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来世でも君を愛してた。  作者: 付谷洞爺
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不可視交差点

遠島友里という女生徒のことをもっと知る必要がある。

 俺は先日の一件以来、ずっとそんなことを考えていた。

 彼女の不可解な行動。出会って間もないはずの俺を好きだといった彼女の言葉。

 その全てに納得する理由を得るために、俺はおそらくもっともっと、遠島という人間を知って置く必要があるのだろう。

 何より、あの雨の日に遠島が言った言葉がどうにも引っかかる。

 俺が死んだ? どういうことだ?

 身に覚えがない。なぜ遠島はあんなことを言ったのだろう。

「いてっ」

 飛んできたチョークが額に当たり、俺は半強制的に思考を中断させられた。

「そこ、たるんでるぞ」

「いてー、少しは手加減しろよ、一葉姉さん」

「姉さんじゃない、今先生とよびなさい」

 俺と一葉姉さんのやりとりに、教室中が湧く。

 俺たちの兄弟然としたかけ合いは以前から何度かあった。そのせいで、一葉姉さんは注意を受けていたらしいのだが、俺の方がそのあたりを注意しようという気持ちがなかったから全く改善されていないのだが。

 それはそれとして、だ。

「心ここにあらずといった様子だったけど、どうかしたのかしら?」

「いえ、今は授業中ですから、授業を進めてください、先生」

「そう? ならあとで職員室……家庭科室に来なさいいいわね」

「どうして言い直したんですか? なぜ家庭科室なんですか?」

「そこが今日一日、使う予定がないからよ」

「使う予定がないからといって家庭科室に生徒を呼び出す理由がないと思います」

「不満? 留年させるわよ?」

「ははは、先生にそんなことができる訳がない」

「あら、私の能力を知らないのね。悲しいわ」

 全く悲しそうじゃないのはおそらく気のせいだったのだろう。

 とはいえ、そろそろこのあたりで切り上げておかないと授業が終わらない。

「まぁいいわ。ただし、一つだけ言っておくわ」

「何ですか? お説教ならあとでいくらでも……」

「何か困ったことがあったら、遠慮せずに言いなさい。他のみんなもよ」

 一葉姉さんは俺に対して、そしてクラスのみんなに対してそう言った。

 そこには本気で俺たちを想う、彼女の心使いが感じられた。

 そのことに、俺は少しだけ自分が恥ずかしくなる。

 

 

                       1

 

 

 家庭科室へと足を運ぶ。……なぜ? という疑問は一旦脇に置いておいて。

「……一葉姉さん、言われたとおり来たぞ」

 一葉姉さんに向かって呼びかけてみる。けど、返事はなかった。

 何だ? まだ来ていないのだろうか?

 俺はキョロキョロとあたりを見回した。

 不自然に締め切られたカーテンによって室内は薄暗い。まだ日はあるから、何となく机の位置などは把握できるが、どうしてこんな妙な造りになっているのか甚だ疑問だった。

 俺は電気を点けようと電光のスイッチのある場所まで行く。

 カチリ、とスイッチを入れると何度かの明滅のあと、室内が明るく照らし出される。

 それと同時に、バタンとドアの締まる音。

「な、何だ!」

 俺は驚いて、反射的に振り返る。

 するとそこには、俺をこの家庭科室に呼び出した張本人、一葉姉さんが不敵な笑みとともに立っていた。

 両手を後ろに回し、カチッと鍵の締まる音がした。

「な、何で鍵を締めるんだよ」

「ふふ、ここからは私と君の二人だけの時間よ」

「ごめん、何言ってるか全然わからない」

 一葉姉さんは不気味な笑い声を上げ、俺に詰め寄ってくる。

 俺は一歩、また一歩と後ろへ後ずさった。けど、次第に逃げ場がなくなってしまう。

 壁際まで追いやられ、俺は言い知れぬ恐怖とともに一葉姉さんを見上げた。

 ぶるぶると、全身が震える。

「これはどういうことだああああああああ!」

「ひいいいい、ごめんなさいいいいいい!」

 バッと、一葉姉さんが一枚の紙を取り出し、俺に突きつけてきた。

 それは、先日一葉姉さんが行った実力テストの回答用紙だった。

「全部バツじゃない、当たってるのは君の名前くらいよ!」

「あーと、えー」

 何だ、てっきり俺は大人の階段を登るのかと思ったが、そんなことはないのか。

 見るからに残念がっているからだろう。一葉姉さんの怒りは更にヒートアップしていった。

「どうしてそんな態度ばかり取るのよ! そんなんだから君は……」

 ガミガミガミガミガミ。

 まるで、新種のくまか何かのように怒鳴り続ける一葉姉さん。

 俺としては、さっさとこの時間を終わらせて開放して欲しいのだけど。いくら長々と説教しようと、俺の中の何かが変わる訳じゃないのだから。勉強なんてするはずがない。

「全く……そんなんだったら君、遠島さんと一緒になれないわよ」

「は? 何でそこであいつが出てくるんだ?」

 一葉姉さんプレゼンツお説教の合間に遠島の名前が出てきたことに、俺は首を捻った。

 あと、何かよからぬワードが聞こえた気がするのだが、気のせいでしょうか? 気のせいだといってよ、ほんと。

「だって君たち、つきあってるんでしょ?」

「……はああああああ」

 盛大に、ため息をついてやる。

 一葉姉さん、あんたもか。あんたも俺と遠島がつきあっている、などというでまかせを信じていらっしゃる口か。

 俺はうんざりして、肩を落とした。

「どいつもこいつもいい加減にしろってんだ」

「え? 違うの?」

「違う違う全く違う全然違う断じて違う絶対に違う」

「そ、そこまで否定しなくてもいいじゃない」

「どうして俺があいつとつきあったりなんてしないといけないんだ」

 あんたよくわからない変人女と。ごめん被りたいね。

「だって、二人で一緒にいるところよく見るし、腕組んでたりするし」

「あれはあいつが勝手にそうしているだけだ。俺の迷惑も顧みずな」

「ええっと……だって、ええ?」

 一葉姉さんは脳のキャパシティが限界値を超えたのか、頭を抱えて蹲った。

 そこまでしないと理解できないかそうですか。

「だったら、何で?」

「なんかよくわからないが、あいつが俺のことを好きらしい」

「……えーと、ちょっと待ってよ」

 一葉姉さんはこめかみを抑え、ううんと唸り出した。

「遠島さんは君のことが好き。けど、君は彼女に対して何らの感情も持っていない、と?」

「大体そんな感じ。まあ最近じゃ、悪い奴じゃないんだな、くらいには思ってるけど」

「ふぅん? でもさ、それっておかしくない?」

 一葉姉さんは首をひねり、疑問を呈する。

「普通、会って間もない人を好きになったりする?」

「それは俺も思っていたことだけど、四ノ原に言わせればそういうこともあるんだとよ」

「……四ノ原さん、ねえ」

「何だよ?」

 一葉姉さんの表情に呆れの色が差したのを見て取り、俺は身構えた。

 どんな罵倒が飛んでこようが大丈夫なように。

「君さあ、二人の内のどちらを選ぶの?」

「な、何を言ってるんだ? 俺は別に二人のどちらかとつきあう、なんて言ってないだろ」

「ふーん? でも、あの二人は君に気があると思うんだけどなあ」

「はあ? 遠島はともかく四ノ原が? それはないな」

 何を言い出すかと思えば、そんなことか。

 俺は一葉姉さんの慧眼っぷりに首を振った。

「どうしてそんなことを言い出したのか皆目見当もつかないな」

「そう? 私はかなりいい線いってると思ってるわよ」

 一葉姉さんはその大きな胸元を抱えるようにして腕を組み、ニッと笑んだ。

「あの二人は君に気がある。少なくとも、好意に似たものは持っているでしょうね」

「そんなふわっとした物言いじゃ納得できないな。一葉姉さんは詐欺師か何かにでもなるつもりなのか?」

「それもいいかもしれないわね。誘われているのよ、知り合いから」

「まさか、本当に?」

「ふふ、冗談よ」

 一葉姉さんはヒラヒラと手を振り、そう言った。

 くそ、一瞬でも信じた俺がバカだった。

「んで、話は終わりか? なら、そろそろ出たいんだが」

「ん、そうね。いつまでもこんなところにいたって仕方がないもの」

 一葉姉さんはそう言うと、くるりと踵を返した。

 ドアの鍵を開け、開く。

「どうぞお先に」

「……なんか怖いな」

 俺は一葉姉さんを警戒しつつ、家庭科室を出た。

 俺に続いて、一葉姉さんも電気を消し、廊下に出て来る。

「それじゃ、また明日ね。ちゃんと勉強しなくちゃだめよ?」

「わかってるって、うるさいな」

 俺と一葉姉さんは互いに手を振り合う。

 さて、そろそろ帰ろう。そう思った矢先だった。

「あ、あああ、あー!」

 突如として発された大声に、俺たちは思わず声のした方を振り向いた。

 するとそこには、件の人物二人が立っていた。

 遠島と四ノ原が、だ。

「ふ、二人して何をしていたの!」

 わなわなと全身を震わせる四ノ原。遠島に至っては思考が停止しているのか、ただ呆然と立ち尽くしているだけだ。

「ちょ、おまえら落ち着け。別に俺たちは何も……」

「う、うう……いつの間にそんなことになっていたの、先生たちは」

「だから、落ち着けって。遠島もほら、泣いてないで何とか言えよ」

「……え、ええと、その」

「普段あれだけ密着してきといて今更その反応はないだろ!」

 二人の明らかに勘違いしている様子に、俺は必死に頭中で弁解を考える。

 しかしだめだ。どう考えたところで、あの二人に通用する気がしない。

 なんか、謎の独自理論で押さえ込まれる未来が透けて見えるようだ。

「先生も先生です。何で生徒とそんな、密室に……」

「ふむ、君たちは私と彼の関係性を疑っているの?」

「と、当然です。これは問題ですよ。先生と生徒がそういう淫らな感じになっているとか」

「四ノ原……テンパっているのはわかるがもう少し語彙を増やした方がいい。遠島も、もう少し肝の座った奴かと思ったが私の見込み違いだったようね」

 一葉姉さんはやれやれといった様子で首を振る。

 よし、いいぞ。二人がたじろいでいる。このまま押し切ってしまえ、一葉姉さん。

 俺は心中でこの従姉を応援していた。

 ……と、それも束の間のできごとだった。

 正確にはぎゅむっと、やわからな二つの膨らみが俺の肘のあたりに押し当てられるまでのできごとだった。

「私と彼はつきあってる。何か問題ある?」

「あ、あああああ大ありです! ふた、二人は従姉弟どうしでしょうが!」

「まさか、真実の愛の前にそんなことは瑣末な問題に過ぎないわよ。ま、まだ子供な君たち位はわからないかもしれないけど」

「な、なにおう……!」

 四ノ原の怒りが頂点に達しつつあった。

 俺は一刻も早くこの場から逃げ出したくて仕方がなかったが、一葉姉さんに片腕を押さえつけられている今の状況では脱出するのは困難を極めた。

 ちらっと遠島を見る。と、遠島は俺たちのやりとりを黙って見据えていた。

 瞳に、大粒の涙をいっぱいに溜めながら。

 あーあ、面倒なことになるぞ、これは。

 俺は自分の未来の暗澹たることを予想して、がっくりと肩を落としたい気分になった。

 

 

                          2

 

 

 遠島と四ノ原そして一葉姉さんの三人から何とか命からがら逃げ出した俺は、二階の空き教室で座り込み、息を整えていた。

「ふー……」

 俺は背もたれに大きく体重を預け、天井を仰いだ。

 あの二人はどうして、あの場にいたのだろう? 

「もちろん、一葉姉さんがクラスメイトの前で俺に家庭科室に来るよう言ったからだ」

 ではなぜ、二人は家庭科室を訪れていたのだろう?

「一葉姉さんに用だった? ……ないな、ありえない」

 では、俺に用だった、ということになる。それこそありえない。

 一体どんな理由で、あの二人が家庭科室まで俺を追ってくるというのか。全く想像だにできなかった。

「んー、じゃあただの偶然、だったのか?」

 俺は首を捻り、考えた結果そんな答えしか導き出せなかった。

 他に可能性すら思い浮かばないので、仕方がない。俺の頭なんて、せいぜいそんな程度の脳力しか持たない。

 とまあ自虐的な形容は置いておいて。

 俺は何となくドアの開く音が聞こえたので、そちらを振り返る。

「げっ……」

 そして俺は顔をしかめた。

 なぜならそこには、件の遠島がいたからだ。

 彼女はドア口に立ったまま、じっと俺を見つめている。

 対して俺は、蛇に睨まれたかえるというか、メデューサに見つめられた哀れな旅人というか。とにかく全身が硬直してしまった。

 指一本……くらいは辛うじて動かせる。あと声帯も。

「あー……と、どうしてここがわかったんだ?」

 絶対に見つからない自信があった訳じゃあない。ただ、見つかるにしても早過ぎるだろうと思うだけだ。

 遠島はドアから手を離し、右を見て、左を見た。

「あなた様のことなら、わたくしは何でもわかりますよ」

 ニコリ、と微笑む。その笑顔に、ぞくっとする。

 背筋が凍った、という感覚を体験するのは、これが初めてだ。

「……何だよ、その喋り方? 変だぞ?」

「変とは? あなた様あらしからぬ物言いでございますね。わたくしは日頃よりこうした喋り方をしておりました」

「いやいやいや、そんなことはないと思うが?」

 遠島のことについてそれほど詳しいという訳でもないが、しかし今みたいな妙ちきりんな喋り方をしたという記憶はない。俺は記憶力にはそこそこ自信があるのだから。

「おまえ、どうしたんだ?」

「? キクはどうもしておりませんよ?」

「キク? キクって何だ? 人の名前か?」

「……お忘れですか、キクの名を」

 遠島は本気で傷ついたとでも言うように眉を寄せ、苦しげな表情を作った。

 嘘をついている、ようには見えなかった。本当に傷ついている、そんな印象だった。

「趣味の悪い冗談だな」

「あなた様こそ、あまりに酷い仕打ちでございます。このキクの顔をお忘れとは」

「俺は……キクなんて知らない。そしておまえはキクなんて名前じゃない」

「いいえ、わたくしは国木田キク。どうか思い出してくださいまし、麟太郎様」

「麟太郎……? 俺のことか?」

「左様にございます。徳田麟太郎。それがあなた様の名前でございます」

「何を言っているんだ? 俺は……俺の名は」

 俺は遠島から距離を取った。

 一体、どうしたというのだろう、遠島の奴? どうして俺のことを麟太郎なんて呼ぶんだ?

 それに、国木田キクとは一体誰なんだ?

「俺の名前は……」

 ガタガタガタッと、机や椅子が倒れた。それを俺が倒したのだと理解するのに、少し時間がかかってしまった。

 倒してしまった椅子の足につまずき、倒れ込んだ。

 そこへ、いつの間にか近くに来ていたのだろう、遠島が覆い被さってくる。

「ずっと、お会いしとうございました。ずっと、あなた様のことだけを考えてまいりました」

 遠島は俺の胸元に、自分の頭を預けてくる。

 完全に、俺を誰かと間違えている様子だ。

 間違えている……というよりこれでは、遠島がまるで別人になってしまったかのようだ。

「どうしたんだよ、おまえ? 具合でも悪いのか?」

「わたくしの心配をしてくれるのですね。嬉しゅうございます。けれど、キクは大丈夫でございますゆえ。ご心配なされませんよう」

「いや、しかし……」

「ああ、キクは今、この上なく幸せでございます。麟太郎様の胸の内で、こうしていることができて」

「あの……だから、俺は麟太郎なんて名前じゃないんですけど」

 女子にここまで接近されるのは初めてで、俺は自分でもわかるくらい声を上ずらせていた。

 どのくらいそうしていだろう? 五分? 十分だろうか?

 かなり長い間、俺と遠島はそうやって体を密着させていたように思う。

「……そろそろ離れてくれるとありがたいんだけど」

「何年、この時を待っていたことでしょう。もう、わたくしはあなたを離したりは致しませんわ。どうぞ、ずっと側にいてくださいまし」

「ああっと……えーと」

 ぐわんぐわんと頭の中が揺れる。思考が全然均一にならなかった。

 考えがまとまらない。この状況をどうにかする方法が思いつかなかった。

 俺はぐるぐると目を回し、じっとその場で座り込んでいた。

 ――と、次第に俺の背中に回されていた遠島の腕から、力が抜けるのを感じた

「と、遠島……?」

「………………」

 遠島は無言で腕を解くと、ゆっくりと俺から離れた。

 すっくと立ち上がり、俯いたまま素早く背を向ける。

「一体どうし……」

「ごめんなさい!」

 唐突に謝られ、俺はびくっと肩を震わせた。

 え? 何突然? どういうこと?

 どうして遠島が謝るのかがわからず、俺は再び、目を白黒させた。

「えっと、何でお前が謝るんだ?」

「ええっと……わたし、変なこと言わなかった? わたし、あなたに対して何か妙なことしなかった?」

「そ、それは、その……」

 変な言動は多々あったし、俺はそれに驚いた。

 女の子に抱きつかれるなんて初めての体験だったし、何より遠島の妙な言葉使いには目を丸くした。

 けど、そんなものは大したことではなかった。別に謝られるほどのことじゃあないのだ。

 とはいえそれは俺にとっては、というだけの話だ。遠島にとってそれらの行動や言葉は、謝罪が必要なほどの無礼だという認識なのかもしれない。よくわからんが。

 だから、ここは精一杯のフォローを入れるべきところなのだろう。

「謝る必要はないぜ。えっと、何つーか俺も貴重な体験をさせてもらったというか」

「いいの、そんなに気を使ってくれなくて」

「別に気を使ってなんていないさ。本当のことだ」

「大丈夫、だから。わたしは。だから本当のことを言って」

「だから、本当だって。別に俺は何とも思ってないって」

 精一杯、それこそ頭が茹だるくらい慰めの言葉を考え、発言する。

 しかし、遠島は俺の言葉などにまるで聞く耳を持ってはいないようだった。後ろを向いたまま、ぶんぶんと首を振るばかりだ。

「わかってる。自分でも自分がおかしいんだってことくらい」

「おかしいだなんて……俺、そんなこと言ってないだろ」

 確かにおかしいとは思ったけど。いや、様子がおかしいとか体調が悪いのかなって意味で。

 遠島は全身をぷるぷると震わせていた。

 拳を固く握り、ちらりと肩越しに俺を見てくる。

「わたし……実は二重人格、なんだ」

「……へ?」

 唐突に、あまりに唐突に発せられた遠島のカミングアウト。

 そのあまりの現実味のなさに、俺は思わずきょとんと目を丸くしてしまっていた。

「せ、正確には二重人格じゃないんだけど。何て言ったらいいんだろう。……前世の記憶、でいいのかな? があるの」

「あー……ああ、なるほど」

「わ、わかってくれるの!」

 遠島が体ごと完全に俺を振り返る。

 その表情は喜々としていて、感情の昂ぶりからか、上体がわずかに前に出ていた。

「ああ、つまりあれだろ、それって中二病って奴だろ?」

「……ああ、うん。だよね。普通そうだよね」

「な、何でそんなに肩を落とすんだ?」

 遠島はがっくりと肩を落とし、再び後ろを向いた。

 え? なんか間違った、俺?

「中二病……っていうのとはちょっと違うんだ」

「違う? 何言ってんだ、おまえ。それはどういう意味だ?」

「どういう意味って……そのままの意味だよ。わたし、普通じゃないんだ」

 にこよかによう言ってのける遠島の表情には、どことなく俺を避けているような院長があった。もちろん、気のせいだったということも十分ありえるだろうが。

「何言ってんだ? 確かに妙なこと言ったりするけど、別に俺はそのくらいで……」

 大丈夫だと伝えたくて、俺は遠島に触れようと手を伸ばした。

 けど、遠島はスッと身を引き、俺に触れられるのを拒否する。

「気持ち悪い、よね。こんな子。わたしも自分でそう思うから、大丈夫」

「何言ってんだ? 俺はそんなこと言ってないだろ」

「……ううん、そうだよ。普通、わたしみたいな女の子は気持ち悪いって思うものだから」

「だから、俺はそんなこと一言も言って……」

「いいんだよ、無理しなくたって」

「無理なんて……してないっての」

 遠島は目の端に涙を溜め、教室から出て行ってしまった。

 俺は、その場に呆然と立ち尽くした。

 彼女を追うような真似は、できなかった。

 

 

                         3

 

 

 翌日、翌々日と遠島は学校に姿を現さなかった。

 クラスメイトは、そのことを不思議に思っている様子だった。

 もちろん、四ノ原も。

「何があったんだろう? どうして遠島さんは学校に来なくなっちゃったんだろ?」

「……俺が知るかよ」

 本当は遠島が学校を休んでいる理由を知っている。

 たぶん……いや十中八九あの時の会話が原因だろう。他に思い当たる節がない。

 あの場で交わした、遠島と俺の会話。あれのせいで、遠島が学校に来れなくなってしまったんだ。

 つまり、俺と顔を合わせることを拒んでいるという、そういうことだ。

「……病気、だっただりして」

「まさか、そんな訳ないだろ」

「だ、だよね。一昨日まであんなに元気だったし」

 四ノ原は愛想笑いを浮かべ、その場を濁した。

 本当は気づいているのかもしれない。俺と遠島の間に、何かあったのではないかということに。

 そう思うと、四ノ原の顔をまともに見ることができなかった。

 実際は知る由もないとわかってはいても、視線が明後日の方角を向いてしまう。

「……ねぇ、お見舞いとか、行ってみない?」

「見舞いっておまえ……家の場所とかわかるのかよ?」

「いやわかんないけど。……先生に聞いたら教えてくれるんじゃないかな?」

「どうだろうな。今時個人情報をぺらぺらと喋ってくれるようなアホな教師はいないんじゃないか」

「だ、だよね。たはは……」

 四ノ原は頭の後ろに手をやり、乾いた笑いを漏らした。

 あまりに痛々しいその態度に、俺はどこか苛立ちを覚えた。

「……だめ元で訊いてみるか」

「ほ、ほんとに?」

「ああ……ま、生徒に教える分にはもしかしたらいけるかもしれないしな」

「うん、そうだね!」

 四ノ原は嬉しそうに、にんまりと笑った。

 本当に、心の底から嬉しそうに。

 

 

                          4

 

 

 そして放課後。

 俺と四ノ原は手元の紙片を覗き込みながら、一路遠島宅へと向かっていた。

「……マジかよ」

 自分で提案しておいて何だが、正直言ってこんなにあっさりと教えてもらえるとはおもわなかった。もしかしたらひと悶着あるかもと覚悟していただけに、表紙抜けの結果だ。

 とはいえ目的のブツを入手できて、とりあえずは喜ぶべきだろう。

「さて、このあたりのはずなんだが」

「えーと、あれじゃない?」

 紙片に書かれた走り書きの読みにくい住所と現在地を交互に見比べながら歩いていると、四ノ原が一件の家屋を指差して言った。

 そこは青い屋根が特徴的な、至って普通の民家だった。

 俺は意外に思い、思わず目を丸くする。

「なんか……普通だな」

「あたり前だよ。一体何だと思ってるの?」

 四ノ原にたしなめられ、それはそうかと納得する。

 変な行動を取ることが多かったし、突然前世の記憶がどうとか言い出すものだからてっきりもっと大きな日本家屋に住んでいるものかと思い込んでいた俺は、おそらくドラマの見過ぎなのだろう。

 紙片の汚い字と目の前の民家を見比べる。

 間違っていない。合っている。間違いなくここが遠島家宅だ。

 俺はピンポーン、と呼び鈴を鳴らした。

 と、ザザザッと耳障りなノイズ音のあと、聞き覚えのない男性の声が聞こえてくる。

『はい……どちら様で?』

 老人のようなしわがれたその声は疲れ果てていて、どこか沈鬱だった。

 俺は一瞬四ノ原と目を合わせ、首を捻った。

「ええと、俺は遠島さんの同級生で佐島といいます」

『佐島……孫とはどういった関係で?』

「ただのクラスメイトです。……友人と言ってもいい」

『孫に友達がいたのですか』

 老人の声は少し意外そうだった。

 けど、嬉しそうでもあった。

『少し、お待ちください』

 老人がそう言うと、ブツっと会話が途絶えた。

 と思うと、今度はゆっくりと門が開いた。

 そして、そこには一人の老人が立っていた。

 この人が、さっきまで俺が会話をしていた相手なのだろうか。

「……お二人は孫の友達なのですか?」

「えっと……あの」

「はい、その通りです」

 余計なことを言いそうになった四ノ原を押しとどめ、俺は大きく頷いた。

 それを受けてか、老人は嬉しそうに何度も頷いていた。

「そうですかそうですか。あれにも友達と呼べる間柄の人がいたのですか」

「それで、どうして遠島さんは今日、学校を休んだんですか?」

「それについては、あまり口にしたくはありませんな。……では、中へどうぞ」

「それでは、おじゃまします。四ノ原も行くぞ」

「う、うん……」

 四ノ原は戸惑っていた様子だったが、俺が手招きすると気乗りしないながらも、遠島邸へと足を踏み入れた。

 遠島邸の玄関をくぐり、廊下を歩く。

 フローリングの廊下を歩いている間、俺たち三人は無言だった。

 ちらりと背後を振り返る。

 不安そうに、四ノ原がきょろきょろと視線を泳がせていた。

「どうしたんだよ?」

「え、ええと……ううん、何でもないよ」

 老人に聞こえないよう四ノ原にそっと耳打ちする。が、四ノ原は乾いた笑顔を向けるだけでその胸の内を教えてくれることはなかった。

 言いたくないものを無理矢理聞き出すような真似はできない。

 俺は「そうか」と一言言って、また無言に戻った。

 それからしばらく、老人の案内に従って廊下を進んでいると、老人がとある部屋の前で立ち止まった。

 そこが、きっと遠島の部屋なのだろう。

「友里、友達が来てくれたぞ」

 コンコンッと、老人がノックをする。

 だが、部屋の中からの返事はなかった。……眠っているのだろうか。

 俺と四ノ原は不思議に思い、顔を見合わせた。

「おい、友里。起きているのだろう? 返事をしないか」

「どうしたんだろ?」

「わからないが、どうやら眠っている訳ではなさそうだな」

「えっと、すみません、少しいいですか」

 四ノ原が俺と老人を押しのけ、ドアの前に立つ。

 コンコン、とさっき老人がやったように二度、ドアのノックした。

「わたしだよ、四ノ原だよ。わかる? もし寝ちゃったんじゃないんだったら、ここを開けてほしいんだけど」

 四ノ原の必死の呼びかけにも、遠島が反応を示すことはなかった。

「……だめ、返事がない。どうしゃったんだろ?」

「さっきまでは、普通にしていたんですが」

 バツが悪そうに、老人が頭を掻く。

「どうにも最近は気難しくてよくないもので。突然別人のような喋り方をすることもままありましてな」

「別人のような……?」

 老人のその言葉に、四ノ原は眉を寄せた。

 それはそうだろう。何せ現実味のない話だ。最初は誰だって信じられなくて当然だ。

 俺だって、今でも信じられないくらいだ。遠島の秘密のことは。

 正直言って、半信半疑と言ってもいい。

 しかし家族の前でもとなると多少、真実味が出てきたと言えなくもない。

 なぜなら家族を相手にして、嘘や見栄は通じにくいものだ。

「どうしよう……全然返事ないですよ」

「こまりましたなぁ」

 二人してうーん、と頭を抱える老人と四ノ原。

 俺はそんな二人を前にして、数日前のことを思い出していた。

 あの空き教室での出来事。俺と、遠島ではない彼女の間で起こったこと。

「少し、退いてくれ」

 俺もドアの前に立つ。

 立ったところで、何を言えばいいのか皆目見当もつかないが、とりあえず立ってみた。

 じっとその場に立ち尽くし、どんなことを口走ろうかと思い悩む。

 先日のことでも言ってみればいいだろうか。だが、それだと四ノ原はともかく老人にいらん心配をさせてしまう。

 それはよくないだろう。

 なら……ともかく俺の声だけでも聞かせてみるか。

 俺は二人のようにノックはしなかった。

 すぅーっと息を吸い、言う。

「俺だ。……おまえは誰だ?」

「……麟太郎様?」

 返事があった。やはり、今の遠島はまともな方の遠島ではないようだ。

 俺はそのことを悟り、舌打ちしたくなった。

 遠島は二重人格なのか中二病とやらなのか、とにかく自分の中に別人がいると思い込んでいる。そして、今はその別人格が表に出てきているということだ。

 これはまずいな。何がまずいって近くに老人がいることがまずい。

「……麟太郎って誰? え? 誰のこと?」

 四ノ原が不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 俺が知りたいよ、そんなの。

 俺はふつふつと沸き起こる苛立ちを必死に抑え、ドアノブに手を伸ばした。

「入るぞ、いいな」

「……入って来てくださいまし。そうしてわたくしを、助けてください」

 遠島……いや、今は国木田キクだろうか。何でもいい。

「開けるぞ」

 俺はノブを回し、ドアを開けた。

 すると、そこには遠島の女の子らしく可愛らしい部屋……などはなく、ベッドが一つあるだけの簡素な部屋があった。

「ここが……遠島さんの部屋? なんか意外」

「あ、ああ、そうだな。遠島のことだからもっとゴテゴテしてると思っていたが」

「まあ色々とありましてな。それより友里は……?」

 老人が俺の肩越しに部屋の中を見回す。

 遠島は部屋の中央にいた。ベッドの脇に腰を下ろし、怯えたような目で左右の二人を見ている。

「大丈夫だ。この人たちはおまえに危害を加えたりしない」

「そ、そんなことを言われましても」

 遠島は、いや今は別人なのか。名前は確か国木田キク、だったか。

「俺と一緒にいる人たちだ。信用してくれ」

 びくびくと怯えるとお……国木田に、俺ははあとため息を吐いた。

 過去に何があったのか、俺は知らない。国木田がどうしてここまで俺意外の他人に怯えるのかも。

 知りたいと思わないし、興味もない。

 国木田は怯えた表情のまま、老人と四ノ原を見比べた。

「大丈夫だよ、わたしは遠島さんの友達だから」

「友里、どうしたんだ? 私がわからないのか?」

 困惑顔で眉をひそめる二人。

 たぶん、四ノ原たちはこの状況を理解していない。

 いや、できるはずもないか。クラスメイトや孫がよくわからない難病に犯されているなんて、普通なら理解不能だ。

 俺はちらりと背後を返り見たあと、思案する。

 やはり遠島の言っていたことはでたらめだった。それは、普段彼女と一緒に暮らしているであろう老人の反応を見ても一目瞭然だ。

 もしも遠島の言葉が本当だったなら、老人がこれほど驚くのはおかしい。もう既に何度も彼の目の前で、国木田キクの人格に成り代わっているはずだ。なら、老人が驚くはずはない。

「麟太郎様、わたくしはどうしたら……?」

 不安そうに俺を見る国木田。

 あとは本人が自身を国木田キクと思い込んでいるかどうかだが。これについては疑いようはないだろう。

 遠島は自分のことを国木田キクだと思い込んでいる。でなくては、こんなタイミングで国木田の人格が表に現れたりはしないと思う。

 きっと、国木田キクの人格が現れるか否かは完全にランダムなのだろう。

 さて、ではどうするべきか。

 俺はあごに手を添え、ふむと唸った。

「……君は麟太郎というのか?」

「え?」

「答えてくれ、君は麟太郎という名前なのか?」

「ち、違います、俺は……」

 老人ががしっと俺の肩を掴んでくる。

 年寄りとは思えないほど、力強かった。お陰で肩が少し痛い。

「落ち着いてください、彼は麟太郎なんて名前ではありません」

「うっ……すまない、つい」

 四ノ原も止めに入ってくれて、ようやく老人が俺から手を離しくてくれた。

 老人が視線を下にし、ぐっと拳を握った。

「違います、彼は麟太郎様でございます、彼は……」

 国木田が俺の足にすがりついてくる。俺はそれを振り払うべきか迷って、結局何もしなかった。

 ただ、彼女を張り付かせたまま、じっとしていた。

「どうして俺が麟太郎だと、そんな言い方を? 何かまずいことでも?」

「まずいということはないが……それは」

 老人が言い淀む。そこで、ピンときた。

 この人は何か知っている? 俺が麟太郎である理由や、事情を。

 俺はそう直感し、老人に詰め寄った。

「何か知っているんですね。何を知ってるんですか?」

「いや、あまり話したくはないことだから……できることなら、勘弁してくれ」

「それはできません。あなたは麟太郎という名前に聞き覚えがあった。だから反応した」

 そして国木田の口からも麟太郎という名前が出た。

 ん? ということは……だ。

「国木田キクと麟太郎、そしてあなたは知り合い?」

「ど、どうしてその名前を……!」

 老人の瞳が、大きく見開かれる。

 驚愕と、そして少しの後悔に彩られた、そんな表情だった。

「彼女が自ら名乗ってくれましたよ」

「友里が……」

「な、何で遠島さんがそんなことを? だって、名前全然違うんじゃ……」

「俺も、半信半疑だったさ。けど、この人の反応を見て確信した。これは遠島の嘘や質の悪いいたずらなんかじゃないってことを」

「どういうこと?」

 四ノ原はまだわからないといった様子で、眉を寄せた。

 ま、当然の反応だろう。

「麟太郎とは、何も彼女の作り出した空想上のキャラクターなんかじゃなかった。遠島が生まれるずっと前に、この世界に実在した人物なんだ」

「……ああ、確かに。麟太郎は私の友だ」

「やはり、そうでしたか」

「え? え? どういうこと?」

「前世の記憶って信じるか?」

 俺が四ノ原に問うと、四ノ原はぶんぶんと首を振った。

「だろうな。実際に俺も、ついさっきまでは全て遠島のいたずらだと思っていたからな」

 俺は、部屋の隅でうずくまる遠島……いや、国木田に目を向けた。

 おそらく、国木田は今自分がどんな状況に置かれているのか、理解していないのだろう。

 目を白黒させ、怯え切った様子でことの成り行きを見守っていた。

「とても信じられないよ、こんなこと」

「ああ、俺もだ。何せ、普通じゃあ起こりえないことだからな」

「それもだけど、その国木田さん? とおじいさんが知り合いだったなんて」

「世間は狭い、ということさ」

 世間が狭い、というよりは運命とか因果とか、そういう表現がぴったりくるだろう。

 それはそれとして、俺は国木田を足から引き剥がし、膝を折った。

「彼は答えてくれないようだ。なら、おまえに訊くしかないな。おまえと麟太郎との関係は何だ?」

「……恋仲でございますでしょう? わたくしと麟太郎様は将来を誓い合った間柄でございます」

「それは……驚いた。けど、俺は麟太郎じゃあない。悪いが、おまえとは将来一緒になることはできないよ」

「そんな……あなた様は間違いなく麟太郎様でございます! このわたくしが言うのですから、間違いなどございません!」

 国木田は大きく目を剥いて、必死になって訴えてくる。

 俺は、そんな彼女の目を真っ直ぐに見据えた。

「すまない。だけど本当なんだ。俺は、おまえが何者かを知らない。だから、おまえの言う通りにはできない。……すまない」

「そんな……そんなぁぁ」

 国木田はがっくりとうなだれると、おいおいと泣き出してしまった。

 俺はそんな彼女を前にどうすることもできず、ただその背中をさする。

「う、ううう、うううう」

 泣きじゃくる国木田。

 俺は彼女に何と声をかけたらいいか、まるで見当がつかなかった。

 その部屋には、しばらくの間国木田のすすり泣く声だけが響いていた。

 

 

                         5

 

 

 国木田がようやく泣くのを止めてくれたのは、それから一時間も二時間も経ってからだった。

 遠島の体は自室のベットに横たえられ、今は気持ちの悪そうにすやすやと寝息を立てているはずだ。

 俺と四ノ原は客間に通され、お盆にお茶を持って運んで来た老人に軽くお礼を言う。

「それで? 彼女は一体誰何ですか?」

 俺は老人の持って来てくれたお茶を一口すすると、早速そう切り出した。

 老人は俺たちの対面に座り、言葉を選ぶように虚空に視線を這わせる。

「誰……誰、なんだろうな、あれは」

「惚けないでください。あれは一体誰で、どうして彼女はあんな状態になったんですか?」

「それはわたしも気になります。なぜ彼女……遠島さんはあんなことに?」

「……はあ、わかりました」

 老人は持って来たお茶をすすり、ため息を吐く。

「……もともと友里は体が弱かったんだ」

「嘘……でも、学校での彼女はすごく明るくて積極的だったんですよ!」

「おそらく、無理をしていたんだろうと思う。あまり辛いとか苦しいとか、とにかく弱音を言わない子だったから」

「それは……」

 その通りだ。遠島が周囲に愚痴を漏らしていた、というような話はあまり聞かない。

 なぜならそれは、彼女の根幹に関わることだから。

 遠島友里という人間の、根っ子の部分だから。

「とにかく明るくて、よく笑う子だった。けど、ある時から彼女は病気がちになってしまったんだ」

「ある時?」

「友里がまだ幼い頃……十歳くらい、だったかな。その時から、あの子はよく風邪を引くようになってね。それからは体が弱くなってしまって、病気がちになってしまったんだ」

「そんなことが……」

「しかしここ最近、ようやく学校に通えるまで回復したんだよ。でも……」

「交通事故に遭った?」

「その通りだ」

 老人は肩を落とし、悔しそうに歯噛みした。

「それからは検査の日々だった。毎日毎日検査続きで、この間ようやく退院したんだ」

 そこで老人は言葉を切った。

 何か、思い出したくもないことがあったのだろうか。苦しそうにしている。

「その時に私は医者から言われたんだ。友里は……もってあと半年だろう、と」

「それって……!」

「ああ、余命宣告さ」

 老人の力ない言葉に、俺も四ノ原も何と言っていいかわからなかった。

 そもそもこういった状況は初めてだ。

「……それからさ。あの子がおかしくなってしまったのは」

 老人は遠島が眠っている部屋のある方向を向いて、悲しげに呟いた。

 俺たちも、つられてそっちを見る。

「……今眠っている遠島は、果たしてどちらなのでしょうね」

「それは……どういう意味だ?」

「そのままの意味ですよ。遠島と国木田キクは同じ体を共有している。なら、今夢を見ているのは国木田キクの方かも知れない」

「おじいさん、国木田キクとは誰何ですか?」

「……キクさんは……先に死んでしまった私の母親だよ」

「お母さん……ということは、遠島さんのひいおばあさんということですか?」

「ああ。キクは私の母だ」

「遠島が生まれた時には国木田キクは……?」

 俺が質問すると、老人はゆっくりと首を振った。

「いいや、死んでいたよ。あの子は母の名前どころか、顔すら知らないだろうねぇ」

「ではなぜ、遠島さんはひいおばあさんの名前を……?」

「……前世の記憶」

 ぼつり、と俺は呟いた。

 前に、遠島自身がそんなようなことを言っていた気がしたから。何となく、今その単語が思い出されたのだ。

「前世の記憶って……君、こんな時に何を言っているの?」

「な、何だよ?」

「だめだよ、ふざけちゃ」

「ふざけてるつもりはない。けど、何となくそんな気がしたというか」

「何となくって君ねぇ……」

 四ノ原は呆れたとでも言うように、はあとため息を吐いた。

 困ったように頭を掻き、軽く睨み付けてくる。

「どうしてそんなこと言い出すかなぁ……このおじいさんは本当に困ってるんだよ?」

「いや、別に構わんさ。……それに、もしかしたらあながち間違ってやいないのかもしれない」

「えと……どういう意味ですか?」

 老人の言に、四ノ原は目を丸くした。

「それが、あの麟太郎という名前に繋がってくる訳だ」

「麟太郎……どういう人なんですか? 彼とキクさんとの関係は?」

 そして、どうして遠島が……国木田キクが俺を麟太郎と呼ぶのか。その理由がわかるかもしれない。

 俺は膝の上で拳握り、老人の話に耳を傾けた。

「麟太郎。徳田麟太郎という。彼はその昔、まだこの世が戦火にあった頃に将来の契りを交わし間柄の人物だったらしい」

「つまり恋人どうしだった?」

「ま、そんなところだろう。戦場から帰ったら結婚しよう、と約束していたようだ。もっとも麟太郎氏は神風特攻隊に志願して栄誉の戦死を遂げたと聞いているがね」

「それは……凄まじいですね」

「その通りだ。だから、母は結局麟太郎氏と添い遂げることは叶わなかった。私の父は地主で麟太郎氏とも知り合いだったらしい。ま、いずれにしろ昔の話だ」

 老人は話終えると、ふぅと息を吐いた。

 疲れたのだろう。椅子に深く腰を落ち着け、背もたれに体重を預けた。

「……どうして今、あなたの母親はこんな形でわたしたちにコンタクトを取ってきたのでしょうか?」

「わからんよ。ただ、一つの可能性としてこういう考え方もある」

 老人は咳払いを一つすると、天井を仰いだ。

「麟太郎氏の魂がこの世に戻って来た。だから母も、今度こそ思いを遂げるために彼の魂の痕跡を追って現世に戻って来た。そんな解釈はどうだろう?」

「それは……どうなんでしょう」

 たはは、と四ノ原が愛想笑いめいた苦笑を浮かべる。

 どうだろう、と言われても確かに困る。

 そのような解釈は確かに可能だ。だが、可能なだけで事実かどうかはわからない。

 そもそもが大昔の話だ。真実を確かめる術など存在しないのかもしれないが。

「別に俺たちは本当のことを知りたくて来た訳ではありませんよ。ただ、遠島のお見舞いに来ただけです。……また学校に来れるんですよね?」

「……言っただろう、余命はあと半年だと。学校には既に休学届けを出しているはずだ。残りの余生はこの家で静かに過ごすようあの子には言ってある」

「そんなこと、遠島がそう簡単に受け入れるとは思えないんですが」

「受け入れる受け入れないの問題ではないよ。そうしなくては、多くの人間に迷惑がかかる」

「迷惑がかかるから、彼女を閉じ込めておこうと?」

「ああ、その通りだ」

 老人はゆっくりと頷くと、辛そうに息を吐いた。

「私も、本当なら最期くらい伸び伸びとさせてやりたいさ。けど、あの状態では……」

「それは……そうかもしれませんが」

 いつ何時、国木田キクの人格が表に現れるとも限らない。

 この老人はおそらく、そうした事態を危惧しているのかもしれない。

「しかしそれで、何の解決にもなりませんよ」

「解決など必要ではないのだよ。いずれにせよあと半年隠し通せば、あの子は死ぬ」

「死ぬって……あなたはそれでいいんですか!」

 四ノ原が感情的になって、悲鳴じみた声を上げる。

 俺もこの老人の言い分には腹が立った。が、四ノ原がかわりに怒ってくれたので俺の方はこれ以上何か言う気はなくなった。

 かわりに、一言言ってやる。

「遠島がそれでいいと言っているのなら、俺から言うことは何もありません。けど、もしそうでないのなら俺はあなたを許さないでしょう」

「許さない、と言ったところで、君に何ができる? あの子の両親さえ匙を投げたこの問題に、君はどんな答えを見い出せるというのだね?」

 老人がぎろりと俺を睨み付けてくる。

 けど、俺は老人のそうした安い挑発には乗らないことにしている。

余命あと幾ばくかの人間の命を俺ごときが救えるなどとは思っていない。

ただ、俺は老人の態度が気に喰わなかったのだ。

だから、俺はこいつをぎゃふんと言わせることにした。ただ、それだけだ。

俺は椅子から立ち上がると、くるりと老人に背中を向けた。

「今日のところは帰ります。……また来ますけど」

「ああ、最期の瞬間がいつ訪れるかわからないからな。あの子に顔を見せに来てやってくれ」

「……では、失礼します」

 そう言い残し、俺は老人宅を出た。

 自室で休んでいるであろう、遠島のことを思いながら。


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