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不意打ちの雨

 雨が降りだした時、

 葉山秋彦は大学からの帰り道、リュックを背負って、広い歩道をゆっくりと歩いていた。



 ボサボサの髪の間に、無精髭の生えた青白い頬の上に、雨の雫が落ちてきた。

 秋彦はハッとして辺りを見回す。空には黒雲が密集して、水を絞り出そうと待ち構えていた。

 肩を、腕を、洗い立てのスニーカーを、水滴が次々に濡らしていく。しかも段々雨足が強くなってきているようだ。

 風邪を引いてはたまらない。秋彦は駆け足で、天から降り注ぐシャワーから逃れようとした。

 硝子戸の大きく開かれた建物をうまいこと見つける頃には、彼はすっかりずぶ濡れねずみになっていた。


 建物の中には誰もいなかった。

 硝子戸をくぐると、受付のカウンター、黒い合皮の張られたソファ、よく茂った観葉植物があるばかり。秋彦が雨宿りに入ったここは、どうやら何かのオフィスらしい。受付係が一人位ついていても良さそうなものだが。

 彼は座って背中の鞄を下ろし、中を見る。今日大学で使った本とノートが数冊、布製の筆箱、それからキャラメルの箱が入っていた。折り畳み傘でもないかと思っていただけに、彼はちょっとがっかりした。

 取り敢えず座って、キャラメルを一粒食べる。走り回った所為でお腹が空いていたのだ。口の中一杯に甘味が広がり、濡れて疲れた体に染み渡る。

 暫く雨宿りさせて貰っても良いよな。

 硝子戸の向こうの様子をちらりと見て、秋彦は再び黒いソファに座る。それから新書を開いて、今日習った所を復習する事にした。


 本を読んで、ノートにまとめて、今度は授業のレジュメを見て……そんな時間がどれ程過ぎた事だろう。時々硝子戸から外を伺うが、雨は一向に止む気配がない。

 かといって、部屋の奥から誰かが出てきて、「ちょっと貴方」と秋彦の肩を叩く事も無かった。まるで世界に彼だけが生き残っているようだった。

「いつまで降るんだろうなぁ」

 彼はわざと大きな声で言ったが、応えは返ってこなかった。

 昨日学友が「明日は大雨になるんだって」と話していたのを思い出した。外に響く雨音で酷さが解る。大きくて丈夫な傘がなくては帰れないかもしれない。

 もう濡れても良いから走って帰ろうか。一晩中籠城する訳にもいかない。そう思って入口に向かったときだった。

 入口の端に黒い傘立てがある。そこに刺さっているのは、白い持ち手がついた一本のビニール傘だ。

 秋彦は一瞬手を伸ばしかけたが、止めた。今大雨が降っているのは紛れも無い事実だが、傘を盗むなど人としてどうかしている。

 首をぐるりと回すと時計が目に入った。5時だった。

 彼は絶句する。ほんの少し雨宿りするつもりだった。それがこんなに長く油を売っていたとは――3時間も!

 大学生になってはや3年、彼はずっと安アパートで一人暮らししてきた。明日の朝は早い。急いで夕飯の支度をしないと間に合わない。

 何としてでも今帰る必要がある――

 秋彦は再び傘を掴んだ。もはや泥棒呼ばわりされても構わない。乾かしてまた返しに行けば良いのだ。使い込まれたものなら兎も角、どうせ新品の、安い傘だ。持ち主の心にもダメージは少ないだろう。

 ビニール傘を引き抜こうとした時だった。


 ピリリリリ。ピリリリリ。

 そっけない電子音が大音量で響き渡った。

 秋彦はぎょっとした。この部屋には電話が無かった筈だ。どこから流れているのかは知らないが、自分を咎めているように感じられた。

「お願いだから許してくれよ、俺はこのままじゃ無事に帰れないんだ」

 焦ってつい声を荒げてしまった。目に見えない誰かに聞こえるように、というのもあったかもしれない。心臓が高鳴り続ける。喉元に刃を当てられているようだ。

 返事は何もない。彼の声がこだましただけだった。部屋の空気は一層濃くなったように思われた。

 耐え切れず彼はその場に崩れ落ちた。誰もいなかったから良かったようなものの、何も知らない人間なら――泥水で汚くなった服装や、ボサボサの髪も相まって――彼を気のふれた浮浪者と見紛うだろう。


 暫く秋彦はその場にうずくまっていたが、やがて顔を上げ、立ち上がってリュックを背負いなおした。重い硝子戸を押し開け、外へ一歩踏み出す。手に傘は握られていなかった。

 風雨を覚悟し、瞑っていた目を開けた時、彼は呆然とした。

 空には雨雲など見当たらず、青から紅色、赤みがかった黄色のグラデーションが広がっていたのである。西に傾いた太陽は、住宅地の中へ飛び込もうとしていた。

「散々悩んだのが馬鹿みたいだ」

 彼は愉快そうに鼻から息を吐き出す。それからふらふら歩きだし、家路に通じる道を探しはじめた。



 秋彦は雨が降るといつもこの日の葛藤と、変な体験を思い出す。しかし彼が例のオフィスじみた建物と、そこに通じる硝子戸に再び出会う事は二度となかったのである。


 〈一応終わり〉

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