第四章
始まりは、その日の朝。
「行ってきまーす」セリーヌはいった。
「今日は何時に帰ってくる?」クローディアは上目遣いで尋ねた。
「できるだけ早く帰ってくるよ」
「本当に、嘘じゃない?」
セリーヌはゆっくり頷いた。
「だから母さんと一緒にいるんだよ、絶対に一人にならないでね」
ドアを開く前に視界からクローディアが消えることを必ず確認する。外から誰かに見られないために。彼女はいつも決まって台所の隅にいる。目の前にテーブルがあり、視界を遮ってくれるからだ。
「いい、見えない?」女の子座りをしながら言った。
「うん、大丈夫だよ。それじゃあね」と外を出た。
それから一時間と経たない内のことだ。扉が断末魔をあげるくらい強くノックされた。
「はいはい。どなたかしら」母は床にへばりついた足をゆっくりと持ち上げながら言った「せっかちねえ。そんなに急かさなくても」
母の内職を手伝っていたクローディアが身を隠そうとすると、現実と悪夢の狭間の光景を目の当たりにした。閉ざされていたはずの扉が破裂した。そこにいたのは、恐ろしい形相をした大男だった。
「どうしたの、突然!」母は後ずさりした。
大男は眼球くらいの弾を込めた猟銃を母の顔面にぴったり突きつけた。恐怖で気管が縮み上がり、助けを呼べない。しかし無情にも引き金が引かれる瞬間は刻一刻と迫っていた。
「かがんで!」クローディアは母を助けようと、飛びついて押し倒したがために、その姿を人目にさらしてしまった。
ダァン!
間一髪避けることができた銃弾は、テーブルをテーブルだったものに変えてしまった。代わりに人と暮らしているはずのないエルフが、大男の視界に映った。
「はっ、はははっ!」大男は肉汁を噛み締めたように笑った「やっぱりいやがったなあ!」。
「や、やめなさいっ」母の虚しい警告は、彼の脳みそに留まることはなかった。
クローディアを捕獲するために、彼女のか細い首に手を伸ばした。汗がじっとり絡みついた毛むくじゃらの腕に、彼女が支配される。
「い、いや……来ないで!」儚い悲鳴を上げた。
しかし鋼鉄のムササビらしき物体が、大男の腕をかすめた。鋭い痛みが大男に走る。
「『やっぱりいやがった』?」大男の背後から声がした「こっちの台詞だよ、ギャツ」。
「セリーヌっ!」忌々しげに言った。
それは猟銃を手にしたセリーヌであった。その姿は、かつての気弱さをとても想像できないくらい勇ましい。
「来てくれたのね」クローディアは言った。
「怖がらせてごめんね。でもこうしないと、いつまでも付きまとってくると思ったんだ」
目的を見抜かれていたギャツはバツが悪そうに、
「お前……こんな奴と暮らしてたんだな。エルフ狩りをやめるわけだ」と舌打ち交じりに言う。
「君が問い詰めた時から、強引に確かめようとすると思ってたよ」とセリーヌは睨みつける。
「おおこわいっ。それでどうするつもりなんだ?」
セリーヌは臆することなく天井に目がけて発砲した。しかしその威嚇を快く思わなかったギャツは、
「よくできまちたあ」と嘲る「舐めてんのか、貴様」。
か弱き理想論をギャツは許せなかったらしい。セリーヌの奮い起こした勇気を、木っ端微塵にしたい欲求に駆られ、攻撃を開始した。
素手でもギャツは狂暴そのものであった。彼自身が武器であることを証明するように、拳骨を食わせた。それくらい、セリーヌの勇ましい瞳の輝きが憎らしい。
「もうやめてっ……!」
クローディアは自分のために生命をすり減らす彼の姿を、これ以上眺めてはいられなかった。母に至っては、言葉を盗まれてしまったみたいに、口を開けたまま押し黙っている。
「お前が死ねばやめるさ」ギャツはぴかぴかの白い歯を露わにながら言った。
「貴様!」
ギャツは彼が引き金に触れる瞬間を見逃さず、銃口を蹴り上げた。それはでたらめな角度を向いたまま弾をはき出した。衝撃でのけぞり、がら空きになった鳩尾に頭突きをお見舞いすると、彼は地上で窒息死しそうになった。
「どうしてあいつをかくまうんだ?」とセリーヌの猟銃を叩き落としながら聞いた。丸腰の彼は、 口うるさい人形同然で、もはや反逆の術を持っていなかった。
「金の成る木だぞ? 欲しいものを買えるチケットなんだよ。だから本当に必要な命か? 殺してこそ活きるわけだ。けど、その逆はないよな」
「わたしは死んで初めて役に立てる命……」
「聴いちゃだめよ、クローディア!」母は、嗚咽混じりに泣きじゃくる彼女に訴えた。
空気が濁っていた。まさしくギャツの望む展開になりつつあった。しかし傷だらけのセリーヌだが、純心までは踏みにじられていなかった。
「好きだからだよ」彼は一ミリたりとも目を逸らさずに答えた「愛する人を悲しませるなんて、するわけがないよ」。
「俺達のことを知りもしない癖に!」
ギャツは我慢の限界であった。セリーヌの清純な瞳が鋭く心に刺さるのだ。ギャツは猟銃でセリーヌの顔を吹き飛ばそうとした瞬間であった。
セリーヌの頭から溢れるはずだった血が、母の口から流れたのだった。