第三章
「ぐすっ……ひっく……」
「どうしたの、クローディア、何か悲しいことでもあったの?」と母は先日助けたエルフの名を呼んだ。
「ううん、違うの」とクローディアという名前のエルフは両手に持っていたタマネギを差し出した 「たくさん泣いたら、綺麗な石になってくれると思ったの」
クローディアは助けられから一度も外出していない。しかしこの村にしばらく暮らしているだけでも分かる。この家だけ、浮いている。精神的にも、金銭的にも明らかにみすぼらしい生活を強いられているのだから。
歩けば呻く木床。湯冷ましのような薄味の野菜スープ。そして何より、
「エルフも殺せない臆病者め!」という近所の村人の罵詈雑言が、この家の置かれている環境を嫌と言うほど教えてくれた。
「わたし達が何をしたって言うの」とクローディアは言い返してやりたかった。
しかしつま先を陽にさらすだけで今度こそ確実に命を落とす。煙草の煙よりも容易くこの世から消えてしまう。クローディアは意思のあるかかしみたいなものだった。
パアアアンッ、バンッ、パサッパサパサ
彼女が命拾いしてから幾日かが過ぎて、再び夜に降り注ぐ光の雨が、クローディアを恐怖で支配した。自分達は金稼ぎのための駒でしかない。そんな事実を直視せざるを得ない。眼を塞いでも、あの時の記憶と心を葬ることは不可能だからだ。
「助けて……っ」と家の片隅で、いかにもエルフらしい長い耳を手で抑えながら、ほとんど徒労に等しい救いを求めた。
一匹、また一匹と仲間が殺されていく。その多くは、草原や森林に落ちていくから呆気ないほど物静かに生きることを辞める。人間が上げる歓声の騒々しさとは対照的である。家の中にいると、爆竹を浪費するやんちゃな祭りに盛り上がっているだけにも聞こえる。
「みんな、わたし達が苦しむとすごく喜ぶんだね」と諦念した。
「僕はそんなこと思わない」セリーヌはクローディアを抱き寄せた「ここにいれば怖い人達は来ないから、大丈夫だよ」
一瞬クローディアの頬が緩んだものの、何かを思い出すとすぐに強ばってしまった。彼女は足でセリーヌの鳩尾を突き飛ばし、
「あなたも、わたしを殺すつもりでしょ!」と声を枯らした。
「絶対に殺さない!」蹴飛ばされたお腹をさすりながら反論する。
「わたしも、人間に生まれたかったな」
感情の芽生えた機械のような夢を語ると、突然長い耳と翼をグイグイ引っ張り始めた。そうする他に歯がゆさを紛らわす手立てが無かったのだ。
セリーヌは蝶になりたがる蛾が、好きでもない花蜜を真剣に啜る習性を解明した時のような表情をしていた。
「そんな風に思わせてしまってるのは、僕らのせいなんだ」
腫れそうになっていた耳と翼を優しくさすった。
「生きてて欲しい、こんなに綺麗なんだから!」
「ほ、ほんと……?」
「笑った時はもっと、ね」
「夢、みたい……嬉しい、嬉しいよ」
クローディアにとって、セリーヌがただの命の恩人以上になったのは、この瞬間であった。
その日のことを、毎日色褪せることなく振り返るのだった。
「だからって無理して宝石を作らなくて良いのよ」母は言った「あなたをお金のために住まわせているわけじゃないんだからね」。
「でもっ……!」
クローディアが椅子から勢いよく立ち上がると、膝に乗せていたタマネギが散乱する。床が緩やかな傾斜となっているから、それらはどこまでも前進する。
「わたし、何もお礼できてないから、どうしても作りたいの」
申し訳なさそうにそれらを拾おうとすると、母も手伝い始めた。干からびたレーズンみたいな豆がいくつもできた手の平を見ると、クローディアは尚更、対価を差し出したくなるのだった。
「もう十分お礼をしてもらったわよ」彼女を労るようにささやいた。
「どうして?」
「セリーヌのことよ」
その名を耳にし、クローディアの胸に熱い血潮がたぎると、
「ただいま!」と眩しい声が家中に注がれた。
偶然、玄関まで転がったタマネギを拾おうとしたクローディアは彼と見つめ合う恰好となった。目とは、彼の姿を記憶に留めるためだけに生まれた器官ではないかと思わんばかりに、注視していた。セリーヌは顔を赤らめて木床の模様を観察してやり過ごそうとした。
「あっ」セリーヌはいった「今度はタマネギか……」。
「これならうまくいくかなーって」
「この間は悲しい本を読んだり、まばたきをしなかったり……泣いちゃってばかりじゃないか」
「これが宝石になれば、セリーヌは大金持ちだよ」と得意気に言う。
しかし村の者らは皆、エルフの涙は死に向かって絶望した時にしか採取できないと知っている。それが鬼畜と呼ばれた研究者が、エルフを生け捕りにして様々な研究を積み重ねた末の結論だ。
最高潮に達した感情が瞼から溢れ、空気に触れると凝固して宝石となるという原理らしい。どういうわけか、汗や唾液ではいけない。涙以外はただの体液に過ぎない。
となると、極限の悲しみと喜びでしか得られない。
村人は猟銃一本で、一時間足らずで裕福になる道を選んだ。
「もう、涙はいらないよ」
「ど、どうしてっ」
「誰かを悲しませて得た幸せなんて、本当の幸せじゃないよ。僕はそう思うようになったんだ」
「でも、今日だってそんなに売れなかったでしょ? このままじゃ、ずっと貧乏だよ」
「昨日よりマシってぐらいだね。でも、頑張るよ。少なくとも、クローディアを苦しませてお金持ちになんかなりたくない」
その言葉が強がりではないということを、血色の良い肌が証明していた。細身であるが、内に秘めたる力は、見せかけの筋肉よりも強靱だ。彼はそのまま足取り軽く、明日の準備をするために庭へ向かった。
「あの子、随分明るくなったわ。これもクローディアのお陰よ」と母は目を細めた。
「そんな、わたしはただこの家にいるだけだよ」
「その前は、私と二人きりだったからねえ」
「パパは?」
「いたんだけど、届かないくらい遠くに行っちゃったのよ」窓の外から空を見上げながらいった 「だからセリーヌは生活のために色々悩んでいたみたい。元々、虫をはたくことだってできない子なのにね。可哀想なことをさせてたわ」
クローディアは彼の父の死因を深掘りしなかった。いや、記憶の片隅に追いやられてしまったのだ。
「さっ、夕飯の準備をしなきゃね」
母が木床から立ち上がろうとした時だった。ほんの一瞬だけ、くしゃくしゃに丸めた紙みたいな顔をして、胸を握りしめていた。呼吸もままならず、確実に命がすり切れている合図であった。
「どうしたの」
「どうしたのって? 何もないわよ」
それはクローディアが惑わされた蜃気楼かもしれない。そうであって欲しくて、彼女はその日の夜、特に用事がなくても繰り返し母の名を呼びかけていた。
他人の幸福を嫉み、影を見出そうとする輩は、どこにでもいる。
セリーヌの家だけ、狩りをしていなくても楽しそうにしやがって、という陰口が広まっていった。男なのに女々しく花を売る姿は、村の恥と捉えられつつあった。それなのに、
「ズルして稼いでるんだ」
「金持ちと結婚するんだろう」
といった風説が立ちこめたものの、全部根拠に欠けていた。おまけに引っ捕らえて尋問しようにも、セリーヌはエルフ狩りの始まる時間帯にようやく行商から帰ってくる。彼の尻尾より、エルフを捕獲した方がよっぽど得だから、結局なあなあになる。
だが、とうとう業を煮やした男がいた。セリーヌが狩りに参加しかけた夜に、彼のことをコケにしたギャツという大男だ。
セリーヌが労役を終えて帰り道を歩いていると、その男に視界を遮られた。地面から生えてきた海坊主ぐらいの巨体なのだ。猟銃を抱えることにも骨を折るセリーヌなんか、いとも容易く覆い尽くされてしまう。
「さいきん、バカみたいにごきげんじゃないか」心臓にまで響く太い声で問い詰めた。
「そんなことないよ」
「そんなことあるから聞いてるんだろお」気の短い彼は、片手でセリーヌの首を握り、天高く持ち上げてしまった「言えよ、隠し事があるんだろ」
「辞めただけだよ。エルフ狩りを」
光の雨に惹かれて、今日もエルフは山奥から抜け出してきた。五匹ほどいて、仮に全滅できたら、一週間家族を養えるだろう。
「情けない奴め! それじゃあ一生貧乏だな。勉強もできないからバカのままだ」
「それでも、構わないよ。とにかく、僕はもうあんなことはウンザリだ」
ギャツはセリーヌを地面に叩きつけた。豆だらけの固い手から解放された首には、その痕跡がくっきりと残っていた。小石の散らばった道に手荒く受け止められて咳き込んでいると、全身脂ぎった汗で濡れているギャツが仁王立ちしていた。憤怒の象徴であるその体液は、穴だらけのまま修理されていない靴から垣間見える親指にも流れている。
「どこがいいんだ、アホがっ」
ギャツは忌々しげに唾を吐き、走り出した。その先にある犬小屋と見間違えそうな建物を目指して。
灯りの無い真っ暗な部屋を、エルフの涙が照らしていた。その光を頼りに、ギャツは猟銃を探し回った。蜘蛛の巣をかき分け、テーブル上に置かれていた猟銃を見つけると、女の腕を引っ張るくらい乱雑に抱えた。
「あいつめ、誰のお陰で飯に困らなくなったのか忘れたのかよ」
ギャツは暗がりでも目立つ白いメモ用紙を取り出し、何かをかく。その手つきは、どこか幼い。ハエの軌道らしき線をかいたと思うと、分厚い本を手に取った。
「誰が俺達に夢を見させてくれたんだ」
メモ用紙の裏面に「出かけてる」というような字を書いた。
「お前が一番知ってるだろうが」
この日、ギャツは五匹全員から涙を奪い去った。
セリーヌの予感は的中した。不幸ばかり覚えているせいかもしれない。だが、悪いことが起きるという未来予想図は、不愉快なほど正確になぞられる。
埋もれていた怒りが目覚めたセリーヌは、地上の海坊主に正面から立ち向かった。
「くたばれ、干物野郎!」
大木の枝先に実る鉛みたいな拳がセリーヌの頬を抉る。心臓からも冷や汗が滴る鈍い音がした。家の果てまで吹き飛び、背中にドアノブがめり込む。
クローディアは驚愕のあまり、その蒼い眼を閉じる方法さえ忘れてしまった。
ただ、
「わたしがいなければ、こんなことにはならなかったんだ……」と自分を憎んだ。