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黒の女神  作者: 紗月
大地の章
150/179

Ⅷ.境界線 58

58.



グランディーン城から王都を走り抜けたリュートだったが、強い雨に眉を寄せ、馬の手綱を引いた。

木々の生い茂る小道を抜けて、王都ヴァルエンのはずれに建つ寂れた家で馬を下りた。

陽が落ち、辺りが暗くなっても家の灯りは付けず、リュートは暖炉に火を熾す。

「少し借りていた場所です。ここなら、まず人は来ません。」

セリナを暖炉の前に誘導し、その肩から外套を外す。

「冷えたでしょうから、火の近くに。この天気では、明日も雨の中を移動することになるかもしれません。この先休める場所を確保できるかわからないので、少しだけでも休息を。」

外套を広げて干し、自分の外套も雨を払う。

屋根のある場所に立ってセリナも気づく。

泥で汚れ、雨に濡れたドレスの裾と靴下が足元から体温を奪っていくことを。

リュートの気遣いで暖炉の前に立ったセリナは、改めて騎士を見つめた。

濃い灰色の外套を脱いだリュートは、薄茶色のシャツに黒いベストとズボンという見慣れない服装だった。

(ラヴァリエの制服じゃないのは、初めて。)

よく見れば、無精ひげも生えている。

「リュート。」

「はい?」

毛布のような物を片手に振り向いた相手は、薄暗い部屋の中でもよく知る人物に違いはなくて、安心感が湧き上がる。

「本物?」

そうだとわかりつつも問えば、相手に困ったような表情を浮かべさせてしまった。

「違うの、まさかあそこでリュートに会える…って…思ってな……。」

説明しようと先を続けたが、途中で思いがけず言葉が詰まってしまい、セリナは自分の口を押さえる。

「セリナ様。」

セリナの右手を取り、騎士が彼女の前に膝を付く。

「リュ…?」

「大事な時に、お側に付いておらず申し訳ありませんでした。」

手の甲に付けるように額を垂れたリュートは、絞り出すような声を出した。

はっとして、セリナはしゃがみ込み、リュートの手を握る。

そんなこと必要ない、と首を振れば、騎士は眉を下げた。

「できることなら、もっと早くお迎えに上がりたかった。」

握り返すリュートの手に力がこもる。

「リュートが今いてくれて、とても心強いよ。」

そう言ってセリナは笑ったのだが、リュートの表情は曇ったままだった。

「……やはり身体が冷えていますね。もう少し火の側へ。」

ソファを暖炉に近づけるように動かしたリュートは、セリナを座らせる。

膝の上に掛けられた毛布を握りながら、セリナは一呼吸おいてようやく疑問を口にする。

「どうやってグランディーン城に?」

「手引きしてくれる者がいたおかげです。この空き家も、その者が用意したようです。」

推量の言葉に、セリナが首を傾げると、リュートが説明を続けた。

「それがいったい誰なのか、私もわからないので。」

床に敷かれたラグの上に座り、リュートが暖炉に薪を足す。

ふと思いついて、セリナは呟く。

「もしかして、それが“鷹”?」

振り向いたリュートの顔に驚きが浮かんでいた。

「セリナ様、“ソラリスの鷹”をご存知なのですか。」

「そら……? えぇと、フィルゼノンへ帰るのに“鷹”に従えって。」

どう伝えればいいのか、と迷って、視線が彷徨う。

「そう言われて。私、鳥のことだと思ったんだけど、さっきリュートがいて、リュートのことだったのかと思って、けど、協力者が他にもいるのならその人なのかなと。」

まとまらない言葉だが、リュートには伝わったらしく、彼が納得したように頷いた。

「“ソラリスの鷹”、王の影とも呼ばれる存在がいます。」

「王……フィルゼノン王?」

もう一度頷いてから、リュートが口を開く。

「存在は知られていますが、実際にその正体を知っているのは王だけです。名前も年齢も性別も、さらに言えば人数も不明。」

(王の影、ソラリスの鷹。動かしているのは、つまりジオってことよね。)

「私がアジャートに入れたのも、王都までやって来られたのも、“鷹”の手配によるものです。先程、グランディーン城の南門でセリナ様を待っていたのも、そうするよう指示があったから。」

「“鷹”もアジャート国内にいるの?」

「それはわかりかねます。周到さからいえば、その可能性が高いように思いますが。存在は確かでありながら、気配はどこにもない。」

「じゃぁ、どうやってリュートは指示を受けていたの?」

「手紙が届きます。あるいは、代理の者が現れる。」

目を丸くするセリナに、リュートは声を落とす。

「フィルゼノンを出る前に、念を押されました。アジャートに入った後は、どんなに不可解に思おうと、“ソラリスの鷹”の指示に従うこと、と。」

「不可解……。」

一瞬だけ眉を寄せたリュートだったが、すぐに表情を緩める。

「けれど、どの指示も的確に最善だったのだろうと、今なら思います。アジャートとの交戦なしで、こうしてセリナ様を迎えに上がることができた。」

リュートの言うように“ソラリスの鷹”が優秀な協力者として付いていたとしても、アジャート国内で、フィルゼノンの騎士が王都まで入り込むことは、簡単なことではなかったはずだ。

国同士の情勢が緊張を高める中、彼の正体が下手にバレればその危機を加速させかねない。

セリナは毛布を握る手に力を込めた。

「セリナ様?」

怪訝そうなリュートを、セリナは見上げた。

どれほどのリスクを負う行動なのか、すべて承知の上で、それでも彼はここにいる。

(助けは来ないって。そんなことしたら休戦が破られてしまうから、来るわけないって思った。だけど、違った。)

わかっていた。

アーフェで、フィルゼノンの騎士がマルクスに来ていると聞いたから。

グランディーン城で、鏡越しに会ったジオが女神を拒絶してはいなかったから。

女神の誘拐を隠して、あるいは無かったことにして、国として動くことはしていなくても。

『見捨てられた』わけではないと。

(だから。だから、私、立ってられたんだ。絶望せずにいられた。居場所を見失って、足元が崩れ落ちそうで、見ていたすべてが嘘だと言われたみたいに感じたけど。)

こうして、今リュートが目の前にいる。

セリナを迎えに来たのだと、言い切る騎士が。


―――見捨てたとか……裏切ったとか、僕には言えない。

親切とか優しさとか、たとえ裏に事情があろうと、感じた君の心に届くものがあったのならそれは真実だ。


脳裏に浮かんだ言葉に、息をのんだ。

(そうだ、それを知るより前に。絶望しそうな、ひび割れて壊れそうな私の足元を修復してくれたのは。)


「セリナ様。」


心配そうな表情のリュートがセリナを覗き込んでいた。

はっとしたセリナだったが、それから視線を床に落とした。

「なんでも、ないの。ごめん。」

ゆるゆると首を横に振る。

「お1人で、抱え込まないでください。」

「リュート?」

セリナの前に膝を付き、見上げている騎士は苦し気な顔を見せた。

「……すみません。」

「どうして、リュートが謝るの?」

「いえ。」

次に目を伏せたのはリュートの方だった。

沈黙が落ちる部屋で、暖炉の火がはぜる音だけが響く。


「正しい…ことが、何か。」


ぽつりとセリナが呟くと、リュートが顔を上げた。

「わからなくなったの。正しいとか正義とか。」

揺れる炎を見つめて、セリナは切れ切れに言葉を繋ぐ。

「平和な…争いがない国を目指すのは、悪いことじゃないと思ってた。だけど。」

そこで口を閉ざして、セリナは知らず眉を寄せていた。

(あの時、たき火を見ながら語った彼の言葉は、間違ってたの?)

「事情はわかりませんが。」

リュートの静かな声に、セリナは炎から視線を動かす。

「悪ではないと思います。けれど、それが正しいと思えないのは、正しくないからなのでしょう。」

「え?」

茶色の瞳が、真っ直ぐにセリナを見ていた。

「判断の基準は、人それぞれです。けれど、セリナ様がそう感じるなら、セリナ様の基準からは外れた『正しさ』なのだろうと。」

「……。」

「目的が正しくても、手段が正しくないということもあります。」

「あ。」

「美しく聞こえる言葉です。けれど、その意味は1つとは限らない。言葉は複雑で、聞こえるものだけがすべてでもない。」


―――お前の言葉は上辺だけだからだ。


そう告げたアジャート王の言葉に、ぎくりとしたのはセリナだった。

提示された未来があまりにも理想的に思えたから、描いた地図を進むのに不都合な言葉へ耳を閉ざしたのはきっとセリナ自身。

「それに。」

と、リュートの声が少し柔らかくなる。

「何が正しいのか、正しかったのか。それは『今』を見ているだけでは、わからないのではないかと。私は、そう思います。」

パチパチと、暖炉から響く音。ゆらゆらと不規則に影が揺れる。

炎を背にしたリュートの表情も、影になっているけれど。

「……。」

視線を合わせたセリナは、微かに笑む相手の瞳に“痛み”を見た。

何も言えずに、ただ小さく頷く。

セリナの毛布を引き上げてから、リュートはソファから距離を取った。

「それにしても。セリナ様こそ、よくあの城を抜け出せましたね。」

場の空気を変えるように話題を切り出したリュートの声には、いつもの明るさがあった。

「城壁の外まで、案内してくれた人がいたの。」

「城内、特にヴァルエン正面側は、ひどい騒ぎになっていたようでした。混乱に乗じて、中へ乗り込む算段なのかと思っていたので、セリナ様を見つけて驚きましたよ。」

「驚いたのは、私も同じよ。」

セリナが答えると、リュートが笑いながら暖炉に薪を足した。

「協力者があったとはいえ、騒ぎが落ち着いて不在が発覚すれば、追っ手がかかることもあるでしょうね。」

呟きのようなリュートの台詞に、セリナは首を振った。

「多分、城からの追っ手がすぐに来ることはないと思う。」

少なくとも、ルーイと王妃には、セリナを留め置くつもりはなかった。

城に起きていることを収めるために指揮を執る2人が、セリナへ兵力を割くとは思えない。

「来ない、というと。アジャートが、“黒の女神”を諦めた…ということですか?」

怪訝そうなリュートの質問に、セリナは眉を下げた。

曖昧な笑みを浮かべてしまったセリナの心情をどう解釈したのか、リュートはそれ以上を問わなかった。

「どちらにせよ、この地でゆっくりしてもいられませんから、先を急ぐことにはなります。」

「そうね。」

神妙に頷いたセリナに、リュートが向き直る。

「けれど、今は。どうか、少し休んでください。」

心配性の騎士の言葉に、くすりと笑う。

ソファに背を預けかけて、ふと声を上げる。

「あ。でも、どうやってここからフィルゼノンへ?」

「“鷹”の指示通りに。」

目を瞬くセリナに、リュートが言葉を続けた。

「“鷹”からは、東へ行けとだけ。なので、王都ヴァルエンのふもとを東へ。オルフを避けて、森から国境に向かいます。真っ直ぐ抜けてリシュバインの砦の北側へ出るつもりです。」

「国境……でも、フィルゼノンへ入るには魔法壁が。」

セリナは言いながら、リュートを見る。


「国境を越える心配はいらない…のでは?」


はっとセリナは目を見張る。

「私が魔法壁をって、知っているの?」

「この計画には、セリナ様の存在が不可欠なのですが。」

へにゃり、とセリナは眉を歪ませた。

「役に立つの?」

そう問えば、リュートが僅かに首を傾げた。

「戦争の、ためじゃなくて。侵略とか、壊すとか、奪うとか。」

思わず瞳が潤んでくる。

「そういうのじゃなくて、コレは役に立つ?」

微かに震える広げた両手に視線を落とす。


魔法壁を無効化する能力。


セリナの手に、リュートの手が添えられる。

「セリナ様のおかげで、最短の経路を選べます。」

歪んだ眉が元に戻せなくて、セリナは下唇を噛んだ。


「フィルゼノンへ帰りましょう。」


柔らかいリュートの声に、セリナは目の前の騎士の肩に頭を付けた。

「はい。」













ゆらゆらと揺れる炎を見ているうちに睡魔に負け、次にセリナが目を覚ました時にはリュートは出発の準備を整えていた。

乾いてごわごわになったドレスをなんとかまとめると、外套を羽織る。

夜の明けきらない時間。未だに止まない雨の中、セリナとリュートを乗せた馬は再び東へと走り出した。


説明していた行程通り、やがて森が目の前に広がる。

その中に入ったリュートは街道を逸れて、木々の間に進路を変えた。

直進できないため速度が落ちる。

地図もなさそうだが、進む方向はしっかり把握しているらしかった。

「道、わざと外れた?」

「はい。アジャートの軍と行き会うとまずいので。」

軍、と口の中で繰り返す。

「先日ヴァルエンから派兵された軍が、アジャート東部に。」

「まさか、リシュバインの砦?」

「おそらく。」

(そうか、まだ戦の危機が去ったわけじゃない。)

城での出来事はいったい、どう決着したのだろう。

(アジャート王、エドも、ルーイも。“銀の盾”のことも。)

「昨日の、グランディーン城襲撃の余波も計りかねるところです。」

「……捕まったりしてないといいけど。」

あまりにいろんなことが起こりすぎて、結末を見届けないままだ。

アジャート王があんなことになって、城内は混乱したはずだ。

(王妃様が事態をどう……。)

「知っている者たちだったのですか?」

驚きを含んだリュートの声。

説明の言葉が出て来なくて、セリナは無言で頷いた。



躊躇い、後ろめたさ、心残り、やるせない。

そんな感情でいっぱいだった。いっぱいだったのに。

そこに留まり戦う覚悟まではなくて、結局、背を向けて逃げ出した。

二度と戻れないかもしれない。と言われた言葉が、あまりにも重要で。

全部。全部中途半端なままで。

彼の優しさに甘えて、放り出した。



「南門で隠れている時に、兵士たちの会話で“盾”と耳にしました。穀物庫が破壊され、それ以外に地下通路、塔に武器庫にと、だいぶ被害を受けていたようです。地盤は強固なはずのアジャート城が、あんなに激震するとは思いもしませんでした。ずいぶん大きな組織による、計画的な犯行ですよね。」

「“銀の盾”という組織が……。」

セリナが言いかけた時、急にリュートが馬を止めた。

驚いてリュートを振り仰ぐと、彼は人差し指を口元に立てた。

慌てて口を閉じたセリナは、木々の向こうを窺うリュートの視線の先を追った。

雨の音が響く中、騒々しい音が近づいて来る。

逸れた街道のある方向だ。

(馬を走らせる音…それもたくさんの。)

木々の隙間から、濃い緑色の外套を頭から被った人を乗せた馬が何頭も王都の方へ去って行くのが見えた。

音が遠ざかり、リュートが警戒を解いたのがわかった。

「リュート、あれって。」

小声で呟いたが、雨の中でもそれを聞き止めたリュートが小さく頷く。

馬を再び走らせ始め、さっきの馬たちが来た方向へと先を目指す。

「……砦に向かっていたはずのアジャート軍の兵士たちです。」







座り直すように身じろいだセリナに気づいて、リュートは少し馬の速度を落とした。

「もうすぐ国境付近です。」

頷くように腕の間のフードが上下した。

この移動でセリナに負担をかけているのはわかっている。

森に入ってからは木々のおかげで、多少雨が遮られていているが、足元が悪いため不規則な動きをせざるを得ない。快適とは程遠い乗り心地だろう。

何度か休憩を挟んだが、セリナからは文句も弱音も出て来ない。

(国境さえ越えれば。)

王都からアジャート兵が送られたこともあり、砦を中心に国境付近は警備が強化されているだろうと予想していた。

だが、途中ですれ違った兵士が、まるで引き上げていくようだと見えたのは外れていなかったらしく、砦に近づいた今も周囲の緊張感は高くない。

2度ほど警備兵をやり過ごしたが、相手側は通常業務とでもいったふうだった。

開戦の準備も、黒の女神を取り返そうという動きも感じない。

(ここに来て、フィルゼノンへ圧力をかけることを止めた? 城でのことと関係があるのか。)

きっとセリナの方が事情をよく知っているのだろうが、今ここで聞き出す話ではない。

国境を目の前にして、リュートは川辺で馬を止めた。

「カルダール山脈からアリッタ海へ流れ出るこのアリオン川を渡れば、フィルゼノンです。」

はっとしたようにセリナが顔を上げて前を眺める。

「この川の向こうがフィルゼノン?」

驚いたような顔でセリナが見上げて来る。

表情を緩めて頷いてから、リュートは馬を下りて、セリナに手を貸す。

馬はここまでだ。

「雨のせいで増水しています。あちらの岩場から、向こう岸へ渡りましょう。」

滑るので気をつけて、と手を掴みながら上流の岩場へセリナを誘導する。

足元に注意しているのか、フィルゼノンを前にしているからなのか、緊張した様子を見せるセリナに、リュートは声をかける。

同じ岩を踏んで進むよう指示し、微笑んで見せる。

「大丈夫です、ゆっくりで構いませんから。」

勢いのある濁った水が岩間を流れているが、しっかりした足場は、踏む石さえ選べば幸いなことに水に足を取られることはない。

小降りになった雨の中、慎重に川を横断し、あと少しで岸へ着くというところで。


それは、突然起こった。




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