過去と未来の行方
ジュウウウウウウウッ、と肉の焼けるいい匂いがする。
俺はフライパンの中で香ばしい音と匂いを放つその塊を見つめつつ、本日何度目になるかわからないため息を吐いた。
遠島がうちを訪れてから、早二週間が経過しようとしていた。
その間、母さんは両親の留守中にあった来訪者のことについて、しきりに訊ねようとしてきたのだが、俺はその質問に対して一切の回答・弁明をしなかった。
回答を拒否したとも言える。
それというのも、何もかも遠島のせいだ。
俺の恋人という訳でもないのに家に来たがったり、突然密着して来たり。とにかくよくわからん行動が多々あった。
そんなこんなで、本当に心からリラックスできる休日がようやくきたという訳だ。
両親は朝から出かけている。つまり今日は俺が家の中で一人だ。
そんなこんなで俺は今、肉を焼いている。朝食兼昼食のつもりだった。
「……ちょっと重い?」
ここにつけ合わせで野菜を少し切ろうと思っているのだけど、どうだろう。だめ?
「ま、やってしまったものは仕方がない。ちゃんと食わないとな」
でないと、この牛に申し訳がない。おいしく食べてやることこそ、最高の供養だと小学校の先生も言っていたような気がするし。
俺は肉をフライパンから出し、洋皿に盛りつける。
野菜を簡単に切ってから、テーブルに運んだ。
ピッとテレビの電源を点け、何度か変えていく。特に興味をそそられるような番組はなく、とあるバラエティ番組で手を止めた。
あまり面白くはなかったが、退屈もしなかった。
俺はボーッと、その番組を見ていた。肉を咀嚼しながら、ただボーッと。
次第に、番組の内容が頭に入らなくなってくる。
考えることは、遠島のこと。
とはいえ、別に恋愛感情云々といった話ではない。
どうして遠島はあんな行動を取るのか。それが不思議でならないのだ。
そういえば、最初に会った時は何だか様子が変だったように思う。
何か、遠島ではない別の人間が彼女の口を借りて喋っているような、そんな印象を受けた。
「……まさかな」
俺はわずかに身を揺らし、はんと吐息してその考えを追い払った。
小説やラノベじゃあるまいし、そんなことが現実に起こり得るはずがない。
俺はもしゃもしゃと野菜を口に放り込み、飲み下した。
何を考えているだ、俺は。
食器を流しに持って行き、テレビを消して部屋へと戻る。
ごろんとベッドに寝転び、目を閉じた。
無論、眠たい訳ではない。ただ、そうしていたい気分に襲われたのだ。
ぐるぐると頭の中を先ほどの考えが巡り回る。
バカバカしい。そうわかってはいるが、思考は俺の意識を離れて加速していった。
例えば、こういうのはどうだろう。
遠島は何か精神病に犯されていて、俺を恋人だと思い込んでいる。だからああした態度が取れるのだと。
しかし、すぐに却下するに足る根拠は見つかった。
もし本当に精神病患者なら病棟に隔離されているはずだし、学校なんかに顔を出したりしないだろう。また、周りがそんなことを許すとは思えない。
では、あれは何だ? どうしてあいつはああやって俺につきまとう?
よく知りもしない男に、ああやって笑える?
俺は遠島の心情が理解できず、混乱していた。
どうして? なぜ? そんな言葉ばかりが頭の中で反芻する。
考えていても拉致が明かない。
俺は目を開け、上体を起こした。
まくら元に転がしておいた携帯を手に取る。
「……ああ、悪いな、今から会えるか?」
そうして俺は、とある人物に電話をかけた。
1
指定した場所に四ノ原がやって来たのは、俺が到着しておおよそ二十分ほど経った頃だった。
「……おせーぞ」
「急な呼び出しにしては、頑張った方だと思うんだけど」
四ノ原は慌てて来たらしく、はあはあと息を荒くしていた。
俺の憎まれ口に、四ノ原が軽く睨みつける。
「それで、一体何の用なの? こんな時間に女の子を呼びつけるなんて、よほどの理由があるんでしょう?」
「女の子……ねぇ」
「何? 何か文句でも?」
「いいや、何でもないよ」
俺は肩をすくめ、四ノ原の怒気を受け流した。
そうして、彼女が急かすのに応えるように早速本題に入る。
「四ノ原、おまえから見てあいつはどう見える?」
「あいつって……遠島さんのこと?」
「ああ。あの遠島のことだ」
「どうと言われても……君にべったりなことを除けば、どこにでもいる普通の女子だと思うよ?」
「ん……まぁそうだよな」
「それがどうかしたの?」
「別に」
ヒラヒラと手を振り、何でもないことを示す。四ノ原は若干不満そうだったが、その原因を探っている余裕は俺にはない。
「普通って言葉がゲシュタルト崩壊しそうだ」
「ま、唯一の問題である君にべったりという点が最大の難点なんだけど」
「んー、まぁそうだよな」
常識的な思考を持っている人間なら、その解釈は適当だろう。
なぜなら、通常はたった一度だけ顔を合わせた人間を好きになるような奴はいないからだ。
世の中には一目惚れという言葉もあるようだが、今の状況には当てはまらないだろう。
ではどうして、遠島は俺に対してあそこまでの愛情表現をしてくるのか。
「あいつ、一番最初に会った時様子がおかしかったんだよな」
「様子がおかしかった? どんなふうに?」
「どんなって聞かれると答えづらいんだけど……何つーか、別人みたいだったというか」
一昔前の、それこそ前世の記憶でも乗り移ってるんじゃないかってくらいの変貌ぶりだった。
しかしその後はすっかりなりを潜めている。多重人格障害というにはいささか妙だ。
俺はその道の専門家じゃないから、はっきりしたことは言えないけど。
「んー、それにしても……ねぇ」
「何だよ?」
「いやー、別にぃ」
「にやにやすんな、気持ち悪い」
「そうやってずけずけと思ったことを口にできることは美徳だと思うよ。けど、少しは相手の気持ちも考えないと人間関係こじれちゃうと思うんだ。わたしだからいいけどさ」
四ノ原はやれやれといった様子で首を振った。
はぁ? 何言ってんだ、こいつ。
「何が言いたいか知らないが、おまえにそんなことを言われる筋合いはない。それに、俺はおまえみたいに大人ぶったりはできないから、多少子供じみた言動は大目に見てくれ」
「わたしはいいって言ったよ? 君の救えないほどの子供具合は把握しているつもりだし」
さすがは中学時代からのつきあいだ。よくわかっている様子で。
俺は四ノ原のそうした部分が好きだった。下手な男子より好感が持てる。
今時の男連中はナイーブでいけない。少し強めに当たるとすぐにへっぴり腰になるからな。
その点四ノ原なら、多少の暴言には動じないし何なら言い返してくる度胸もある。俺の友達としてこれ以上の奴はいない。
どうして四ノ原が男じゃないのだろうと、たまに本気で考えてしまいくらいだ。
「それで? 結局のところ君は何が言いたいの?」
「遠島の言っていたこと、信じていいもんかと思ってよ」
「彼女が君を好きってこと? いいんじゃない、別に」
「ずいぶんと軽いんだな」
まぁ自分のことじゃないし、仮にこれで俺と遠島の仲が悪くなってしまったとしてもこいついには何ら影響はないしな。
ま、俺とあいつの間には悪くなるような仲なんて元々ないんだけど。
「軽く言ったつもりはないよ? けど、うだうだ考えていても拉致が明かないでしょ? それに、君は考えるより先にまずやってみちゃうタイプだと思うな」
四ノ原のずいぶんな言い様に、俺は思わず肩をすくめた。
「酷い言われようだ。まるで後先考えないバカだと言われている気分だぜ」
「事実そうだと思うけど。それにわたし、結構オブラートには包んだつもりなんだけどな」
「本気でそう思ってるのなら、オブラートに包むって言葉の意味を調べた方がいい。きっと思い違いをしているだろうから」
「そんなことはないよ。そんなことより君こそさ」
「何だよ?」
四ノ原は腰に手を当て、困った子供を見るような目で俺を見てくる。
何だ、その顔は。
「どうしてそんなに慎重になるの? 君、遠島さんのこと嫌い?」
「嫌い……じゃないが、別に好きでもない。そもそも俺はあいつのことをそんなに知らない」
だから、好きとか嫌いとか、そんな次元の話じゃないように思う。
「けど、遠島さんはあなたのことを好きなんでしょ? だったらいいじゃん、つきあっちゃえば。それで見えてくるものもあるかもしれないよ?」
「おまえ、人ごとだと思ってテキトーなこと言ってるだろ?」
「こんな時間に乙女を呼び出しておいて、そんな青臭い話を振ってくる方が悪い」
「……ま、それはそうだな。呼び出して悪かった」
こいつにこれ以上何を聞いたところでムダだろう。
俺は踵を返し、後ろ手に四ノ原へと手を振った。
そんな俺の服の裾を、ガッと掴んでくる。
「ちょっと待って。もう帰る気?」
「は? あたり前だろ? 明日も学校はあるしな」
「普段まじめに授業受けてから言いなよ、そういうことは。……じゃなくて、わたしを一人で帰す気かってこと」
「何? おまえ高校生にもなってお化け怖いとか言い出す奴? 大丈夫だって。そんなのただの迷信だ。何も起こりゃしないよ」
「ちがっ……そういうことじゃなくて」
言い淀み、もじもじとし出す四ノ原。
まぁ、四ノ原の言いたいことは大筋でわかっていた。
夜、暗い夜道を乙女が一人で帰るのは色々と問題があると言いたいのだろう。
が、あいにくと俺はそこまで四ノ原に尽くしてやるつもりはない。
ここは四ノ原の言い分に気のつかないふりをしてさっさと帰るのが上策だろう。呼び出したのは俺なのだから、送って行くのが筋なのだろうがぶっちゃけ面倒臭い。
だからまぁ……がんばれ四ノ原。応援はしてるから。
俺はヒラヒラと手を振り、その場をあとにした。
また明日からあいつの相手かぁ……疲れるなぁ。
背後でぎゃーぎゃー喚く四ノ原を無視して、俺はそんなことを考えていた。
2
そして翌日。おおよその予想通り、遠島はぴったりと俺の側にくっついて離れなかった。
……何だこいつは?
俺の腕に自分の腕を絡め、ニコニコとご満悦のご様子だ。
それに反し、俺はさっきからクラスメイトやその他大勢から殺意の籠った視線を向けられて大層困っているのだが。
しかし遠島はそんなことに気づいた様子もなく、終始笑顔だった。
一体何がそんなに楽しいのか。
俺は「はぁ……」とため息を吐いて、チラと四ノ原を見やった。
昨日の今日だ。当然ご機嫌ななめなんだろうなと腹をくくっていたが、案の条俺腹の虫の居所が悪い様子で、俺と目が合うなりぷいと逸らしてしまう。
他の連中は軒並み俺と目を合わせようとしないか、血の涙を流すような奴らばかりでてんで話にならない。
中には俺と遠島を祝福する様な輩まで現れる始末だ。
「わたしたち、ずいぶんとみんなから好かれているのね」
「……いいから離せよ。授業が始まる」
「嫌、ずっと一緒にいますから」
「何を言っているんだ、いい加減に……」
「もう二度と、離れることは嫌ですよ」
「? 何を言っているんだ、おまえは?」
遠島がまた妙なことを言い出したので、俺は思わず眉を寄せた。
二度と……? 俺と遠島はただの一度たりとも出会ったことはないはずだ。なら、生き別れになったこともないはずなのだから、その言い分はおかしいと言える。
「おまえ……」
「あっと、ごめん。もう授業が始まるね」
「遠島、待て……」
どういうことかと尋ねる暇もなく、遠島が自分の席へと行ってしまった。
それからすぐに、先生が入って来たので俺はついぞ遠島にそのことを訊ねる機会を逸してしまったのだった。
無論、その後の授業に身が入る訳もなく、俺はただただムダに時間を浪費したのだった。
3
そして、その日の授業が全て終了した。
俺はぐったりと机に突っ伏しする。
「つ、疲れたぁ……」
「どうしたんだよ? ずいぶんとお疲れじゃねぇか」
「ん? ああ、何だおまえか」
「んで、どうしたんだ? 遠島さんと何かあったのか?」
クラスメイトの一人が興味津々といった様子で訊ねてくる。
俺はこいつの態度が心底うざかったので、軽くあしらうことにした。
「別に。ただ疲れただけだ。昨日の夜は遅かったから」
「何……だと? 昨日の夜は遠島さんと一緒だったのか!」
「どうしてそうなるんだ? 俺はただ、昨日は寝つくのが遅くなったと言っただけだろ」
「だっておまえ……他に遅く寝る理由なんてないだろ?」
「おまえが何を言ってるのかわからないが、たぶんおまえの想像とは違うぞ」
俺はそいつの発言を全面的に否定してやる。
すると、そいつはどこか残念そうに、そしてホッとしたように吐息した。
「ま、何だっていいさ。ところでこれから俺たちカラオケに行くんだけど、おまえも来るか?」
「……いや、止めておく」
「そっか。わかった」
そいつと手を振り合い、別れる。そいつがカラオケにいくメンバーと合流するところまでを見届けて、俺もさっさと帰り支度を進める。
教室から出ようとしたところで、ふと遠島の姿が見当たらないことに気がついた。
そういえば、今朝のあれ以来顔を見ていない気がする。先に帰ったのだろうか?
俺は警戒の意味も込めて、左右背後を見回した。
けれど、遠島がどこからともなく飛びついて来る気配はなく、ホッとする。
「ま、そりゃあそうだ」
今朝あれだけの羞恥を周りに撒き散らしたのだ。ちょっとやそっとのことじゃ回復できないだろう。
そして、それは俺にとっても好都合だった。何せもう二度と……と言うと大袈裟か。
大体あと二、三日は大丈夫だろう。たぶん。
そうであってくれないと困るのだが。主に俺の精神がもたん。
と、俺がそんなふうに考えていると、コツンと俺のアキレス腱あたりを蹴りつけてくる気配があった。
「ちょっと、邪魔なんだけど。何ボーッとしてるの?」
「……ああ、悪いな」
振り返ると、そこにはじとーっとした視線で俺を睨んでくる四ノ原の姿があった。
彼女は俺が振り返ってもなお、足を蹴るのを止めようとはしなかった。向こう脛の同じ箇所が何度も蹴りつけられているせいで、かなり痛いのだがこれは怒ってもいい案件なのだろうか?
しかし四ノ原はなぜかご立腹の様子だ。ここは大人しく道を譲るべきだろう。
俺は廊下に出て、すぐに壁際に張りついた。特に意味があった訳じゃない。ただ何となくだ。
かくして、四ノ原は俺の前を通り過ぎて行く。その背後を、俺は四、五歩ほど遅れてついていく。
ストーキングのつもりはない。ただ目的地が同じなのだから、当然道のりも同じになるに決まっていた。
だが、俺が背後にいるのが気に入らなかったのだろう。
四ノ原は唐突に足を止めると、バッと振り返った。
「どうしてついて来るの?」
「いや、俺も帰ろうと思ってたし……」
「だったら、もう少し時間をずらしてくれない? 今は君の顔を見たくないんだよね」
「な、何だってんだよ? 何でそんなことを?」
「ふーん? そんなこと言うんだ。わたしに聞いちゃうんだ」
四ノ原は頬を膨らませて、ぷいと顔を背けてしまう。
えーと……何でこんなことに? 俺が一体何をしたと言うんだろう?
「な、なぁ四ノ原……どうしたんだよ? 俺、何かおまえを怒らせるようなことしたか?」
「ふーん……ふぅぅぅん!」
ギラリと四ノ原の眼光が鋭くなる。
俺は思わず「ひっ……」とか情けない声を出してしまった。
しかし、四ノ原はそれ以上俺に何か文句を言ってくることもなく、踵を返した。
「じ、じゃあな」
「…………」
一応挨拶はしてみたが、返事はなかった。
どうしたんだ、あいつ?
「どーしたの?」
「ん? ああ、何だおまえか、遠島」
「何でそんなに残念そうな顔をするの? わたしはこんなに嬉しいのに」
「俺は全く嬉しくないがな」
ああ、平和な終日を迎えられると思った矢先にこれだ。
遠島は俺に近づいてくるなり、あたり前の様に腕を絡めてきた。
最早、日常の光景となりつつあるこの儀式に、しかし俺は絶対に屈さないことにしている。
どんなにいい匂いがしようと、どれほど女の子の体が柔らかかろうと、だ。
「離せよ」
「いーや。絶対に離さない」
「おまえ、人目とか少しは気にしろよな」
「どうして? わたしとあなた、二人がいればそれでいいじゃない」
「ぐっ……」
どうしてそう恥ずかしい台詞を平気な顔で言えるんだ。
俺は全身が熱くなるのを感じて、無理矢理に遠島の腕を振り解く。
「いたーい」
「自業自得だろ。……ったく、ふざけやがって」
「ふざけてなんかないのに。なんでわからないかな」
「わかる訳ないだろ、バカかおまえは」
俺は言うだけ言うと、遠島の早足で遠島の前から消える。
廊下をほとんど走るような速度で進み、角を曲がった。壁に背をつけ、背後を伺う。
遠島が追って来ている様子はなかった。だから、ホッと胸を撫で下ろす。
だが、それも束の間のことだった。
「先ほどのあれは……どういうことかしら?」
「げっ……!」
俺は思わずのどを詰まらせた。
それというのも、俺の前の前には一人の女性教師がいたからだ。
長い黒髪。豊満なバスト。
白衣姿の内からでも滲み出る、大人の色気。
その全てを台無しのするほどの強靭な怒りのオーラが、彼女から漂っていた。
「飯田……先生」
「私の質問に答えてくれるかしら、君? 先ほどのあれは一体何だったのかしら?」
さあさあさあ、と答えを要求してくる飯田に、俺はたじろいでしまう。
「あれは、何でもない……」
「何でもない? 公衆の面前であんなに密着しておいて、その言い草はないでしょう? いいから、白状しなさい」
「な、何で飯田先生がそんなこと気にするんだよ!」
「私はあなたの姉として、あなたが間違った道に陥らないよう指導する義務と責任があるの」
「こんなところでそんなこと言うなよ、一葉姉さん」
「こら、学校では先生でしょ!」
ビシッと胸に抱えていた出席簿で俺を指し示してくる。
そこには自分が失言をした、などということに気がついている様子はなく、自らの正しさをただひたすらに信じているかのような色合いさえあった。
「わかってる? あなたたちはまだ高校生なの。大人じゃないの。学生の本文は勉強であって断じて不純異性交遊なんかじゃないわ。そこのところ、男である君がしっかりしないとだめなのよ? わかった?」
「わかった、わかったからそのへんにしてくれ、飯田先生!」
俺はたまらず、悲鳴じみた声を出す。
すると、そこでヒートアップしていたらしい、飯田一葉姉さんはようやく我に帰った。
キョロキョロと周囲を見回す。さっきのやりとりが聞かれていないかと心配したのだろう。
もう遅い気がしなくもなかったが、俺はそれ以上の口を開くことはしなかった。
一葉姉さんはこほんと咳払いをすると、顔はほのかに赤く染め、最後に一言。
「いい、何かあったら男の子が責任を取るのよ、わかった?」
「わかったよ、そんなこと、耳にタコができるくらい聞かされたっての」
俺はうんざりして、肩を落とした。
全く、何だって俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
それもこれも、遠島のせいだ。
「わざわざそんなことを言うために俺の前に出て来たのかよ?」
「いいえ、少し違うわ。これを渡しに来たの」
そう言って一葉姉さんが差し出して来たのは、一枚のコピー用紙だった。
俺はそれを受け取って、目を落とす。
「……休学届け? 何だこれ?」
「これを遠島さんに渡して欲しいの」
「何で俺がそんなことを? 他の奴に頼めよ」
「あなたが一番彼女と仲がいいからよ。他の生徒と親しくしている姿を見たことがないもの」
「俺だってそんなに親しいつもりはないんだけどな。……というか休学って、この間退院したばかりのはずだろ?」
「……まぁ色々あるのよ、色々」
「何だよ、色々って?」
「とにかく、頼んだわよ」
見事に俺に仕事を押しつけると、一葉姉さんはそそくさと姿を消した。
大方顧問をしている部活に顔を出しに行ったのだろう。ええと、確か家庭部だっけ?
そんなことはどうだっていい。
俺はその休学届けを見つめたまま、どうしたものかと思い悩んだ。
これを遠島に届けることは簡単だ。
ただあいつの前に行って、この紙を渡す。それで俺の仕事は終わりだ。
しかし、俺には何だか、その単純な仕事が滞りなくこなせる自信がなかった。
どういう理由かはわからなかったが、そんな気がしていた。
とはいえ、このままこれを持っておく訳にはいかないだろう。
俺はボリボリと頭を掻いてため息を一つ。それから、遠島に休学届けを届けるべく、来た道を戻る。
そういえば、どうして遠島は俺を追って来なかったのだろう。
いくら早歩きをしていたとはいえ、廊下は一本道。それに俺が角を曲がったことはあいつからも見えていただろう。
なら、追って来ない理由がない。あいつが本当に俺を好きだというのなら、だが。
「……考えていても仕方がない、か」
遠島と別れたあたりまで戻った。だが、遠島の姿はどこにもなく、俺は仕方なくそのへんにいた同級生に遠島の居場所を訊ねた。
ほとんどの連中は知らないと言っていた。
それでも諦めることなく、更に数人の生徒に訊ねて回る。
これでは、俺があいつを……遠島を求めて探し回っているかのようだ。
全くそんなことはないのだが、そんな考えにとりつかれて、途端にバカバカしくなる。
明日になったら学校に顔を出すだろう。その時に渡せばいい。
俺は既に署名のされた休学届けに再度目を落とし、下駄箱へと向かった。
そこにも、遠島の姿はなかった。
俺は靴を履き替え、昇降口を出る。
校門をくぐり、さて帰路につこうとしたところで、不意に沸き起こった悲鳴に思わず振り返った。
そして、目を見開く。驚きと、何よりぞわぞわと体中を這いずる恐怖心から。
「な、何してんだ、あいつ!」
学校の屋上。普段は立ち入り禁止とされているその場所に、見知った顔がいた。
縁の更に縁に立ち、目を閉じて気持ちよさそうに風を浴びる遠島。
両腕を広げ、今にも羽ばたこうとしているかのようにすら見える。
俺は思わず駆け出していた。
靴を履き直すことも忘れて、屋上へ向かって一直線に。
普段、それほど運動が得意な方じゃない。精々、階段を昇り降りする程度だ。あとは体育の授業か。それでも息が切れることが多いし、運動不足だと自覚するような事例は数を挙げればきりがない。
それでも、学校の一番下から一番上まで休まず走り続けることがこれほど辛いとは思わなかった。
心臓に過分な負荷がかかっていることを知らせるように、どくんどくんと脈を打っていた。
呼吸も荒くなり、肩が大きく上下する。
俺は屋上の入口手前で一旦立ち止まり、膝に手を突いた。
荒くなった呼吸を整え、ドアノブに手をかける。
別にあいつは死のうとしていた訳ではないのだろう。自殺をする理由が見当たらない。
だから、急ぐ理由はない。よほどのアホでない限り、不注意で足を踏み外すということもないだろうから。
だから、俺は一葉姉さんから受け取った休学届けを手渡しに来てやっただけだ。こういう面倒事は、さっさと終わらせるに限る。
「……おい、何してんだよ」
「? ……ああ、何だ」
振り返った遠島の顔は嬉しそうで、でもどこか残念そうだった。
俺はそのことを怪訝に思いつつ、遠島に歩み寄った。
ガッと、その手を乱暴に掴んで、屋上の縁から遠ざける。
「どうしたの? ずいぶん慌ててるみたいだけど?」
「おまえが変なことしてるからだ。何してんだ、危ないだろ」
「心配してくれたの? ふふ、嬉しい」
ニコリと、遠島が微笑んだ。
俺はその笑顔に苛立ち、思わず声を荒げてしまう。
「何をバカなこと言ってんだ! 一歩間違えればおまえ、死んでたかもしれないんだぞ!」
「……ふーん? 別にそれでもいいかなって思ったんだけど」
「はぁ? 何を言って……」
「ん? それ何?」
遠島が俺の持っていた紙を指出して問うてくる。
「あっ……これ、渡してくれって頼まれて」
休学届けを遠島に手渡した。
遠島はそれを、まゆ一つ動かさず無表情で受け取る。
「そいつは一体どういうことなんだ?」
遠島が復学したのは、つい先日のことだ。にもかかわらず、休学。
これは一体どういうことなのだろう。
「気になる?」
「当然だろ。こんなこと、そうそうないからな」
「ふーん……でもだめ、まだ教えない」
「まだ……ということはその内教えてくれるということ?」
「その通り。でもまぁ、ひとつだけ教えてあげてもいいよ」
遠島は得意げに笑うと、スッと人差し指を一本、自分の方に向ける。
「わたしはね、わたし以外の人のためにあなたを好きになったの」
「は? 何だそれは? まるで意味がわからないんだが」
「今はわからなくていいんだよ。その内理解できる時がくるから」
「その内っていつ?」
「さぁ? それはわたしにもわからない」
遠島は肩をすくめ、俺の隣を通り過ぎる。
屋上から出て行く彼女の背中を、俺は黙って見送ることしかできなかった。
その内わかる。……確かに遠島はそう言った。
自分のために俺を好きになったのではないとも。
それらの答えの意味するところがわからず、俺はただ困惑した。
どういう意味なのか。問いただしても、彼女はまともに答えてくれないだろうことは明白だった。なら、ムダなことだ。
俺はハッと我に返ると、遠島の背中を追う訳ではないが屋上を出た。
遠島が騒ぎを起こして俺まで屋上にいたとなれば、また一葉姉さんから何を言われるかわかったものじゃないからな。
その日はそれ以上、何も妙なことは起こらなかった。
4
翌日。昨日の遠島の件が話題になったことは言うまでもない。
そして、俺が真っ先に駆け出し遠島を一喝する声もばっちり聞かれていた。
そんな訳で、俺と遠島は揃って生徒指導室に呼び出され、説教と反省文を書かされていた。
「……何で俺まで」
「いいじゃん。わたしなんてあなたの三倍はガミガミ言われたし、反省文の量もおおいんだから。文句言わない」
「第一、おまえがあんなことしなかったら俺は屋上に行く必要なんてなかったんだからな?」
「ふふ、心配して駆けつけてくれるなんて。本当に嬉しかった」
「おまえたち、私語せずにさっさと書け」
生徒指導の先生に指摘され、俺と遠島は反省文へと戻った。
そうは言っても、俺の方は書くことなんて何もない。一応俺は隣で反省文を書いているバカを止めに行った立場なのだから。反省が必要な箇所など一ミクロンも存在しなかった。
「先生、ちょっと気が散るので出てってくれませんか? より正確には彼と二人きりになりたいですはい」
「バカ言うな。おまえたちを二人にしたらいちゃつくだけで全然書かないだろう。反省しないと意味がないんだぞ? そのための反省文だ」
「先生、何か勘違いしているんじゃ……?」
このバカの言うことを真に受けてはいけない。こいつは全くアホなことしか口にしないのだから。だから俺は最早、こいつの言うことのいちいちを鵜呑みにしないことにしている。
それはこれまでの短いつきあいの中で、よく思い知らされた。
「……よし、終わったぁ」
「うそ、もう?」
「ま、俺はおまえより枚数少ないしな。んじゃ、お先に」
俺はたった今書き終わった反省文を生徒指導の先生に提出し、生徒指導室を出た。
背後で遠島がぎゃーぎゃーと何か喚いていると思ったら、先生に叱られているというやりとりが聞こえてきて、俺はくすりと笑ってしまった。
全く……忙しい奴だ。
遠島のアホさ加減にはほとほと呆れてしまう。
俺は教室に戻る直前。ドアに手を伸ばしかけて、ふと動きを止める。
すぅー……、とわずかにいつもより多く息を吸う。
このドアを開けたら、クラスメイトたちの注目に晒される。茶化され、バカにされる。
それは仕方のないことだ。俺の行動はそれほどに軽率だった。
けどそれ以上に、遠島の行動が今の俺の状況を招いている。おおよそ、彼女が原因と考えて間違いはない。
面倒だ。どうやって切り抜けよう。どんな反応を見せれば、この向こう側にいるバカどもは納得するだろう。
俺が想像している以上のなんて、聞かないでおいてくれるだろう。
俺は脳内でシュミレートする。
例えば、日頃からの俺と遠島の仲を知っている連中なら、下世話な勘ぐりをしてくるだろうと予想できる。なら、こちらはそれを肯定も否定もせず、ただ笑っていればいい。時々肩をすくめて、困ったような顔をしていれば、相手は勝手に自分の頭の中で勝手な答えを想像し、納得するだろう。
そのあたりは、それでいい。事実は俺と遠島の間には何もなく、俺たちは交際なんてしていないただの同級生だ。
俺は遠島から言い寄られる哀れな男子。遠島は目当ての男子を口説き落とそうと躍起になる醜い女子。それで何も問題はない。
では、違うパターンも想像してみよう。
例えば、俺とあいつとの関係性について訊ねられたら? 当然まずは否定する。
赤の他人だと、自信を持って言ってやる。そうしたら、きっとバカなあいつらは黙って俺の言うことを信じるだろう。
前者は少々面倒だが問題はなく、後者は一切の問題もない。
どちらに転んでも、俺にデメリットはない。何もない。
俺は脳内シュミレートを終え、ドアを開いた。
バッと。一斉にみんなの視線が俺に集まる。……ことはなかった。
疎らに、ちらちらと見てくる輩はいる。それでも、ほんの数人だ。
あとはみんな、落ち着いていた。冷静そのものだった。
下世話な勘ぐりも俺と遠島の関係性を問いただしてくるバカもいなくて。
ただいつものように、ざわついた雰囲気だけが教室を支配していた。
「どうしたの? 早く入りなよ」
そう言って俺に入室を促してきたのは、四ノ原だった。
彼女は頬杖をつき、つんと唇を尖らせて、俺の方を見ている。
まるで、感謝なんか望んでいないと、言外にそう語られている気分だ。
「あ、ああ……」
俺は困惑の体で、教室に入った。
ちらちらと見られている感覚はこそばゆく、俺の方が落ち着かない。
俺は自分の席に座ると、居ずまいを正した。
何か、妙は質問が飛んできはしないだろうかと身構えた結果だ。
しかし、俺の予想に反して質問も下世話な勘ぐりも妙な問いも、何もなかった。
きっと、四ノ原が何かしたのだろうことは明白だ。でなくては、こんなふうにはならない。
一体何をしたのか。すごく気になるところだったが、今はいい。重要なことじゃあない。
わずかに身を乗り出すと、前の席に座っていた四ノ原に言った。
ありがとう、と。
四ノ原は一瞬俺を振り返ったが、特別反応を見せず、再び前を向いた。
ほどなくして、教室前方のドアが開き、先生が入ってくる。生徒指導の先生ではない、俺たちの担任の先生だ。
先生は教卓に荷物一式を置くと、キッと俺を睨みつけてきた。
いやいや、そんな目で見られても困る。大抵は遠島が原因なのだから。
俺はふぅと吐息すると、先生から視線を外した。
そこで、休学届けのことを思い出す。
今日、遠島は学校に来ていたな。では、あの休学届けは何だったのだろう。
学校を長期間休むために休学届けを受け取っていたはずだ。だというのに、なぜあいつは学校に来ていた? わざわざ反省文を書かせるために学校側が呼び出したとは考えにくい。
なら、彼女自身が望んで登校して来たことになるのだろうか。休学を必要とする体調で? それはそれで考えづらいな。
俺がそんなふうに考えこんでいると、HRはすぐに終わった。
がやがやとみんなが席を立つ。1時限目は確か移動教室だったな。
俺もみんなと同じように準備をして、席を立つ。
考えるのはここまでだ。今はただ、漫然といつもと同じ行動を心がけよう。
教室を出る際、ちらっと後ろを振り返った。
一番最後まで残っていた四ノ原と目が合う。
そういえば、四ノ原は一体何と言って、みんなを説得してくれたのだろう?
5
午前の授業を全て消化し、過度な頭脳労働のお陰で糖分を失い空腹を訴える腹を抑え、ようやく食堂へとたどり着く。
俺は食券機の前で、どれにしようかと悩んでいた。けど、そんな俺の一時の幸せを台無しにする輩が現れた。
四ノ原は俺の襟首を掴むと、ずるずると俺を引きずってどこかへと連れて行こうとする。
俺は必死に抗議したが、無論聞き入れてもらえるはずがない。
どこへ行くのか、という問いにすら、無言が返ってきたくらいだ。
果たして、周囲の好奇の視線に晒されながら、俺は四ノ原に連れられて屋上へとやってきた。
特に解放されているという訳でもないが、規制されているという訳でもない。
だけど、先日の遠島の一件以来、誰も屋上には近づかないようになっていた。
俺だって、本当なら来たくはなかった。これは不可抗力という奴だ。
「……何で俺をここに連れて来たんだよ」
「話があるからに決まってる」
「話……まさか告白でもされるのか、俺?」
「告白といえばそうかもしれない」
「は、はぁぁ!」
マジか、マジで言ってんのか、こいつ。
俺は驚きのあまり目を見開いた。ついでに開いた口が塞がらなかった。
「どうしておまえが俺に告白なんか……」
「落ち着いて」
「こ、これが落ち着いていられるか!」
こ、告白だぞ、告白。俺、女子からそんなことされるの初めてだ。
あ、遠島は当然ノーカンで。
「……実はわたし、ずっと前から」
「ご、ごくり」
「……君とつきあってることになっていたらしいんだよね」
「……へ?」
四ノ原が口にした言葉の意味がわからず、俺は目を点にした。
「ど、どういうことだ? えーと、つまりおまえは何が言いたいんだ?」
「だから、わたしと君がなぜかつきあっていて、恋人同士ってことになってるって」
「何でそんなことに? 別に俺とおまえはつきあってないよな?」
「あ、あたり前じゃん。でなかったらわざわざこんなこと言わないし」
「だ、だよな……うん」
つきあっているとか恋人同士とかいう単語が引っかかっているのか、四ノ原はカァァッと顔を赤くしていた。……結構初心な奴なんだな。
しかし意外だった。俺と四ノ原がそんなことになっていたなんて。
「た、確かにわたしと君って仲いいと思うし、割と一緒にいる時間も長かったりするから周りから見たらそう見える、んだろうけど」
「それで? 言いたいことはそれだけか?」
そんなもん、一言違うと否定してやれば済む話だろう。
俺は何だか拍子抜けした気分になって、ぽりぽりと頬を掻いた。
「ちょっ……そんな呆れたような顔しないでよ、わたしがバカみたいじゃん!」
「別にそんなことは言ってないが。それで、愛の告白じゃないなら何だってんだ? こんなところで二人きりでいたら、また変な誤解されるんじゃないか?」
「それはそうだけど……じゃんなくて、話はここから」
四ノ原はぶんぶんと頭を振った。
そうしてから、自分が意図する話題に転換する。
「それで言われたの。君が遠島さんと浮気をしているって」
「浮気って……ま、つきあってると思ってるなら仕方がないか」
俺と四ノ原がそういう関係でないように、遠島と俺も全くそういう恋人とかのあれじゃない。
にもかかわらずそう言われてしまうのは、つまり誰しもスキャンダラスな結末を望んでいるということだろう。
だが悪かったな。俺たちの間に三角関係的なノリは存在しない。
「それこそ、普通に否定してやればいいんじゃないか? こちとら別にやましいことなんて何もしてない訳だし」
「それは……そうなんだけど」
四ノ原は困ったように目を逸らし、視線を泳がせる。
どうしたんだろう?
「そのことが遠島さんの耳に入ったらどうする?」
「あー……なるほど」
ようやく、四ノ原の言わんとしていることがわかった。
ようするに、四ノ原はこう言いたいのだ。
俺と四ノ原がつきあっている。俺は遠島と浮気をしている。
本気かどうかはわからないが、そういう噂のようなものが飛び交っている中で、俺と四ノ原の交際説を遠島が耳にしたら、きっとあいつはこう言うだろう。
二人はそういう関係ではなく、むしろ自分こそが俺と恋人の関係にある、と。
それは面倒だ。非常に面倒だ。
だからこそ俺は、そうしたことをどうにかする必要がある。
四ノ原が言いたいのは、そういうことだろう。
「それで? おまえには解決策があるかのような言い方だな」
「解決策なんて言えるほどのことじゃあないけどね。ただまぁ一つだけ」
四ノ原は人差し指を一本立てると、しぶしぶといった様子でその名案を口にした。
迷案、だったかもしれないが。
「君とわたし、二人が本当の恋人になっちゃえばいいと思うんだよ」
「はぁ……それで?」
「え? ええと……それだけだけど」
「それだけっておまえなぁ」
その程度のことで噂が収まるとは思えないし、何より遠島が納得するとも思えない。
それに何をおいても俺たちだ。そんなことで恋人になったってろくなことはない。
ただの時間のムダだと思う。
「解決策を提示してくれるのはありがたいが、俺はそんなことに頓着しない」
噂は噂だ。何をどう言い広めたところで、事実ではない。
それにこの程度なら、その内自然消滅してくれる。最悪の場合でも、卒業まで我慢すればいいだけの話なのだから。
「何が問題があるようには思えない」
「君は、今のままでいいと?」
「いい……とは言わないが、まぁそう騒ぐほどのことではないかと思う」
「ふーん。……ま、君がそう言うのならわたしは別にいいんだけどね。それより」
「ん? 何だよ?」
「…………何でもない。それじゃあ戻ろう。とはいえ、お昼食べそこねちゃったね」
「誰のせいだと思ってるんだ」
四ノ原が一瞬見せた、曇ったような表情。それがどうにも引っかかった。
が、俺が四ノ原の心境を察してやることができない以上、彼女に何かをしてやることもできないのはわかり切ったことだった。
俺は四ノ原に続いて、屋上を出た。
その間際に一度だけ、振り返る。
あの時、遠島は何をしていたのだろう。何を、考えていたのだろう。
俺には、それがまだわからなかった。
6
「雨だね」
「雨、だな」
「傘、忘れちゃった」
「そうだな、傘忘れちゃったな」
「……どうやって帰ろうか?」
「迎え呼べば? 俺一人なら濡れて帰っても問題ないし」
「だめだよ、風邪引いちゃう。そしたら学校で会えなくなる」
「どうしてそう思う? 風邪なんて引かないかもしれないのに」
「引くよ、絶対。わたし、そういうのわかるから」
「すげーな。特殊能力じゃないか」
「……うん」
せっかく褒めてやったというのに、遠島の顔は冴えなかった。
俺はどうしたものかと周囲を見回す。
雨が降り出したのは、五時件目の終わりくらい。それから徐々に雨足は勢いを増して、次第にざあああああ、と小雨から大雨へと変化していった。
俺はこの日、傘を忘れていた。こんな日に限って雨が振るのだから、始末に負えない。
俺が昇降口前で呆然としてると、遠島も傘を忘れたらしくこうして俺たちは雨宿りをしている。せめて多少雨の勢いが弱まってくれれば、言うことないのになぁ。
「……なぁ、少し訊いてもいいか?」
「何? わたしに答えられることなら何でも訊いて」
「別に大したことを訊ねるつもりはない。ただ一つ、気になっていることがあって」
「うんうん」
俺は降り続く雨の中に視線を投げたまま、遠島の方を見ないで、訊く。
「おまえは本当に遠島なのか?」
「えっ……と、それは一体どういう意味、かな?」
遠島は明らかに動揺した様子だった。彼女のことを俺は見てはいなかったが、わずかに震える声音から、その心境を察することは容易だ。
「いや、時々おまえが別人に見えてしまうというか」
「え、ええ……何それ、よくわからないなぁ」
「ん、だよな、すまん」
くりっと小首を傾げ、疑問府を顔全体に貼りつける遠島。
俺はすぐに、遠島に謝った。別段押し通すような内容の話ではないし、俺自身何言ってんだと言いたくなるようなことだ。
俺はこほんと咳払いをすると、昇降口の中を見回した。
「な、何しているの?」
「あーいや、何つーか誰か傘忘れて帰ってないかと思って」
「え? 忘れて帰ってたらどうするつもり?」
「そりゃあちょっと借りて帰るに決まってる。このままここにつっ立っていても意味がないからな。おい、何だその顔は。明日にはちゃんと返すって」
遠島がじとーっと、責めるような視線を向けてくる。
何だよ、悪いかよ。……まぁ悪いことなんだろうけど。
「別におまえまで共犯になれと言うつもりはない。ただ俺のやっていることを見逃してくれればそれでいいんだ」
「だめだよ、そういうの。絶対にだめ」
「何でだよ? 第一、ここに傘を忘れて帰ってる連中なんて、傘がいらなかったってことだろ? それを俺たちで有意義に使ってやろうって言うんだ。何もバチは当たらないさ」
「それでもだめなものはだめ。悪いことには手を貸さないから」
「何だよ、強情な奴だな」
何でそこまで頑ななんだか。過去に何かあったのだろうか。
俺は傘置きに刺さっていた中から適当な色合いのものを一本取り出し、広げてみる。
中々に悪くないデザイン性だった。正直選り好みをするつもりはなかったが、即座にこれにしようと決めた。
「どうする? 入ってくか?」
俺は借りた傘を手に雨の中へと歩み出る。
くるりと遠島を振り返った。
「……いい、わたしは別の方法で帰るから」
ぷいっとそっぽを向く遠島。俺としては傘の中が狭くならずに済んでよかったというところだ。が、他に方法なんてあるのか?
俺は疑問に思いつつ、遠島に背中を向ける。
バシャバシャと水音を立てて、走った。
雨に興奮した、などと言うつもりはない。ただ単に、さっさと帰りたかっただけだ。
帰って何があるということもないのだが、この雨の中昇降口前で遠島と二人きりの空間なぞ耐えられるはずもなかった。
妙なことを言い出されるかもしれないしな。
「全く……バカだな、あいつも」
素直に入ればよかったのに。
俺は学校が見えなくなったあたりで走るのを止め、ゆっくりと歩き出す。
足元がすっかり濡れてしまった。あいつのせいだ。
この雨の中、あいつはずっとあの場所にいるのだろうか。
夜になれば空気も冷える。さっさと帰らず、風邪を引くのはあいつの方だ。
俺が困る訳じゃない。俺はちゃんと、傘に入って行くかどうか訊ねた。
それを断ったのは、あいつ自身の選択だ。俺がどうこう言うことじゃない。
つまるところ、俺は悪くない。どんな悪い結果に転んだとしても、それはあいつ自身の責任だ。
そうだ。あいつ自身の行いの招いたことだ。俺は、悪くない。
そう思い込もうと務める。しかし、思い込もうとすればするほど、頭の片隅で遠島の姿がちらつく。
「……ああ、くそ!」
俺は踵を返すと、再び走り出した。
学校へと向かう。校門を通り過ぎ、昇降口前へ。
そこで、俺は足を止めた。
大きく目を見開く。思わず傘を取り落としそうになる。
なぜなら、俺の目の前には傘も差さず、全身をずぶ濡れにして制服を体にぴったりと張りつかせた遠島がいたのだから。
「何してんだ」
俺は遠島に駆け寄ると、傘を差してやった。そのお陰で、自分の肩が少し濡れたが今更気にするようなことじゃない。
遠島はしばらくぼぅっとした様子で、俺を見据えていた。いや、俺を見ていたかどうかすら怪しい。俺ではない、ここではないどこか遠くを見ていたような、そんな印象を受けた。
「……あの日もこんな雨の日だった」
「遠島? どうしたんだ、いきなり」
「あなたが死んだと聞かされた日も、雨が振っていました。私は悲しく、辛くてたまらなかった。あなたが死んだと聞かされた時、まるで世界が終わったしまったかのような感覚を覚えました。あなたが、いなくなったと聞かされた時は」
「おい遠島、しっかりしろ」
「あなたが……あなたが」
がくっと、全身の力が抜け落ちたかのように、遠島の体が崩れ落ちる。
バシャッと、水はけの悪いコンクリートの上に、座り込んでしまう。
「なっ! 大丈夫か、遠島!」
俺はとっさに膝を突き、彼女を抱え起こそうとした。けど、雨に濡れた彼女の制服がぴったりと体に張りつき、予想以上に重く感じられた。
何とか苦労して遠島を立ち上がらせる。
乱れた髪が額に張りつき、異様な不気味さを演出していた。
じっと俺を見つめるその目には、一体誰が映っているのだろう?