第二章
「ただいま」
「セリーヌ、おかえりなさい。どうだった?」と彼の母が開口一番に聞いた。
セリーヌはうつむき、無言のまま古ぼけたイスに座った。ギィィと情けなく軋む音が、セリーヌの心情をそのまま代弁してくれた。蝋燭の放つ侘しい明かりに照らされた母の、少し痩せこけた顔を見れば見るほど、やるせなさは募る。
「僕は本当に弱虫だ」と嘆いた「女の子のエルフと目が合ったら、ニコッとしたんだ」
結局、引き金に触れただけ。彼にとっては、自分の骨をへし折る方が造作無いだろう。周囲の男達に思い切り嘲笑され、恋でもしたように真っ赤な顔をして高台から帰ってきた。
これで三十回目の失敗。いや、発砲すらできなかったのだから、失敗という境地にすら達していない。赤子未満の度胸であった。
「セリーヌには、ちょっと難しいんじゃないかしら」母は咎めることなく、遅い夕飯の支度を始めた。
食器を出す音に紛れて、母が小さな咳をする。ぶかぶかのセーターに包まれた体が粉々になりそうで、セリーヌはいたたまれなくなった。
「いいよ、ずっと待ってくれたんだから僕が作るよ」
「そう? ありがとうね。助かるわ」
お金があれば、セリーヌの心配事が消える。母は最近、見るからに顔色が青白い。皺が日に日に深くなっている。本当はたくさん食べて、飽きるくらい寝ていて欲しいとセリーヌは切に願う。
しかし、この村ではエルフの涙以外にろくな稼ぎ口がない。だからセリーヌだけではなく、母も時々、日の出の前から行商をしに遠くまで出歩き、日没までひたすら物を売る。商品は基本的にはセリーヌが育てた花や作物。売れなくはないが、儲ける金は両手に収まるかどうか、という程度だ。
「ごめんね……」とセリーヌは謝るしかなかった。
「いいのよ。エルフを殺してお金持ちになっても、死んだお父さんに顔向けできないじゃない」
パサパサパサ……
庭から落ち葉を踏みならしたような音が鳴る。
粗末な夕飯を噛み締めていたセリーヌは、花畑のある庭に出た。
そこにはちっぽけな体のエルフが不時着していた。人間にしたら、十四歳くらいの
少女で、肩身の狭そうな花畑にすっぽり収まるように横たわっている。それは、若くして棺桶に入ることになった子どもの葬儀の光景に似ていた。事実、背中からは血が噴き出し、花々を赤黒く染め上げ、事切れていてもおかしくなかった。
エルフだろうと、セリーヌには関係なかった。銃弾に皮膚を引き裂かれたエルフを大急ぎで担いだ。涙のことは記憶から洗い流されていた。
「母さんっ大変だよ!」
「ひどい血じゃない、どうしたのよ」母はセリーヌの服に付着した血痕だけしか見えていなかった。
「僕じゃないよ。ほら、この子」と踵を返した。
「どうしてエルフが家にいるの」
「さっき僕が狙ったエルフだよ、きっと」
母は喉に言葉が詰まっていたが、セリーヌの眼差しがそれらを砕いた。
「僕が帰った後に誰かが撃ったんだ。早く病院に連れていかないと」
「可哀想だけど、見放せと命令だけでしょうね」
「エルフだからね……」
絶好のチャンスが訪れていることにセリーヌは気付いていた。このまま少女を死なせてしまえば、簡単に大金を手にできると。たくさんの涙が、セリーヌ達の未来を華々しく彩ってくれる。
「パパ……ママ……」とエルフは小さな胸を懸命に膨らませて呟いた。
しばらく悩んでいたことを、恥じた。セリーヌは棚から包帯や消毒液を持ち出して看護にあたった。医療品は毎日コツコツと貯金しなくては購入できない代物。しかし彼とその母は、数日間、朝から晩まで痛みと傷が原因の発熱にうなされていた少女ために、惜しみなく消費した。
しかし、もし回復しても両親の死という現実が待ち構えている。
「父さんと母さんで一緒に飛んでて、すごく嬉しそうだったんだよ」エルフを寝かせているベッドの脇でセリーヌは独り言を言う「だから僕は撃てなかったよ」。
「綺麗で、胸が苦しくなって……できればずっと守っていたかった」
泡の脆さにしか勝ち得ぬ拳に眉間の皺を寄せる。
「あ……」
エルフはゆっくりと瞼を開いた。サファイア色に輝く大きな瞳だった。数日間、重傷に悪戦苦闘してぐったりしていたが、確実に意識を取り戻した。
しかし、その瞳はすぐさま怖れに満ちた。
「ど、どうして人間が近くにいるの!?」
たちの悪い悪夢から逃れるように、羽ばたこうとしたが、叶わない。まだ傷は少女の体を蝕んでいて、巨大な氷柱を丸呑みした苦渋が襲う。ベッドから飛んだのに、壁際でひざまずいてしまった。
「わたしも、殺されちゃうんだあっパパとママみたいにい」セリーヌに怯えて壁より更に後ずさりしようとする「何度も、何度も撃たれちゃうんだあ」。
夕焼けに照らされた金色の髪の毛が荒ぶる。翼がバタバタと怒鳴る。だが、それくらいしか抵抗の術がない。人間の吐息が頬を撫でただけで、息絶えてしまいそうなくらい、この種族は繊細だった。
「殺さないよ、殺すつもりなんてないよ!」
「そう言われて近寄ったら、わたしの友達が殺されちゃったんだからっ。誰かも分からなくなるくらい痛くさせられちゃって……」
そのささくれ立った訴えは、セリーヌを黙らせた。ただ初めて見た日のように、笑って欲しかった。そのために、一度部屋を飛び出して戻ってきた後、
「これ、あげるね」と花束を差し出した。
三流の提案だったのかもしれない。花で心を許す程、エルフは幼くない。
「僕らは、いや僕こそ、君の笑顔を忘れさせてしまったんだ。こんなことで償えると思ってない。でも、頑張るから」とただひたすら泣いて頭を垂れた。
その姿と、色とりどりの花々が恐怖を溶かしていく。おずおずとそれを受け取り、命を脅かす仕掛けなど、どこにも施されていないと知る。すると天井にまで及びそうな涙の洪水はぴたりと止んだ。
「ありがとう、お兄さん」
愛くるしい少女に戻り、セリーヌは殺さないで良かったと天を仰ぐ。その胸は世界の果てから届いた手紙を開いた時と同じくらいに高鳴っていた。