Ⅳ.豊穣の歌 32
32.
「イサラさん! ライズ様が目を覚まされたって本当ですか!」
慌てた様子で廊下を走って来るアエラの姿に、イサラは顔を上げる。
廊下を走らない。との注意を今回は引っ込めて、静かに頷く。
「今、医師が診察中です。」
部屋の前でそわそわと体を動かしながら、アエラは「良かった」と何度も呟く。
対照的に、ラスティはさっきから直立不動で扉を見つめたままピクリともしない。
扉が開いて、その場にいた3人が一斉にそちらを向く。
出て来たのは老医師と、ホワイトローズの責任者であるテイラーだった。
扉を閉めてから、医師はゆっくりと口を開いた。
「峠は越えた。もう心配いらない。」
安堵の息がその場に漏れる。
「ありがとうございました。」
“バトラー”と称されるテイラーが医師に礼を述べ、帰る彼の先に立ち廊下を行く。
去っていく老医師に頭を下げてから、アエラはイサラに声をかけた。
「もう中に入ってもいいのですよね?」
落ち着かない様子のアエラは、既に扉に手をかけていた。
「先に、エリティス隊長が呼ばれて中に入られています。大丈夫なら、声をかけてくれると思うのですが。」
真剣な顔をしたラスティに目を止め、再びイサラは扉を見つめた。
「すべき話もあるはずですし、部屋に入るのは。」
少し待ってと、言いかけたところで室内から大きな音が響いた。
思わず顔を見合わせた3人の耳に、今度はリュートの声が届く。
「パトリック!」
ぎくりとして、アエラはドアノブに置いたままだった手に力を込めた。
部屋に飛び込もうとしたようだが、それはできなかった。
「ナクシリア様?」
アエラの腕にラスティが手を置き、それを阻んでいたのだ。
振り仰いだアエラの目に映ったのは、何かに耐えるような表情の騎士の顔だった。
彼の目は、目の前の扉に向けられている。
「パトリック、落ち着け!」
再度リュートの声がして、それから中は静かになった。
しばらくの静寂の後、ラスティがゆっくりと押さえていた手をアエラから離す。
それにつられるように、アエラも扉から離れた。
「……。」
ラスティと扉を交互に見て、アエラは視線を廊下に落とす。
「見舞いはもう少し後にしましょう、アエラ。」
イサラがそう声をかければ、アエラは唇を噛み、ぎゅうっと両手でスカートを握りしめて頷いた。
イサラは、直立不動の騎士を一瞥してから、ため息を飲み込む。
促したところで彼はこの場を動かないだろうと判断して、アエラの背を押す。
去り難そうに振り向いた少女だったが、何も言わず項垂れたままその場を後にした。
セリナの不在が明るみに出るまでは、イサラたちはここに留まるように聞いている。
幸か不幸か、王都の収穫祭が来週に控えているおかげで、周りの注意は分散されており、こちらの事態を隠す時間稼ぎになっている。
多くの時間を望めるわけではないが、その間にパトリックが少しでも回復できればいいと思う。
(それでも1週間ほどが限度。)
イサラは探していた相手を見つけ、足早に近づく。
「テイラー様。」
こちらに気づいて足を止めたテイラーは、穏やかな笑みを見せた。
「イシュラナ。」
イサラは深々と頭を下げる。
「この度は大変お世話になりました。」
「目を覚まして本当に良かった。あの若い騎士も、よく頑張りました。」
顔を上げたイサラに、執事は目を細める。
「元気で過ごしていましたか?」
「っ。」
イサラはこくりと頷く。
「先日、視察で来た際には、満足に挨拶もできなくて失礼しました。」
「仕事中なのですから、気にすることではありません。」
飾ってあった花の位置を直して、テイラーは口を開く。
「侍女として立派になりましたね、イシュラナ。」
「そんな。」
今は侍女の役目に付いているが、正式な専属侍女として在るわけではない。
過ぎた褒め言葉にイサラは返す言葉を失う。
「最後に会ったのは10年前ですか。」
「はい。」
「早いものですね。」
呟いて、懐かしむように執事は花を見つめた。
16歳の時に城で働き始めたイサラは、すぐに王妃の侍女となる。
王妃のお気に入りであったこの屋敷にやって来ることも多く、当然のようにテイラーとも顔なじみになった。
病に臥せった王妃が静養したのも、息を引き取ったのもこの場所だ。
その後、イサラが“ホワイトローズ”を訪れる機会はなく、疎遠になってしまっていた。
「実は、テイラー様にお聞きしたいことがあるんです。」
僅かに首を傾げたテイラーに、イサラは背筋を伸ばす。
「10年前、王妃様が亡くなられた頃のことについて。」
人の記憶は曖昧で、イサラの覚えていることだけが全てではない。
「“ダイレナン”であったあの事件以降、王妃様は変わられました。あの頃あったことを、テイラー様が覚えていることを、教えていただきたいのです。」
「“ダイレナン”の事件……白王宮の専属騎士のことですか。そのことは知っていますが、イシュラナの知っていることと大差はないと思いますよ。」
王妃がその騎士の死に心を痛めていたことなら、テイラーもイサラも知っている。
「テイラー様は、王妃様を看取った方ですので。」
執事は、ゆっくり瞬きをする。
「急に、またどのような理由で。」
説明の言葉を探して、イサラは一度口を閉ざす。
“緋の塔”でエリオス=ナイトロードに言われた言葉が発端だ。
あの頃、王妃に仕える者の中で、イサラは一番の年下だった。
それ故周りから可愛がられていた記憶がある。
だからこそ、と今は考える。
(私には知らされていないことがあったとしても不思議ではない。)
バッカスにいるマリをはじめ、王妃付きだった侍女たちが、今やイサラ以外は城に残っていないのもおかしな話なのだ。
「今更過去の話を持ち出して、どうしたというのです。」
なだめる様な口調だった。
イサラは、すっと顔を上げ執事を見つめる。
「セリナ様の。力になるために必要なことなのです。」
動きを止めたテイラーだったが、僅かに表情を曇らせた。
「イシュラナ。“ディア”様のため、と言うたのか。」
「はい。」
「なぜ、そのような。」
こぼれた小さな呟きが、イサラの耳に届いた。
(何……。)
いつも穏やかな執事の顔に、言いしれない悲しみの色が浮かんでいた。
「テイラー様?」
近づきそっと腕に触れたイサラに、テイラーは視線を上げる。
「イシュラナ。」
イサラの手に触れ返した老執事の目には、慈愛がこもっている。
「王妃様の死は悲劇でした。誰にも、どうすることもできない悲劇。」
その言葉に、イサラは目を大きくする。
会話の流れからの意味を図りかねて、反応が遅れる。
「人の思いは巡る。イシュラナのことを、王妃様も喜んでいるでしょう。」
どういうことなのか、とさらに思考が空回った。
「“ダイレナン”で、最も信頼していた騎士を失い、王子も危険に晒された。そしてあの時、一歩間違えば、愛する我が子も失っていたかもしれない、と。そういう事件でしたな。」
「は、はい。アジャートのスパイが紛れ込んでいたのですよね。それで、交戦となった。」
かなりの手練れであるはずの白王宮の騎士ですら命を落としてしまった中、王子が助け出されたのはエリオス=ナイトロードの活躍だ。
「何も知らないのですよ、私も。ただ、そんな事態になったことに責任を感じていたのだとは思います。」
「王妃様が?」
「王妃様は優しい方でした。それだけは間違いないことです。」
緩く首を振る執事は、優しい眼差しをイサラに向けた。
これ以上の話はないのだと察して、イサラは彼の言葉に頷く。
テイラーはイサラの腕をぽんぽんと軽く叩き、その場を後にした。
残されたイサラは、白いバラをぼんやりと見つめる。
王妃が優しい人柄であったことは確かだ。
それ故、あの事件を受けて悲しみに沈んでしまうことも不思議ではなかった。
(命を散らすほどに……?)
釈然としない思いが残る。
(どこかに王妃様が自責の念に駆られるような理由が存在していた? けれど、ジオラルド様は助かったのに。)
その次に浮かんだ思いをイサラは慌てて消し去る。
―――それが救いにならないほどの、悲しみがあったのかと。
(ナイトロード様は、セリナ様に何を言おうとされていたのかしら。“緋騎士”の名を呼ぶな、と。陛下にとって、自分は“英雄”ではないから。)
「陛下の近くに、親しくあるのなら?」
彼はそれをセリナのためだと口にした。
(けれど、あれはむしろ……ジオラルド様のために言った言葉。)
そう考えた方が腑に落ちる。
(セリナ様は『特別』。そうだとしても、意図がわからない。)
答えの出そうにもない問題を抱えて、イサラは肩を落とす。
ただ、この件を調べるのを諦めたわけではなかった。
任せてほしいと口にしたのは自分だ。
(セリナ様に報告できるような事実を掴まなくてはね。)
そう考えて、イサラは顔を上げた。
(必ずご無事で、戻っていらっしゃるはずなのだから。)