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第83話 『晦日の暴露と短剣』

 しまった……と慌てて帽子を拾おうとするがもう遅い。

 ぴこぴこと蠢く耳が無意識に周囲の音を拾い状況を分析してゆく。


 横から聞こえる息を飲む音に胸が締め付けられる。

 アレックスたちの驚嘆の音だ。


 もう……戻れないだろう。

 しくんと痛む胸を押さえながら、少女は覚悟した。

 ついさっきまで笑い合っていた仲にはもう戻れない。決して。

 自分は、たとえ欠片といえども人狼の血の混じっている自分は……そういう存在なのだと、少女はわかっていたから。


 人狼は……獣人は傷つけた相手に獣化病(ライカンスローピィ)を感染させてしまう。

 元から人狼である先天種と違い、突然獣化病によって変身するようになってしまった者達はその制御ができぬ。

 ゆえに満月が近づけば勝手に変身して、野生の本能に抗がえず人を襲ったりもする。

 そして……そうして傷を受けた人もまた、獣化病(ライカンスローピィ)に感染してしまうのだ。


 仮に本人達に無闇に人を傷つけるつもりがなくっても、その被害者達が次々と感染者を増やしてゆく。

 だから多くの人間達は人狼……いや変身種族一般を蛇蠍の如く嫌悪し、忌避するのだ。


 ……アールヴやゲルダから聞いた話を総合すれば、つまりそういうことになる。

 確かにこれでは誤解と偏見が蔓延するはずである。

 そしてその誤解を是正したくとも、人狼側の主張など誰も耳を傾けはしないだろう。


 ともあれアレックスたち……この街の少年達との友情もおしまいだ。早々にここから立ち去らなければこの身が危ないし、何より彼ら自身に感染の疑いがかけられてしまう。

 けれど同時に彼女のその鋭い聴覚は、微かな……けれど不穏な音を空き家の外から聞きつけていた。


(誰か……いる? 数軒先の……十字路、かな?)


 それがその男の仲間なのか子分なのか、それとも全くの赤の他人がたむろしているのかまではわからない。

 ただ少なくともこの家を飛び出した先にも何者かがいる、と察した少女はぐ、と一瞬身を硬くした。


「ガ、ガキが……そ、そいつをよこしやがれ!」


 彼女の犬耳にびくりと怯えたその男は、じゃり、と懐から短剣(ダガー)を抜き放つ。


 ゲームなどでは最も威力の低い武器として扱われる事が多く、それゆえに短剣(ダガー)と聞くとすぐに小型の殺傷力の低い武器、とイメージしがちだが、それはナイフであって短剣(ダガー)ではない。

 短剣(ダガー)は諸刃の剣で、確かに長剣と比べれば短いがそれでも刀身が20cm前後あるし、長いものでは30cmを超えるものもある。

 鎧を着用していない相手なら大の大人だとて一突きで簡単に殺せる威力があるのだ。


 自らに向けられた短剣に少女はびくりと身を竦ませるが、無理矢理唾を飲み込んで己を落ち着かせた。

 短剣があってもなくてもどうせ危険なことに変わりはないのだ。ならば刃物である、というだけで怖がるのはおかしいではないか。


 無論それは机上の空論であって、実際刃を目の前に出されたなら怖いに決まっている。

 ただもしそうだとしても、何もできずにただ怯え震えているだけ、というのは少女は嫌だった。

 なんとも塔に囚われたお姫様あたりを演じるには不似合いなメンタルである。

 瞳に炎を灯らせて少女は決意する。

 自分にできる限りの手段でこの場を切り抜ける方法を模索しなければ……!


 奇声を上げながら前傾して突っ込んでくる男の動きは思ったよりも緩慢で、少女は左へステップすることでその攻撃を易々と避ける。

 そのまま外に脱出しようとしたところで……けれど男が振り回した腕が己の真横から迫り、その先に握られている短剣が少女を射程圏内に捕らえた。


 しゃがんでいる時間もない!

 少女は咄嗟に両足を前に投げ出し、頭部を後ろにぐんと反らした。

 つまりその場で自分から仰向けに床に倒れ込んだのだ。


 べたん、と尻を強く打ち、そのまま背中と肩も叩きつけられ衝撃に肺からかはっと空気を漏らすが、それでも短剣に斬り裂かれるよりはよっぽどマシというものである。

 彼女はそのままごろごろと床を転がると、その勢いのまま後方転回し立ち上がる。


「この……ちょこまかと……っ!」


 バカにされたと思ったのだろう。

 その男はまるで頭から火が噴き出たように真っ赤になって少女の方に突進してくる。

 その攻撃を後ろに反らせば入り口ががら空きになる。

 そうすればそのまま脱出が……


「あぶねえっ!」


 だが……その時、アレックスが少女の前に飛び込んできた。

 短剣を構えたその男と、彼女の間に割り込むように。


 彼の叫び自体に驚いた少女は、けれど彼の行動にはもっと驚いた。

 だって自分の正体はもうバレているのだ。嫌うべき、怯えるべき、そして憎むべき種族(あいて)ではないか。なぜ彼はそんな自分を助けようとするのだろう。



 そんな思考が頭にのぼせたのは……実はもっと先の話で。

 その時の少女には、そんな余裕なんてこれっぽっちもなかった。



 彼女の心にあったのは……このままだとその短剣がアレックスに刺さってしまう、ということ。

 そしてこの勢いならきっとそのまま死んでしまう、ということ。


 それは嫌だった。絶対に嫌だった。

 なんでかわからないけれどともかく嫌だった。


 だからその少女は……亜里沙は、無自覚に彼を押しのけるように突き飛ばして、アレックスの前に飛び出した。



 胸に、鈍い痛みが走る。

 体が、重い。


 身体に走った衝撃に少女は二、三歩後ずさり、どん、と壁に背を預けた。


 どうしたんだろう。呼吸が上手くできない。

 こん、とせき込むと、喉の奥から血が噴き出てきた。


「あ、れ……?」


 ゆっくりと視線を下に移した少女は……そこでようやく気づく。





 己の胸を刺し貫き通して背中まで届いた……諸刃の短剣を。






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