気でなかったようで、口を真一文字にしたままだ。

王太后が、指摘することはなかったが、本当に彼の存在に気づいていなかったかどうかはわからない。

彼女が、フィルゼノンの騎士に目を向けた時には、セリナの方が妙に焦ってしまった。

王太后が出て行ったからか、外が少し騒がしくなる。

天幕の入り口の様子を見てから、ジオはセリナに向き直った。

「少しは、安心できたか。」

「え?」

「さっきの少年について、引き渡したものの、身柄を心配していただろう。」

うん、とセリナは頷く。

イザークの怪我は決して軽くはない。本当なら動けるはずもないくらいなのだが。

「グレーティア様も、気にかけているみたいだったし。不当な扱いはないと思うから。」

休ませてあげて欲しい、と言ったものの、セリナの口出しは不要だったかもしれない。

エドワードの魔法が作用しているという、負い目があるからだろうか。

反逆の主犯に準ずるイザークの処遇でも、彼女は未来があることを口にした。

ならば、盾のメンバーたちも、今のままなら最悪の事態にはならないだろう。

「イザーク自身も、罪を償うことを望んでいるのならなおさら。」

「そうだな。」

ジオの同意を受けて、セリナは少し表情を緩めた。

「もしかして、ジオも心配してくれていたの?」

表情が変わらないままのジオと目が合って、数秒見つめ合う。

「いや、ごめ……。」

「いったい『何』についてだと思っているのやら。」

ジオが呟いた言葉は、小さすぎてセリナには聞き取れなかった。

ん?と首を傾げるセリナだったが、細められたサファイアの瞳にびくりと肩を揺らす。

「とりあえず。」

改めて出された声に、セリナは反射的に背筋を伸ばした。

「護衛の注意を無視して、刃物を持った相手に近づこうとするのは感心しない。2度としないでくれ。」

「は、はい。」

はぁ、と呆れたように、ジオがため息を吐く。

ごめんなさい、と謝りつつ、そっとリュートにも目を向ける。

「あ、で、でも。さすが、リュートね。あっという間に取り押さえちゃったでしょ。」

「いえ。あれは、相手にこちらへの敵意がなかったからです。」

それに、と言いかけて、リュートが首を振る。

「とにかく、先程のことについては、私も陛下と同意見です。」

両者から注意を受けて、セリナは冷や汗を流す。

「そ、それにしても! 和平交渉の前に、こんなことになるなんて、ねぇ。」

些か無理矢理気味に、セリナは話題を変える。

「ここでは、何かと想定外のことが起こるようにできているのかもな。」

独り言のようにジオがもらして、ちらりとラヴァリエの隊長を見やる。

うっと身を引いたリュートが、困惑気味に口を開いた。

「そのようであっては、困ります。」

どうやら、彼らは休戦時のことを思い出しているらしかった。

「和平の席に乱入されなかっただけ、マシか。茶会の件も、和平の前に、事情が判明したのは有難い。」

何か企みがあるのかと疑いながらの和平は、どちらにとってもマイナスだ。

フードを被り直して、ジオが歩き出す。

「開始時間が迫っているな。私は先に行くが、セリナは馬車で来い。」

「はい。」

こくこくとセリナは、頷く。

セリナが天幕の外に出る頃には、彼はメビウスロザードの騎士とともに、馬に乗って駆けて行くところだった。

グレーティアが乗って来たアジャートの馬車は、既にそこには見当たらず、セリナが移動するための馬車が天幕の前に回されて、扉が開いて準備されている。

「中央の天幕に両国の旗が掲げられたら、出発の合図です。」

説明に頷いてから、セリナは視線を上に向けた。



リュートは、遠ざかっていく王の影を見送り、さっき「それに」と言いかけたことを、そっと思い返す。

刃物が向けられていたのが、セリナではなく彼自身という状況だったから、動けたというのはある。

あれ以上、セリナが彼との距離を縮めれば、標的が切り替わった際の対応に遅れが生じかねない。危険だから2度としないで欲しいというのは、本心だ。

(それ以上に、陛下の言葉が大きい。)

昨夜、セリナの部屋の警護に戻ったリュートは、ジオラルドから呼び出された。

曰く、交渉の前後にアジャートからセリナに接触を図ろうとする者が現れるかもしれないが、相手がどうであれ一瞬の油断もするなと。

茶会の話も聞いていて、王太后あるいはその連れのことを言っているのかとも思ったが、あの兵士を見て、リュートは彼だと察した。

(飛び出して来るまで、一切こちらの警戒に引っかからなかった。)

正体は少年で、いつ倒れても不思議ではない顔色の悪さ。しかも、演技ではなく。

セリナとは親交があったようだし、事情を聞けば困惑してしまったのだが、セリナと王太后の話からしても、ジオの忠告は正しかった。

侮って対峙していい相手ではない。

正直、口布を外した手際も、拘束を解いて隠した短剣を取り出した機敏さも、後れを取ったのは間違いない。

アジャート側が、茶会に護衛の同席を許可していたのも、天幕での話し合いに多数の騎士を残したのも、つまり、不測の事態に備え万が一の時にはしっかり女神を守れ、と言いたかったのだろう。

(陛下の忠告は、どこまでわかった上でのことだったのか。)

見えなくなった影を追っていたリュートだったが、ゆっくりと頭を下げた。






フィルゼノン陣営に戻ったジオラルドを出迎えたのは、蒼白な顔をしたクルスだった。

席を外して戻って来ないジオが、アジャート王太后の訪問を受けた仲介者の天幕で、足止めを受けていることは伝わっていただろうが、状況に気を揉むのは当然だろう。

事情は後で知らせるとして、ジオは大臣たちから報告を受けつつ、身支度を整える。

アジャート側の旗が揚がったと、見張りの兵士からの伝達。

それは、交渉の天幕にアジャートの使節が入った合図である。

ジオは腰に佩いた剣を手に取る。

和平交渉の天幕に、武器は持ち込まない取り決めだ。

あの日。

玉座を前に、沸き起こる怒りを抱えて突き立てた剣は。

その刃を、憎しみの色に染めることなくこの手にある。

ふ、とメビウスロザードの隊長たるゼノと目があった。

彼もまた、複雑な心境を抱えているはずだが、その内は見せない。

「……。」

ジオは、侍従が差し出した台の上に、ゆっくりと剣を置く。

その場にいた者たちが、表情を引き締め、背筋を伸ばす。

ジオは顔を上げ、足を踏み出した。



空には、少し青空が覗いていた。




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