第53話 『満月の朝のこと』
「おはよー、あれ、今日はやけに早いね」
「おう。お前もな」
切株の家の同居生活にもだいぶ慣れてきて、互いの生活リズムも把握できた頃。
水汲みをしていた亜里沙は森から帰ってきたらしきアールヴを見かけた。
初めの頃はアールヴの方が早起きだったのだが、その後朝食前の水汲みを始めるようになってからは彼女の方が早くなった。
だが今日はその亜里沙も先を越された格好である。
……アールヴは主に昼に活動している。
元が狼で、彼らは夜行性なのだから夕方に起き出して朝に眠るのが本来のサイクルのはずなのだが、どうやら彼は違うらしい。
ただそれが元からなのか、何かのきっかけで変わったのか、それはわからない。
もしかしたら自分に合わせて変えてくれたのだろうか、もしそうだったら……そんな妄想を頭にのぼせたとき、少女の口元は妙な具合にもにもにと動いた。
「どうしたの? 縄張りの見回り?」
「んー? ああ、まあそれもあるが、他にもちょっとな」
「ちょっと?」
「様子見だ様子見。それより朝飯にしようぜ」
「う、うん」
何の様子を見に行ったのだろう。
少女は首をひねるがよくわからない。
ただ彼の尻尾を見るに、今日はやけにご機嫌だという事がわかるだけだ。
ご機嫌な理由……とそこまで考えて少女はハッと気づいて空を見上げる。
無論今は早朝で、青空が広がる前のうっすらとした霧が周囲を覆っていたけれど、それでも彼女はすぐに本能で理解した。
体が告げている。
血が告げている。
そうだ……今日は、満月ではないか。
「ふん、ああ、こりゃ悪くねえな」
がふがふ、と人間の姿のアールヴが頬張っているのは生肉ではなく焼肉である。
今朝いつもよりちょっと早起きした亜里沙が広場で表面を炙り、軽く塩を振ったものだ。
「うん、やっぱりお塩があると味が引き締まるよねー」
「生もいいがニンゲンの姿の時にはこっちのが美味いかもなー」
家の中で軽く朝食を取る。
亜里沙はパンの上に塩を振った炙り肉を乗せたものに森で採れた果物。
以前と似たような構成だが味は格段に違う。
「はあ、塩って偉大なんだなー」
つくづく実感する。
人間幾ら耳にしていても、やはり経験してみないとなかなか有難味というのは実感できないものらしい。
もちろん家で料理を作る時などにさんざん世話になってはいたけれど、それでも当たり前のように家に置いてある食塩がこれほど素晴らしいものだとは思わなかったのだ。
手に入れるにしても、使うにしても。
まあ少女の家に常備してあったのは工場で製造されたほぼ純粋な塩化ナトリウムであり、彼女が今使用しているのは海水から直接結晶化させたいわゆる自然塩である。
もし地球上のそれと大して成分が違わないのであれば、彼女の単純な抽出法ではにがりを除去できていないため、ミネラル分を豊富に含んだ、やや苦味と甘味を含んだ塩になっているはずであり、結果としてその塩は単なる塩辛さではなく角の取れた、やや丸みを帯びた味わいになっているはずだ。
「昨日食った肉も美味かったなー。しかし金出さねえでも塩って取れるもんなのか。全然知らなかったぜ」
昨晩は昨晩で大物の猪肉を塩を振って焼いて食べた。
アールヴも気に入ってくれたようで、亜里沙的にも大満足の晩だったのだ。
「よし、喰った喰った! じゃあ俺は出かけるぞ。夕方には戻る!」
「うん、行ってらっしゃい!」
アールヴは狼の姿に戻りとっとっと、と部屋の外に歩き出しながら、だが途中でひくんと鼻をうごめかせると露骨に顔をしかめ、少女の方に振り返る。
「それはそれとして……昨日のアレ、喰うのか?」
「えー、食べないよー」
「喰わねえなら早めに捨てとけよ。鼻が曲がっちまわぁ」
「食べないけどちゃんと使うのー。大丈夫、後でちゃんと処分しておくから」
「おう」
アールヴは彼女の答えに満足したようでそのまま家の外へと出ていった。
彼が言っていたのは倉庫の中に放り込まれた魚の死骸である。先日海へと行った時、少女が波打ち際で何匹か拾ってきたものだ。
半分腐りかけており亜里沙でも少々躊躇するほどの臭いだった。幾重にも葉っぱを巻いておいたのだが、鼻の効くアールヴだとそれでも臭いのだろう。
無論彼女もそんな魚を食べようなどとは思わない。
仮にも日本人である。魚は大きな魚でもない限り鮮度が命だと知っている。
まあ干物など特殊な処置を施したものは例外にして、だが。
「干物かー。お塩があればできるのかなあ」
などと口にのぼせながら皿を片づけ、倉庫へと向かう。
そしてアールヴが難を示した葉っぱの包みを取り出した。
昨晩は塩を作るのに夢中で家に帰る頃にはもう日が沈みかけていて、それを確かめる事ができなかったのだ。
亜里沙は泉に赴くと包みを開けて中身を取り出す。
そして臭気に顔を背けると、そのまま手で全ての魚の腐肉を毟り始めた。
剥いた肉は穴を掘って近くに埋めておく。残ったのは頭部を取り外した骨のみだ。
少女はそれを泉でじゃぶじゃぶと丁寧に洗い、綺麗にする。
そしてすっかり真っ白になったその骨の匂いを幾度か嗅いで、問題ないと確認すると、その一本をぽきりと折ってじっくりと観察する。
「これはダメかなー……」
今度は違う魚の骨を折って、これまた目の近くまで持っていって念入りに目視する。
「これはちょっと細すぎるかなあ。うーん。そうそう都合よくはいかないかー……」
そんな事を呟きつつ最後の骨を確かめていた彼女は、突然瞳を輝かせてその骨に見入った。
適度な太さ、鋭さ、なにより根本の部分に小さな穴が開いているではないか。
「見つけたー!」
それは少女が砂浜で魚の死骸を見つけてから密かに期待していたもの……
そう、針である。




