或る兄弟の死闘
『ある兄弟の死闘』
空は薄い雲に覆われている。
風は凪いでいて、邪魔をするものは何もない。
生死を決するのは、己の腕だけだった。
互いに、相手の技は知り尽くしていた。
間合い、剣速、呼吸――余すことなく判っている。
才能にも――積み上げてきたことにも大差はなかった。
焼け焦げるような夏の日。身体から一滴の汗もでないほどに肉体を絞り上げた。
まつげも凍るような日。身体から蒸気をあげながら、剣を打ち合った。
双子の兄弟――同門の剣士。なんの因果で、こうして相対しているのか。
誰よりも親しかった二人の間には、冷たい光を湛えた真剣が並んでいる。
時は既に二刻ばかり経っていた。
始めた時は、日は中天に上っていたが、秋のつるべ落としに、日が雲を赤く染めていた。
機は満ちていた。
兄は大上段に構え、目は半眼に、弟を見つめている。
高く掲げられた剣先は、ゆらゆらと揺れていた。
弟にはそれが隙ではないことが判っていた。
剣先の揺れの幅は、指の一節にも満たなかったが、弟は己の攻めが尽く潰されているのに苦虫を噛みしめていた。
正眼に構えられた弟の剣先の微妙な動き、空気、呼吸に合わせて、兄の大上段は揺れているのだ。
兄の剣気が、弟の双肩に重石のようにのしかかる。
弟は平常であれば、三日三晩であっても構え続けられる自信があったが、尋常ではない緊張ゆえか、いまはもう諸手は刀を取り落とさんばかりに痺れていた。
どこで開いたのか、力の差は明白――されど逃げることはできなかった。いや逃げることは最初から眼中になかった。生きることは勝つことである。
弟は追っ手の同門十人を、すでに切り捨てていた。剣鬼として生きるなればこそ、負けることはすなわち死である。
追っ手は己の力を過信していた――十人がかりであるから勝てると踏んだ者たちは斬った――おごる者は刃の下に死ぬのだ。よく知った顔、幼き頃から剣を交え、競い合った同志。先輩、後輩。全て斬った。
親と慕った師を殺した弟を、憎悪の目で見詰める同志達を斬ることは、弟にとって過去の自分を斬ることにもにて、それが弟を剣鬼として業を積ませ、強くした。
俺はこれまでで最も強い――弟は確信していた。兄にも容易く勝てるはずだった。
――それがどうだ。
差を開けたはずの兄は、弟よりも遙か高みにあった。
されど逃げるわけにはいかなかった――弟は剣鬼なれば。
急に吹いた冷たい風が、一枚の枯れた木の葉を運んできた。
それが兄と弟との間に迷い込んだとき、弟は怪鳥のように前へ飛び、神速の突きを放った。
しかし、兄の剣が、事前に知っていたかごとく振り下ろされた。
その剣は、弟の突きよりも遙かに鋭く、重かった。
弟は明確に自分の死を理解した。
脳天唐竹割りに斬られ、それは勢い余って喉越え、胸を割り、心臓を絶ち、一瞬で絶命する。
弟は大きく息を吸い込んだ。
笛がなるような音が喉から聞こえる。
兄の刃の前に、確実死んだ。だから、弟は何故自分が生きているのか疑問だった。
ぴくりとも動かぬ兄の亡骸の上に、覆い被さるようにして弟は倒れていた。
恐ろしいほどの激痛に弟は顔をしかめた。
右腕が根元から斬られていた。
兄の刀は、最後の最後で逸れ、弟が兄の喉を突き破るのと同時に、弟の利き腕を断ち切ったのだ。
弟は立ち上がり、止血をした。
兄の首から脳にかけて、弟の刀が突き刺さっている。
血に染まった柄に左手をかけ、一気に引き抜く――軽い――刀は切っ先から四寸ばかりが折れてしまっていた。――いや折れたのではない。斬られたのだ。
刀は門派に伝わる宝刀で、弟はそれに魅せられ、無断で持ち去ったのであった。それは師を殺め、同門十人を斬り、また兄を突き殺した。
弟ははたと悟った。
兄は刀に囚われた弟の業を斬りに来たのだ。
はじめから殺す意図はなかったのだろう。利き腕を斬り、刀を折ることで、弟を救おうと考えたのだ。
弟の業は深く、そのような事をすれば、兄は死ぬだろう。死を覚悟し、兄は刀を振るったのだった。
弟は虎のように吠えて泣いた。
兄は無駄死にしたのだ。
弟は残った片腕で折れた刀を素早く一度振った。
短くなってしまった刀は、拵え直せば、この隻腕でも充分に扱うことができるだろう。
腹のなかに飼った魔物は、兄を喰らい、太りこそすれ、消えはしなかった。
刀はまだ弟を解放しないのだ――この業の道から。
双子故に、兄もそれを察していたであろうに。
そのことに対する疑問は、弟が真の剣鬼と成りはてた後も変わることはなかった。