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黒の女神  作者: 紗月
大地の章
120/179

Ⅳ.豊穣の歌 29

29.



「失礼します。」

開いたままの扉をノックしてから、クルスはペンを走らせているジオに声をかけた。

書類を見ている相手は、左手の指先を動かしてこちらに入室の許可を出す。

見終えた書類の束を控えていた事務官に渡して、ジオはようやく顔を上げた。

「こちらにもサインをお願いします。」

クルスから受け取った報告書に目を向けかけて、ジオは視線を逸らす。

つられてクルスが振り向くと、部屋を出て行く事務官と交代に宰相が姿を見せた。

「謁見の最後、グリサール伯爵をお呼びする前に、よろしいですかな。」

穏やかな声に反して、宰相の表情は硬い。

「入れ。」

言って、ジオは机に描かれた陣に触れた。

淡く青い光が散り、部屋の空気が少し張り詰める。


「では、畏れながら。」


深く一礼をした後、ジェイクは顔を上げて息を吸う。

「この有事に、陛下はどう対処するおつもりか。」

ピリッとした緊張が走り、クルスはジオの机の横で身を固くした。

「女神を攫われて、このままにしておくつもりではありますまいな。」

結界が張られていると知っているが、思わずクルスは開いたままの扉に目を向ける。

次の間に人がいないことももちろんわかっているけれど。

「攫われてはいない。女神は天の意思であちらへ飛んだ。」

言われるとわかっていたのか、ジオは平然としている。

「それで押し通せるとお思いか!」

「そのように、するのだ。」

ジオが椅子の背にもたれ、ギッと音が響く。

「本来ならば、すぐにでも奪還へ動くべきところ。なにゆえ、このように悠長な。あの国は、女神を口実に戦を始める気です。我が国内でのこのような狼藉、これは紛れもなく休戦条約違反。このアジャートの行為を見過ごすことは、フィルゼノンの威信に関わりますぞ!」

「そうだな。」

「ならば、すべきこともおわかりでしょう!?」

ふむ、と落ち着いたままで、ジオは宰相に目を向ける。

「だから、その事実を伏せているのだ。」

「……ッ。」

「領内において誘拐されたなどと公になれば、今のジェイクと同様に、我が国を侮られたと怒るは必定。軍部が動き、緋の塔も呼応して、報復とばかりアジャートに突撃しかねない。仮にそれを止めようものならば、反発は火を見るよりも明らか。」

肘をついて両手を組み、ジオは冷笑をその上に乗せた。

「そして。そうなれば、『また』腰抜けだと、言われることになるのだろうな。」

気色ばんだジェイクが叫ぶ。

「陛下! なんということを!」

「これでは5年前と何も変わらないと。少しも成長せぬと憤る者も出るだろう。」

「陛下!」

叫びを、ジオは手で制する。

「そう怖い顔を見せるな。ちょっとした戯れ言だ。みすみすこの5年を無駄にするような真似はしない。そして6年前と同じ事態を招くようなこともな。」

「っ!」

言葉に詰まったジェイクに、ジオは笑みを消す。

「だからこそ。今事実を伝えて、軍が勢いを持つことだけはさせられない。女神が現れたあの日、私は言ったはずだ。宰相。それに賛同したから、議会を抑えたのではなかったか。」

「それはっ。」

「女神を口実に剣は抜かない。」

ひげを撫でる宰相が、眉を寄せた。

「元々、“黒の女神”はあの国へは引き渡さない、とそれが『約束』であったはず。なんのためにリスクを背負い込んでまで、かの者を保護したのか。これでは……。」

そう言って口を閉ざしたジェイクは、再びひげを撫でる。

「奪還のための軍は動かさない。襲撃の一件が露見するなら、認めても良い。襲撃は受けた。受けたが女神は守った。緋の塔からホワイトローズへと戻ったが、女神は天の意思にて人智の域を越えて、アジャートへと去った、と。そこに理由があろうがなかろうか我々に知れたことではない。話は通じる。」

「しかし、事実を知る者がおります。」

「“塔”とラグルゼなら、エリオス=ナイトロードがうまく抑える。」

ジオの言葉に、何とも言い難い複雑そうな表情で宰相は視線を揺らす。

「『彼』は、そうするだろう?」

「……御意。」

挑むようなジオの問いに、ジェイクは小さく頷く。

面白くなさそうな顔を一瞬だけ見せて、ジオは話を続ける。

「アジャートはこの話に乗るだろう。不法入国した上に“誘拐”した女神の身柄というよりは、正当性を主張しやすいからな。」

わざわざ理由をくれてやるのだ。

ジオの言う通りで、それを表立って肯定することまではしなくとも、否定することはないだろう。ましてや、嘘だと暴いた上で本当は力づくで無理やり連れ去ったのだなどと主張するはずもない。

「どうあっても事実を隠し通す、と言われるのですな。」

「攫われたと知れれば、国の対面を守る意味でも軍が動きかねない。動くそれを阻止するのは至難の業。」

ジオは机を指で叩く。

「しかし、ジェイクもクルスも知っての通り、力でもって国境を越えることはできない。否、今はまだ、させられない。」

すっとジオのサファイアの瞳が厳しくなる。

「そんなことをすれば、この国を守る魔法壁が崩壊する。」

そうだろう?と言わんばかりに、ジオがクルスに視線を投げて寄越す。

クルスは、眼鏡を押さえて控えめに口を挟む。

「あの時の……防壁の契約について詳細を知る者は一部です。この国を支える存在ですから、こんなタイミングでそれを説明するわけにもいかないでしょうね。」

この国を守る魔法壁は、万能というわけではない。

国防の要でもある国境に展開された魔法壁は、戦火の混乱の中で張り直されたものだ。

「契約違反を犯せば精霊たちの加護を失う。それでアジャートとの開戦となれば、苦しい戦況になるだろう。見かけ上、休戦条約はまだ生きている。それをフィルゼノンから破ることもできない。とにかく、こちらからアジャートに仕掛けるような事態だけは避けなければいけない。」

ジオの言葉に、ジェイクが唸る。

「隠し通せるとは思えませんぞ。」

「不在は露見するだろうな。アジャートに身柄があると知れれば、状況はさらに悪化する。『天意』で押し通しても、不安は増すばかりだろう。剣を抜くべきという議論は起こる。だが、これに対してならばまだ抑えが効く。」

「陛下。」

「『攫われた』ということだけにはできない。戦の理由になるような、そんな事態だけは避けなくては。」

顔を伏せたジオの声が揺れた。

「それでも、事態は厳しいですぞ。」

苦渋が滲む宰相の言葉にジオは顔を上げ、表情を消して告げる。


「“黒の女神”を災いにはさせない。」


王に一度だけ視線を向け、宰相ジェイクは目を逸らす。

「殊、“女神”については、揃いも揃って難儀な道ばかり選ばれる。」

ため息を飲み込んだ宰相は、ひげに手をやり、やがて諦観を含んだ呟きをもらした。

「そう思い通りに事が運ぶものやら。」



強硬に意見を押し通すつもりはない様子の宰相に、クルスは肩の力を抜いた。

おそらくは、とクルスは思う。

正当な手段を選ばないことへの諫言を取り下げざるを得ないことを。ジェイク自身、ジオへ苦言を呈する前からわかっていたのだろうと。

クルスは、この流れのやり取りを以前にも知っている。

(セリナ嬢が現れて……保護することを、ジオラルド様が決めた時。)

彼らが賛同した王の意は、議会決定が意図した「女神を囲い込む」ような保護ではない。

先代から仕える宰相は、間違いなく重鎮と呼べる位にいる。

冷静に国益を判断するジェイクだから、それに反する政策には厳しい。

だが“黒の女神”に関しては、こうして反対意見を持って来るものの、最終的にはジオの方針を優先する。

つまるところ、彼らの考えの方向性は同じなのだ。

6年前。アジャートとの戦で、この国は大きな被害を受けた。

国境の魔法防壁が決壊し、アジャート軍が侵攻。勢いを止め切れず、王都までその戦火は及んだ。押し返したが西部で乱戦となり、その戦が元で先王が倒れることになる。

その惨劇を繰り返さないとの、ジオの言葉はよく理解できる。

(だが、それだけでは“黒の女神”の話にはつながらない。)

だから。“黒の女神”に対する彼らの判断に影響を与えているのは、それ以上の事情なのだと知れる。

(保護するとの思いを繋ぐのは、さっき言っていた『約束』が理由だろうか。)

クルス自身は、その事情の詳細を知らない。

正確には、想像はついている。推測ながら大きく外れていないだろうそれを、確かめる勇気がないだけだ。

こうして彼らの会話の間に立っていたとしてもそうだった。


一呼吸の後、部屋を支配する沈黙を破るべく、クルスは口を開いた。

「ただ、こちらの解釈がどうであれ」


「女神が手元にあることを理由に、アジャートが条約を破る可能性が高いことは否定できません。報告をお聞きになっているかと思いますが、セリナ嬢には結界を無視できる力があり、それは本人のみならず、他人にも作用する、と。」

「ポセイライナの件か。いや、初めに落ちて来た時もそうだったな。」

思い出すようにジオが呟いた。

視察に同行していた者からのその報告は、頭の痛い問題だった。

「結界を通り抜けた事実は、アジャートも掴んでいるでしょう。その力を利用されれば国境の魔法壁もどれだけの意味があるか。」

もちろん魔法壁を抜けられるといっても、大軍が突破するのは現実的ではない。

「彼女の力を使ってアジャート兵が我が国に侵入し、“レイポイント”の破壊工作がなされれば、前回と同じ状況をもたらす可能性があります。」

レイポイントとは、魔法防壁を維持するための媒介となる場所だ。

複数個所に設けられており、1つ崩れたところで壁が壊れるわけではないが、力の均衡を崩すことは避けられない。

「“緋の塔”が警戒をしている。滅多な真似は許さない。」

「ジオラルド様、このまま向こうが剣を振り上げるまで待つつもりですか?鷲は既に羽を広げているのですよ。」

「このままにしておくつもりなどない。」

「しかし、こちらからは手出しをしないと。」

思わず訝しんで問い、宰相にも目を向ければ、思案気にひげを撫でていた。

「精霊との契約があるからな。軍は動かさない。無論、守りは固めさせているし、侵入を見逃すことも、侵攻を許すつもりもない。」

「……。」

「こんな休戦条約がいつまでも有効だなどと甘いことは思っていない。私はな、クルセイト。」

名前を呼ばれ、クルスは肩を揺らした。

声が、冷たい。

「どうやら今も昔も、周りには争いを避ける腰抜けの王に見えるらしいが。この長く続いている戦に決着をつけることを、誰よりも強く望んでいる。」

「っ!」

かたん、と静かに立ち上がったジオの瞳は鋭い。


「お前も知っていると思っていたが?」


肯定の意を込めて、クルスは頭を下げる。

争いを好む人物ではない。

だからといって、争いから目を背けて逃げる人物でもない。

(知っている。ずっと側で見て来たのだ。)





頭を垂れたクルスの姿を見て、ジオは、ふと息を吐く。

正面からぶつかるのを避けることを、腑抜けだというのなら言わせておけばいい。

(過去を赦したわけでもない。戦の悲劇を忘れたわけでもない。)

忘れるはずもない。

「……。」

自分が“黒の女神”だと判じた少女の姿が浮かぶ。

アジャートに狙われた原因は、自分にあるといってもいい。

否応なく巻き込まれた彼女から、恨まれたり憎まれたりされることはとっくに覚悟している。

「陛下?」

ジェイクの声に、ジオは顔を上げる。

「アルフレッド=ターナーを呼べ。」

何か言いかけたものの、宰相ジェイクは頷いた。

「クルセイト、無論、こちらも打てる策は打つ。」

「はい。」

応じて、クルスは僅かに首を捻る。

「そういえば、なぜグリサール伯爵なのですか?」

不思議そうなクルスに、宰相は渋面を見せた。

「うむ、なんといえば良いのか。伯爵は既に引退しておるのだがな。いや、陛下も無理を言われる。」

「引退? 当代の領主ですよね?」

「そうか、クルスは知らなかったな。アルフレッドのことを。」

振り向いたクルスに、ジオはにやりとした笑みを浮かべて見せた。

「紳士然と振る舞っているが、あれは狡猾な“鷹”だ。」


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