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親愛なる者へ 〜佐久間警部の苦悩〜(2024年編集)  作者: 佐久間元三
プロローグ
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死体は語る(2024年編集)

 ~ 東京都豊島区 ~


 豊島区は、東京都区部の北西部に位置する特別区で、約三十万人が暮らす、東京都屈指の区である。立教大学や学習院大学などがあり、若者が多く集う。


 交通・経済・行政の中心は、池袋であると評価され、新宿や渋谷と並ぶ、東京の三大副都心として発展を続けている。巨大ターミナル駅である池袋駅は、知名度が高く、駅を挟んだ東口・西口ともに、大型商業施設や飲食店が集まる繁華街があり、集客に力を入れている。


 西巣鴨の、閑静な住宅街の端に位置する、板金塗装工場では、いつもと同じ様に、日常が始まろうとしていた。



 ~ 六月十五日、八時三十分。 板金塗装工場 ~


(はあ、今日も仕事か。遊びにいきたいなあ)


 一人の青年が、工場の前で、シャッターのボタンを押すと、まずは溜息をつく。


 勉強が嫌いで、高校を卒業後は、迷わず就職を選んだ。窮屈な実家を出て、自由気ままに、社会に出て羽ばたきたかった。だが、これといって、やりたい事はなく、他人と比べても、秀でる技術を持っている訳ではない。


 高校を卒業しただけでは、就職出来るところは、かなり限定的で、区の臨時職員で清掃員になるか、スーパーマーケットの裏方か、冷凍工場の仕分け作業員か、板金塗装工場くらいであった。


 てっとり早く、手に職を持つ為には、板金塗装工場が良いだろうと、軽い気持ちで、面接を受け、人手不足が幸いし、一発採用を獲得出来たものの、夢見た社会人像とは真逆で、人生設計を誤ったと、入社一日目で、後悔した。


(何故、体験入社を希望しなかったのだろう。そこから、失敗した)


 幸い、この板金塗装工場は、新入社員に対し、福利厚生だけは手厚い。入社三年目までは、寮に入る事が出来て、給料から天引きではあるが、食事の心配もない。自分の気持ちを抑えれば、衣食住は確保される。


(何もない自分が、一人で生きていく為には、まずは修行するしかない。自転車しか触った事のない自分が、どこまで出来るか分からないが、一日でも早く、こんな寂れた工場から、脱出するんだ)


 この板金塗装工場は、九時が、始業時間だ。一番下っ端の見習いは、始業までに、工具の準備、工場内の換気、金属破片の清掃、塗装ブースの清掃、溶接機の始業前確認、自動車塗装に使用する機械の、定期点検を行ったりと、やる事が多い。


 仕事が始まってしまえば、終業まで、ひたすら小間使いである。板金塗装工場の世界で、生きていく為には、自動車整備士資格、自動車車体整備士資格、塗装技能士資格、ガス溶接技能士・アーク溶接技能士資格、有機溶剤作業主任者資格、危険物取扱者(乙種第4種)【国家資格】、カラーコーディネーターなど、様々な分野の資格が必要で、実務経験を積まないと、試験すら受けられないものもある。


 入社二ヶ月の新人は、先輩の補助だけしか出来ない為、結局のところ、勉強するしかないのだ。


(勉強が嫌だから、就職したのに、生きていく為には、勉強するしかないのか。よく考えれば、当たり前で、何故、僕はそんな事も分からなかったんだ。こんな事なら、短期大学か専門学校にでも、行っておけば良かったな)


 後悔しても、仕方が無い。今日も、自分を騙し、乗り切るしかない。嫌々な気分を見透かされたら、自分の立ち位置では、解雇されるだろう。自立するには、まず、力を蓄える事だ。そう自分に言い聞かせ、心を奮い立たせる。


「愚痴はここまで。では、今日も一日、頑張りますか!」


(これで、良しと)


 田所真一は、シャッターが上がるのを、じっと見ていた。ボタンを押し、上がりきるまでは、一分程度、時間を要する。その間、溜息をつき、就職した事を後悔し、それではダメだと奮起し、気持ちをリセットして、工場の敷地に足を踏み入れるのが、日常所作(ルーテイン)である。


 始業前に、如何に効率良く、段取りを済ませ、喫煙時間を確保するかが、目下の課題である。小さな人間だと、卑下されるかもしれないが、始業前、小休憩、昼食しか、喫煙出来ない環境では、三回しかない喫煙時間は、仕事よりも重要で、生きがいと言っても、過言ではない。


(昨日は、溶接工具の準備で躓いたから、今日は、塗装ブースの清掃から行ってみよう。一服出来るか出来ないかで、一日が全然違うからね)


 シャッターが、徐々に上がっていく。一メートル程で、工場の内部が見えてくる。


(半分くらい開いたかな?……ん?様子が変だ、何かの気配がするんだが?)


(------!)


 田所は思わず、その場で、座り込んだしまった。


(待って、何か浮いている。…足首?)


 シャッターの上昇と共に、人間の足首、膝、太もも、腰が徐々に現れる。


(待って、待って、待って)


 シャッターが、完全に上がりきった時、田所は、目の前で起こっている現実を知った。


(------!)


 見知らぬ、中年女性が、自分の前で、首を吊っている。死んでいるのか、生きているのか、分からない。ただ、普通に考えても、前者だろう。


「おっ、……おお、……つっ、通報しなきゃ」


 田所は、工場内部が見えない位置に、退避すると、震える指で、110番を押した。


「はい、警視庁通信指令室です。事件ですか、事故ですか?」


「もっ、もしも、もしもし、けっ、警察ですか!ひっ、人が死んでます!」


「落ち着いて、話してください。今、どんな状況ですか?ゆっくりで構いません。なるべく、具体的に話してください」


「えーと、今、自分は、…勤務先の工場前にいて、シャッターのボタンを押して、シャッターが上がって、工場に入ろうと、中を見たら、…中年女性が首を吊って、多分死んでいます」


「状況は把握しました。その場所は、どちらですか?逆探知していますが、場所を言えますか?」


「えーと、場所は、東京都豊島区西巣鴨一丁目の、板金塗装工場です。閑静な住宅地の端ですから、直ぐに分かります」


「あなたのお名前を教えてください」


「たっ、田所真一です」


「現在、あなただけですか?周囲に誰かおりますか?」


「いいえ、僕だけです」


「分かりました。場所の特定が済んだので、直ぐに、最寄りのパトカーに向かわせます。何もしないで、その場所に留まっていてください。誰が来ても、工場内への立入りもしないでください」


「わっ、分かりました」


 通話を終えると、田所は、一度、工場内を見るが、直ぐに目を背ける。


(死体と目が合っちゃった。ひいいいい)



 ~ 一方その頃、東京都新宿区 ~


「警部、大事に至らなくて、良かったですね」


「親切な学生のおかげだね。認知症の人間は、どうしても放浪してしまうからね。あのお婆さん、あのまま赤信号で進んでいたら、交通事故に遭っていただろうね」


「都会化が進んでも、人の心は変わらない。まだまだ日本も、捨てたもんじゃないですね」


「そうだね、ん、ちょっと待て、山さん。無線連絡だ」


通信指令室(本部)より、緊急連絡。只今、一般者より通報あり。工場内で、中年女性が縊死している模様。最寄りのパトカーは、至急、現場に急行せよ。場所は、東京都豊島区西巣鴨一丁目の、板金塗装工場。通報者は男性一名、タドコロシンイチと名乗っている」


(西巣鴨か)


「こちら、巣鴨警察署二号車、自分が一番近いので、直ちに現場に向かう、どうぞ」


「こちら、巣鴨警察署三号車、自分たちも応援に向かう、どうぞ」


「通信指令室、了解した。現着次第、規制線を張れ。機動捜査隊を派遣する」


「捜査一課、佐久間だ。状況は把握した。捜査一課五号車は、現在、新宿区を走行中。機動捜査隊とは別に、現場へ急行する、どうぞ」


「通信指令室、了解した」


「捜査一課五号車より、二号車へ、どうぞ」


「二号車、どうぞ」


「通報者は一名だが、工場だから、始業時間前だろう。そろそろ、大勢来る筈だ。決して中に入れない様に、現場保全を頼む、どうぞ」


「二号車、了解した」


「三号車も、了解した。規制線の設置と応援を行う、どうぞ」


「捜査一課五号車、了解。では、後程」


「山さん、という事だ。現場へ急行してくれ」


「了解です、飛ばします」


 

 ~ 九時二分、板金塗装工場 ~


(思ったよりも、人だかりが出来ているな)


 佐久間たちが、現着すると、規制線が設置され、機動捜査隊による初動捜査が開始されている。工場の従業員は、中へ入る事が許されず、現場検証が終わるのを、待っている。規制線の管理と、交通規制に、巣鴨警察署の応援部隊が、投入されたようだ。


「お疲れさま、捜査を引き継ごう。被害者はどこだ?」


「警部、あちらです」


(なるほど、縊死だな。ん?そこにいるのが、タドコロか?)


 佐久間は、遺体に合掌すると、実況見分の為、側で震えて待機している、若者に声を掛けた。


「第一発見者の、タドコロさんですか?」


「はっ、はい、そうです」


「色々と、お話を聞かせてください。まず、あなたのお名前、漢字からお願いします」


「はっ、はい、えーと、田所真一です。田んぼの田、場所の所、真一は、真ん中の真、数字の一」


(緊張しているな)


「そんなに緊張しなくても、大丈夫ですよ。分かる範囲で結構です。遺体を発見した状況を、詳しくお願いします。出来れば、何時何分に、工場に来て、遺体を見つけたとか。そんな感じが良いです」


「…僕は下っ端なんで、いつも八時三十分に、この工場に、一番乗りしてます。シャッターを開ける事から始まるので、いつもの様に、シャッターを開けました。半分程、シャッターが上がると、工場の様子が変だなと感じて、人の足首が浮いている状態で、見えました。シャッターが上がるにつれ、段々と、その状況が分かってきて、()()()()()、死んでいるを確信しました。それで、怖くなって、工場の中には入らずに、110番通報をしました」


(ふむ、嘘はついてなさそうだ。八時三十分にシャッターを開けた、遺体を発見するまで、一・二分といったところだな。…念の為、一時間後に、顔見知りかどうか、再質問してみよう)


 佐久間は、田所を労った。


「さぞ、驚いたでしょう。警察が来たからには、もう大丈夫ですよ。何かあったら、声を掛けますので、現場検証が終わるまで、タバコでも吸っていて下さい」


「はあ、分かりました、ありがとうございます」



 ~ 板金塗装工場内 現場検証 ~


 開始から、四十分が経過している。鑑識官による、指紋と下足痕が採取され、遺体の検分が始まった。佐久間は、遺体の首筋に違和感を覚える。


「山さん、妙じゃないか?」


「…本当だ。何か重なったますな」


「鑑識官、写真を見せてくれ」


(よく見ると、ロープ痕が、二種類あるぞ)


「鑑識官、少し多めに撮影しておいてくれ。角度も変えて頼む」


「了解です」


(被害者は、この場所で、首を吊ったのは間違いない。だが、二種類は変だ。…この場で、縊死したと、偽装したのだろうか?)


 佐久間は、脚立の位置を、調べる事にした。


「鑑識官、脚立の位置は、ずらしても問題ないか?」


「位置は、押さえましたので、大丈夫です」


「了解。山さん、脚立の位置を確認したい。遺体から、一人分後ろの位置で、脚立に乗ってくれないか?そして、その場所で、遺体をセットする仕草をしてみてくれ。鑑識官は、撮影を頼む」


「こうですか?」


 山川は、脚立に昇ると、指示された所作をする。


「うん、しっくりくるな。やはり、誰かが、遺体を持ち上げて、吊ったと思うよ。一人分の幅が、ずれているからね。縊死に見せかけ様としたが、これは、非定型的縊首の方だね。鑑識官、この女性の足取りはどうだ?工場の敷地外から、この場所まで歩いた下足痕は、採取出来たかい?」


「あるには、あるのですが、引き摺られた感があります。十中八九、自発的に歩いてはいないでしょう」


(歩いていない。という事は、間違いないな)


「それは、踵面じゃないのか?」


「そうです、両足の踵です」


「どういう事ですか?」


「人を殺して、引き摺る場合、うつ伏せの者を引き摺ると、非常に動きにくいんだ。だから、人を引き摺る時は、大抵は、仰向けにして行う。踵がバランスを取ってくれるから、うつ伏せに比べ、楽に出来る。鑑識官、被害者の靴を脱がして、一致するか、検証を頼むよ」


「了解です」


 山川は、首を傾げる。


「だとすると、犯人は、何故、証拠を残す真似をしたんでしょうか?同じロープを使用すれば、こんなボロが出る事も、なかったでしょうに」


(………)


「圧迫した、微妙な位置のずれ、脚立の位置、下足痕。犯人は、警察組織(我々)の力量を推し量ろうとしているのかも、しれないね。完全犯罪を目指すなら、この女性の足跡を残すだろうが、足跡の沈下量を、体重から換算すれば、自重で歩いているのか、担がれて歩いているのか、分かってしまうからね。この女性を殺害した時、手元にあったロープで、突発的に実行したのかもしれないが、詰めが甘い事は事実だ。まあ、どちらにせよ、他殺とみるべきだな。捜査本部を設置しよう。山さん、課長に、捜査本部の要請をしてくれ」


「了解です」


 山川は、課長の安藤に、捜査状況の報告と、捜査本部設置を依頼した。


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