本田智恵の素顔(2024年編集)
~ 東京都豊島区西巣鴨二丁目 ~
時任英二の、現場不在証明を確認した佐久間たちは、その足で、本田智恵のアパートを訪れている。管理人である、大家に事情を話し、部屋を案内して貰った。
大家は、死亡の事実を知ると、涙ながらに、普段の生活環境を話してくれた。
「智恵さんは、とても綺麗好きで、家の周りまで、掃いてくれたわ。あんなに、周囲に気配りが出来る人が、事件に遭うなんて、世の中、間違ってる。自身の身辺については、聞いた事がないから、ごめんなさいね。身寄りについては、刑事さんに、お願い出来るかしら?退去の手続きだってあるし、家賃の事も心配。ほら、今の世の中、不況じゃない?満室じゃないと、困るのよ」
「入居する際、身元保証人とか、いませんでしたか?」
「そんな大層な、アパートじゃないわ。この通り、古いアパートよ。管理会社に頼むと、管理代が高いから、自分でやってるんだから。身元保証人なんか審査していたら、誰も入らないわよ、こんな所」
(………)
(世知辛い、世の中だ。何処まで行っても、金か。悲しんではいるが、この人も、自分の事だけが、可愛いのだな。本田が、不憫に思えて仕方が無い)
「では、警察組織の方で、区に聞いてみます。分かり次第、連絡を入れます」
「そうして、ちょうだい。あっ、部屋は、その部屋ね。勝手に入って良いから、終わったら、言って」
「令状がある訳ではないので、出来れば、臨場して頂けませんか?」
「嫌よ、面倒くさい。見たい番組があるのよ」
「警察組織が、令状を持たず、中を捜索し、何かを紛失すると、窃盗の疑義が掛かる事もあり、それを避けねばなりません。どうしてもと仰るのであれば、区の職員に、臨場をお願いしますが、出来れば、大家さんに、お願いしたい。何とか、応じて頂けませんか?」
(………)
「そんなところが、行政なのよ。本当に、面倒くさい組織ね。部屋を見る時間って、どのくらいなの?それにもよるわ。何時間もってなら、録画予約して来ないと」
「今日のところは、十分程度です。必要であれば、後日、家宅捜索の令状を取って、伺いますので」
「分かった、一応、録画予約してくるから、待ってて」
「ご無理言って、申し訳ありません」
大家が席を外し、部屋の前で待機する。
「警部、何と言うか、本田が不憫に思えて、なりません」
「ああ、同じ事を考えていたよ。いつから住んでいたのかは、分からないが、独身で子供もいないのなら、寂しかったのだろうな。それを、こんな形で、生涯を終えるとは。辛かっただろう」
本田の事を話していると、大家が、椅子を持って現れる。
「お待たせ、これなら、座って監視出来るわ。じゃあ、さっそく、始めてちょうだい。寒いからって、暖房はつけちゃダメよ。部屋の電気は、仕方ないから目を瞑るけど、手早く済ませてね」
「ええ、承知しました。直ぐに済みますので。では、山さん、開けてくれ」
「分かりました」
山川は、本田の部屋のドアを、開けた。
(………)
(………)
二人が感じた、第一印象は、『ほとんど、何もない』である。
(…警部?)
(…ああ)
家具は、箪笥一つ、冷蔵庫、電子レンジ、調理器具のみで、洗濯機やテレビなどは無い。
「やけに、寂しい部屋だね」
「金に、困っていたんでしょうか?」
(生活費なら、時任英二が、援助しそうなものだが…」
佐久間は、箪笥を調べ、ホテルに出入りした時の、洋服を探した。
(……どこだ?)
(……ん、これじゃないのか?)
「山さん、あったぞ。やはり、ホテルから、一旦、この部屋に戻っているね。という事は、一時を過ぎていたから、タクシーで戻ってきたのだろう」
佐久間は、直ぐに、日下に電話を入れる。
「日下か、佐久間だ。済まないが、至急、調べて欲しい事がある。リバーサイドホテルから、西巣鴨二丁目までを中心に、営業しているタクシー会社を洗ってくれ。見つかり次第、本田智恵が乗車していたか、裏取りを頼む。…乗車の時間か?本日の、一時十分前後になる。距離からして、一時三十分~四十分には、二丁目のアパートに到着していると思うのだが、その辺りも、聞いて欲しい」
「了解です」
山川が、首を傾げる。
「一度、戻ってきたと言う事は、二時前後~未明に掛けて、外出した事になります。時任との情事を、楽しんだのであれば、体力的にもヘトヘトで、仮眠したいでしょうし、そこが、腑に落ちないですな」
「生活苦なら、バイトを掛け持ちしている事も、考えられるな。新聞配達、豆腐屋、パン屋とか。巣鴨五丁目には、中央卸売市場もある。朝方のバイトに行ったならば、この辺が怪しいな」
「なるほど、それは盲点でした。タクシー会社の調べが終わったら、その線も洗ってみましょう」
山川は、部屋を捜索し、ある点に気が付いた。
「そういえば、携帯電話が、この部屋には、ありません。金がないから、所持していなんですかね?」
(………)
「犯人が、証拠隠滅の為に持ち去ったか、絞殺した際に、奪ったのだろう。今の時代、携帯電話を所持していないとは、考え難い。他の所持品は、どうだ?」
「預金通帳は、あります。財布はありませんが、ネックレスなどの貴重品は、残っていますね」
(ふむ、部屋が荒らされた形跡は無い。となれば、携帯電話と財布は、殺害時に奪われた。その方が、説明がつくな)
「山さん、強盗犯ではない様だが、念の為、鑑識官を呼んで、本田智恵、時任英二以外の、指紋が採取出来るかを、試してみよう。あと、不審な点と言えば、手紙、アルバム、システム手帳なども、見当たらない。持たない主義なのかもしれないが、何とも言えないな。令状が下り次第、実行してくれ」
「分かりました、依頼しておきます」
(今日のところは、こんなものだろう。今のところ、物的証拠は、着衣だけか)
佐久間は、部屋の入口で、蜜柑を食べている大家に、本田の日常を、尋ねる事にした。
「本田さんは、普段、どの様な生活を送っていたのか、ご存じですか?」
(………)
大家は、しばらく考え込んで、重たい口を開く。
「うーん、あまり、亡くなった人の事を、言うもんじゃないけど、殺人事件だから、仕方ないか。とにかく、慎ましくと言うか、贅沢をしない人だったね。近所のクリーニング店で、昼間、働いてたよ」
「近所のクリーニング店ですか?それは、何というクリーニング店ですか?」
「忘れたわよ。でも、近所の商店街に行けば、一軒しかないから、問題ないはずよ」
(クリーニング店か、洗ってみよう)
「昼間と仰いましたね。夜も、どこかで働いていましたか?例えば、早朝とか?」
「そんな事までは、知らないわよ」
「そうですか。では、彼女の部屋に、男性が出入りするのを、見た事はありませんか?」
大家は、首を横に振った。
「それは、無いわね。滅多に、出歩かなかったと、思うわよ。朝から晩まで働いて、お店が終わると、スーパーで買い物して、帰宅する。その繰り返しだった様だし」
(日常は、決まった時間に、家を出て、決まった時間に帰宅する。男っ気は無い。時任との接点は、何だ?二人は、決まって、現地集合、現地解散だと言っていた。不倫するにしても、時任は、板金塗装工場の経営者で、本田はクリーニング店勤務。接点があるとは、思えない。派遣型風俗店で働いていて、接客の延長で、不倫相手として、固定化したならまだしも、そんな風貌でもなかった。…時任に、探りを入れるしかないだろう)
「もう一点だけ、教えてください。大家さんは、彼女の室内を、ご覧になった事は、ありませんか?この部屋には、洗濯機も無ければ、テレビも無い。生活必需品が、不足しているんです」
(………)
大家は、僅かに、眉根を寄せる。
「刑事さんって、失礼な事を聞くのね?あんまり、そんな事を、詮索するものではないわ。気づいても、知らない振りを、大人なら、してあげなさいよ」
(………?)
(………?)
大家は、深い溜息をついた。
「意味が分からないなら、教えてあげる。彼女は、あまり、お金を持ってなかったみたい。この部屋に、引っ越して来た時なんか、手持ちのバッグ一つ。つまり、身一つだったわ。聞きはしなかったけど、自分の下着やら、本当に、大事なものだけ、そのバッグに詰め込んで、やって来たの。どれだけ、あの子が、地道に生活して、お金を貯めて、部屋の物を、少しずつ、増やしてきたのか。あんた達には、その苦労が分かるはずもない。だから、男って、鈍感な生き物なのよ」
(…警部、引き上げましょう)
(…ああ、その方が良さそうだ)
佐久間は、大家に、深々と頭を下げた。
「そんな事とは、露知らず、彼女に対しても、失礼な質問をしました。非礼、深くお詫びいたします。大変、有益な情報を、得られる事が出来ましたので、今夜は、これで引き上げます。後日、正式に、捜査の為に、警察組織の捜査官が、数名、お邪魔しますので、その時は、改めて、捜査にご協力ください」
「分かりました。連絡先の方、急いでちょうだいね」
「承知しました。では、また」
佐久間は、丁寧に挨拶を済ますと、その場を後にした。
「随分と、真面目な生き方を、してたんですね?」
「ああ、相当、苦労していた事は、間違いない。だから、余計に、仇を討ってやりたいね。このままでは、余りにも気の毒だ。バツ一だと、時任は言っていた。大家の話が本当なら、バッグ一つで、引っ越して来たという事は、元の亭主から逃げてきたか、時任と駆け落ちしたか。後者なら、大家が知っているだろうし、おそらく前者だろう」
「そうですね。駆け落ちは、考えられません。時任の野郎、そんな、優しい男には見えません。性欲のまま、やりたい時だけ、ホテルに呼び出して、すっきりしたら、はい、さようなら。そんな奴です」
(………)
(本当に、それだけだろうか?それでは、ただの娼婦と同じだ。時任は、不倫だと言った。つまり、少なくとも、愛情はあったはずだ。何か、引っ掛かる。大切な何かを、見落としている気がする)
(………)
「警部、どうされました?」
「山さんは、捜査一課に、先に戻ってくれ。本田から、過去に、DV相談など受けていなかったか、調べて欲しい。もし、相談に来ている場合は、一人で来たのか、付き添い人がいたのかも、洗ってくれ。私の方は、大家が教えてくれた、クリーニング店に寄って、裏取りをしてから、戻る事にするよ」
「分かりました。では、先に戻って、調べておきます」
こうして、佐久間は、山川と手分けして、捜査する事にした。
~ 巣鴨二丁目商店街、クリーニング店 ~
(この店だな?)
大家の情報通り、商店街の一角に、その店はあった。
「いらっしゃいませ、そろそろ、看板なんですが、お急ぎの仕上げですか?」
「夜分、申し訳ありません。こう言う者です」
佐久間は、警察手帳を提示し、事情を話した。
(------!)
女性店長は、大粒の涙を流し、その死を悼んだ。
(……あんまりじゃない)
「彼女の身辺について、捜査を開始しています。この店に勤務していると、居住アパートの大家から、情報を得ました。勤怠状況、直近の行動について、不自然な点が無かったかを、お聞かせください。まず昨日は、何時から何時まで、この店に勤務していましたか?」
「昨日は、午前十時から、午後八時までです。最後のお客さんが、ちょうど、今頃でしたから。スーパーの惣菜が売り切れてしまうと、慌てて、帰っていきました」
「では、彼女は、そのまま、スーパーに向かったと。何か、いつもと違う雰囲気とか、ありませんでしたか?」
「特に、変わった様子は無かったです。強いて言えば、心なしか、嬉しそうと言うか、何かを楽しみにしているなとは、思いましたが」
(時任と、逢い引きするからだろう)
「彼女は、毎日、午前十時から、午後八時まで勤務しているのですか?」
「基本的には、同じです。木曜日は、定休日なので、前の日の水曜日は、午後八時半を回る事もありますが、お客さんが、少ない日は、午後七時五十分には、帰宅しますね」
「大家からの話では、彼女は、大抵、この店で働いて、終わると、スーパーに行くそうですね」
「ええ、毎日、スーパーの特売品をチェックしていました。生活が懸かっているから、必死だと言ってましたわ」
(そんなに、金に苦労していたのだろうか?)
「勤怠状況は、分かりました。では、直近の行動について、お話を聞かせてください。何か、いつもと違う事が、ありませんでしたか?」
(………)
女性店長は、しばらくの間、記憶を辿ると、何かを思い出したようだ。
「智恵ちゃんは、普段から物静かで、自分からは、身の上話をしない人でした。でも、一週間前だったかしら?珍しく、相談を受けたんです。だから、よく覚えています」
(------!)
「どんな内容か、教えてください」
「お店が終わって、スーパーに立ち寄ったら、知らない人から、声を掛けられたと言っていました。自分の名前を聞かれたので、気味が悪いから、『人違いです』と答えて、その時は、難を避けられた様ですが、『誰かに、調べられているみたいで、本当に怖い』と、言ってましたよ」
(誰かと言う事なら、時任ではない。時任は、この事を知っているのだろうか?)
「その一週間前というのは、いつでしょうか?捜査記録として、残したいので、なるべく思い出して頂けると、ありがたいのですが」
「えーと、少しお待ちください」
女性店長は、カレンダーで日時を確認する。
(…一週間前で、休日前だったから、…ああ、思い出した)
「えっと、六月七日の十二時四十分です。すみません、八日前でした。遅めの昼ご飯を、二人で食べていたので、覚えています。あと、五分で、NHKの連続テレビ小説が始まるねって、話していた時だったので、時間も正確だと思います」
「六月七日の十二時四十分ですね、ありがとうございます。話を戻しますが、随分と、不可解な話ですね。相談は、一度切りですか?」
「いいえ、次の日も、同じ目に遭ったと言っていました。だから、『警察に相談しなさいな』って、言ったんですが、『大丈夫です』と、言っていたので、他の誰かに相談したのだろうと、解釈して、私からは、この件については、触れないようにしたんです。何となく、彼女も、それを望んでいる気が、したものですから」
(二日連続で、待ち伏せに遭ったと言うのに、二日目の発言は、妙だ。一日目の発言からは、相当、警戒して怖がっていた。だが、二日目の発言は、それを覆している。…時任が、何か対策をした。…いや、そうではないだろう。本田の面識のない者が、声を掛けたのだとすると、引っ越し前の関係者くらいしか、思い当たらない。嫌でも、この街に来る前の事を、捜査する必要があるな)
「大体の事情は、理解しました。あと、二点、聞かせてください。彼女は、この店で、真面目に働いていましたか?途中で、中抜けするとか、遅刻や早退をするとか、何でも構いません」
「それはもう、優等生ですわ。『雇って貰えなかったら、自分は飢え死にしただろう』と、漏らした事があります。詳しく、突っ込んで、聞いたりはしませんでしたが、『前に住んだ所が、住めなくなって、この街に流れてきた』と、言っていましたから、相当、辛い目に遭ったのだと、察しました。この仕事って、誰でも出来る訳ではないんです。人の気持ちを知り、お客さんが、どんな思いで、クリーニングした衣服に、袖を通すのか、イメージ出来ないと、仕上げの助言が出来ないんです。ですから、衣服に愛情を持って、取り組む人でないと、長くは続きません。彼女は、最後まで、本当に、真面目に働いてくれました。それだけに、犯人が許せません」
(大家も、店長も、女性ゆえに、想うところがあるのだろう。両者に共通するのは、本田の事情を察し、深くは詮索しなかった事だ。それゆえに、本田も、居心地が良かったのだろうな。寂れた居住でも、それを補う安心があったのであろう。逆を言えば、以前は、常に、逃げ惑う生活を強いられていたと、言う事か。そんな弱みに、時任はつけ込み、肉体関係を結んだ。……どうしても、時任を悪く考えてしまうな。もしかすると、前の居住から、救った英雄なのかも知れないのに、…悪い癖だ)
「では、これで最後になります。彼女の履歴書は、この店に残っていますか?殺人事件ですので、捜査資料として、お預かりしたいのですが。複製したら、原本は、明日の午前中には、お届けに参ります」
「本来なら、本店に確認する必要があるのですが、緊急案件だと思いますので、事後報告にしますわ。すこしだけ、お待ちください」
「助かります」
(この女性店長は、気さくで、しっかりしている。臨機応援も兼ね備え、本田も、さぞかし、頼り甲斐があっただろう。それだけに、残念だよ)
「お待たせしました、原本ではなく、複製なら、何枚か所持していますので、一部提供いたします。返却は、結構です」
「これは、ありがたい。お言葉に甘えます」
女性店長は、最後に、佐久間に注文をつける。
「……あの、何と言ったら良いのか、心の整理が追いつきませんが、本田さんは、短い間でしたが、妹の様な存在でした。忙しい時も、そうでない時も、お客さんから、苦言を呈された時も、いつも、二人で、この店を切り盛りしてきました。私に何かあった時は、本田さんに、店を引き継ごうと思う程、信用出来る人でした。……それだけに、犯人が憎い。本田さんの代わりに、殺してあげたい。……でも、無力な私には、どうする事も出来ません。だから、犯人を必ず捕まえて、必ず、法の裁きを与えてください。でないと、……私、……私」
(………)
「あなたの、その想い、確かに承りました。責任をもって、犯人を捕まえてみせます。法の裁きも、きちんと、受けさせますので、どうか、彼女の冥福を祈ってやってください」
「………はい、お願いします」
(これだけ慕われる、本田とは、どの様な人物だったのだろうか?益々、謎が深まるばかりだ)
佐久間は、女性店長の気持ちに応えるべく、捜査一課に戻っていった。