第73話 『眉月の嗜好品』
村をでて手近な森へと入り、ふうと息をつく二人。
どことなくホッとしている自分に少女は少し驚いていた。
先刻まで人里にいたのだ。自分が昔……というよりつい最近までいたはずの場所である。
無論それは全然別の世界の、雰囲気も様子もまるで違うところではあったけれど、とにもかくにも自分は『あっち側』の存在だったはずだ。
それが今では人里に降りたら緊張して、森の中に入ったら安堵するようになってしまっている。
アールヴはまだわかるのだ。彼は狼腹だから人間世界には不慣れだし、何より正体が露見してしまえば追い立てられる人狼なのだから。
けれど自分は人間ではないか。一体なぜ人里で……村の中であんなに緊張していたのだろう。
(……みみが生えてるから、かな?)
自分の頭部に生えている狼の耳。見つかればきっと酷い目にあうのだろう。
だから必要以上に堅くなってしまっていたのだろうか。
「んー、よくわかんないや」
「なんか言ったか、アリサ」
「ううん、なんでも」
別に人間がイヤというわけでもない。
店の入口まで見送ってくれた酒場の店主……豚のしっぽはとてもいい人だったし、畑で働いていた村の人も挨拶したら機嫌よく返してくれた。
少女はしばしの間太めの眉を寄せて考えてみたが、やっぱり自身で納得できる答えは浮かんでくれない。
「とりあえず戻るぞ。ほれ」
「うんっ!」
人の姿から狼へと戻ったアールヴが背中を向けると、少女は嬉しそうに飛び乗った。
酒場で手に入れた戦利品は、やっぱり今日入手したばかりの大きめの布を風呂敷代わりにして包み、背中に背負っている。
「落とすなよ」
「気をつけるー。けどあまり揺らさないで、あーるう゛」
「……努力はする」
行きよりも若干速度を落とし気味に、ゆったりと草原を駆ける。l
少女は思った以上に素敵な乗り心地にびっくりした。
「いっつもこのくらい揺れない方が楽なのに」
「この走り方じゃ速度が出ねえだろ」
「えー、これくらいでいいよお。私は快適な方がいいなー」
「俺は全然快適じゃねえっ!」
がうっと吠えるアールヴにくすくすと笑いながら、彼の背中にぎゅっとしがみつく。
「えへへ~、いつもより抱き心地もいい感じ~」
「そりゃ気のせいだろいくらなんでも」
「お天気もいいしねー」
「どう考えてもそっちのせいじゃねえか!」
そんなのどかなやりとりをしながら帰路に着く二人。
「とーちゃーく! っとっとっと……!」
「おう、大丈夫か?」
えいやっとアールヴの背中から飛び降りて、そのままよたよたと二、三歩よろけた亜里沙は、けれどギリギリのところで踏みとどまってアールヴともどもほっと息を吐いた。
「背中が重いの忘れてた」
「忘れんな。せっかくここまで運んできたモンを……」
「ホントだ。『百里の道も九十九里を以て半ばと為せ』なんて諺もあるしねー」
「あん? 80……なんだって?」
「ええっと、ゴール間近でも油断しちゃダメって事」
「ああ、そりゃいいことを言う奴がいるな」
アールヴが言いかけた言葉に少女は少しだけ首を捻った。
100や99ならわかるが、なぜ80なのだろうか。
耳飾りの故障だろうか。それともこの世界の諺に似たような言い回しで80なんて数字を用いるものがあるのだろうか。
「まいっか」
とりあえず疑問は後回しにして少女は風呂敷包みをそっと草の上に下ろし、待ちきれなくなったのかぺたんと座り込んでそのまま今日手に入れたものを並べ始める。
壷や鍋などの調理道具、こちらの世界の洋服、それに簡単な食器類、アールヴと一緒に毛皮造りするためのナイフが一丁……などなど。
思ったよりも欲しいものが色々と入手できて、少女はほくほくであった。
「で、お前が最後に買ったあの麻袋はなんだ?」
「えーっと、雑穀?」
少女がひょいとつまみ上げた袋の中には、色んな穀類が雑多に入っていた。
彼女の故郷ならスーパーでこれを買ってお米と一緒に入れて炊けばお手軽雑穀ご飯のできあがり……といったようなものだろうか。
「なんだ、煮て喰うのか?」
「んーん。ちょっとねー」
機嫌良さげに返事をする少女にアールヴは首をひねる。
どうやら彼女が食べる目的ではないらしい。
では一体なんのためにそんなものを購ってきたのだろう。
「ところで、コレ……」
「ん? ああ、あの色つき石か」
少女が最後につまみ上げたのは店主が持ってきた珠だった。
宝石の目利きなどできぬ彼女の目から見たそれは、確かに綺麗ではあるけれど不透明なビー玉のように見えなくもなくって、一体どれくらいの価値があるのかさっぱりわからなかった。
「どうする? 綺麗だから持ってるだけでもいいけど……」
宝珠を拾い上げて遠目で見たり近づけて見たり、空にかざして陽の光にすかしてみたりと色々試している亜里沙を見ながら、アールヴは少しの間追憶に耽る。
先刻酒場の店主……豚のしっぽに言われたことを思いだしていたのだ。
亜里沙には……この自分の群の一員だけれど人間の娘でもある少女には、もっと何か色々としてやった方がいいのだろうか。
普段眺めている限り……この生活にもおおむね満足しているような気がするのだが、それもこちらを気遣ってのことなのだろうか。
特にそんな臭いは感じないけれど。
「……街に売りに行くか」
「え? 街?」
怪訝そうな表情の亜里沙に、アールヴがもっともらしく頷く。
「結構遠いけどな。ま、俺の脚じゃそんなでもねえ。今日行った村よりはずっとでけえぞ」
「へぇぇぇぇぇ~」
少女は目を丸くした。
とは言っても、彼女の知っている都会より大きな規模の街など、この世界には存在していないのだけれど。




