ⅲ. イヴリャールの今より昔
―――「はい、子ヤギさん。これ。」
赤ずきんはポツポツと咲く花に近づいてしばらく吟味した後、しゃがみこんで一房摘んだ花を子ヤギに渡した。
子ヤギはそれを受け取って嬉しそうに赤ずきんにお礼を言った。
「赤ずきんちゃん!ぼくにくれるの?ありがとう。可愛いお花だね。」
「マリーゴールドって言うのよ。花言葉は『悲しみ』や『絶望』。」
赤ずきんのその言葉に子ヤギは再び悲しそうな表情を浮かべた。
どうしてそんなこと言うの?
そう思うが早いか、赤ずきんは
「でもね?それと同時に、『勇者』や『命の輝き』と言う意味も持っているのよ。」
というと、わあ、と悲しげな顔に明かりが灯ったように笑顔を取り戻した子ヤギに
「ねっ」と、優しくウインクした。
「うん!」と笑顔で返すと子ヤギは自身も何か一つ、決心したように見えた。赤ずきんに続いて。
赤ずきんの住んでいる町は大きな都街のずっと東の森に囲まれた小さな町である。
町を包む東の森はイヴリャールという名前が付いていた。
イヴリャールに囲まれた小さな町はテニャスと名付けられていた。
その土地はかつて町も人の気配もなく、住居にも向かない、ただの森だったのだが、住むのに難しいとされていた原因が解消してからは徐々に人が集い一つの集落になり、開拓して町を起こしていった。
しかし、赤ずきんは町が成るまではの人気無いこのイヴリャールの森中でお母さんと、今は離れて暮らしているお婆さんとも共に暮らしていた。
その頃まだ森は暗くて奥まっていて、陽が落ちていなくても射光が足元の土まで届かずどこか淀んだ空気が漂って森に慣れていない者であれば一歩足を踏み入れるのも戸惑ってしまうぐらいだ。
そのいわゆる人が怖いと感じるような森。そこに赤ずきんは暮らしていたのだ。
住処にこの深い森林地帯を選択する住民は何軒かあるが
それはどの家も父親や男兄弟が猟師、という場合だった。
赤ずきんの家には男の同居者がいなかった。当時、猟の職を選ぶのに女性はいなかったため、猟師は男性がするもの、という意識が当然だった。
それがゆえ赤ずきんの家に猟師はいなかった。
だが、なぜか不思議と女家系だけでもなんの害もなく暮らせていた。
赤ずきんは自らが作り上げた織物や縫い物などを売って生活を支えていた。
お母さんは装飾品を作ることが得意だったのでその首飾りや耳飾りなどを作ってそれらを商い生活を成り立たせていた。
お婆さんは身体が悪くベッドに横になっていることも多かったが時にはドアの外に出てその日の花を摘んで部屋を飾っていたり、趣味の刺繍を赤ずきんが作った織物に施したり、特別な行事には料理などもしていた。
そんな風に女家系だけの赤ずきんたちは毎日を楽しく暮らしていた。
そんな生活の中で赤ずきんとお母さんはイヴリャールから離れた都街へと商いに行く時はいつも二人で一緒に家を出ていた。
しかし、出かける時には女子供一人や二人で出歩くにはとてもか弱く“心配”がある。
なので森の中を出歩く時には必ず猟師も同行していた。
それは人の住むことが難しいというのと、住んでいても出歩くのに“心配”といった同じ悩みの種から災いが起きるのを防ぐためだった。その種というのは、多くの人々が恐れおののくオオカミのことだった。オオカミ達、と言った方がわかりやすいだろうか。
イヴリャールでは昔からオオカミが多く生息しており人が通るにもとても危険だと云われてきた。
危険と言われる由来はやはりその数だ。
オオカミは集団で狩りをする習性があるがゆえ一つのグループに属する匹数が多い。
同じ森に生息するどんな動物もこのオオカミの一群れさえいればまず数で圧倒されてしまう。
匹数でいうと十匹程度だろうか。
ただでさえ力の強い足の速いオオカミなのに、それが十倍もの数で襲いかかってくるのだから実際その恐ろしさは想像を上回るほどだろう。
だが、恐ろしいのは力や俊足だけではない。
オオカミには知恵がある。賢いのだ。
ある狩りの一例を話せばそれが計り知ることができる。
まず、狩りの上手なオオカミは獲物を見つけると一匹が追い込み、その後すぐに他の二匹が伴走し、逃げ戻られないように戻り道を塞ぎ込み、そうして逃げ道に待ち伏せていた数匹の狼らで獲物の足を止めてしまう。
最後はご想像の通り。
逃げ道を失い戦力も絶え絶えになった獲物の首根っこをその鋭い歯の生えた大きな口でガブッと噛み、窒息させた後、皆で輪になって食らいついて骨までガリガリと粉砕して平らげてしまうのだ。
そんなオオカミの群れがそこら中にいた。
赤ずきんもその事はよく分かっていて、出歩く時こそ気を付けていたが、それでも彼女は何か、狼には負けない自信を持っていたので森の中を一人で歩くことも時たまにあった。
そんな彼女を気掛かりにしていた都街の気の合う人々はいつも危険なのだから、と気を付けるように言い聞かせていた。
そのように赤ずきんにとっても実質は危険であろう生き物が我が物顔でこの森の頂点に君臨していたが故、非力な人間は住むことが難しく、その原因により普通の家庭の人々は森に住むのを避けていた。
ある日のこと、人々が森に住むことが出来なかった原因を取っ払う出来事がやって来たのだ。
今でも森の木々が噂して笑ってしまうようなお話。
それはこんな話だ。
その年、例年に比べて夏でも涼しい日が続き、作物が不作に陥ってしまった。
特に秋が冬に変わる頃、滅多に降らない雪が降ったことで不作に追い討ちがかかり、この森に住む生き物達の食料になるであろう木の実や果実も実らず、花や草木まで枯れ始めて森が貧弱になり、生き物達も飢餓状態になった。
それは山の方へ登れば登るほど深刻だった。
低い森を背にして山の方へ行くと、滝がありその近くに川があり、そこには普段魚が泳いでいるのだが
あまりの寒さに川も滝も凍結し、魚の姿が全く川面に映らなくなった。
映るのは氷の川面を覗いてみた自分の顔だけ…というような光景が背の高い山中では続出していた。
その状況に生き物たちはとても困窮していた。皆、生きるか死ぬかを頭によぎらせてしまう程だった。
中でも一番困っていたのはクマだ。
普段クマは木の実や果実や時に蜂蜜を主食としていた。それらが採れない時は木の皮も。
それらは、いつもごく当たり前に手にすることが出来たので雪が降る前の季節まではなんの食料不安もなかった。
木の実や果実の他には自らが用意したご馳走の日があり、その日に限っては川へ行って大きな爪でザクッと魚をすくい上げて捕り、美味しい魚をむしゃむしゃと美味しそうに食べる、それが当たり前の光景だった。
しかし今年はなんて侘しいのでしょう。
テーブルがあるのに料理が何一つ乗ってない…クマにとってはそんなしょんぼりした気分だったかもしれない。
冬眠も出来ない程それは苦しい生活だった。
そんな食べ物が見つけられない毎日に意気消沈していたクマが取る行動といえば一つ。
それは、今までいた場所を諦めて移動すること。
この山のクマ達は標高の高い付近で毎日を過ごしていたので、それは山を降りることを意味していた。
降りながら眼の中に食べ物が飛び込んでくるのを期待して…。
その頃、オオカミ達も困り果てていた。
何故なら、彼等の主食となる小動物達が早々に食料を諦め、体力温存するために動かず空腹のまま、いつもより早く冬眠してしまったからだ。
その為オオカミ達は生きるための食料を調達することができず、次第にやせ細っていき、今は体力も落ちていた。
そこに山から降りてきたクマの集団が現れ鉢合わせしたのだ。
大の苦手である怖い存在のクマを目にしたオオカミ達はその目が飛び出るほどびっくりして逃げ回った。
だが意外にも攻撃体制ではなく、クマは慌てふためく彼等に聞きたいことがあっただけだった。
食べ物はありませんか、と単純に。
しかし、そんな言葉も耳に入らず痩せオオカミ達は一頻り逃げ惑ったあと、揃って同じ方向に逃げて行った。
呆気にとられていたクマだったが、森を見渡すと積もった雪の間から見える木々に、
あれえ?ここにはまだ木の皮が誰にも剥かれてないぞ?
ここにはまだ食べられる木の皮があるぞ!と盛り上がり、それから山より多い森の食べ物に魅せられ、春が、夏が来ても山には戻らず森に居座るようになった。
その為、逃げて行ったオオカミ達やその他、威張り散らしていた他の群れのオオカミ達もクマが制するこの森付近には近寄らなくなっていった。
…というのが危険なオオカミ達に関する原因の解消へと繋がった笑えるお話、である。
無論、オオカミの数が減ったので人々は森に期待感を込め、その期待が、そう遠くない未来で花開きテニャスという希望の町を起こした経緯へと変わっていったことは言わずもがなであるが。