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第5話 『二日月(ふつかづき)の出会い』

「ええっと……」


 疲労の極みにあった亜里沙は、間近に現れたその大きな狼に目をまんまるく見開く。

 それは闇に怯え、獣の遠吠えに怯えていた少女が、あの赤い兎以降久々に見た生き物だった。


 その狼は全長2m半ほどとかなりの巨躯で、全身の毛は見事な灰色をしている。ただ額の部分だけ斜めに一筋の白い模様が浮かんでいて、まるで刃で斬りつけられたかのようだった。


「犬……さん?」


 だが、彼女の認識としては当然そうならざるを得ない。

 なにせ彼女の故郷では野生の狼は既に絶滅しているのだから。


「あ……っ!」


 その狼はぐるるる……と歯を見せながら低くうなると、なぜかそのまま彼女に背を向けて藪の向こうへと歩き出した。


「待って、待って、犬さん! わんこ……くん!」


 うつ伏せのまま顔を上げ、必死に震える手を伸ばす。

 けれど一度だけ振り返ったその狼は、ぷいと顔を背けるとそのまま消え去ってしまった。


 がくりと垂れる少女の手。たとえどんなものでも、生き物が近くにいるというだけで何か安心できたのに。

 けれど……それもいなくなってしまった。


 つ、と涙が零れ頬を伝う。


 どうすれば……どうすればいいのだろう。

 どうすれば良かったのだろう。

 わからない。少女はなぜ自分がこんな状況に陥ってしまったのか、さっぱりわからなかった。


 母親と喧嘩したことが悪かったのだろうか。ならこれは神様か誰かの天罰なのだろうか。

 悪い夢ならば覚めて欲しい。

 けれど……心のどこかで、これは夢なんかじゃないとなんとなく気づいてもいた。


 ……と、その時、突然大きな声が辺りに響き渡る。

 朗々とした、威厳に満ちた、力強い声だ。


「誰?! 誰かいるんですか!」


 とはいえ少女……亜里沙にはその言葉の意味はさっぱり理解できなかった。

 だって全然聞いたこともない、知らない言葉だったのだ。

 ただ……語感や言い回しから、その言葉は先日聞いたあの誘拐犯の言葉と似ているような気がした。

 もっともあの時耳にした言葉よりもどこか乱暴で、荒々しい雰囲気を感じたけれど。


 どちらもまるで聞いたことのない、けれど似たような言葉。

 もしかしたら同じ言語なのかもしれない。

 だとすると……ここは外国なのだろうか。

 少女はそんな事を一瞬考えにのぼせるが、だが今はそれよりも優先しなければならぬ事がある。


「ごめんなさい! 何を言ってるか全然わからなくって……でも、あの、助けて、助けて……くださ、い……っ」


 弱り震えている身体に鞭打って、精一杯声を張り上げた。

 そう、もし言葉を話す誰かがいるのなら、人間がいるのなら、喩え意味が通じなくったって助けを求めることはできるはずだ。

 だから少女は必死に訴える。弱り切った体の、最後の力を振り絞って。


 ……だが、その声の主からは何も反応がない。

 もしかしてもうどこかへ行ってしまった後なのだろうか。


「待って……行かない、で……」


 震えた指先が力なく動きを止め、伸ばした腕がとさりと落ちる。

 体中の力が抜けてしまった。もう指一本動かす事も出来ない。

 でも一体誰だったんだろう。

 あの雄々しい声の主は……一体誰だったんだろう。



 少しずつ薄れてゆく視界の中……少女の瞳が、再びあの狼の姿を捕らえた。

 彼は警戒しながらも少しずつ距離を詰め、やがて亜里沙の目の前までやってくる。


「犬……さん。飼い犬、なの? おっきいなあ……」


 人を恐れぬその様子、そして先刻聞こえた人間の声から、少女はそんな手前勝手な推論を導き出す。


「ねえ……お願い。御主人、様、に……」


 うわごとのように呟く少女の言葉に、不思議なことにその狼は静かに耳を傾けているようにも見えた。

 とはいえ果たしてその意味がわかっているのか、どうか。


 徐々に弱ってゆく少女をじい、としばらくの間見つめていたその灰色の狼は……




 やがて、ぱっくりとその大きな口を開けた。




「ふえ……?」


 亜里沙は何が起きているのかも理解できず、ただ目の前で大きく開かれた口と、そこに並ぶ鋭く凶暴な牙をぼんやりと眺めていた。

 もしかしてこのままもぐもぐと食べられてしまうのだろうか。彼の餌にされてしまうのだろか。


 ……不思議と、恐怖は感じなかった。


 ただ、両親に自分の死を伝えられないことが残念だと、そんな妙に達観した感想を抱いた。


(私のこと……いっぱい、探すんだ、ろうな……)


 薄れゆく意識の中で、泣きながら自分を探す両親の姿を想像し、きゅっと胸が締め付けられる。

 こんな事なら、こんな別れなら、もっと早く母と仲直りしておけばよかった……そんな後悔が胸によぎった。


「パパ、ママ、ごめん、なさ……」



 かぷり。



 少女の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 その巨大な灰色狼が、彼女の首筋に噛みついたのだ。

 もっともすでに意識を失い、全身が弛緩しきっていた少女には、きっと恐怖も痛みもなかったろうけれど。


 その狼は……少女の歯応えを確かめるかのように二、三度はぐはぐと口を動かした後、なぜかその牙を離す。

 そして僅かについた痕を、ぺろぺろと舌で舐め始めた。

 どうやらその狼は彼女を食い千切ろうとしたわけではなかったようだ。


 とすれば先刻の力加減は、いわゆる『甘噛み』に相当するものだったのだろうか。


 だが食べるつもりがないなら、彼は一体何故そんな事をしたのだろう。

 理由は不明だが、その狼はやがて少女の周囲を巡るようにして彼女の全身の臭いを嗅いでゆく。

 途中背中に背負っているランドセルの臭いを嗅いだ際僅かに顔をしかめるが、それ以外は特に表情を変えることなく、無言のままふんふんと鼻を鳴らし少女の周りをぐるりと一周した。


 やがてその狼は、何を思ったか亜里沙の横に回り込み、その場で伏せると俯せに倒れている彼女の腹部にその鼻面を突き込んだ。幾度かじたばたと苦闘した後、ずぼりとお腹の対岸から無事顔を出したその彼は、そのまま四本の脚で立ち上がる。

 結果として亜里沙は、丁度彼の首辺りに両手足をだらりと垂らしたまま担がれた格好となった。


 斜め上空を見上げながら高く鼻を掲げる狼。

 なんとなくその表情は「俺はしてやったぜ」と自らの達成感を喧伝しているようにも見えて、どことなく愛嬌が感じられる。


「ウォン!」


 なにやら満足そうに一声吠えた彼はとっとっと……と小走りに近い足取りで数歩進み、そこで立ち止まる。

 そしてずるり、と左肩の方にずれた少女を大きくその身を揺することで担ぎ直し、再び歩き始めた。





 紅い二日月(ふつかづき)が森を照らす宵の(きわ)……

 少女は、その大きな狼に連れ去られた。






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