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親愛なる者へ 〜佐久間警部の苦悩〜(2024年編集)  作者: 佐久間元三
八年前の誘拐事件
11/18

森田夫妻の行方 1(2024年編集)

 ~ 東京都中央区月島 ~


 もんじゃ焼屋が、七十軒以上存在し、国内問わず、外国客も賑わう、隅田川の河口に位置する地区である。


 森田みくるの両親である、森田健人と和子夫婦は、月島の佃二丁目で青果店を営んでいたが、裁判での敗訴後、店を畳む事にした。捜査記録には、隣接店舗の松崎金物店と交流があった事が書かれていた為、まずは、店主から事情を聞こうと、佐久間と山川は、足を運んでいる。


 月島は、再開発が進み、店舗の入れ替えが多い地区でもあるが、佃二丁目の辺りは、古くからの店舗が多いようだ。


「住所は、この辺だよね」


「警部、ここじゃないですか?松崎金物店の看板があります」


「すんなり見つかって、良かったよ。では、事情を聞いてみよう」


 佐久間たちは、入口にいる男性に、声を掛けた。


「お仕事中、申し訳ありません。警視庁捜査一課の、佐久間と申します。お隣の店舗について、少しだけ、お話を聞かせてください」


(森田青果店の事か?)


「それなら、親父が詳しいよ。ちょっと待って。母さん、親父を呼んできてくれ」


「あいよ」


 奥から、元店主の松崎晴夫が、顔を出した。松崎は、佐久間たちを見るなり、溜息をついた。


「随分と、古い話を聞きたいそうじゃないか?まだ、聞き足りないって、言うのか?」


(散々、警察組織(我々)に事情を聞かれて、辟易しているって顔だ。山さんは、喋らない方が良いだろう)


「恐れ入ります。別件の事件で、八年前の誘拐事件との、関係性を調べておりまして」


(…ふーん)


「それで、お隣の、何が知りたいんだ?」


「森田夫妻は、あなたと交流があったと、当時の捜査記録に載っておりました。森田夫妻が、静岡県に引っ越した事は承知しておりますが、詳しい行き先を知りたいと、思っておりまして、ご協力頂けませんでしょうか?」


(……行き先ねえ)


「確か、去年の年賀状があったはずだ。持ってこよう」


「恐れ入ります」


 数分後、年賀状を見つけた松崎は、佐久間に見せる前に、苦言を呈する。


警察組織(あんたら)が、何を捜査してるかは知らん。でも、森田夫妻に、()()を、思い出させてどうする気だ?傷口に塩を塗るのが、警察組織(あんたら)のやり方か?良い加減、そっとしといてやれよ」


(………)


「年賀状ありがとうございます」


「だんまりか?警察ってのは、自分たちの都合で、命令するくせに、都合の悪い事には、口を閉じるよな。だから、行政ってダメなんだよ」


「いいえ、答えたくても、その答えがないから、話せないのです。現在、別件の事件で、森田夫妻が、事件対象者となっていますので、関係性の有無を調べるのが、警察の責務なんです。ご批判は、甘んじて受けます。八年前、事件を解決出来ず、犯人を検挙出来ていない事は、事実です。この点は、申し訳ございません」


(…この刑事、本音で言っているな)


「当たって、悪かったな。あんたが、悪い訳でもない。あの事件は、みくるちゃんが不憫でな。森田夫妻が、何度も口にしていた。時任とかいう奴に、騙されたってな」


(------!)

(------!)


「あなたは、時任を知っているのですか?」


 佐久間と山川は、顔を見合わせた。その様子に、松崎は、またも、溜息をつく。


「また、あの男が、何かしているのか?良いかね、時任英二は、根っからの悪党だよ。西巣鴨の土地の事は、知っているかね?」


「ええ、時任英二は、板金塗装工場を経営しています。その前は、服飾工場だった様ですが」


「十五年前、あそこの土地は、森田夫妻が所有者だった。月島(この場所)で、青果店の本店を経営しながら、あの土地で、二号店を出そうとしていたんだよ。ある日、時任英二が現れて、どこかの地上げ屋を使って、あの手この手で、搾取しやがった」


「地上げ屋が動いたのですか?」


「ああ、酷いだろう?」


「可能な限りで、構いません。何があったのか、詳しくお聞かせ願えますか?」


「……そうだな。では、当時の回想話として、聞いてくれ。森田夫婦から聞いた話と、自分が関わった事も、織りまぜて話すから、その点は、勘弁してくれな」



 ~ 十五年前、一月四日 ~


「いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませ」


「明けまして、おめでとうございます。森田さんですね?」


「はい、そうですが?」


「私は、こういう者です」


(独立行政法人 福祉施設協会 代表理事、時任英二?)


「あの、これは一体?正月早々、どの様なご用件で?」


「豊島区西巣鴨一丁目の土地を、取得したいと思いましてね。児童養護施設を作りたいと、事業計画を立てたんです。何とか、ご協力頂けませんでしょうか?」


(…あんた?)

(…ああ、分かっている)


「事業計画は関係ないし、あの土地は、売らないよ」


「おや、そうなんですか?雑草が繁茂しているし、維持管理していない様でしたので、所有者を調べたんですがね?」


「あそこは、祖父の代から、代々、受け継いだ土地だ。近々、青果店を出すんだよ」


(青果店?あの場所に?)


「青果店を開くには、面積的に広すぎるのでは?…では、こうしては、如何ですか?児童養護施設と併設して、青果店を営業する。青果店のものは、全て、隣接する施設で買い取る。これなら、互いに、WIN・WINです。私も、社会に貢献出来るし、あなた方も、営業利益の心配はなくなる。何とか、検討頂けませんか?」


「有り難い提案だが、辞退します。俺は、あの土地を死んでも、手放さない」


(………)


「分かりました。今日のところは、顔を覚えて頂けたので、引き上げます。私にも、立場がありますので、交渉しに、何度も、参ります。…そう、熱意を分かって頂けるまで、何度もね」


 時任英二は、不敵な笑みを浮かべ、帰っていく。


「あんた、どうするの?正月早々、変な奴に、絡まれたわよ?」


「とりあえず、塩を撒いておけ。縁起が悪い」



 ~ 十五年前、三月四日 ~


「いらっしゃいませ」

「いらっしゃいま…?」


「どうも、森田さん。今日は、仲間とお邪魔しますよ」


 時任英二の背後から、いかにも、横暴そうな男が現れる。


「奥さん、あんた、中々、別嬪さんだね。旦那が、羨ましいぜ」


「何なんだ、一体。時任さん、何のつもりだ?警察を呼ばれたいのか?」


 時任英二は、ほくそ笑む。


「おやおや、商売人が、そんな簡単に、熱くなるもんじゃありません。この男はね、根が正直なんです。だから、心の声が漏れただけ。そう、カリカリしないでください」


(………)

(………)


「それで、今日は、何をしに来た?土地なら、売る気はない。用が済んだら、帰ってくれ。商売の邪魔だ」


「一坪当たり、百三十万円を、お支払いします。六百坪だから、単純計算で、七億八千万円だ。これで、手を打ってください。それだけあれば、生涯所得の二倍だ。お子さんも、遊んで暮らせますよ?みくるさんと、仰いましたっけ?」


(------!)

(------!)


「ちょっと、待て。何故、娘の事を知っている?お前たちとは、面識がないはず」


「おやおや、そう、怖い顔をしないでください。都立小学校の五年生でしたっけ?奥さんに似て、可愛いお子さんですね。スラッとして、発育が良い。将来は、モデルになれますよ」


(------!)

(------!)


「その学校はね、夜道がとても暗いんです。周辺には、不良が沢山いますから、登下校には、気をつけた方が、良いですよ。いえね、たまたま、歩いていたら、見かけたもんでね。下世話ながら、老婆心ってやつですよ」


(------!)

(------!)


「お前、娘に手を出したら、ただではすまさんぞ」

「警察に相談しますから」


 時任英二は、首を横に振った。


「まあ、それは冗談です。それより、商売の話をしましょう。先程の話、如何ですか?交渉成立なら、即金で支払いますよ。福祉施設協会(うち)は、いつも、ニコニコ現金払いです。手形なんて切りませんから、ご安心ください」


(…あんた)

(…分かっている)


「くどい。お前らには、絶対に売らない。おとといきやがれ」


(おい、どうする?)

(もう一押しだな)


「仕方がありません。では、また、顔を出します。あっ、そうそう、言い忘れました。()()()()()()、坪単価を下げますので、ご了承ください。ごね得って、言ってね、ごねる度に、坪単価を上げられては、困るんです。だから、売る場合には、即決した方が、あなた方も得をする事になりますよ」


「それは、売る場合だろうが?安心しろ、お前らに売るくらいなら、知り合いに、無償で貸し出す。…いや、区に寄付しよう。それなら、豊島区が、健全な土地利用をするだろう。お前らの思い通りにはさせないからな」


(………)

(………)


「そうですか。それなら、仕方がありません。……このお店、中々、古くて味わいがある。ただ、地理的環境が悪い。目の前の、坂のせいで、車が突っ込んでくる危険があります。営業中に、ダンプトラックが突っ込んで来たら、危ないですよ。重々、お気を付けてください」


(………)

(………)


「脅したって、無駄だ。やれるものなら、やってみろ。直ぐに刑務所行きになる。知り合いの弁護士に、相談するから、首を洗って待っていろ」


「やれやれ、困ったお人だ。たらればの、話しかしていないのに、刑務所やら、弁護士やら、物騒ですねえ。まあ、良いでしょう。では、また」


 時任英二は、仲間を連れて、去っていった。


「あんた、もう、これヤバいわよ」


「ああ、お隣さんに相談しよう」



 ~ 松崎金物店 ~


「おっ、どうした?夫婦揃って、そんな辛気臭い顔して?」


「それが、ちょいと、心配事が出来まして」


 森田夫妻は、松崎に、事の経緯を説明した。松崎は、事情を聞くなり、商店街の仲間に声を掛け、集会が開かれる事になった。



 ~ 月島集会場 ~


「要約すると、あんた達の土地が、その時任って奴に、奪われそうなんだな?」


「ええ、そうなんです。交渉する度、地上げ屋っぽく、なってきました」


「うーん。奴らは、やる時は、本当にやるからな。みくるちゃんの身も危ないし、ダンプトラックが、本当に、突っ込んでくる可能性だってある」


「月島は、皆が知っての通り、東京湾の埋め立て地だ。再開発で、随分と高値がつく様になった。好条件で、転売出来るから、今でも、地上げ屋が暗躍している。そいつらが、今度は、西巣鴨に目を付けたんだ。一度、目を付けられたら、とことん、嫌がらせされるぞ」


「そんな。それは、困ります」


「身の安全を図るなら、言い値のうちに、売ってしまう手もある。坪単価は幾らで、提示された?」


「一坪当たり、百三十万円と言われました」


「ふむ、それなら、まだ妥当な価格だな。足元を見られている訳ではない。売ったら、まずいのかね?」


「ご先祖さまから、代々、受け継いだ土地なので、拘るとすれば、その部分だけです。ここまで来ると、損得勘定じゃない。時任英二にだけは、渡したくありません」


「でも、それだと、益々、エスカレートするんじゃないか?」


「松崎さん、どんな感じになるんだい?」


「一昔前の話だが、向かいの店が、酷い目に遭ったな。まず、二十二時位から、未明に掛けて、悪戯電話が続いた。寝ようとしても、玄関を叩く音が、延々と続いたし、新聞が届かなくなったり、牛乳が盗られた事もあったな」


「警察に相談するのは、どうでしょう?」


「警察ってのは、被害が出てからでないと、動いてはくれないぞ。今、相談しても、『指導は出来るが、被害を被っている訳ではないから、どうする事も出来ない』と、言われるだろう。奴らには、民事不介入と言って、不文律があるからな」


「民事不介入?何ですか、それは?」


「分かりやすく言うと、民事の事は、民事で解決しなさいって事だ」


 全員が、頭を抱える。


「今日のところは、お開きにしよう。被害が出ていない以上、心配しても、何も出来ない。何かあったら、皆で、一致団結して、森田青果店を守ろうじゃないか」


(この中で、果たして、何人、信用出来るのか。皆、心の中では、『自分でなくて、良かった』と、思っているし、心の底から助けようとは、思ってないだろう。自分たちに、火の粉が飛んでくる時は、森田青果店を、早々に見限るはずだ)


 森田夫婦は、周囲に頭を下げると、青果店に戻っていった。



 ~ 十五年前、五月七日。森田青果店 ~


「どうした?今日は、営業しないのかい?」


 青果店の前で、暗い顔をしている森田夫婦に、松崎が声を掛ける。


「それが、一切、物が入ってこないんです」


「どういう事だ?仕入れ先で、トラブルがあったのか?」


「それが、仕入れ先に電話を掛けても、『悪いが、商品を卸せない』と言われました。それで、他も当たったのですが、どこもかしこも、『森田青果店にだけは、売らない』の、一点張りなんです。商品が無いんじゃ、商売出来ませんからね。とりあえず、明日、直接行って、事情を聞いてこようと思っています」


(………)


「おい、ひょっとしたら、それって、時任英二の仕業じゃないのか?」


「まさか?だって、地上げ屋と連む奴ですよ。業界だって違うし、仁義が通るとは思えません」


(考えすぎか?)


「ちなみに、あれから、時任英二は顔を見せたか?」


「いいえ、全く。諦めたんじゃないですかね?」


(そんな簡単に、引き下がる訳無い。何かを企んでいるんだ)


「今のうちに、何か手を打っておいた方が良い。知り合いに、弁護士とか、刑事とか、いないか?」


「刑事ではないですが、検察官ならおります。昔、父が、お世話になった方で、優秀なんです」


「本当かね。では、ダメ元で、相談をしておくと良い。裁判になれば、きっと、力になってくれるはずだ」


(そうだ、何で、もっと早く気が付かなかったんだ。明日にでも、行ってみよう。灯台もと暗しか)


「松崎さん、ありがとうございます。早速、動こうと思います」



 ~ 十五年前、五月八日。東京都千代田区の喫茶店 ~


「お久しぶりです」


「元気そうでなによりです。お父さんは、ご健勝ですか?」


「ええ、お陰様で。今は、隠居生活を楽しんでいますよ」


「そうですか、それは、良かった。それで、折り入って話とは?」


 森田は、知り合いの検察官に、事情を話した。


 検察官は、左手で、顎先を撫でるように触った。


「事情は、分かりました。最初の接触は、一月。次は、三月。周期的には、今月か、来月になりそうですね。人の噂も七十五日と言って、二ヶ月半を過ぎると、どんなに警戒していても、気が緩んだり、噂話に執着しなくなります。その男が、それを狙っているのなら、そろそろ仕掛けてくると、思いますよ」


「やはり、そうですか」


「ちなみに、先程、あなたが仰った、仕入れ先のトラブルですが、まず、その男の仕業でしょう」


「本当ですか?」


「ええ、派手にやると、あなたに訴えられますからね。合法な事で、あなたを嵌めようとしています。おそらく、森田青果店に卸す商品を、纏めて買い上げているはずです。これなら、仕入れ先は困らないし、あなただけが困る」


「何とか、なりませんか?」


「自由競争の世界ですからね。独占禁止法が、適用される事もない。警察や検察が、介入出来ない事を、その男は知っていて、仕掛けている。だから、この件は、あなた自身で解決するしかありません」


「解決って、何も思い浮かびません」


「そうでしょうね。その男は、あなたが何も出来ない事を、知っている。そして、森田青果店は、そのうち、倒産する事になる。もし、倒産したら、どうなりますか?」


(………)


「倒産したら、月島にいられなくなります。他所へ行くしかありません」


「他所とは、どこですか?」


「祖父から引き継いだ、西巣鴨の土地です」


「でも、破産した森田青果店には、金がない。その状況で、再建出来るとでも、思うのですか?それは、余りにも、見通しが甘いと、言わざるを得ません」


「では、どうすれば?」


 知り合いの検察官は、溜息をついた。


「その土地を、手放すんですよ」


(------!)


「その男は、話を聞く限り、共同経営を持ちかけてきた。独立行政法人なら、あなたの青果店も、倒産する必要はなくなるし、粗利を期待出来ます。どう転んでも、資本力で、あなたは、負けているんです。真綿で、首を締め付けられ、このままでは、路頭に迷う事になります。そうなる位なら、今は、泣いてでも、雌伏するんです」


「雌伏する?どういう意味でしょうか?」


「相手の土俵に乗る振りをして、資金を貯めるんですよ。資金次第では、改めて、その土地を買い直す事だって出来るし、その時、その敷地内で、児童養護施設が、繁盛している保証もないのですから」


(なるほど、そう言う考え方もあるのか)


「良い案です。帰って、妻とよく話してみます」


「ええ、そうしてください。事件性のおそれがある時は、お力になれますので、相談に来てください。話を聞く限り、その男は、詐欺師の様な臭いがします。その時は、自身の権力を振るって、その男に裁きをしますから」


「心強いお言葉、ありがとうございます。では、また」



 ~ 十五年前、六月十五日。西巣鴨の敷地 ~


 知り合いの検察官から、提案された通りに、資本力で、勝ち目の無い森田青果店は、時任英二と契約し、共同経営する事にした。時任英二の、要望に応える回答をした途端、物流が回り、元の鞘に収まったのである。


「あんた、これで良かったのよね」


「ああ、全部、失う訳ではないんだ。この二号店で、資本力を蓄える。本店は、そのままだし、何とかなるだろう」


「では、工事を開始してください」


 地鎮祭が終わり、時任英二の息が掛かった、工事業者が、敷地内の整地を開始する。その様を見届けてから、時任英二が、森田夫婦に、契約書を渡した。


「では、これが、共同経営の契約書です。正の方は、当社で管理します。副の方は、そちらで管理をお願いします。署名後の複製です、ご確認を」


(------!)

(------!)


「おい、ちょっと待ってくれ。何なんだ、この契約書は?」


(………?)


「何なんだと、言われましても。歴とした契約書ですが?電子契約書の方が、宜しかったですか?」


「そんな事を言っているんじゃない。内容が違うと、言っているんだ」


「はて、何の事です?至極、真っ当な事しか、書いておりませんが?」


「ふざけるな。時任英二は、独立行政法人の理事ではなかったのか?何だ、この、服飾デザイナーって?」


「ああ、そんな事ですか?言っていませんでしたか?年始の時は、独立行政法人の理事でしたよ。この数ヶ月間で、転職しましてね。今は、一経営者です」


「ちょっと、あんた。坪単価だって、全然違うわよ。一坪当たり、百三十万円が、三万円になっているわ。七億八千万円が、たったの、一千八百万円よ!」


「どういう事だ?」


「当時、児童養護施設と併設する場合に限ると、言いましたよね?あの時に、契約しておけば、今仰った金額を、正規にお支払いしていましたよ。これは、嘘ではありません。だから、きちんと説明しましたよね?『売る場合には、即決した方が、あなた方も得をする事になりますよ』って。それを、あなたが一方的に断っただけでは?」


(……あんた)

(……確かに、それは聞いていた)


「いや、そもそも、肩書きも違うし、値段だって、間違っている。それに、何だこれは?児童養護施設ではなく、服飾工場って。そんな事、一切聞いていないぞ?服飾工場の隣に、青果店を開いたって、儲からないじゃないか?」


 時任英二は、深い溜息をつく。


「あのねえ、私ばかり責めているけど、契約書に署名したのは、あんただよ。書いてある事は、全部、事実だし、正月の話をそのまま、鵜呑みにして、中身を読まないで、署名したんですか?あり得ないでしょう?契約ってのは、双方で、合意のうえで行うもんなの、分かる?」


(あんた、どうするの?正論だよ)

(分かっている。安心しろ。クーリングオフすれば良いんだよ)


「ちなみに、クーリングオフは出来ませんよ。契約書の最後に書いてあるでしょう?あなたは、最後まで読んで、この内容に合意して、署名した。つまり、消費者センターに駆け込んでも、警察署に駆け込んでも、行政機関は、何も出来ないと言う事です」


(------!)

(------!)


「まあまあ、共同経営にが違いがないのだから、宜しいじゃないですか?工事だって、ほら、当社が自腹で行っているし、森田青果店は、整地された後で、店舗を建てれば良い」


(…あんた?)

(分かっている、分かっているって)


「とりあえず、工事の事は分かった。それで、いつからなら、建てられる?」


「そうですね、六ヶ月もすれば、工場として稼働出来るでしょうし、その後ですかね」


「分かった。じゃあ、その時に、また改めて、来る事にするよ」


「あっ、そうそう。一点、忘れていますよ?」


(………?)

(………?)


「何をだ?」


「共同経営する事には、合意する契約書を取り交わしましたが、この土地を使用する契約は、取り交わしていません。私は、正式に、この土地の所有者だ。あなたは、共同経営の為に、私から、この土地を借りて、経営する事になるんです」


(------!)

(------!)


「ちょっと、待ってくれよ。そんな馬鹿な話聞けるか?タダ同然で、土地を取られたうえに、借地料を寄こせだって?あり得ないだろう!!」


 時任英二は、ほくそ笑む。


「あり得ないのは、あなたの方です。どの世界に、自分の土地を、占用料も取らず、無償借地する馬鹿がいるのですか?」


「一体、いくら払えば良いんだ?」


「そうですね。あなたには、格安で売って頂いた恩があります。私だって、格安にしたい。共同経営ですから、月当たり、二十万円でどうですか?あなたの店舗は、六十坪として考えると、月当たり、一千二百万円程度ですかね?」


(------!)

(------!)


「ふざけるな。一千八百万円で、土地代貰って、一ヶ月で、一千二百万円払ったのでは、二ヶ月で破綻するじゃないか?」


「嫌なら、共同経営を辞めても、宜しいのですよ。これは、強制ではありません。勇気ある撤退も、民主主義が成せる、手法の一つでしょう。この場所が、銀座の一等地でなくて良かったですね。坪一億円掛かるのですから、最安と言っても、過言ではありませんよ」


(…あんた、もう、関わり合いになるのは、やめよう)

(ああ、一千八百万円だけでも、回収出来るんだ。これで手を打とう)


「分かった、やめだ。共同経営は、放棄する。こんな土地、もう要らない。好きに使えば良いさ」


「分かりました。では、共同経営は無しにしましょう。その代わり、この契約書を反故する事になるので、契約書の裏面にある、重要事項に記載がある通り、『乙は、共同経営を反故する時は、如何なる理由があっても、土地代金を放棄する』を適用し、当社は、森田夫婦に、一切の金銭を支払いません」


(------!)

(------!)


「さあ、これで、私からの話は終わりです。契約を結んだのも、反故したのも、全て、森田さん、あなたの自発的発言だ。当社は、何も強制していないし、あなたの意見を尊重した。結果、この様な結末となり、とても残念です。ですが、この土地は、私が責任をもって、有効活用しますから、ご安心ください」


 森田夫婦は、ぐうの音も出ず、引き上げるしかなかった。



 ~ 現在、東京都中央区月島 ~


「長々と、悪かったな。これが、その時の一部始終だ。一通りは、話せたと思う。後は、森田夫婦に聞いてくれ」


「相当、したたかな男だったのだな、時任英二は」


「刑事でなかったら、ぶん殴っていますよ」


「その時の検察官は、この相談を受けて、どの様な助言を?」


「いや、助言は無かった。契約書に署名したのは、間違いなく、森田本人だし、裁判を起こしても、勝ち目がないから、誰も引き受けてくれないだろうと」


「相手に落ち度があれば、勝負出来たかもしれないだけに、残念な結末だ。中身を見ないで、契約した本人に、非があるし、仮に、同じ状況で相談されたとしても、当時の検察官と、同じ回答をしただろう」


「そうですね。それだけに、時任英二のやり方は汚いですな」


「お話を伺って、疑問に駆られた事があります」


「何だね?」


「時任英二が、森田夫婦から、この土地を奪われたのが、十五年前です。森田みくるが誘拐され、殺害されたのは、八年前。つまり、七年間の空白期間があります。この間、二人は接触したのでしょうか?」


「表立っては、無かったと聞いている」


「表立って?」


「相談を受けた検察官がいただろう?彼が、森田夫婦を不憫に思ったのだろう。あの手この手で、土地を取り戻そうと、画策していた様だ。ただ、当時の日本国憲法では、どうする事も出来なかったから、ギリギリのところで、何かはしていたんじゃないかな?」


「でも、当時、服飾工場があって、そのまま経営していたのですよね?」


「ああ、そうだ。だが、水面下で策を弄した結果、時任英二の経営は傾いて、工場閉鎖まで追い込んだと聞いている」


 佐久間は、捜査記録を思い出した。


「確かに、工場経営が芳しくなかった点、普段は閉鎖しているのに、遺体発見当日は、工場の鍵が開いていた点、森田みくると時任英二が、顔馴染みであった点と書いてあった。この事だったんだ」


「すると、森田みくるが殺されたのは、経営妨害した、森田夫婦に復讐する為に、時任英二が暗躍したって、事で良いんですかね?」


 松崎は、首を横に振った。


「普通ならね。でも、時任英二が、森田みくるを殺す理由があっても、何故、自分の土地に、遺棄しなきゃならないんだ?普通なら、山林とか、目立たない場所に捨てるだろう?」


「そう言えば、そうですな」


「山さん、やはり、この事件、一筋縄ではいかないぞ。時任英二は、事件対象者であっても、犯人ではない。おそらく、時任英二を操る黒幕がいるんだ。その者を、表舞台に引っ張り出さない限り、勝負にならない。十五年前、八年前、そして現在。全て、その黒幕が、時任英二を操って、事件を起こしているに違いない」


 松崎は、佐久間に頭を下げる。


「森田夫妻は、最後まで、時任英二を恨んでいたよ。しかも、娘まで、工場敷地で失ったんだ。背水の陣で臨んだ裁判でも、負けてしまって、完全に心を折られてしまった。時任英二を逮捕出来るなら、月島商店街は、何だって、協力してやる。だから、奴だけは、絶対に裁いて欲しい」


(………)

(………)


「鋭意努力します。やはり、森田夫妻には、どうしても会わねばなりません。情報ありがとうございました」


 こうして、佐久間たちは、松崎金物店を後にした。


 

 ~ 地下鉄大江戸線、月島駅 ~


 佐久間は、年賀状の住所を見ながら、翌日の予定を思い出している。


「山さん、明日の合同研修会は、『欠席する』と、総務課に伝えておいてくれ」


「確か、発表される予定ありませんでしたか?」


「事件の方が大事だ。少しばかり、遠出をしてくる」


「私も、ご一緒しますよ」


「しかし、山さんまで、後で叱られる事になるよ」


「構いませんよ。それに、浜松市なら、美味しいものも、期待出来ますし」


(言われてみれば、そうだな)


「じゃあ、一緒に行こうか、山さん」


(森田夫婦か。何とかしてやりたいな)


 佐久間は、もう一度、捜査記録を読み返す事にした。


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