証拠の壁(2024年編集)
~ 六月十五日、二十一時。 都営三田線車内 ~
佐久間は、入手した本田智恵の履歴書に、目を通している。
(几帳面な、字を書くな。性格が、良く分かる。…職歴は、看護師か。小学校から看護師学校まで、静岡県の学校だったのだな。静岡県で、何かがあった。看護師を辞めて、クリーニング店に勤務した事から、医療関係で揉めて、嫌になったか、上京した事が漏れる事を、回避したかったのだろう。職業によるものなのか、家庭環境によるものなのか。調べる必要があるな)
佐久間は、日比谷駅で、東京メトロ日比谷線に乗り換えると、本田が、どの様な人生を、歩んできたのかを想像した。
(………)
楽しい時は、あったのだろうか?
看護師になるには、看護師養成所の様な学校で、三年ないしは、四年勉強し、看護師国家試験を通らないと、なれないと聞いた事がある。それだけ苦労して、看護師になったのだから、本田なりの、使命感があったのだろう。
同業者と結婚したのか、幼馴染みと結婚したのか。それは、知る由もない。
幸せな結婚生活を、少しは満喫したのだろうか?
静岡県で、何かがあって、バック一つで、西巣鴨に流れついた。
落ち着くまで、どの様な所に、身を寄せていたのだろうか?公園で野宿をしたのだろうか?それとも、友人を頼れたのだろうか?
実家を頼れなかったのは、結果から想像出来る。両親が他界しているか、勘当されたかは分からないが、故郷を去るとは、そういう事だ。
紆余曲折であった事は、確かだろう。
西巣鴨で、どのくらい、余生を過ごしたのだろう。自分なりに、精一杯、生きたに違いない。
時任とは、どの様な経緯で、知り合ったかは、分からない。不倫だとしても、心の隙間を埋めるには、十分だったのかもしれない。だが、その代償として、理不尽に、その生命を絶たれてしまった。
どんな気持ちで、この世を去ったのか。絞殺なのだから、意識はあったはず。さぞ、無念だと感じながら、逝ったに違いない。そう思うと、胸が締め付けられた。
~ 六月十五日、二十一時四十分。警視庁捜査一課 ~
「警部、おかえりなさい」
山川が、佐久間に気づき、声を掛けた。
「ただいま、山さん。何か、情報は?」
「本田の照会をしましたが、警視庁管轄には、履歴がありませんでした」
「なら、静岡県警察本部に照会を掛けてくれ。クリーニング店で、履歴書を入手した。彼女は、静岡県牧之原市内の看護師学校を出て、総合病院に勤務していた。そこでトラブルになっていたのなら、牧之原警察署が、何か知っているかもしれないぞ」
「情報、助かります。今夜は遅いので、明朝、問い合わせしてみます」
「うん、よろしく頼むよ。日下、タクシー会社の方は、どうだった?判明したか?」
日下が、捜査メモを読み上げた。
「ええ、何とか、足取りは掴めました。まず、本日の一時十二分に、新興タクシーに乗車し、自宅へ帰宅。自宅到着時刻は、一時三十八分です。領収書の記録も、残っています」
「ホテルを出入りした時に、着ていた上着が、アパートにあったから、これで裏取りは済んだ。では、その後の動きはどうだ?何か掴めたか?」
「別のタクシー会社ですが、関東タクシーが、本日の三時四十分に、本田を乗車させた事が分かりました。タクシーは、北区西ヶ原四丁目にある公園前で、降ろしたそうです。降車時刻は、三時五十八分でした」
(北区西ヶ原四丁目?)
「地図を開いてくれ」
佐久間は、都内の地図で、位置を確認する。
「直線距離で、八キロメートル程か。深夜時間だと、まあ、妥当な時間だ。乗車したのは、本田だけか?」
「はい、一人で乗車したと。防犯カメラ映像の記録を、念の為、依頼しています」
「分かった。記録として、保存しておいてくれ。鑑識官の死亡推定時刻は、出たか?」
「本日、六月十五日の、四時から五時です」
「何となく、話が繋がってきたな。本田は、時任と別れた後、一度自宅に戻ったが、誰かに呼び出され、北区西ヶ原四丁目にある公園に向かった。おそらく、その公園で、絞殺された後、そのまま、西巣鴨の板金塗装工場内に遺棄された。日の出は、四時三十分頃だから、厳密に言えば、三時五十九分~四時三十分の間で殺され、運ばれた。その線で、その公園を、徹底的に洗ってくれ。使用したロープ、タイヤ痕、毛髪、可能な限り、採取するんだ」
「了解です」
「他に、司法解剖で分かった事はないか?」
「死因は、絞殺による窒息死です。遺体発見時に見つかった、二種類のロープ痕ですが、一つは、死後、板金塗装工場で付いたものと判明しました。佐久間警部の見立て通り、全体重を利用したのが、定型的縊死で、茶褐色革皮様が特徴なのに対し、暗赤色で腫脹な点であった事から、非定型的縊死と断定されました」
「死因は、分かった。被害者の衣服に、犯人の付着物は見つかったか?それと、下足痕の解析もどうなった?」
「まだ、司法解剖の結果しか、分かっていません。衣服から、本人以外の付着物は、採取出来ましたが、犯人のものか、判断するには、時間を要すると聞いております。下足痕の方ですが、不特定多数の足跡が、無数にあるので、遺棄付近~工場入口までの、動線に絞っても、難航するとの事でした」
佐久間は、左手で、顎先を撫でるように触った。
「犯人は、この事を想定していた可能性があるな。時任と共犯なら、下見も兼ねて、事前に痕跡を残したとも、考えられるし、共犯でなくても、第三者に金を渡して、当日使用する靴を履いて貰い、顧客のフリをして、歩かせる事も、可能だろうからな。脚立や、シャッターから、指紋は検出されたか、報告を受けているか?」
「犯人は、手袋を装着していた模様です。特定の指紋は、検出されませんでした。両方とも、従業員の指紋しか出ていません」
(………)
(物的証拠は、現場に残るものだが?ここまで、足がつかないとなると、知能犯の仕業だろうか?)
「今日のところは、これが限界だろう。本田の身辺から、洗うのが早いのか、時任の動向から、崩す方が早いのか、作戦を考える必要があるな。……想像以上に、長引くかもしれないぞ」