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黒の女神  作者: 紗月
大地の章
173/179

XI.交渉 81

81.



「セリナ様、ヴェールを。」

イサラに言われて、上げていたヴェールに手を伸ばすが、それより先にイサラがそれを整えた。

天幕の前に止まった馬車から、赤いドレスの女性が姿を見せる。

馬車の周囲には彼女自身の護衛らしき兵士たちと侍女の姿もある。

天幕の周りの騎士たちは、訝しがりながらも礼を失することができず、頭を垂れた。

広げた扇で口元を隠したその人は、コツリ、と靴音をさせて天幕に近づく。

(グレーティア様。)

見覚えのある堂々たる立ち姿。

セリナの姿を見つけると、彼女は扇を閉じて、優雅な礼を一度。

「突然の訪問というご無礼を、どうかお許しくださいませ。」

「グレーティア様、これはいったいどういうことなのでしょう。」

今の状況で、彼女に対峙できるのはセリナしかいない。

動揺を隠しきれないまま、セリナはなんとか平静を装おうと試みる。

「ご招待のあった茶会が、今からだというわけでもないでしょうし。ずいぶんと急なことですね。」

相手は扇をさっと広げて、口元を覆う。

「恐れ入ります、緊急事態でしたので。」

そう言いおいて、グレーティアは、すっと瞳を細めた。

「こちらに、アジャートから脱走した犯罪者が現れたとの急報があり、ディア様の身の安全を図りに参りました。」

いつの間に、という思いが浮かぶが、先程の騒ぎはアジャートの兵士の目にも入っているのだから、伝令に動いた兵士がいても不思議ではない。

「脱走……ですか。」

「中に。」

ひらりと扇が舞うように動き、天幕の中を示す。

「アジャートの者が、拘束されているはずです。彼は“銀の盾”の主要メンバーで、城の牢から脱走し、こちらの警備隊が追っていた者です。身柄をお渡しください。」

グレーティアの言葉を受けて、彼女の護衛たちが動きを見せる。

それに反応したラヴァリエの騎士たちが、入り口でそれを阻もうと身構えた。

(断定的な言い方。騒ぎを起こしたのが、イザークだと既に把握している。)

「グレーティア様ご自身が、直接お越しになるほど、ということなのでしょうか。」

「ディア様を巻き込んでしまったのです。出向かずには済ませられません、このことについては、改めて謝罪の上、償わせていただきます。」

セリナはグレーティアに向き直る。

「その者は、私に話があってやって来たと言っています。」

「耳を傾けるようなことではありませんわ。」

「そういうわけにはいきません。私に、と。ここまで来たことにも理由があるのでしょうから。」

グレーティアの眉が動く。

「恐ろしい事件を起こした一味の仲間です。話、などと言っても、危険すぎます。兵士にお任せください。」

「グレーティア様、ここはアジャートではないのですよ。」

「まさかフィルゼノンに引き渡せなどと、仰いませんよね。」

「ここは、フィルゼノンでもないのです。少なくとも、今私のいる『ここ』は。」

「……その者は、アジャートの民です。いくらディア様でも、引き渡すことを、拒む道理は通りません。」

「話を聞くと約束したので、それを違えることはできません。」

はいそうですかと、イザークの身柄を渡すわけにはいかない、とセリナは両手を握る。

けれど、予想に反して、グレーティアの態度はあっさりしていた。

「まぁ、そうですね。」

「え?」

「中立なる立場で、ここへお越しになっているディア様が、公平さをお持ちなのは至極当然のこと。『仲介者』をお願いしたのは、他ならぬわたくしでもありますから。」

セリナが驚いている内に、相手はつらつらと言葉を並べる。

「では、ディア様を尊重して、こちらも一時的に捕縛を猶予します。ただし、この和平から我々が帰路につく時までには、引き渡していただきます。」

「引き渡すかどうかは、話の内容次第です。」

「いいえ、ディア様はこちらに身柄をお引き渡しくださいますよ。」

断定的な発言に、セリナは眉をひそめる。

「……どうしてですか。」

「その者の主張をお聞きになったのち、わたしくもディア様に事情をお話いたしましょう。それとも、もう彼の話はお聞きになった後でしょうか。」

グレーティアは侍女を呼び、何かを小声で確認する。少し急いたように扇を振った。

「和平交渉の開始まで、あまり時間がありません。事は迅速に参りましょう。まだ、話を聞き終えていないのでしたら、お早く。」

「え、あの。」

「わたくしたちは、ここで待たせていただきます。」

セリナは、背後に立つイサラに視線を向ける。

戸惑ったようなイサラと目配せを交わし、セリナは天幕を出る前に、ジオから耳打ちされた台詞を口にした。

「お茶会に招待いただいたのは、このことが理由でしょうか。」

ぱたぱたと動かしていたグレーティアの扇が口元で止まり、彼女の瞳が、セリナを捕らえる。

しばらく間があってから、彼女が応えた。

「ディア様は、鈍感ではありませんのね。」

セリナは、再度イサラと視線を交わす。

大事な和平交渉を目前に、妙な事態になったと戸惑いながら。

「和平交渉の開始は、少し遅らせてもらいます。」

ちらりと、セリナは騎士に目配せを送る。

仲介者のセリナが出席しなければ、締結には至らない。

「事情を、お聞かせください。」

グレーティアは瞳を細め、扇を閉じてから後ろを見ないまま指先で護衛を呼びつける。

「こちらも陛下に伝言を。」

仲介者が交渉の席に着くまで待つように、と告げる。

それを見て、セリナはジオやクルスが言っていたことを思い出した。

(陛下や交渉団に指示を出せるってことは、グレーティア様自身も力を保持しているというのは確かみたい。)

交渉締結の表には出て来ないとしても。





ヴェールを被ったセリナと、扇で口元を隠したグレーティアが向かい合っている。

ただし、机を挟んで座った2人の間に、お茶の用意はなく、周囲を見張る騎士たちの存在もあって形容しがたい緊張感が漂っていた。

しかも天幕の片隅には、両側を騎士に挟まれて拘束されたままの当事者が同席している。

セリナやフィルゼノン側は、イザークを退席させようとしたのだが、どういうわけか、グレーティアもイザーク本人もこの場への同席を望んだ。

(和平交渉を目前に控えた、仲介役の天幕とは思えない光景。もはやお茶会という名目すらないのに、侍女が同席していることにも違和感。)

サーブするお茶もお菓子もないため、グレーティアの侍女もイサラも天幕の隅に控えている。グレーティアが自身の侍女を下がらせなかったため、イサラも席を外すことができず、外に出て行けなかったので居心地が悪そうだった。


「そこに拘束されている者が、逃げ出したのは医療棟から牢へ移送する間のことでした。兵士たちを殴り、追っ手を振り切り城外に。その後“銀の盾”に匿われていたのかどうかは不明ですが、行方も掴めませんでした。」

グレーティアは、ちらりと隅に座る逃走者を見る。

発言権のない彼は、白い布で猿轡をされている。

「ただし、彼の行先には心当たりがありました。向かうのは、ディア様のところだろうと。」

「なぜ私の元に来ると?」

「頼ると言うのか、縋ると言うのか。助けを請うなら、貴女以外にはいないでしょう。和平交渉の仲介者として、国境付近までやってくることを知っているので尚更。」

その情報をイザークが掴んでいると、確信している口振りだった。

「もちろん、こちらも脱走犯を捜索していました。和平の妨げになっては大変ですから、フィルゼノンに入る前に捕らえるつもりでしたが、結果はこの有様です。」

「私を仲介者として呼んだのは、イザークをおびき出すためということですか?」

「脱走者の目的に察しは付いていました。だから、この機会を利用しただけです。確保の目星がつけやすいでしょう?」

「当日までに捕まえられていたら、お茶会とは言い出さなかったというわけですね。」

「それは違います。できれば、彼を捕まえた状態で貴女とお会いしたかった。」

相手の返事に、セリナは思わず首を傾げてしまう。

「ディア様に仲介を依頼したのは、交渉の場に来てもらうためです。茶会はさらに面会を求める口実。」

「どういうことでしょうか、まだ何か私に望むことが?」

「彼との面会をお願いしようと。」

「グレーティア様、時間がないと言ったのはあなたです。言葉遊びのようなことは。」

言い募るセリナの言葉の途中で、グレーティアは静かに首を横に振った。

「いいえ、言葉通りなのです。ディア様。わたくしが、貴女に仲介役を依頼し、この地に呼んだのも、茶会を開くと言ったのも、すべてはそのため。」

「……。」

「その者を捕まえ、貴女に会わせるため。だからこそ、この場に同席させています。」

セリナは、イザークに目を向ける。

会話を聞いていた彼の表情にも、困惑が浮かんでいた。

「それは、イザークの主張を聞け……ということでしょうか。」

「あいにくですが、わたくしは具体的にその者の主張を知りません。」

話したことすらないですし、と付け加えられる。

「さっきは目的を知っていると……あ。」

「えぇ、ディア様に会って、女神にしかできない何かを嘆願するつもりだと。それだけわかれば十分でしょう。」

扇を開いて、グレーティアは顔半分を覆う。

「ディア様は、お聞きになったのですよね。わたくしも少し、考えてみたのですよ。そうまでして、何を望むか。自らの安全? 仲間の助命? 未遂の使命を果たすこと? いいえ。」

グレーティアの視線が僅かに横に逸れた。その先にいるのは、座り込んだ少年。

「そう、例えば『誰か』の名誉回復。」

セリナもグレーティアの視線の先を追う。

イザークが見ていたのは、グレーティアだ。その瞳には、炎が宿っている。

空気が一層張り詰める。

固まったような視線をはじめに崩したのは、グレーティアだった。

「まぁ、主張がなんであれ、叶えるものではありません。」

彼女の判断は、つまりアジャートの結論でもある。

思わず、イザークに視線を戻して、セリナは胸が痛んだ。

僅かな希望が潰えた少年は、傷ついたような、蒼白な顔をしていた。

視線を戻し、目の前の机を見つめて、セリナは膝の上に拳を作った。

「王城を襲撃した“銀の盾”の首謀者は。」

話を切り出したセリナは、その途中で一呼吸置く。

「ウルリヒーダ王に討たれて亡くなったと。彼から聞きました。」

「……えぇ。」

沈痛な面持ちでグレーティアが頷いた。

「助からなかったんですね……。」

「傷が深く。」

「残念です。」

セリナのその発言には、答えはなかった。


「あの日以降の、『エドワード』のことを教えてもらえますか。」


「それは。」

動揺の様子は見えなかった。けれど、グレーティアは、それきり黙り込んだ。

「王太后様、大丈夫ですか。」

ご無理なさらず、とグレーティアの側に膝をついたのは彼女自身が連れて来た侍女だった。

「ディア様におかれましては、ご存じないこと。ですが、エドワード殿下のことは、まだ口にするには悲しみが深くあらせられます。どうぞご容赦を。」

「……。」

窺うセリナに、グレーティアは広げた扇の裏で、侍女に何か耳打ちする。

「僭越ながら、王太后様に代わって御事情をお伝えさせていただきます。」

そして、侍女は、第1王子は事故に遭い、息を引き取ったのだと説明した。

たまたま王城へやって来ていた殿下は、銀の盾の襲撃と兵士たちの捕縛の場面に出くわし、その仲裁に割って入った。どちらかと言えば、襲撃者を庇う立ち位置で。

しかし、そこで運悪く爆発に巻き込まれてしまったのだと。

「ウルリヒーダ王陛下の崩御と重なり、あまりにも悲哀深く、受け入れがたいことにて。」

目頭を押さえながら説明している侍女を、セリナは愕然と見つめる。

(この人は、事情をどこまで知っているのかしら。)

本当は知っているのか、それとも何も聞かされていないのか。一見して、嘘をついているようには見えなかった。

セリナがグレーティアに顔を向けると、それに気づいたのか彼女が口を開いた。

「その前に、陛下に銀の盾を擁護する主張を行ったのだと、聞きました。」

それで尚更、王の不興を買ったのだと。彼女は憂いに満ちた瞳を伏せた。

「無許可で登城と謁見をした上、兵士の任務を妨げたこともあって、責任を問われる点があることは否めませんが、既に過ぎ去りしこと。今は、神殿で静かに眠っています。」

事態を知っている者たちからすれば、本当のことを公表もできないが、騒動に巻き込まれただけの被害者とすることもできなかったのだろう。

「それを事実として、通すつもりなのですね。」

セリナの言葉に、グレーティアは顔色一つ変えなかった。

事情は、イザークの言っていた通りのようだった。盾のリーダーの正体はうやむやのまま処理するつもりなのだ。


「そんなふうに事実を歪めて、無かったことにするおつもりですか!?」


天幕に響いた声はイザークのもので、どきっとしてセリナは、彼の方を振り返った。

いつの間にか口元の布が外れている。

「許しもなく、無礼な。」

不快そうにグレーティアがぽつりと呟く。

驚愕の表情を浮かべたラスティが、イザークを押さえ、外れた布を直そうとする。

「まぁ良い、せっかく同席させたのです。主張とやらを、聞きましょう。」

「グレーティア様。」

隣の侍女が心配そうに名を呼ぶが、グレーティアは下がるように扇を振った。

王太后の言葉に、ラスティは困惑を浮かべて布を持ったままその手を止めた。

「……外したままでいいわ。」

セリナが追加で許可を口にすると、ラスティは布から手をはずして頭を下げた。

「エドワード様は、アジャートのために尽力された御方。王族としての務めを果たそうとしていたのです。」

扇から覗く感情の読めない瞳が、イザークを見つめる。

「何が不満だというの。」

「エドワードの功績を、認めてください。どうか、お願いします。」

震える声で、絞り出すような懇願を口にしたイザークは、そのまま額を床に擦り付けた。

「『このまま』ならば、やがて折を見て王廟へ移すことも可能でしょう。」

その言葉に、セリナはグレーティアを見つめる。

彼女の瞳はイザークに向けられたままだ。

「お前の願いは、結果としてそれを許さない事態を招くとわかっているのか。」

淡々とした物言いに、返される声はない。

「自分の行動と発言の意味を、本当に理解していて?」

ビクッとイザークの体が揺れ、彼はさらに頭を低くした。

「わ、私のような者が、ディア様やこの場所でこんなことを願うことが、分不相応だというのは十分理解しています。けれど、このままではあまりにエドワード様が報われない…あの方のために、僕にできることが、これくらいしか思いつかないのです。」

少年の必死の言葉に、グレーティアは肩を揺らした。

ぐっと彼女の眉が寄り、扇を持つ手が震える。

何かを堪えるような間があって、彼女は顔を逸らした。

「ディア様は、あの者の主張を聞き入れるおつもりですか?」

問われたセリナは、イザークに目を向ける。彼の震えている背中に。

「……。」

「彼の言葉は、貴女にどう届いたのかしら。」

扇がぱちりと閉じられた。

心拍数の上がり始めた心臓を、知らずセリナは手で押さえる。

「グレーティア様。」

おずおずと視線を戻すと、射抜くような王太后の瞳が、セリナを見ていた。

「受諾が難しい要求ではありませんものね。」

「……。」

「なぜ、このような場を設けたのか。鈍感ではないディア様なら、わたくしが言いたいことがお分かりかしら。」

心臓を押さえていた手を、セリナはぎゅっと握る。

「なぜ、その者を連れてディア様に会おうと考えていたのか。ご理解いただけるのでは。」

言葉を発せないセリナから、視線を外してグレーティアは息を吐いた。


「お前の主張に対する答えをあげよう。」


イザークがゆっくりと顔を上げる。

「『銀の盾』の行ったことで、真に功績と呼べるものは1つもない。」

無慈悲に告げられる言葉に、少年の瞳が不安の色を見せる。

「市民組織の扇動、国政非難、王城の襲撃、国庫の破壊、食料の強奪、どれもただの犯罪行為。」

何か反論したそうに口を開いたイザークだったが、それをグレーティアの瞳が許さなかった。

「穀物の不作は国難、国の事業としての配給は既に計画されていたこと。この冬を越えるのが苦しい民がいることはわかっていた。あの日の暴動は、その計画を頓挫させかけただけ。」

「……。」

「実際、配給の予定は遅れ、駄目になった食糧の補填は間に合っていない。中枢の混乱は、各地にも広がり、民の生活へも波及した。銀の盾がしたことは、身勝手な正義で騒ぎを起こし、国を混乱に陥れただけだと気づくべきよ。」

「戦争回避は、結果的には……っ!」

「まさか、それを手柄だと?」

グレーティアは椅子から立ち上がり、扇を広げたまま少年を睥睨する。

「開戦について、こんな場所で、迂闊な発言は控えるべきでしょう。わたくしの考えや王の意図を説明する義理も、そなたを説得する理由もない。」

けれど、とグレーティアは一歩、イザークの方へ足を進める。

「わたくしは、その回避を目的とした一手が、今回のもので最善だったとは思えない。」

「私欲だと。」

「……。」

「此度の開戦は、女神に絡んだ私欲なのだと。エドワード様が言っていました。」

「そう、ですか。その真偽について、ここで議論するつもりはありません。」

「それを許せないと、そのために犠牲になる者を出したくないと。阻止しようとすることは間違いですか? どうして、どうしてあの方だけが、こんな扱いを受けるのですか。何もかも、無かったことのように……っ。」

憔悴した少年だが、瞳だけには強い光が宿っている。

その眼差しが、グレーティアに向けられる。

「己の責務と向き合おうとしたことが。非難されることでしょうか。中枢から遠ざけられ、倦厭されても。それでも、あの方は国を見ていました。」

「……己を認めて欲しいという、私情でしょう。」

「仮に。その思いが、どこかにあったとしても。そんなふうさせた原因は、少しもないとお考えですか。」

「……。」

「あの方の行いで、アジャートのためになったことは、本当に何もありませんか? 国のためにあんなに尽くされて来たのにっ。」

グレーティアの表情が僅かに歪む。

扇が口元を覆う。けれどこぼれた言葉までは覆い隠せなかった。

「そなたは、本当にあの子のことだけなのね。」

グレーティアが、ふらつき僅かに態勢を崩す。

「!」

座ったままだったセリナは、慌てて立ち上がるとその腕を支えた。

「っグレーティア様。」

侍女も慌てて彼女に寄り添う。

支えたセリナの手を、グレーティアが握る。

顔はイザークの方に向いたままで。

「その忠誠心で、わたくしを責めるのか。」

そう自虐するように呟いた。

「グレーティア様、椅子に。」

青ざめた相手を、セリナは先程まで自分が掛けていた椅子へと座らせる。

離そうとしたセリナの手を、グレーティアが握りしめた。

侍女はその足元にしゃがみこみ、おろおろと主の様子を窺う。

イサラが、グラスに水を注ぎテーブルへと運ぶ。


「女神様も、同じ考えですか。」


聞こえた少年の声に、セリナはグレーティアからイザークへと視線を移す。

視界の端で、リュートが警戒を深めて剣に手を伸ばしたのが見えた。

「何もかも、無かったことのようにしてしまうおつもりですか。」

問いかけるというよりは、独り言のようだった。

グレーティアの手を離し、セリナはイザークへと向き直る。

ぎらついた瞳に、息をのむ。

次の瞬間、イザークの行動は早かった。

「っ!?」

ラスティとジルドが取り押さえるよりも、先に。

「動かないで!」

声を上げたのは少年で。

いつの間にか拘束していた縄が切れており、その手に、短剣を握っていた。

ブーツに忍ばせていたらしい剣の、その刃先は、彼自身の首元にあった。

「女神様、お願いします。」

「イザークっ。」

「僕が差し出せるものは、もうこの命しかありません。嘆願のために、ここまで来ました。それが叶わないのなら、生きている理由もない。」

彼自身に剣先が向いているため、咄嗟に警戒態勢をとったセリナの騎士もグレーティアの護衛も剣を抜けないままその場で彼を注視している。

膝をついたままのイザークの元へ、セリナは一歩近づく。

セリナ様、と鋭く諫めるリュートの声がした。

「それを下ろして。」

イザークは首を振る。

「僕の願いを叶えてくれますか?」

「イザーク。」

「それを果たす力もないなら、エドワード様と同じ場所へ行かせてください。」


「同じ世界を、隣で見ると約束したのです。」


ぐっと、息が詰まりそうになった。

知っている。

セリナは、その場面を見ていた。

彼は、こんなにもエドのことを想っている。彼の全てと言えるほどの存在。

(あぁ、こんなにも苦しい。)

胸が締め付けられて、心が痛む。彼の願いを受諾するのは、そう難しいことではない。

グレーティアがそう言ったように。

「どうか、願いを聞き入れてください!」

悲鳴のように願いを叫んで、イザークの剣は彼の首筋を走った。

「やめ…ッ!」

制止するセリナよりも、先に動いたのは彼女の護衛騎士だった。

息をのむ間に、リュート=エリティスはイザークの手から短剣を弾き落とし、その体を背後から床に抑え込んだ。

「く、っ!」

呻き声をあげる兵士を横目に、落ちた短剣をラスティが急いで回収する。

「リュート!」

セリナの声に、リュートは制圧態勢を解き、イザークの半身を起こして、腕を後ろに回させた拘束に切り替えた。

リュートの対応に、セリナはほっと息をつく。

騎士は、渋い顔をしていたが。

セリナは、一度呼吸を整える。

目を伏せ、それからゆっくりと少年に視線を向けた。

「イザーク。」

さらに近づいて、セリナは彼の前に膝をつく。目線の高さが同じになる。

ラヴァリエの騎士たちが、剣の柄を握る手に力をいれた。

「あなたが見るのよ。アジャートの行く末を。その目で。」

「……僕は、罪人です。そんな資格はありません。」

セリナは、ヴェールを上げてイザークの顔を覗き込む。

「望みが叶っても叶わなくても、死ぬつもりだったの?」

問いに返事はなかった。

イザークの首元に、血が滲んでいる。刃が、少し掠ったようだった。

あ、と小さく口を動かして自分のドレスを探っていると、セリナの目の前に白いハンカチが差し出された。

「ありがとう、リュート。」

片手で拘束を保ち、器用に自身のそれを取り出して渡してくれたらしい。

苦悩に満ちた、暗いイザークの瞳。

セリナは、ハンカチをそっと彼の傷口に当てた。

びくり、と不自然なほどに少年の体が揺れた。

「ねぇ、イザーク。教えて。」


「その方法を選ぶのは、正しいこと?」


「何を……。」

「あなたが自分の命を盾に、要求を押し通そうとした行為は。」

「女神、さま。」

「あなたの考える正義に反することではないと。」

首元に触れた指先から、鼓動を感じる。

「胸を張って言える?」

「ぼ、僕の頭では、こんな方法しか……。」

唇がわななき、少年の視線がさまよう。

「彼を悼み、彼のことを思うイザークに、できることは本当にこれしかない?」

「……。」

「あなたがいなくなったら、誰がエドワードのことを語るの。」

「え……?」

「私は。」

目が合う。それは、まだ不安に揺れていた。

「あなたにはまだ。生きてエドのためにできることがあると思う。」

拘束を免れたイザークの左腕が、持ち上げられ、けれど宙を掻いて落ちる。

伸ばしたセリナの手が、その腕を捉える。

「私は、イザークに生きて欲しいよ。」

「あ、あ……。僕は、ただ。」

がくがくと、イザークが激しい動揺を見せる。

悪かった顔色が、さらに色を失って、気の毒なほどだ。

「ただ、エドワード様のことが。」

セリナは真っ直ぐに、イザークの怯えている瞳を見つめる。

「えぇ、エドのことがとても大切だったのね。」

「だ、から……そん、な、僕だけなんて、だめです。違う…。」

ふるふると首を力なく振る。

「だって、そう。あの方の行為は、ただの犯罪なんかじゃ……。」

同意を求めて、イザークが縋るような眼差しでセリナを見上げる。

「国王陛下も王妃様もっ、実の両親なのに、どうしてエドワード様のことをあんなふうに遠ざけてしまわれたのですか。」

彼は勢い込んでそう言った後、急にがっくりと項垂れる。

「とても寂しそうでした。それでも、エドワード様は民のために尽力していたんです。」

イザークの訴えに、セリナは小さく頷く。

「イザーク、あなたが彼のことを思う気持ちは痛いほど伝わっているわ。そして、グレーティア様もまた、同じくらいエドのことを思っている。」

「……っ。」

「あなたが望んだのとは違う方法かもしれないけれど、グレーティア様の選んだ道も、エドを大切に思うからこそなのだと。」

イザークの手を包み込んで、セリナは少し表情を緩めた。

のろのろと、イザークの視線がグレーティアに向けられる。

椅子に座ったままの彼女は、その視線を受けて扇を広げた。

「グレーティア様。」

セリナが呼ぶと、視線を逸らして彼女は息を吐いた。

「わたくしから、大切な子を奪うつもりがないのなら、理解してもらえるでしょう。」

反逆者として名を遺すのか、第1王子として系譜に葬り去られるのか。

“銀の盾”の首謀者は、アジャート王に討たれたため、国王殺害の罪を負っていない。

ただ正体が明らかになれば、父である王への謀反として、王族の系譜から外されるのは避けようがない。国王が崩御した結果からも、逃れられるものではないだろう。

あぁ、と震える小さな声が、セリナの耳に届いた。

「そう、なのですか? そう…だったのですね。」

張り詰めていたものが切れるように、イザークの体から力が抜ける。

「エドワード様は、ちゃんと大事に思われていた。」

少年の瞳が潤む。

腕の拘束が緩んで、イザークは、深く深く頭を下げ、その額を床に落とし。

「この浅はかな行いの罰は、いかようにもお受けします。」

そう静かに呟いた。

グレーティアは、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

「重ねた罪は重い。しかと覚悟なさい。」

コツリ、と靴音をさせて、セリナの隣に立つ。

扇を広げ、地に伏す少年を見おろして。

グレーティアは、そっと言葉を落とした。

「ただし。あの子のためにここまで尽くしてくれたことには、母として礼を言います。イザーク=ユーバイト。」

イザークの肩が、一度びくりと大きく揺れた。

その背にそっと手を乗せてから、セリナは立ち上がる。

「彼には、休息が必要です。せめて、帰路に着くまでの間だけでも、どこかで休ませてあげてください。」

セリナの言葉に、グレーティアは無言で頷く。

兵士を指先で呼びつけると、グレーティアはイザークを連れて行くよう指示する。

小さく、「ラジエッタの馬車に」と言うのが聞こえた。

ラスティとジルドが、後ろに下がって身柄を引き渡す。

立ち上がったイザークが、セリナの前で足を止めた。

「僕の勝手な願いに、巻き込んでしまって申し訳ありませんでした。」

セリナは首を振る。

「いつか。」

イザークの脱力した手を取り、そっと握る。

「いつかまた会う時には、イザークが淹れたお茶を飲ませてくれる?」

はっとしたように顔を上げ、彼は表情を歪ませた。

「……ぃ、…ッはい! いつか。」

イザークが眉を下げて、唇をかみしめる。

腕を兵士に取られたイザークは、頭を下げた。



「ありがとう…ございます。ディア様。」




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