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第55話 『満月の下で』

「ねえねえアールヴ、どこに行くの?」


 すっかり日の暮れた森の中、亜里沙が巨狼の背に向けて尋ねる。

 彼は少女を背中に乗せて、鬱蒼と茂る夜の木々の下を黙って歩いていた。


 いや、歩くと言うよりはもう少し早足で、馬で言えばだく足に当たる程度の速度である。

 鹿足(ししあし)と呼ぶのは肉食獣たる狼の彼に失礼だろうが、かと言って犬走りなどという呼び方をすればきっと怒るに違いない。

 まあゆえに小走り、とでも表現するのが平凡ながら一番適切なのやもしれぬ。


 夜の森は、暗い。


 ただでさえ日が暮れて陽光の恩恵が預かれぬ上に、鬱蒼と茂る頭上の木々に星明かりすら遮られ、夜目の効かぬ者が出歩くのは有り体に言って自殺行為と言える。

 なにせ少なくともこの森には、人間に倍する巨狼が棲んでいるのだから。


 けれど街灯の一つもないその原始の森の中は、今宵やけに明るく沸き立っている。


 左右の……いや周囲の藪から聞こえる虫の音も、小動物達のささやかな鳴き声や足音も、亜里沙には気のせいかいつもより大きく、ざわめいているように聞こえた。


 それは彼らが高揚しているからなのか、それとも少女自身が鋭敏になっているからなのか、彼女にはわからなかった。或いはその両方なのやもしれぬ。

 ただいずれにせよその理由は明らかだった。

 ほんのちょっぴり、生えた犬耳程度にしか人狼としての血が混じっていない彼女にすらはっきりとわかる。



 そう……今宵は満月なのだ。



 地球と同じようにこの世界の空にも浮かんでいる月……だがその大きさは地球のそれの数倍はある。

 満月となった今宵は常よりさらに大きくなったような錯覚すら覚えるほどだ。

 それが一分の曇りもない真円を描いて夜の闇を頭上から煌々と照らしている。


 どこか紫がかった紅の光。

 地表のものどもを美しく、妖艶に、だが見ようによってはいっそ毒々しいほどに彩るその妖しい光は、少女の心をざわめき立て、不思議と高揚させる。

 人狼混じりだからそう感じるのだろうか、それともどんな生物でも似たような興奮に包まれるのか。

 そのあたり、この姿になってからしかまともに月を眺めたことのない彼女にはよくわからなかったけれど。


「……ついたぞ」

「わ……」


 森には小さな起伏があり、この辺りはそれが一番大きな場所だった。

 言ってみれば小さな丘である。


 このあたりは少しだけ開けている。

 切株の家の周囲ほどではないが、小さな広場、と言った印象だ。

 無論周囲には林立した木々共が各々身勝手な自己主張を為しており、丘の上だと言うことを差し引いても世辞にも視界が良好とは言い難いけれど。

 ただ……真上だけは大きく開けていて、巨大な満月が葉の一枚にすら邪魔されず頭上に君臨しているのを拝むことができた。


「この辺りはドルイドどもの小さな諍いがあってな。草は生えても木は生えねえ。ああそんなツラすんな。別に俺らにゃなんの害もねえよ」


 少女が大仰に身構えるのを見ながらアールヴがぶは、と軽く噴き出す。


「え、えーっと、それで、こんなところに来て何をするの?」

「決まってんだろ? 楽しむのさ」


 そう言い放つとアールヴは狼から人狼の姿に変わった。

 大きな体躯の獣毛に覆われた人間……ただし手には鈎爪が生えているし、顔は完全に狼のそれだ。

 人狼の特質なのか、それとも彼が鍛えている結果なのか、やけに厚い胸板は筋骨隆々と言った表現が相応しく、亜里沙は何故か頬を朱に染めて思わず目を逸らしてしまった。


「た、楽しむって……何を? だいたいあーるう゛普段森の中じゃ変身しないのに……」


 人狼の姿は他の生物を怖がらせると彼は言っていた。

 その証拠に彼が変身した途端周囲から聞こえていた虫の音や小動物の息づかいがまるで潮が引くように消えてゆくのを彼女の犬耳が感じている。

 そんなこんなで普段はその姿を滅多に取らぬ彼が、なぜわざわざ森の中で変身したのだろう。


「月に一度っくらいはこうしてハメを外さねえとな。正体を失って暴れたり手当たり次第襲いかかったりしねえだけまだマシだろ?」

「う、うん、それはそうだけど……」


 彼の様子を見ながらなんとなく得心する。

 そう、アールヴは明らかに御機嫌だった。


 ふんふんと鼻歌らしきものを奏で、脚は何かのリズムを刻んでいる。尻尾はゆっくりとだが気持ちよさそうに振られていて、そういえば彼の背に乗っていた時も尻尾はずっと揺れていたような、と少女は今更ながらに思い出した。


 アールヴはやがて我慢できなくなったのか、身体を小さく、ゆっくりと、だが徐々に大きく動かしてゆく。

 それは狼の姿ならばボールか何かにはしゃぎじゃれついているような所作。

 けれどこの姿での彼は……少女には、まるで踊っているかのように、見えた。


「わぁ……っ」


 満月に照らされながら、丘の上で踊る人狼。

 あでやかに、豪放に、鋭く、無遠慮で、荒々しいけれど不思議と流麗で。

 型があるようでないような、いつ果てるとも知らぬ混沌としたダンス。


 けれど……その“踊り”を、少女は確かに美しい、と感じた。


「ほれ、お前も来な!」

「え? わ、私も?!」


 踊りを中断し、けれど脚はリズミカルにステップを刻みながら、亜里沙に手を伸ばしてくるアールヴ。

 一瞬躊躇した彼女は……けれど彼の舞踊を見ている間に内から沸き立つ高揚が抑えきれなくなっていて、ついその手を取ってしまう。


 ……首輪は、光らなかった。

 だって結局それは、少女自らも心の内で望んでいた事だったのだから。


「ほれ!」

「きゃあっ!?」


 手を引かれ、ぐるんと振り回すように彼に引き込まれた亜里沙は、そのままダンス会場のメインステージへと強引に案内される。

 そして彼の踊るリズムにぐるんと引き込まれ、倒れぬように懸命にステップを踏んだ。


「違う違う、そうじゃねえ。前に一緒に朝練したろうが。リズムは合わせるもんじゃねえ。互いがリズムを刻んで、結果的に合えばそれでいいのさ」

「あ、そっか」


 亜里沙はアールヴに合わせるのをやめて、己自身のリズムを刻み始める。

 伴奏もなにもないというのに、少女の耳にはまるで月が歌っているかのような気がした。


 初めは早すぎたアールヴの歩調が、やがて苦にならなくなって……

 気づけば二人のリズムは、完全に調和していた。



「ハハハ! 調子いいな! ほれ、そこで跳べ!」

「えっ!? はわっ、う、うんっ!」



 唐突な言葉に少女が驚き、同時にぽう、と漏れる紫の光。

 少女の首飾りが放つ光芒は、月夜の下で妖しく周囲を照らし出す。

 亜里沙は言われるがままに大きく跳ね飛んで……そのまま彼に手を引かれ舞うように彼の対岸へと着地した。





 誰もが浮かれる満月の夜の森で……

 いつも一人で踊っていたアールヴの舞いは、その日、初めて踊りの輪になった。






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