雨降りの放課後
雨が降りだした時、
佐川華は算数の授業を聞きもせず、頬杖ついて校庭の遊具を眺めていた。
教科書の挿絵に落書きしながら、華はぼんやり外を見ていた。この退屈な時間も残り十数分我慢すれば終わるのだ。
それに、華にはもう一つ楽しみにしている事があった。もうすぐだ、もうすぐ……
「佐川さん、聞いているの?」
先生に名指しで呼ばれ、彼女はビクッと体を震わせた。ごめんなさい今考えてましたぁ、といい加減な相槌を打って、視線を黒板に移す。窓の外を何かが落ちていった気がした。
首を捻って、黒板を睨み、白い字で書かれた問をじっと見つめる。どういう式を使ったらいいかはわかるが、上手く答えが出てこない。これだから算数は嫌いなのだ。
やっとの事でそれらしいものを編み出し、チョークを握る。暗算しながら、早く時間が経つように、わざと遅く書く。
静かな教室に、白墨が黒板を規則正しく叩く音だけが響いていた。否、うっすら水の流れる音も聞こえていた。
華も、自分の胸の音が高鳴るのに気づいていた。
雨が校庭に、外の世界に降り注いでいた。
下校のチャイムが鳴ると、お馬鹿な小学生達は皆ランドセルを背負い、一斉に昇降口へ駆け出した。もう戦いごっこや漫画の話に興じて構わないのだ。
当然、華もこの時をずっと楽しみにしていた。特に雨の日は少々違った遊び方ができる。水たまりで足踏みしてパチャパチャ音を鳴らすのは楽しい。傘も遊び道具としては、色々使い道がある。剣道の真似事や、ひっくり返して雨水を沢山溜めることもできる。
それに、雨が降るとわかっていれば、お気に入りの傘と長靴で出かけられる。白地にピンクや黄色のお星さまの絵が入ったこのセットは、華のお気に入りだった。
勿論あまり濡れると風邪を引くし、泥水にでも足を突っ込もうものなら服はびしょびしょになる。そうして母親の雷が落ちるのだ。それでも華は雨の日が大好きだった。
興奮を必死に抑えながら、階段を駆け下り、昇降口に向かって走る。
「ハナちゃん、ろうかは走っちゃダメだよ」
同級生の女子一人がたしなめた。華はハタと立ち止まり、彼女の隣に並んでぎこちなく早歩きし始める。
「佐川ってさぁ、雨の日好きだよな」
「外遊びできねぇからつまんねぇのに」
すれ違った男子達が笑った。
「あたし、水遊びも好きよ」
去年の夏休み、市民プールに入る前に浴びたシャワーの事を、華は心のどこかで思い出していた。
下駄箱では薄水色の長靴が、一組並んで主の帰りを待っていた。買ってからまだ日も浅いこの靴は、つやつやしていて、雨水やぬかるみに飢えているようだ。
すぐお外に連れてってやるからね。
華は逸る気持ちを抑えつつ、両の足を片方ずつ靴に入れていく。形を整えられたゴムがキュッと足にフィットする感覚が気持ちいい。
次は傘だ。お星さま柄で、持ち手と膜の縁はマリンブルーで彩られた傘。彼女は鼻歌を歌いながら傘立てを探る。軽く硬いプラスチックの感触。これだ。
いそいそと出てボタンを押し、傘を開く。
次の瞬間、華は驚いて傘を放りだし、飛び退いた。
中からミミズやバッタ、その他よくわからない羽虫が飛び出してきたのだ(幸いとべる虫達は遠くへ逃げてしまった)。おまけにビニールの膜は穴だらけ。骨は変な方向に曲がっている。大方誰かに壊されたのだろう。
「何よこれ! あたし何にもしてないわ!」
失礼しちゃう、と彼女は傘を拾いに行く。柄に絡まったミミズを振り払い持ち手を見た。
驚いた事に、そこに書かれていたのは華とは別の名前だった。
「こいつ、〈バイキン〉じゃないの?」
華はそこにあった名前を呟く。
バイキン呼ばわりされていたその子の名前は、隣のクラスの友達から、何度か聞いた事があった。他にも聞えよがしに悪口を言われたり、持ち物を傷つけられたりと、彼女のクラスではある意味有名人らしかった。
ふと、彼女はある視線に気づく。
隣に〈バイキン〉がいた。怯えた顔で口を押え、同じ色合いの傘をもう一つ持っている。
「あ、あの、佐川さん?」
彼女はおずおずと口を開いた。
「そ、そ、それ、私のなの。た、た、多分傘立てを、ま、間違えたんじゃないかな。び、びっくりさせてごめんね」
そこまで言って、〈バイキン〉は顔を赤らめ黙ってしまった。目は涙で潤んでいた。後ろで数人の女子と男子が、面白がってクスクス笑うのが聞こえた。
華は彼女が持っている自分の傘と、手元にある壊れた傘を交互に見て、ちょっと考えた。
〈バイキン〉はまだ泣いている。目玉が融けやしないか、華は心配になった。
「ねぇ」口を開く。
「あたしの傘を貸してあげる。あんたはそれで帰れば? 今度返してくれれば良いから」
「でも……」「いいよ。こっちはお兄ちゃんに直させる。あんたも早く帰れば?」
そう言うと、華は彼女の傘を持ってさっさと行ってしまった。早くお家に帰って嫌な気分を振り払いたかった。濡れるのも、後ろの冷ややかな視線も、何も気にならなかった。
夜。華は兄と二人、壊れた傘を直している。兄がラジオペンチで金具を調節し、華はビニールテープで穴を塞ぐ。
「お前がボロボロの傘持って帰ってきた時には、また何やらかしたんだと思った」
兄は半ば呆れた調子で言った。
「あんまり心配かけるなよ。傘だって高いし、それにこれ、お前のじゃないんだろ?」
「あんな嫌な空気にいたくなかったんだもん」
と、華。
「その子、いじめられていたんだろ。お前も標的にされるかもよ」
突然、兄は、あぁ痛ぇ、と呻いた。指先に傘の金属片が刺さったのだ。人差し指の先を咥え、彼は絆創膏を持ってくるよう命じた。
「お兄ちゃん丈夫だから、ガムテープでも巻いておけば?」
「誰が手伝ってやってると思ってるんだ」
舌打ちされると、華はテープを放り出して大急ぎで救急箱を探しに行った。兄と協力しないと、こんな大仕事一人でできない。
「しかしまぁ」
彼は後ろから聞えよがしに言った。
「僕はお前の選択が大体正しかったと思うよ」
妹は何も言わなかった。だが顔を耳まで真っ赤にしていたのは、後ろ姿でもよく判った。
彼はそんな妹を一瞥すると、再びペンチを手に、継ぎあてだらけの傘の骨を曲げ直しにかかった。
〈一応終わり〉