第五章
バタンッと母は倒れて床と衝突した。凍ってしまった心臓を溶解するように、胸を強く抑えている。加えてただならぬ量の汗が体全体を這いよっている。
「母さん!」セリーヌは目の前の巨体を払い除けて、彼女の元に駆け寄った。
母の口から微かに発せられた謝罪の言葉。ずっと黙っていたが、体調がひどく悪かったらしい。
「あの時感じた不安は間違いじゃなかったんだ……」とクローディアは一人悔やんだ「わたしがセリーヌに伝えていれば、ここまでひどくならなかったのに」。
「病院だっ」とセリーヌは母を抱えようとした。
「無駄だよ」ギャツの目は凍えていた「貧乏人なんか、相手にするもんか」。
セリーヌは地図を手に取り、震える手をもう片方の手で抑えながら、そこら中の病院を探した。けれども、片田舎の貧民も診てくれる寛大な医者は、遥か彼方にある国営病院だけだった。全速力で走ったとしても、辿り着くには三日もかかる。それまで母は耐えうることができるだろうか。セリーヌは悔しそうに家中を見回し、あるはずのない埋蔵金にすがろうとした。
「そんなことしなくても、金ならあるじゃないか」ギャツはクローディアに指を差した。
クローディアはうんともすんとも言わなかった。先程まで流していた涙同様、意思まで枯れたみたいだった。
「僕に彼女を殺せと言うのか!」
「そうだよ。お前の親父みたいにな!」
「黙れ!」
ほとばしる怒りによって猛突進するセリーヌを、ギャツはいとも容易く回避する。剥き出しの背中を蹴飛ばし、倒れた隙に十字固を決め、動きを止めた。
「ど、どういうこと?」
「なんだ、知らなかったのか」心の奥底から愉しそうな口調で教えてあげた「元々エルフ狩りは、こいつの親父が始めたんだぜ」。
「父さんがあんな実験をしなきゃ、エルフは、クローディアは今でも幸せだったのにっ」セリーヌは顔を真っ赤にしながら嘆いた「僕と母さんを遺して自分で死ぬこともなかったはずだ!」。
「あんなことだと」
「これなら貧しい方がましじゃないか」
「ふざけるな! 一生周りの村にバカにされて、不味い飯ばかり食っていく生活に戻るなんてごめんだっ」
「そんなの人間のわがままだよ」
「お前のわがままでお袋さんが死ぬんだぞ」
セリーヌはその言葉への反論に窮してしまった。ギャツの指摘は的確で、確かにこのままでは間違いなく母は亡くなる。親子揃って自分のエゴで命を殺めることになるのだ。
だが、こうして迷っている間にも、母の容体は悪化する一方だった。
「このままじゃ、本当に手遅れになるぞ」ギャツは促した「殺せっ、殺すんだ、エルフの涙を見せればあっという間にお袋さんは元気になるぞ」。
セリーヌは目をギュッと閉じた。二人の内、どちらかを選ぶことなんて無理な話であった。母は勿論のこと、クローディアだって最愛の存在なのだから。
クローディアは最近になって、ようやく笑うようになった。その時の彼女は、年頃の少女らしい可憐さの中に、確実に大人に成長していると示す麗しさも垣間見える。帰宅したセリーヌを無邪気に出迎えるあどけなさと、仕事の疲れを労ろうとする気配り。セリーヌにとって、彼女への想いは日に日に募っていった。
そんなクローディアの息の根を絶やすなんて、論外だったし、考えたくもない言葉であった。
セリーヌに残された道は一つしかなかった。
頭を床に擦り付けるように土下座し、
「お金を貸してください」と乞い願った「どんなことだってする。何だったら、僕を殺したって構わない。貸してください。本当に、本当にお願いします」。
「虫が良すぎるんだよ。自分の手を汚さずに、エルフ狩りで儲けた金を借りようなんて」
そのことはセリーヌも分かっていた。仮にギャツから診察代を借りたとしても、もう村では暮らしていけないだろう。エルフをかくまい、しかもエルフ狩りを批判していたのに、その稼ぎを毟ろうとするのだから。どれだけ罵られても、言い返せない。
「これに懲りたら、一度考えるべきだぜ。幸せは色んな物を踏み台にして手に入るんだってな」
大男はセリーヌのちっぽけな理想に憐れみを感じつつ、家を出ようとした。そこにもはや憎しみはなかった。
万策は尽きた。セリーヌは虚しい抵抗であるものの、母を病院に連れて行こうとした。それはゴールのできない過酷なマラソンであった。
「アハハハハッ!」と突然笑い声がした。
しかし、声の主はどこにもいない。ギャツも目を丸くしているのだから、彼の仕業ではない。この狭苦しい古家の中で、誰にもばれない隠れ場所は、セリーヌでさえ思い浮かばない。あるとしたら、
「まんまと騙されたね」
そう、天井だ。そこに留まれるのは、翼を持つクローディアしかいない。
無音のまま羽ばたいていたクローディアはセリーヌの背中を取った。彼女は台所から持ち出した包丁をセリーヌの首に突きつける。冷徹な感触が彼の首と、その奥にある脈にも襲いかかる。
「な、何をしてるんだ」
「どうしたもなにも、わたしの罠に引っかかったんだよ」と笑う彼女の瞳は元々たれ目だったはずなのに、三日月よりも鋭くなっていた。
「危ねえっ」ギャツは床に叩き落とした猟銃を拾い上げた。
「あと二秒後も構えてたら、このおバカさんを殺すよ」
ギャツは猟銃を手放した。クローディアが足元に置いておくなとばかりに顎で差すと、彼女の近くに放り投げた。見下していたエルフに出し抜かれている自分に、情けなさが募っていた。
「わたし達エルフは復讐のチャンスを狙ってたの。この村を乗っ取って、今度は人間を同じ目に遭わせようって」
「そんなアホみたいな計画、うまくいくわけがないだろ」
「でもこの人のお陰で大成功だよ。この村の人って学校にも行けないくらい、貧しくて頭の弱い人達しかいないから、もっと順調に計画が進む予定だったけど、思ったより時間が掛かっちゃった」
「でも、お父さんとお母さんが亡くなって、自分も大怪我したじゃないか」
「あれぐらいでメソメソしてたら、エルフなんてやってけないよ。毎日毎日仲間が殺されてるんだから」
「じゃあ……」
「全部、今日のための嘘だよ」
セリーヌは跪いた。身体の芯が引き抜かれてしまったように、力が入らなかった。命を賭けてでも守りたかった日々は、ただの幻想でしかなかったのだ。
本来、彼に沸き上がるであろう怒りを、ギャツが代弁した。人質であるセリーヌのことも忘れ、思い切り拳を振り下ろした。
するとクローディアは翼を素早く振った。強風に踊らされた埃や塵がギャツの眼に入り、視界を遮ってしまう。その隙に彼女はギャツの太い腕を切りつけた。刃物は容赦なく彼の筋肉を切り裂く。ギャツの呻き声が家中を支配する。
「やっぱりあなたもバカね」
傷こそ浅いが、肘から手首まで切り裂かれていた。彼は露出した血液の洪水を止めようと、ポケットから一冊の本を取り出した。
「なあに、これ」クローディアは奪って中身を読んだ「これ、辞書だね。もしかして、お勉強?」。
いつになく慌てて取り返そうとするものの、クローディアは身軽に避けた。赤茶色に変色した紙に、不細工な文字がぎっしり書き込まれていた。表、裏、背中の表紙にそれぞれ誇示するように、彼の名が刻まれている。
「わたし達を殺したお金で、お勉強してたんだあ」彼をなじるように追及した。
貼られたままの小さな値札には、手元にあればしばらく衣食に困らない金額が記載されていた。
「ギャツ、君がお金を欲しがった理由は、それのためだったのか」
「こんな成りで、勉強して、偉くなるのが夢だなんて、バカだと思ってるだろ?」
「そうだね。本当バカばっかり。ちょっと頭を使った女の子にみんな負けちゃうんだもん」
変わり果てた姿に唖然とする二人を尻目に、彼女は部屋の奥へと歩き、
「からかうのも飽きちゃった」と寝そべる母に刃を向けた「まずお母さんから死んでもらおうかなあ。セリーヌの一番大切な人を殺しちゃおっ」。
「何だって……?」セリーヌは耳を疑った。
「じゃあね。バイバーイ」
クローディアは包丁を高く掲げた。狙いは母の、病魔との苦闘によってびしょびしょに濡れた背中。セリーヌを女手一筋で育てた母の背中が、今、紅く染まろうとしている。
「母さんに手を出すなっ!」
銃声がこだました。
流れたのは、クローディアの血だった。