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黒の女神  作者: 紗月
大地の章
172/179

XI.交渉 80

80.



雲に覆われた空は、低く暗い。

空を仰いでいたセリナは、ほぅと息を吐いた。

雨は降っていないが、空気は湿って重たい。

今朝は、砦の中も交渉を控えた者たちの緊張が伝わるのか、少し息苦しい気がした。

あるいは、セリナ自身の緊張がそう思わせるのだろうか。

砦の西門に用意されていた馬車で、セリナたちは国境付近へと移動して来ていた。

北へと目を向ければ、左右に両国の天幕と、その間に立つ大きな白い天幕を見えた。一段高く作られた中央の天幕が、交渉の行われる場所だ。

セリナの乗った馬車が向かうのは、それらの天幕からは少し離れた場所。

他の天幕が、アリオン川に架かる橋へと続く街道の北側に立っているのに対して、女神の天幕が街道の南にあるのは、仲介者の中立性を示すためらしい。

白い天幕を真ん中に、フィルゼノン・アジャート・仲介者の天幕が逆二等辺三角形になるような位置関係だった。

街道から南に逸れる前に、馬車が動きを止める。

何があったのか、とセリナが声を出す前に、リュートが顔を見せた。

「失礼いたします。」

扉が開かれ、ここで降りるのだろうかと目を瞬くセリナを余所に、1人の男が現れる。

「え!?」

騎士の外套を纏い、フードを目深に被っている相手が、ちらりと顔を覗かせ、口元に人差し指を立てた。

見えたサファイアの瞳に、慌ててセリナは自分の口を押える。

さっと彼が馬車に乗り込むと、扉が閉められ、何事もなかったかのように再び車輪が動き始めた。

「突然で驚かせたな、人目を避けて話ができるような場所があまりないので、移動中の馬車を借りた。」

馬車の全ての窓にレースカーテンが引かれているのを確認してから、彼は外套を外した。

顔を見せたのはジオラルドだ。

「交渉前の接触をアジャートに知られて、変な勘繰りをされても困るからな。」

「何かあったの? ジオ自身がこんなこと。」

なんとなく周囲を警戒してしまい、セリナは小声で問う。

「時間がないから、手短に話す。これを。」

そう言って、ジオが白い封筒を取り出してセリナに差し出す。

「手紙……?」

受け取りながら、セリナは宛名が自分であることと、裏にアジャートの紋章があることを確認する。

一度、ジオに視線を向けるが、無言で開けるよう促された。

封の切られていないそれを開けた中にあった手紙は、装飾語を読み飛ばせば、セリナにもおおまかな内容が判読できる文章だった。

「昨夜、フィルゼノン陣営に届けられた物だ。」

差出人は、アジャート前王妃グレーティア。

和平締結後に、セリナを茶会へ招待したい。仲介者を引き受けていただいた礼を直接伝えたい、という内容だった。

「その招待状と一緒に、フィルゼノン側にも、女神を茶会に招きたいので手紙を送るという趣旨の書簡が届いている。」

セリナの手元にある手紙をジオが一瞥する。

「内容に偽りはないようだな。ついでに、向こうから“女神”の護衛騎士の同席も構わないと言って来ている。」

手紙とジオを交互に見て、セリナは眉を下げる。

(仲介役のことだけでも、疑問なのに。さらにお茶会、って。いったいどういう意図で。)

「和平後ということは、交渉に関する企みには関係ない?」

セリナの問いに、ジオはさぁ、と呟いて、腕を組む。

「届いたのは直前だが、思い付きで送って来たわけではないだろう。」

(お礼のためだけとは、考えにくい…よね。)

項垂れつつ手紙の文面を眺めるセリナの頭上に、ジオの声が降って来る。

「違和感があると、昨日言っていただろう。」

「えぇ。」

「彼女が、セリナに会いたがるような理由に、何か心当たりは?」

「……。」

「なんでもいい、思いつくような事柄はないか?」

わざわざジオ本人が、こうしてやって来たのは、これを聞くためだったのだろう。

記憶を辿って、セリナは眉を寄せる。

「最後に別れた、あの時……多分王妃様は、私の処遇も行先も、興味はなかったと思うの。邪魔にならないのなら、構わないというくらいで、後はどうとでも、というか。」

セリナのことどころではなかったという状況でもあったが、捕まえろとも逃がせとも言わず、ただ後をルーイに任せた。

結果、ルーイは、セリナを城から出すという判断を下したが、今になってグレーティアに、セリナへの用事ができたのだろうか。

「新王が本当は和平に否定的で、交渉が上手くいかないかもと思っている、とか?」

「決裂したら、女神に仲裁させようと?」

「交渉後、なら。保険をかけるというか。」

「即位したばかりの王が、これだけ整えられた交渉を一存でひっくり返すのは、現実的ではないな。仮にそうだとしても、セリナを頼るより、自分たちの方が説得できる力を持っているだろう。」

ジオの言葉に、セリナは思わず唸った。

セリナを引っ張り出したのは、彼女だから、むしろこの招待は『やはり』というべきなのだろう。

(締結後、ということは。やっぱり仲介者はただの口実で、和平交渉とは別の狙いがあると考えるべき?)

きゅっと手紙を握る手に力を籠める。

「仲介のことは建前で、本当は茶会の席に呼び出すことが目的、だったとか?」

「女神と接触する機会が欲しいなら、手順としては妥当か。」

ちらりとセリナを見て、ジオは僅かに険しい表情を覗かせた。

「どちらにせよ、向こうの意図は不明だな。」

ジオがひとり言のようにぽつりと呟く。

(王妃様と会う機会がある、なら。私も、聞きたいことがある。)

セリナも彼女との接触は望むところだ。

顔を上げて、前に座るジオに視線を向けた。

「話を聞けば、あちらの意図もわかるよね。」

「……。」

「アジャートから仲介者への謝意を、受け取らないって態度も良くはないだろうし。」

「……。」

同意を求めての台詞なのだが、向かいの人物からの返事はない。

「会ってみようと…思う、のですけれども。」

えぇと、と窺うようにジオを見つめると、視線を先に逸らしたのはジオだった。

こめかみの辺りに親指を当てて、手の平で顔を覆う。

ため息でも聞こえてきそうな態度だったが、次に姿勢を正したジオが出した声は穏やかだった。

「女神が招待を受けると、そうアジャート側に返事を出しておこう。」

「はい。」

セリナの返事に、一度頷いて、ジオが馬車の扉を叩く。

気付けばいつの間にか馬車は止まっていて、すぐに外から騎士の手によって扉が開かれた。

中の話が終わるまで、待っていたようだ。

外套を被ってから先に降りたジオが、セリナに手を差し出す。

その手を借りて地面に足をつければ、握っていた手にぐっと力が入って、思わずセリナはジオを見上げた。

真剣なサファイアの瞳が、セリナを見ていた。

「必ず、騎士を連れて行け。」

セリナは目を瞬いて、やや遅れて急いで首を縦に振った。

着いた天幕の周囲には、ラヴァリエの騎士たちがいる。

離れたところには、両国の兵士の姿があった。先に聞いていた話では、兵士たちは一応どちらもセリナの護衛なのだが、任務としては仲介者に取り入るような変な真似をしないように互いに牽制し合うのが主たる目的らしい。

「ジオは、またこの馬車で戻るの?」

「いや、騎士に紛れて戻る。」

そのための外套なのだろうか。

「意外と大胆なのね。」

「これだけ周りに騎士や兵士がいるから、かえって目立たない。」

「なるほど。」

馬車が脇に移動するのと入れ替わるように、馬が用意される。その馬を引いているのは、メビウスロザードの近衛騎士で、セリナはさすが、と舌を巻いた。

「じゃぁ、また後で。」

と言いながら、セリナはその馬を横目に、ジオに向き直る。

その時だった。


「何者だ!」

リュートの鋭い声が響いた。

オリーブ色の軍服に、同じ色の外套を着た男が、天幕の陰から飛び出して来た。

元々、天幕の近くにいたアジャートの兵士だった。

割り込むように前に出たジオの背中で、すぐにセリナの視界が遮られる。

「動くな!」

飛び出して来た兵士は、セリナに近づくより前に、リュートによって地面に倒され、その動きを封じられていた。

「ナクシリア、ネーゲル!」

近くにいたラスティとハウルが、同時に反応しリュートに代わって、兵士を拘束する。

「おとなしくしろ!」

地面に押さえつけられたままの態勢で、兵士が切羽詰まった声を上げた。

「女神様!!」

顔だけを前に向けて、相手はセリナを呼ぶ。

「お願い、します。女神様!」

ジオの背中に庇われたまま、顔を出したセリナは、相手と目が合って、息をのんだ。

向きを変えたジオが、セリナの視界を遮るように身を屈めて小声で囁く。

「セリナ、天幕へ入れ。」

はっとして、セリナはジオの腕に手を置く。

「待って。」

訝し気なジオの視線を受けながら、セリナは戸惑いながら口を開く。

「知っている人なの、だから。その。」

兵士に向けていた視線を逸らし、セリナはジオを見上げる。

「……。」

ジオが探るようにセリナと兵士を見た。

「どうか、話を。お願いしますっ。」

絞り出すような声にも、リュートの警戒は緩まず、ハウルとラスティも彼の拘束を解かない。

「ジオ。」

この状況をどうすればいいのだろうかと、眉尻を下げたセリナを助けたのは、ジオだった。

「隊長、騒ぎは避けたい。」

「御……、承知いたしました。」

素性を隠しているジオに、簡素な敬礼で応じてからリュートは、部下に向き直る。

「ハウル、周囲の動揺を収めろ、騒ぎを大きくさせるな。ラスティ、その兵士を連れて来い。」

隊長からの短い指示に、騎士たちは敬礼を見せる。

ジオは、セリナの背中を押して、天幕へと誘導する。

ざわつく周囲だったが、集まり始めた兵士たちはすぐに追い払われていく。

「ジルド、外を頼む。」

リュートは、副隊長に声を掛けてから天幕へと続き、天幕の前にいたイサラは、彼らが中に入った後で、入り口の幕を閉じた。



おどおどしながら、セリナは隣に立っている外套を被ったジオを見上げる。

「えと、話…聞いた方がいいのかなって、思ったんだけど。」

無表情の相手は、小さく頷くと視線をセリナから逸らして、ラヴァリエの騎士に目配せを送った。

リュートがセリナの隣に立つのに代わって、彼は天幕の端へ移動してしまう。

出て行かずにこの場に留まったのを見て、セリナは胸を撫で下ろす。

(好きにしろってことかな。)

「リュート。あの……。」

「知り合い、と言われましたが。拘束はさせていただく。」

リュートの硬い表情を見て、セリナは素直に頷く。

縄で後ろ手に縛られた兵士は、ラスティに連れられ、おとなしく天幕の入り口付近に膝をついた。剣の柄に手を置いたままラスティは、男の斜め後ろに立つ。

兵士は頭を下げて、話を聞いて欲しいと何度もそう繰り返す。

彼は顔色が悪く、やつれていた。

近づこうとして、リュートに止められてしまったので、セリナはそこでしゃがみ込んだ。

「こんなふうに会えるなんて、思っていなかったから…驚いたわ。でも、とにかく、あなたが生きていて良かった。イザーク。」

「っ……。」

少年は声を詰まらせて、首を振った。

セリナは、ジオを見てから、リュートに視線を向ける。

「彼は、イザーク=ユーバイト。アジャートで“銀の盾”という組織にいた者よ。あちらにいる時に、一緒に行動を。」

リュートが無言で頷く。

「ひどいケガを、していたはずだけど、大丈夫なの? それに、その格好は。」

「この格好は、兵士に紛れるために。交渉団の一行に混ざって、ここまで来ました。女神様に、どうしてもお会いしたくて。」

「私に会うために、危険を冒してこんなことを?」

必死さが瞳にあふれているが、それより憔悴した様子が強い。

「イザーク。顔色が悪いわ、話より先に休んだ方がいい。」

そう告げると、イザークは激しく首を振った。

「僕のことなど、どうでもいいんです。お願いします。話を。どうか、話を。」

「落ち着いて。話は聞くわ。ちゃんと、後で時間を取るから。」

「だめなんです、それでは意味がない。」

「え?」

「和平が……和平締結が、正しく行われるよう、女神様にお願いに来たのですから!」

絞り出すような叫び。

天幕に刹那の静寂が落ちる。

セリナは、外套を被ったままのジオに視線を向ける。

無言のままの彼が、何を思っているのかはわからない。

(ジオがここにいる間は、和平交渉が始まることはないけど。)

「イザーク、それは。」

どういう意味かと尋ねかけたが、セリナはそれを途中で止めた。

黙ったセリナに代わって、リュートが静かな声を出した。

「和平交渉を前にしてこのような真似、協議を邪魔したいのだと思われても仕方のない行動に見えるのだが。」

「ち、違います。和平は成されるべきものです。」

首を振る兵士に、リュートは眉を寄せた。

後ろ手に縛られ、土下座のような格好の兵士は、泣きそうな顔をしていた。

「女神様にしか、お願いできないのです。」

じっと、セリナは項垂れたイザークを見つめる。

「……わかったわ。話を、聞かせてくれる?」

そう告げると、イザークは弾かれたように、膝をついた姿勢のまま顔を上げた。

「はい!」


少年の瞳には、光が宿っていた。





***



アジャート王と交戦した後、エドワードとの会話を最後に、気を失ったイザークが、目を覚ましたのは硬い寝台の上だった。

負った傷の手当てがされていたが、同時に手錠で拘束もされていたので、捕まったのだと

理解した。

あの後どうなったのかを、牢の檻越しに教えてくれたのは、ラジエッタという青年だった。

彼は、オルフの神殿でエドやイザークとともに過ごしていた人物だ。

エドが王都ヴァルエンからオルフの神殿に移ることになった際に、一緒について行った数少ない同行者の1人である。

“銀の盾”そのものに関与はせず、第一王子の不在をごまかしたり、神殿の仕事を肩代わりしたりといった役回りを請け負っていた。

一連の騒動を受け、彼も今はオルフを去り、王城で軟禁状態に置かれているが、一度だけイザークとの面会が許されたのだという。


「それで、エドワード様がアジャート王の撃ったキール・バーダによって命を落としたことを知りました。」


そう告げると、目の前にいた女神の顔が蒼白になった。

横にいた騎士に促され、目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた彼女は近くにあった椅子に移動する。

その結末を、知らなかったのだろうか。

それも仕方のないことだ、とイザークは思う。

「交渉団に紛れて兵士の噂を聞く限り、事実は歪曲して公表されています。」

女神からの訝しげな視線を受けて、イザークは視線を落とした。

「城を襲撃した“銀の盾”のリーダーは、城内まで侵入。謁見の間で、ウルリヒーダ王をも襲って国内の混乱を招こうとしたが、王によって討伐された、と。そんなふうに公表しながら、そのリーダーの正体は、一切明らかにしていないのです。」

反乱分子を制圧した王は、その傷が元で命を落とした。

本来ならば、その正体は徹底的に暴かれ、弾圧され、罪を問われる。だが、既に首謀者が王自身によって討たれており、襲撃者たちはその大部分が捕らえられて牢の中にいる。

他国の仕業なら糾弾もするだろうが、彼らは自国の民であり、さらに、その民たちを先導して煽った人物の正体を上層部は知っている。

だからこそ、公表しようのないソレを黙殺することにしたのだろう。

「ラジエッタの話では、エドワード様の死は、事故によるものとして、扱われたとのことでした。ただし、王家の墓所ではなく、オルフの神殿に埋葬されたと。数日後にウルリヒーダ王が逝去されて、そちらの葬儀の陰に隠れるように、エドワード様の死は、言葉通りひっそりと葬られたのだと。」

そう、だったのね、と小さな呟きが降って来た。

伏し目がちの黒曜石に、悼む色が浮かんでいた。

「僕は、なぜっ僕だけが生きながらえてしまったのか、と。」

深い後悔と先の見えない絶望。孤独。

向けられた女神の視線と交差する。そこで交わされた感情は『痛みの共感』。

「けれど、何をどうすればいいのかもわからなくて、ただこのまま牢の中で、裁きを待つだけなのだろうと。そう思っていました。けど。」

イザークは床に視線を落とす。

「聞いてしまったんです。あの後、あの方たちが何をしたのか。」

あの方?と小さな呟きが聞こえたが、それに答えず先を続ける。

「フィルゼノンに向けていた軍を引き上げて、何食わぬ顔で彼らを各地に派遣したそうです。そして、新王の名の下、国庫を開放し、民に配給を行った。」

「それって。」

「エドワード様が、“銀の盾”が、やろうとしていたことです。あの日、彼らが命がけで起こした行動を咎めて、捕らえたのに。それを、自分たちの功績のようにっ。」

冷静に伝えようと思うのに、どうしても悔しさが滲む。

下唇を噛んで、イザークは一呼吸置く。

「兵を派遣したのは、食糧が小さな集落にまで届くように、領主を経由して搾取が起こらないようにするためだと、説明されていたそうですが、本当は“盾”の仲間を探し出すためです。開戦のために東方に展開しようとしていた軍を、まるで初めから民の救済が目的だったかのように、利用して。彼らは、嘘ばかりです!」

額を床に落として、言葉を絞り出す。

「その上、今度は和平の話まで。」

女神が、息をのんだのが気配でわかった。

「女神様はご存じのはずですよね。この話、初めに言い出したのは、エドワード様です。武力ではなく、話し合いの道をと。アジャートは、エドワード様のやろうとしていたことを、横から奪っているんです。それに、彼らがやっていることは、民を思っての行為じゃありません。すべては新王の人気取り、求心力を高めるため。」

イザークは、拘束された両手を強く握りしめる。

「しかも、一連の行動を主導しているのが、実の母親だなんて、あんまりだと思いませんか。」

ゆるりと顔を上げ、前に座る少女を見つめる。

「僕は、あの方の名誉を回復させたい。エドワード様がどれだけアジャートの国のために働いていたのかを、このまま埋もれさせたくないんです。」

「イザーク。」

女神の瞳にあるのは、同情と共感。

隣の騎士が浮かべていた警戒は薄くなり、戸惑いが強くなっていた。

「和平締結に。『公』に名が遺らないとしても、仕方ないのかもしれません。けれど、あの方が、その存在が、こんなふうに国に黙殺されるのは、あまりにも惨い。

お願いします。国を平和にしたいと望んだエドワード様の心を。せめて、この和平における、エドワード様の功績を正しく認めていただきたいのです。どうかっ。」

どうかお願いします、とイザークは、頭を下げた。

それを成せるのは目の前の少女の他には思いつかない。

願いを叶えることのできる人物に、一縷の望みを託して、彼はここまでやって来たのだ。

何かが変わることはないかもしれない。

けれど、たった一言だけでもいい。

「一言だけでも、エドワード様が行おうとしていたことを、平和のために行動していた事実を、皆に伝えてもらえはしないでしょうか。」

平和のために命を懸けた人物のことを、まるでなかったことのように、消し去ってしまわないで欲しい。

「和平を締結する席で、どうか両国に。」

天幕の中に沈黙が落ちる。

しばらくして、すっと小さく息を吸う音が耳に届いた。

「イザークの願いはわかったわ。そのために、危険を冒してフィルゼノンまで来たのね。」

かみしめるような、穏やかな女神の声音。

「自分のことを顧みず、ただエドのために。」

イザークは、ゆっくりと地面に伏せていた顔を上げる。

その先に座る女神の表情を捉えるより早く、天幕の外から慌てた様子の騎士の声が聞こえた。

「お取込み中失礼します! 馬車が、アジャートの馬車がこちらに向かって来ます。」


「アジャート王太后の馬車です!」


ぎょっとしたような顔で、女神が椅子から立ち上がる。

イザークと騎士たちに何度か視線を向けた後、彼女はきゅっと唇を引き結んだ。

碧の瞳の騎士がすぐさま彼女の手を取り、天幕の入り口への移動を助ける。

それを視線で追いかけるが、その場から動くことはしない。イザークのすぐ後ろに立つ騎士の注意が、一瞬たりとも自分から離れることがなかったからだ。

天幕の隅にいた外套を目深に被った騎士と、女神が何か言葉を交わし、耳打ちされた言葉に女神が頷く。

(? あぁ、隣の騎士ではなく、あちらがここの指揮官なのか?)

女神の手を取っている隊長らしき騎士とフードの相手との微妙な雰囲気の違いを感じて、イザークはそう推測する。

「ジルド、中に。」

騎士に呼ばれて、同じ隊服を着た別の騎士が現れ、彼ら3人が出て行くのと入れ替わりに天幕に足を踏み入れた。

残る騎士が1人になるため、監視役の追加ということなのだろう。

イザークは視線を目の前の床に落として、静かに項垂れた。ここで暴れるつもりはない。

(グレーティア様が来た。)

好機の訪れを、イザークは神に感謝した。







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