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第43話 『九日月の疾風』

「おい! ブーラー! 速度を上げろ!!」

「へいっ!」


 鞭を浴びた馬……本物がミニチュアにされていたのか、それとも精巧な人造物なのかはわからぬが、ともかく彼らは高く嘶くと襲歩(ギャロップ)となって一層に速度を上げた。


 舗装もされていない草原の上などおよそ馬車がまともに走れるような地勢ではないはずなのだが、その馬車はなぜか必要以上に揺れることなくますます速度を上げてゆく。

 おそらく地形による悪影響を低下させるまじないでもかけられているのだろう。魔法の馬車なのだからそれくらいの力は備えていても不思議ではない。


 だがそんな彼らが逃げるよりも早く、視界の彼方へと消え去らんとしたその森から飛び出した小さな小さな灰色の点がみるみる近づいてくる。

 それはすさまじい速度であって、とても野生の獣が出せる速さとは思えない。


 まるで魔物……そう人狼たるアールヴは間違いなく月の魔力を受けし魔物なのだ。

 日が沈んでこそいないものの満月へと徐々に近づく九日月である。彼の脚は人どころか狼すらも凌駕して、まさに疾風迅狼が如しであった。


「だ、ダメだ兄貴ィ! どんどん近づいてくるよォ!」


 部下らしきならず者がシュルツに泣きつく。

 歯を剥き出しにし、唸り声を上げながらどんどん距離を詰めてくる全長2m半を越える巨狼である。これで怯えるなという方が無理な相談だろう。


「チッ、あの森の主か……ッ!」


 ギリ、と歯ぎしりをするシュルツ。人狼混じりがいたのだから当然人狼がいることも考慮はしていたのだろうが、それ以上に相手の初動が早すぎて対処が追いついていないようだ。


「おいお前ら落ち着いて……」

「ひぃぃ、は、早く殺せ! 弓でもなんでも使って早く殺さんか!」

「ヘ、ヘイ!」


 だが……彼が的確な指示を出すよりも早く、彼の雇い主からの必死な指令が飛ぶ。

 ならず者ども……シュルツの部下達は慌てて弓を取り出し後方へと射かけた。


「あ、あああ兄貴ィ! あいつ矢が当たってもピンピンしてるっ!」

「当たり前だ! 銀だっ! 銀の矢はないのかっ!」


 しかし彼らが降らせる矢弾の雨などアールヴにとってはそれこそパラつく雨滴が如しであって、避ける素振りさえ見せず一気に接近する。

 殆どの矢は彼の左右に撒かれ草原の肥やしとなり、彼に命中した数少ない矢もまた、ぷつりと突き刺さった後すぐに抜け落ちて、僅かな刺し傷は見る間に塞がり彼の体にただの傷一つすら残さない。


「くそっ! どけっ!」

「きゃんっ!」


 人狼にも通用する銀の矢を用意したシュルツが、捕らえていたアリサを突き飛ばして後方に矢をつがえ、弓を引き絞る。


「あーるぶっ! 気をつけて! 銀の矢っ!」


 だが御者台の方の壁に叩きつけられ痛みに悲鳴を上げたアリサが必死にそう叫ぶと、目を細めたアールヴが威嚇するように大きく吠えた。


「ひぃぃぃぃぃぃっ!!」

「チッ!」


 びりびり、と大気を揺らす大音声の咆哮が響きわたり、部下どもが耳を塞ぎ主人であるパントスが恐慌に陥った。

 シュルツは期を逸したことを察したものの放ってもおけず、引き絞った弓を解き放ち銀の矢を撃つが、アールヴは横っ飛びにそれを交わして馬車の斜め後方につける。


「ひぃぃっ! よ、余計なことを言いおって!!」

「よせっ! やめろっ!!」

「きゃうんっ!!」


 シュルツが止める間もなくパントスがどう、と亜里沙の腹を蹴り上げる。

 肺から空気が漏れて呻きながら床に転がる亜里沙。

 そして彼女の悲鳴を聞きつけた……



 アールヴが、怒声を上げた。



 がうっ! と大きく吠えたアールヴは斜め後方より風を駆りながらみるみる馬車へと肉薄し、併走する。


「チッ! バカかっ!!」


 シュルツは愚か極まりない己の雇いに毒づきながら狭い馬車の内で器用に剣を抜き放つ。

 そもそも人狼混じりがいる時点で人狼が近くにいることはわかりきっていた。けれど森に住まう彼らの習性は狼に似て、縄張りを遠く離れてまで狩りはしない。

 だから仮に相手の方が自分たちより格上だったとしても、最悪その人狼混じりの少女さえ馬車から放り捨てれば助かる公算は高かったのだ。


 けれど……もはやそんな言い訳は通用すまい。

 彼の目の前で群れの一員らしき人狼混じりに暴力を振るったのだ。それは群れそのものに喧嘩を売るに等しい行為である。

 幸いと言えるのは人狼は狼と群れることがほとんどないため、群れと言ってもその数はたかが知れているだろう、ということくらいだ。


 馬車と並んで走りながら馬に目がけて吠えかけるアールヴだったが、これは失敗に終わった。

 怯えたのは御者のみであり、二頭の馬はただひたすらに草原を疾駆するのみだった。とすると彼らはやはり生身ではなく人造物かなにかなのだろうか。


 馬車を止めるのを諦めたアールヴは真横から馬車の腹めがけて距離を詰めてゆく。

 シュルツが扉窓から身を乗り出し剣で斬りつけようとするも、彼我の距離が未だ開いていて有効打とはならぬ。


「ヒッ! ヒィィ!」


 一方のパントスはアールヴに怯え後ずさりしながら逆側の窓際に寄った。

 シュルツの二人の部下どもは、攻撃する隙間もなくその中間地点で右往左往している。


 床に転がりながら……亜里沙はぎゅっと目をつぶっていた。

 アールヴがきてくれた! という喜びとアールヴが危ない! という危機感で心臓が破裂しそうなくらいに鼓動を刻んでいる。


「あーるぶ、あーるぶ、あーるぶ、あーるぶ、あーるぶ、あーるぶ、あーるぶ……っ!!」


 目を閉じて、ひたすらに、祈るように彼の名を呼ぶ。

 肩の痛みお腹の痛みもまるで気にならなかった。

 そんな事より彼の無事だけをひたすらに願い、祈る。


(神様、カミサマ、どうか、どうかアールヴをお守り下さい……っ!!)


「この野郎っ!」


 馬車に体当たりを仕掛け、そのまま窓から飛び込もうとしたアールヴをシュルツの剣が迎撃する。

 アールヴの頬がざり、と血飛沫を上げた。この戦いで彼が初めて受けたまともな傷である。


 彼は失意の叫びを上げて飛び退き、馬車の後方に着地した後再びすさまじい速度で追い上げる。

 頬の傷がその時点で既に塞がっていることにシュルツは瞠目する。なんとも恐るべき再生力である。


「ったく、厄介だな畜生がっ!」


 けれど彼が狙うのが少女の奪還ならば、窓から入り込んむ以外に手段はない。そしてその窓の枠内ならば十分にシュルツの攻撃範囲である。

 彼は再び何の能もなく飛びかかってきた巨狼を叩き落とそうとして……


「ッ?!」


 そして、その剣が空を切った。

 直後背後に響く悲鳴。雇い主たるパントスの苦痛の叫びである。


 シュルツは己の甘さを呪った。

 その人狼は威嚇することでパントスを馬車の左側に追い立て、一番使いそうな自分を馬車の右側におびき寄せ、こちらが攻撃の為に身を乗り出した隙をついて瞬時に方向を変えて馬車の左側に回り込み、彼に襲いかかったのだ。


 飛び散る血潮、響きわたる絶叫。

 馬車の左岸は惨憺たる有様であった。


「テッメェェッ!!」


 シュルツが長剣を脇に構え体当たりするように眉間に一撃を食らわせると、さすがに効いたのか巨狼はそのまま馬車の外に飛び降りる。

 だがパントスは顔面を鉤爪に引き裂かれ、肩から首にかけて巨大な牙に噛みつかれ、血塗れになって呻いていた。


「旦那! しっかり! しっかりなせえ!」


 パントスに死なれてはおまんまの喰い上げである。シュルツは急いで彼の介抱にかかった。その間に再び馬車の右側に走り寄ったアールヴ。

 シュルツの目が離れた最大の好機に、彼の足音を聞きつけて飛び跳ねた亜里沙はそのまま馬車の右側へと疾走する。

 腕が縛られ一瞬体勢を崩すが、強引に床を蹴って持ち直した。


「テメェら! そいつを逃がすなァ!」


 主に大怪我を負わせ、その上せっかくの獲物を逃がしてしまってはなんの意味もない。シュルツの叫びに子分の二人……カーターとヴェルツが慌ててその人狼混じりの少女の背中を追いかける。


「アリサッ!! 来ォいッ!!」

「はいっ!!」


 アールヴが大声で……狼の言葉で叫びを上げる。

 そして亜里沙が何の迷いもなく返事をした。



 ……突然、彼女の首筋から光が放たれる。

 目映いばかりの紫の光だ。

 そえは粘つくほどに濃密な光の奔流となって周囲に解き放たれ、あまりの眩しさにならずものどもは思わず目を覆ってしまう。

 彼女の背に伸ばされた手はむなしく空を切って……





 ……そして、窓から身を乗り出した少女の身体が宙を舞った。






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