第4話 『繊月(せんげつ)に見た草原は』
とりあえず首輪を外すことを諦めた亜里沙は、漠然と昨晩走ってきた方向に沿ってそのままにまっすぐ進む。
今は朝方で、太陽は右手にあるわけだから、単純に考えれば北に向かっているはずだ。
だが……それにしても広い森である。
まさか近所にこんな広い森があるとは思わなかった。
少女の知っている森と名のつく場所は大概少し歩けばすぐに対岸の車道が姿を現すというのに、あの誘拐犯はいったいどこまで車を走らせたのだろうか。
「あ……っ!」
朝からどれくらい歩き続けたろうか。おそらく3時間は下るまい。
だいぶバテて疲れ切ったところで、ようやく少女の視界に変化が訪れた。
彼女は瞳を輝かせ、前方を見つめている。
森が……終わっていた。
延々と続いていると思われた藪や木々が、ある地点を境に消え失せていたのだ。
自然と早足になって森の出口へと向かう。
大きな道があったらとりあえず車を止めて事情を説明しよう。
手を挙げて車を止めるのをヒッチハイクと言うのだったか。
まさか自分がそんな事をするだなんて、彼女は思ってもみなかった。
でも、きっとそれだっていい想い出になってくれるはず……
「とーちゃーく!」
小さくジャンプしながら薮の中から飛び出て、両手を挙げてしゅたっと着地した。
そして……目の前に広がる光景にぞわり、と背筋が凍りつく。
少女は両手を挙げたまま動かない。
ただその景色を呆然と見つめている。
それは……草原だった。
綺麗な青空、のどかな白い雲、視界いっぱいの大草原。
草原に繁茂しているのは芝生の丈を伸ばしたような草で、彼女の膝小僧くらいの高さで風に揺れていた。
なんとも雄大で美しい光景である
だが……それは明らかに広すぎた。
地平線まで続くほどに青い草原が広がっていて、他に目に付くものが何もない。
道路も、線路も、電信柱も、鉄塔も、いやそれどころか人造の建造物すら、何も。
目の前に広がる美しい草原には風のそよぎも、鳥のさえずりもある。
けれど彼女が望んでいた『文明の痕跡』だけが……綺麗さっぱり存在しない。
こんな広い草原が、いったい日本のどこにある?
いやもしかしたら北海道ああたりまで行けばあるのかもしれないが、誘拐犯がわざわざ海を渡って北海道まで子供を連れ回すものだろうか?
彼女の家は東京なのだ。仮にフェリーで行ったところでいったい何時間かかるのだろう。
気が付けば……少女は震えていた。
なにかが怖くて仕方なかった。
がくがくと膝が揺れ、そのまま草の上にへたり込む。
少女が再び歩き出せるようになるまで……およそ小半時ほどの時間が必要だった。
「はぁ、はぁ……」
疲労で何度も立ち止まり、ふらふらしながらなんとか歩を進める。
何かの物音がするたびに驚き、怯え、少女は心身共に衰弱していった。
先刻十分休んだはずなのに、朝の歩調とまるで違う。
これは一体どういう事だろう。
無論十分な食事を摂っておらず、特に水分が不足しているため疲れが取れない、というのもある。
けれど今の彼女には何より精神的な疲労が大きかった。
目的地があれば、多少辛くともモチベーションを保つことができる。
当然我が家が一番だが、それが無理でも民家であったり道路であったり、とにかく家路へと繋がる何か、だ。
けれど今の彼女にはそれが見えなくなっていた。
一体どこへ向かへばいいのか、その道しるべを完全に見失っていたのだ。
彼女はあの後結局、森の中を歩いていた。
正確には森と草原の端に近いあたりである。
あの地平線まで続く草原に飛び出すのは何か怖かった。けれど森の奥深くに入ってしまえば絶対に迷ってしまう。
結果として彼女は森の外周をよたよたと歩き続けるしかなかったのだ。
(も、ダメ……)
けれど遂に限界が訪れる。
夕暮れが押し迫り、周囲がどんどん薄暗くなってゆく時分……
亜里沙は地面に膝をついて、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
体中擦り傷だらけで、二の腕や太ももにも幾つもの傷が浮き出ている。
肩にかかるランドセルがやけに重い。いっそ捨ててきてしまえば良かったのにとすら思う。
けれど少女には捨てられなかった。だってもし捨ててしまったら……自分は文明から一切隔絶してしまうのではないか、人間にも二度と出会えないのではないか……そんな恐怖が彼女の内に湧き出して止まらなかったのだ。
だがもう限界である。
がくがくと脚が震え起きあがることもままならない。
いっぱい我慢して少しずつ舐めていた飴に手を伸ばそうとして、最後の一粒をさっき食べてしまったことを思い出す。
漠然と……そう漠然と、少女は覚悟した。
……己の、死を、だ
(やだな……死にたく、ないよ……パパ、ママ……誰か……)
ぼんやりとそんな事を考えながら、虚ろな瞳で前を顔を上げた少女は……
ぱちくり、と大きく目を瞬かせた。
彼女の前方約3m……
そこに、大きな大きな狼が……静かに佇んでいた。