第41話 『九日月の不審人物』
ぴょこんっ。
草原の中から突然顔を出した、犬耳姿の少女を見てその男はどう思っただろう。
ぎょっと目を丸くした後、けれどきょとんとこちらを見つめ小首を傾げる少女の愛らしい様にやがて目を細め、値踏みをするように上から下まで視線を走らせた。
一方のその値踏みをされている少女……亜里沙もまた、その相手を不思議そうに観察していた。
……人間である。
少女がこの世界に来てから出会った、初めてのまともな人間だった。
最初黒ずくめだと思ったのは光加減の問題で、近くに寄ってみればやや茶色がかった緑色の革つなぎにくすんだ緑のマントを着用している中年の男性であった。
この世界の衣装には疎い……というか、年頃の少女の割に地球でもあまりその手のファッションには疎かった少女ではあったが、それでも正直その格好はあまりその人物に似合っているとは思えなかった。
ちなみに顎髭を生やした銀髪の男で、顔は鰓が張って角張っており、どことなく怖そうな印象である。
けれど……このあたりには人家らしき人家もない。
一体この人物はこんなところで何をしているのだろうか。
ざ、とその男が一歩踏み出し、反射的に少女は一歩下がった。
さらに一歩、互いに歩を進め、後ずさって、けれど歩幅の違いからわずかに距離が縮まる。
少女は彼の表情を見て今更ながらに直感する。
ああ、この人は危ない人だと。
きっと自分に悪さをする人に違いない、と。
けれど……そう気づいたときには何もかもが遅すぎた。
きびすを返して脱兎の如く走り出した少女。
慌てて追いかける男。
彼は中年ではあるがその身体はしっかりと鍛えられており、本来なら走力で十かそこらの少女に負けるはずがない……はずだった。
だが……追いつけない。
少女の足は驚くほどに速かった。
前傾姿勢で走り始めると蹴るような踏み込みで一気に速度を上げ、その後徐々に胸を反らし、両手と両足のストライドを大きく取って突き放しにかかる。
元々身体を動かすのが大好きな少女である。学校で基本的な走り方も教わっており、さらに今は人狼混じりで身体能力も向上している。
さらに今は徐々に月が満ちてゆく時期である。その身体は躍動感に満ち満ちて、スカートから覗く健康的な太股はまばゆいほどに煌めき、己の本文を主張している。
走れ、動け、全力で躍動せよと。
一気に距離を空けた少女は、そのまま森へと飛び込もうとして……
「逃がすなっ!」
「「「おうっ!!」」」
だが、背後からの声にびくりと少女が肩をすくめると同時に、彼女の視界に突然三人の人間が現れる。鋼色の兜と同色の鎧を着用し剣を腰に帯びた彼らはどこかのお城の兵士といった格好だった。ただ少女の背後に迫る男と同じようなくすんだ色のマントを身につけている。
彼らはいきなり姿を現した。それこそ本当に忽然と出現したのである。少女はびっくりして急ブレーキをかけようとしたが、すぐに思いとどまる。
今止まってしまえば後ろの男に追いつかれてしまう。相手だって結構な早さなのだ。
前の三人との距離は目測で10~20mくらいだろうか。真っ正面に一人、そして右と左に一人ずつ。それぞれが互いに同じくらいの距離を開けている。
止まることは許されない。走りながら決断しなければ。
真っ正面は問題外として抜けるとしたら右か、左か……相手の間をなんとかすり抜けて最短距離で森へと飛び込む他ない。
森に入りさえすればなんとかなる……何の根拠もないが、なぜか少女はそう確信していた。
(えっと、ええっと……左!)
亜里沙は一瞬の逡巡の末に左を選択した。そちらの方が相手同士の距離が少し開いていたし、一番左の男がやや小太りで運動が苦手そうな印象を受けたからだ。
右脚を滑らすように大きく横に伸ばして強く地面を蹴る。
その反動で一気に左斜め方向へと方向転換した少女は、その小太りの兵士の方へと全力で駆けだした。
一歩、二歩! 三歩!!
だん、だん、だんと最初の三歩の踏み込みで強く地面を蹴り、全力疾走の中さらに加速する。
急接近する亜里沙にその小太りの男は完全に虚を突かれたようで、向かってくるどころかそのまま左へと身を避けた。
(いけるっ!!)
少女は確信し、さらに速度を上げて彼の横を通り過ぎようとして……
「……ふえっ!?」
……そして、大きく宙を舞った。
少女は一瞬何が起きたか理解できなかった。
なぜ自分は空を飛んでいるんだろう。
なんでこんなに勢いよく吹き飛んでいるんだろう。
ぐるりと一回転する視界の中、少女の瞳に一瞬何かが写り込む。
(あ、そっか、私、あれで……)
……それはロープだった。
細く、目立ちにくいが、同時に幾重にも編まれていて頑丈そうである。
例の兵士は彼女から距離を開けるフリをしながら、足下のロープを引いて彼女を転ばせたのだ。
(でもロープの先って何に結んでるんだろ。樹……は近くにないし、隣の兵隊さんが持ってるのかな?)
世界がスローモーションになったよう感覚。妙に落ち着いた気分で色々と思考が巡ってゆく。
だが空中では体の自由が利くわけではない。
そうこうしている間にも地面はゆっっくりと近づいてくる。
体勢を変えようとじたばたもがくがどうやら無駄な足掻きのようだ。
徐々に迫りくる地表に亜里沙はぎゅっと目をつぶり……
「きゃんっ!!」
そして背中を強く打ち付け、二、三度バウンドしたのち肩を強打し、草原を滑るようにしてしばらく地べたを転がった後……そのまま動かなくなった。
「ふう……手間かけさせやがって。しかしなんつー速さだ」
額の汗を拭いながら宣告の中年男が倒れている少女を見つめる。
そう……亜里沙は、彼らの虜囚となったのだ。




