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第92話 『再びの五日月のそう遠くない日』

「アールヴー! ねえアールヴー!」


 朝食前、朝の軽い運動をしようと人の姿で外に出たアールヴは、水汲み帰りの亜里沙に出くわした。


「おお、今日も早えな。どうした」

「ねえねえ、見てみてみてー!」」


 アールヴが買ってくれたマイ桶を魔法菜園の傍らに置き、そのまま膝を折りしゃがみ込むと、肩をすぼめ腕を畳んで小さく丸まる少女。


 お、と何かに気づいたのかアールヴの目がわずかに細められた。

 少女の耳と尻尾が綺麗に消えている。


「そりゃーっ!」


 そしてぐぐぐ、と溜めた状態から一気に跳躍し、空中で両手足をめいっぱい広げる少女。

 それと同時に愛らしい犬耳(狼だが!)と尻尾がぴょくん、と生えた。

 まるで耳や尻尾が喜んでいるかのような躍動感である。


「んぐぐぐぐぐ……」


 華麗に着地した少女は再び小さく丸まって己の耳と尻尾を引っ込める。


「どりゃー!」


 そして再び跳躍すると、また耳や尻尾を一気に生やしてのけた。


「ねえねえ、どうだった?! ちゃんと出たり引っ込んだりしてた?!」

「おお、できてたできてた。見事なもんだったぞ。ふ~ん、お前素質あるのかもしれねえなあ」

「そう? そうかな~? えへへへへ~♪」


 ぴこぴこと耳を動かしつつ尻尾をふりふりと振りながらアールヴのところまでやってくる亜里沙。

 そして彼の前で立ち止まるとじぃ~と彼を見つめる。


 ぱたぱた。尻尾が揺れている。

 ぱたぱたぱた。尻尾が大きく揺れている。

 ぱたぱたぱたぱた。尻尾がこれでもかと揺れている。


「なんだ、ご褒美でもほしいのか」

「くれるの?!」


 ばっふばっふと尻尾がこれまでにないくらい大きく揺れる。

 アールヴは苦笑しながら少女の頭に手を置きできる限り優しく撫でてやった。


「くぅん、ん、くぅ~ん……♪」


 目を閉じ、頬を染め、首を丸めて撫でられるままに任される亜里沙。

 彼女がその行為を気に入っているだろうことは激しく揺れる尻尾と喉奥から漏れる鳴き声で一目瞭然であった。


「ほれ、もう終わりだ」

「ええ~っ!?」


 全身でもっとー! と要求している亜里沙は、けれど朝の仕事が済んでいないので仕方なく桶を掴んで屋内に消える。

 ようやく自由になれたアールヴはふうとひと息つくと……ストレッチだろうか、体を伸ばし始めた。


 アールヴの言葉……少女に素質がある、とはどういう意味だろうか。

 通常の後天的な人狼化と異なり、少女の場合人狼によりしっかりと管理された感染だったため、熱病のような発症期もなければ強すぎる野生の血に翻弄されて暴走するような危険な時期もなかった。

 また行きずりに噛まれてわけもわからぬままに人狼となってしまったわけではなく、群の長であるアールヴによって丁寧に現状を教わり、人狼に関する様々な知識を学んだ少女は忌避感や恐怖、絶望、自我崩壊といった危険な精神状態に陥らず、むしろ自分から積極的に今を受け入れ適応していこうと思えるだけの精神的な素地があったことも大きい。


 だが……そうしたこととは別に、少女には確かに人狼としての資質があった。

 後天的ながら月の満ち欠けの影響を受けずらく、常に理性が保たれていること。

 変化した己の身体部位に対する拒否感がなく、また部位側からの拒絶反応も起きていないこと。

 そしてこの短期間での見事な変身制御……


 彼女なら……きっといい人狼になる。

 暴走せず、元が人間ながらしっかりと野生にも理解を示して、森の中で生きていける。

 アールヴはそこまで考えたところで静かにかぶりを振った。


(……バカバカしい。どうせあと十日の付き合いじゃねーか)


 そう……次の満月の夜、彼女は元の世界に帰る。

 初めからわかっていたことではないか。


(あと十日で……アリサはいなくなる。なあに、せいせいすらあ、どうせ元から一匹(ひとり)だったんだ)


 そこまで考えて……アールヴは己の言葉に小さな違和感を覚えた。


(昔……あいつの、来る、前……?)


 アールヴは怪訝そうに首をひねる。

 だって不思議と思い出せないのだ。

 当時の自分が思い出せないのである。

 いつの間にか……あの少女がいることが当たり前になっていたから。


 一体……自分は、一匹(ひとり)だった頃、何を考えて、何をしていただろうか。



 いくら考えても答えが出てこなくって……

 アールヴは、少女に朝食の支度ができたと呼ばれるまで腕を組んで考え込んでいた。






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