負の連鎖(2024年編集)
~ 七月二十日、警視庁捜査一課 ~
本田智恵の死から、既に、一ヶ月が経過している。新事実は、いくつか確認出来たものの、犯人逮捕の決め手となる、物的証拠と状況証拠が、見つからない。
静岡県警察本部に、本田の照会を掛けたところ、牧之原警察署の交番に、本人が駆け込んで、相談を受けていた事が分かった。
本田は、牧之原市内の総合病院で、同僚の看護師と、職場結婚をしたが、度重なる暴力に耐えきれず、事態を重く見た牧之原警察署が、施設に助力を求め、一時、シェルターでの保護に踏み切ったと、報告を受けた。
「警部、当時の担当官に、詳しく聞いたのですが、本田の元亭主ってのは、酒癖が相当悪かったらしいです」
「元亭主も、看護師なのだろう?日常的に、飲んでいたのかな?」
「勤務のある日は、飲まなかったみたいですが、当直明けは、朝から晩まで飲んでは、暴力を振るったとか。事実、それが原因で、本田は、二回も流産しています」
(最低な男だな)
「それで、その後はどうなった?」
「途中で、和解が成立し、本田は、元亭主の元へ戻りました」
「だが、同じ事の繰り返しで、暴力が続いたから、本田は、静岡県の外に、逃げたと言う訳か」
「少しだけ、事実が違います。その件は、後程、お話します」
(………?)
「本田が、逃げ出した時の状況を、聞きました。牧之原警察署は、本田の事を心配し、経過観察していたそうです。ところが、ある日、突然、音信不通となって、困ったと言っていました」
「それは、そうだろう。本田の両親は、この事に、言及しなかったのか?」
「本田に身内は、いないそうです。本田が、中学生の頃、両親が交通事故で、他界しました。一人っ子だった本田は、初めは、親戚の家に、身を寄せていた様ですが、経済的な理由から、施設に入れられたそうです」
(親戚の家を、たらい回しにされて、挙げ句、施設行きか。想像だが、そんなところだろう。本田は、そんな生活から、早く抜け出したかったに違いない。早く自立したくて、看護師を目指したのだろう。懸命に勉強に励み、看護師になって、結婚までは良かったが、やっと、手にした幸せも、暴力に遭い、またしても、孤立してしまった。負の連鎖が、彼女を苦しめたんだ)
「真実を、知れば知る程、心が痛いな。それで、元亭主が、犯人の可能性についてだが、結果を聞かせてくれ」
「六月十五日の、赤坂五郎の現場不在証明ですが、成立しています。六月十四日、十六時五十分に、牧之原の総合病院に、出勤。この日は、夜間勤務で、三階C棟の患者を看護しています。六月十五日、一時~未明までの時間も、救急患者の対応に追われており、同僚の看護師からも証言を得ました。仕事を終えたのは、六月十五日の、十三時ですので、完全に潔白です」
「ん?性が違うな。離婚が成立しているのか?」
「その様です。本田は、静岡県から逃げ出す時に、離婚届を郵送していました。赤坂五郎は、そのまま、区役所に行って、離婚届を出したとか」
「それならば、本田は、逃げる事無かったのでは?」
「そこなんです。実は、この話には、続きがあります。先程、申し上げた、事実が違うと言う点です」
(………?)
「信じられない話なのですが、離婚届を出した赤坂は、その後、あっさりと再婚してるんです」
(………?)
「どういう事だ?話が見えないが?」
「赤坂は、本田と婚姻関係にありながら、総合病院の、他の看護師と不倫していたんです。腹の中には、しっかりと、赤坂の子供まで、仕込んでました。元々、本田の事を煙たがっていた赤坂は、早く離婚がしたかった。話合いをする為に、警察に頭を下げて、本田と、一度はよりを戻したらしいんです。だが、不倫の事実を打ち明けられた本田は、全てが嫌になり、地元を捨てた。それが、本当の理由の様です」
「だから、身一つで、新天地に向かったのか。家族写真が無いのも、合点がいく。全てが嫌になる程だ。本田は、過去をリセットしたかったのだろう」
「慰謝料を請求すれば、良かっただろうに、顔も見たくなかったのでしょう」
「なるほどね。看護師の職に就かなかったのも、人間不信になったからか。裏切り者の元亭主と、同僚も看護師では、あり得る話だ。もし、同じ業界で仕事をしていれば、どこかで接点があるかもしれない。だから、完全に医療の世界から、縁を切りたかったんだ」
「自分も、そう思います」
(うーん、時任は、ボロを出さないし、元夫でも無いとすると、誰が、本田を殺したのだろう?消去法で考えると、時任しか残っていない。クリーニング店の店長は、あり得ないし、大家も、関与する理由がない。不審な点は、スーパーマーケットで、声を掛けた人物ぐらいか。だが、防犯カメラ映像の記録には、残っていなかった。死角だった事も痛手だが、完全に暗礁に乗り上げてしまったな)
佐久間は、時任の捜査を見直そうと、安藤に相談をする事にした。
「どうした?」
「時任英二の件で、捜査方針を見直そうと悩んでおります」
「珍しいな?踵を返すのか?」
「事件当日の、足取りは掴めましたが、現場不在証明が成立しているのと、物的証拠が出ない以上、捜査の切り口を変えた方が、宜しいかと思いまして」
(…ふむ、新事実が出てこない以上、時間と労力だけ無駄になる。そこを心配しているのか?)
「分かった。それで、どの様に変更していくつもりだ」
「本田智恵を殺害する動機、板金塗装工場に遺棄した動機が分からないので、まずは、この二つを保留とします。動機を探って、物的証拠を見つけるのではなく、時任の身辺を徹底的に洗おうと思います。交際相手が死んだと言うのに、悲しむ様子が無かった事から、何かあるのは、間違いありません」
「身辺は、粗方、洗ったんじゃないのか?現場不在証明も成立しているのと、先程、言ったばかりだが?」
「事件当日のものは、洗い終えました」
「事件当日?……ああ、そういう事か」
「時任が経営する、板金塗装工場に、何か秘密があるかもしれません。法務局で取得した公図と、土地所有者情報は、時任英二で間違いありませんでしたが、曰く付きの土地かどうかは、調べていく価値がありますので、債権者などの捜査も、展開させようと思います」
(………)
「良いだろう、思った様に…。ちょっと、待て。無線連絡だ」
「通信指令室より、緊急連絡。一般者からの通報で、板橋区前野町の路地裏で、男性が死にそうだと連絡が入った。住所は、板橋区前野町一丁目。情報者は、匿名。状況は不明。最寄りのパトカーは、至急現場に急行せよ。繰り返す、通信指令室より、緊…」
(------!)
(------!)
「課長、申し訳ありません」
「ああ、問題ない。直ぐに向かってくれ」
~ 東京都板橋区前野町一丁目 犯行現場 ~
佐久間たちが、最寄りの、ときわ台駅に到着した頃には、既に、規制線が設置され、機動捜査隊による、初動捜査が始まっている。
(二十三時四分、現着。男性は、間に合わなかったか)
「お疲れさん。捜査状況を教えてくれ」
規制線を設置した警察官が、佐久間の前に現れた。
「板橋警察署常盤台交番の江尻です。二十二時三十五分、現着した時には、既に死亡していました」
「第一発見者の通報者は、どこだ?匿名との事だったが」
「通信指令室に確認を取りましたが、公衆電話からで、現着時、誰もいませんでした」
「どの公衆電話だ?特定出来なかったのか?」
「特定は済んでおります。ときわ台駅内の、公衆電話です」
(------!)
(------!)
「ときわ台駅?」
山川が、不審に思うのも、無理は無い。ときわ台駅から、この地点までは、二キロメートルあり、徒歩で、十五分程度は掛かるのだ。
「何故、そんな離れた場所から、状況が分かる?不審に思わんのか?」
「まあまあ、山さん。彼に当たっても仕方が無いよ。犯人が、死んだ事を確認してから、電話したのだろう。真意は、犯人じゃなければ、分からないがね。今どき、公衆電話を掛ける者は少ない。後で、駅舎に防犯カメラ映像があるか、聞いてみようじゃないか。それより、鑑識官。死因に繋がるものは、見つかったかい?」
「毒物による殺害ですね。遺体は、司法解剖に回すとして、毒物の解析には、時間を要します。特急解析なら、科捜研に依頼しますが?大学病院に回す前に、まず、科捜研に運びますか?」
(急いだ方が、良さそうだ)
「では、司法解剖する前に、成分だけでも、先に調べよう。科捜研の、氏原に連絡してくれ。佐久間からと言えば、伝わる」
「了解です」
「その他、気が付いた点はあるかい?」
「そうですね。被害者の爪に、皮膚らしいものが、付着していたので、DNA鑑定に回します。衣服についた指紋と、下足痕は採取出来そうですが、下足痕は、駅までしか追えない可能性があります」
「分かった」
山川が、遺留品を探すと、右側の内ポケットから、財布が出て来た。
「警部、物取りの犯行では無いですね。免許証、現金、クレジットカードなど、おそらく全部あります」
「携帯電話は、どうだ?」
「所持しています」
(となれば、純粋に、殺害を目的とした犯行か)
「被害者の氏名と、住所はどこだ?」
「被害者の氏名は、桐原勇作、三十六歳。住所は、東京都板橋区前野町三丁目。…ん、三丁目?確か、この場所は、前野町一丁目。近所じゃないですか。何故、こんなところで、毒殺されたのでしょうか?」
(見た感じ、近所で買い物する程度の格好だが、時間的に遊びに行くとは、考え難い)
「山さん、地図を見せてくれ」
佐久間は、市街地の地図で、現在を確認する。
「これを見てくれ。被害者の住所は、この辺りだ。ときわ台駅に向かうのなら、この道を通っても、不思議ではない。駅への動線としても、真っ直ぐだしね。東武東上線で、池袋に行く事も出来るが、こんな深夜に、それはないだろう。一番、確率が高いのは、駅前のコンビニエンスストアかな」
「そう言われてみれば。呼び出しを受けて、路地裏で落ち合うとも、思えないですね」
「死因は、司法解剖の結果を待つしかあるまい。私は、毒の成分が気に掛かるから、科捜研に向かう。山さんは、応援部隊を要請してくれ。不審者を見かけなかったか、この場所を中心に、半径五百メートルで構わないから、聞き込みを開始してくれ。この路地裏は、人通りが無いが、一本ズレれば、多少は、いるだろう」
「了解です」
「それと、日下に、駅舎の捜査を依頼してくれ。二十二時~二十三時までの、防犯カメラ映像の記録を回収する様に、伝えて欲しい。公衆電話の部分が映っていれば助かるが、入口と開札、ホームの映像は、後で見ておきたい」
「指示しておきます」
「うん、では、頼んだよ」
佐久間は、科捜研へと向かった。