この感情って、もしかして?
俺は好きでもないやつと一緒に登下校したりしない。
優希君にはこれまで、はっきりと好きと言われたことはない。
だからこの台詞は、とてもとても嬉しかった。
吉原さんに言われた言葉なんて、一瞬にしてどこかに吹き飛んでしまうくらいに。
むしろこんな素敵な言葉を与えてくれるきっかけを作ってくれた吉原さんには、感謝したいくらいだった。
「なに締まりのない顔してるんだよ」
「えっ?」
火曜日の放課後、部活動の見学をするため書道部へと向かい、優希君と並んで歩いていた私は、不快そうな声音に足を止めた。
同じように足を止めた優希君の眉間には、しっかりとした皺が刻まれていた。
その不愉快そうな面差しに、昨日の優希君の言葉にフワフワと舞い上がっていた気持ちが一気に地上へと降りてくる。
「……私?」
自分を指差しながらの問いかけに、優希君の綺麗な面差しの中、眉間の皺がますます深くなる。
「他に誰がいるっていうんだよ」
「締まりのない顔……してた?」
「ああ。頭のネジが緩んだ、可哀想な子みたいな顔してた」
「頭のネジって……」
まあ確かに、フワフワした気持ちに表情もフワフワしていたに違いない。
だからといって、頭のネジが緩んだ可哀想な子って、優希君、あんまりなんじゃない!? という抗議の言葉は、勿論、口には出さない。
だって、優希君の言っていることは正しいはずだから。
そうか。
頭のネジが緩んだ可哀想な顔していたのか、私。
瞬間、昨日、吉原さんから投げかけられた言葉を思いだす。
あなたみたいな背と胸ばっかり大きいばかな女に、優希君みたいな聡明な子、全然似合わない。
きっと、そう思っているのは吉原さんだけではないだろう。
優希君を好きだと思う女の子は、みんな思っているはず。
好きな子だけじゃない。
きっと舞子と優希君を知っている人は、みんな思っているはずだ。
「ごめんね、優希君」
頭が悪いことが何だかとっても申し訳なく思えて、泣きたい気持ちの謝罪に、優希君の眉間の皺が険しくなる。
「なにが?」
「舞子、ばかで」
口にした途端、ますます泣きたい気持ちになった。
ああ、何で舞子は、おばかなんだろう。
もっともっと勉強して頭良くしないと、全然、全く優希君につり合わないよ。
既に身長もつり合っていないんだし。
せめて中身だけでもつり合うようにしないと。
近い将来、きっと優希君に嫌われてしまう。
思った瞬間、胸に走ったツキリとした痛みに、本気で涙が零れそうになった。
そんな今にも号泣したい舞子の耳に、わざとらしいくらい深く長いため息が届いた。
「誰もそんなこと言っていない」
「でも……」
「それに、舞子はばかじゃない」
「ばかじゃ……ない?」
「ああ。素直で優しいだけだ」
胸を張るようにして強く断言する優希君に、驚きに目を見開いた。
舞子と違って、簡単に好きという言葉を口にしない優希君。
だから不安だった。
勿論、優希君の気持ちを疑っているわけじゃない。
一生懸命勉強を教えてくれたり、お守りやオリジナルのスノードームをプレゼントしてくれたりと、言葉でもらう以上の愛情を感じたりもした。
それでも、やっぱり不安だった。
優希君が、舞子のことをどう思っているのか。
何が良くて、一緒にいてくれるのか。
そんな不安を、素直で優しいだけという一言が、完璧に払ってくれた。
「……優希君」
祈るように胸元で指を組み、先程とは違う喜びの涙に瞳を震わせる舞子に、優希君の綺麗な顔がしまったというように開いたかと思うと、両頬にサッと赤が走った。
「ほら、行くぞ」
怒ったような声音でプイと顔を逸らした優希君。
その項も見事なまでに真っ赤かだ。
「うん!」
怒りを滲ませたようなドカドカとした足取りで歩を進める優希君の背中に、大きく返事を返す。
クールで無口で、喜怒哀楽をあまり表に出さない優希君。
そんな優希君が、ふとした瞬間に見せる焦った顔や、戸惑う顔を見られるのが何よりも嬉しくて、思わず弾む足元に気持ちもホクホクとジャンプしてしまう。
今、優希君が振り返ったら、また締まりのない顔をしてると言って、眉間に皺を作るんだろうな。
そんな想像を巡らせることすら楽しくて、ムフムフしてしまう舞子の前で、優希君の足がピタリと止まった。
「着いたぞ」
未だ怒気を感じさせるような声音に、振り返らないままの優希君が「書道部」と書かれた部室のドアを二度ノックする。
室内からの「は~い!」という軽やかな返事に「失礼します」ときっちりとした言葉を返し、入室する優希君に続いて室内へと足を踏み入れる。
途端、喜びを滲ませた声音が耳に届いた。
「あっ、優希君だ!」
「えっ、優希君!? あっ、ほんとだ♪」
「なになに、優希君!?」
畳の上に置かれた長テーブルの前で、半紙に向かっていた女の子たちがパッと華やいだ面差しで弾むような声音と共に次々と立ち上がる。
「優希君、書道部に入るの!?」
「ええ……まあ……検討中ということで……」
「検討なんかしてないで、入りなよ、入りなよ」
満面の笑みでスカートの裾をはためかせ、駆けるようにして近づいてきた三人の女子は、いずれも三年生だ。
優希君は同級生だけでなく、下級生や上級生の間でも人気がある。
特に年上のお姉様方の間では「弟にしたい№1」として非常に人気がある。
そのことは、十分理解していた。
書道部だから、女子が多いんだろうなということも。
でもまるで憧れのアイドルに遭遇した一団のようなキャッキャとした展開は、まるで予想していなくて、戸惑う優希君と同様、ただただビックリだった。
っていうか、誰も私の存在に気付いてないみたいなんですけど!?
170cm近くある舞子に気付かないなんて、これまたビックリなんですけど!?
それくらい女の子達にとって、優希君の書道部への入部は想定外だということなんだろうな。
それは、当然だ。
舞子だって、優希君が書道部を考えてるなんて、ちっとも思っていなかったよ。
それにしても、ちょっと騒ぎすぎなんじゃないかしら。
いくら可愛い~優希君が見学に来たからって、ここまで喜ぶもの?
まあ、舞子が彼女達の立場だったら、飛び跳ねて喜んじゃうけど……それにしても、喜び過ぎだよね。
頬を上気させ、あれこれと話しかける女の子達に、なぜか胃がムカムカとしてくる。
お昼、食べ過ぎてないし。
これって……やっぱり……。
「もう小笠原さんは、入部済みだよ」
「小笠原……さん?」
「そう。確か同じクラスだったよね。ね、小笠原さん」
上級生の問いかけに、窓の近くに置かれた長テーブルを前に、筆を手にしたままの小笠原さんは、はにかんだような笑みを浮かべると小さく「はい」と返事をした。
小笠原 百合子さん。
華族の流れを汲むというお家は、お金持ちが多いと言われる学園内でもトップクラスの裕福さだ。
素晴らしいのは、家柄だけではない。
テストの成績は、優希君と常にトップの座を争うほど頭もいい。
そして何より素晴らしいのは容姿だ。
舞子の茶色っぽい髪と違い、小笠原さんの髪はまるで墨で染めたように黒っくろで、艶っつやだ。
黒目がちの大きな瞳も真っ黒で、同性の私から見ても惚れ惚れとするくらい綺麗。
そんな髪や瞳の色と反比例するように肌は雪のように真っ白で、健康的と言えば聞こえのいい舞子の肌色とは大違い。
そんなお人形のようなしっとりとした容姿に相応しく、控えめで大人しく優しい気質の小笠原さんは、男の子に大人気。
舞子も以前、ハンカチを忘れた時、未使用のハンカチを貸してもらったことがある。
そんなだから当然、女の子にも大人気だ。
小笠原さんみたいに、美人で頭が良くって気立てが良かったら、どんなにいいだろうと思ったことは数知れず。
多分、小笠原さんを知る女の子は、みんな一度や二度は思うんじゃないのかな。
それくらい小笠原さんは、完璧スーパーお嬢様だ。
「小笠原、書道部にしたんだ」
「うん」
そう言って返事をした小笠原さんの頬は、ほんのりと染まっていた。
その桃色に染まった澄んだ頬に、私は理解した。
瞬間、生まれて初めて抱いた嫉妬の感情に、心臓がグラリと揺れた気がした。