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第3話 『既朔(きさく)の水鏡』

「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 荒い息を吐き、近くの樹の幹にもたれかかって休む。

 もう限界だ。これ以上走れない。

 額に流れる汗が目に入ってごしごしとこする。腋の下が汗でじんわりと蒸れて少し気持ち悪い。

 首筋に流れた汗が襟首から胸元に入り込み、亜里沙は襟元をばたばたと煽いで僅かな涼を得ようとする。

 吐いた息がやけに湿っていて、肺が後から後から酸素を要求している。


 少女は大きく深呼吸して息を整えた。

 若さゆえか、それだけでも跳ねるような心臓の鼓動が多少収まったような気がする。


 おそるおそる背後を振り向いてみれば……追ってくる者は誰もいない。

 ただ寂漠とした夜陰の森と星空が広がるのみである。


 彼女は今頃になって例の足音がすっかり聞こえなくなっていたことに気づく。

 一体いつ頃から消え失せていたのだろう。もうだいぶ前のはずだが。


「ふぅ……はへぇ……」


 安心と疲労で、そのままずるずると木の根本まで腰を落とす。


「きゃっ! わわっ!?」


 そして同時に己の腹が食糧の補充を切に訴え、真っ赤になって慌てて腹部を押さえつける。


「って、誰も見てないか……」


 亜里沙は小さく溜息をついて周囲を見渡した。

 そして今更ながらに単純な疑問に突き当たる。


「で……ここ、どこ……?」


 深い藪、頭上に立ちこめる枝葉、なんとも鬱蒼とした森の中である。

 足元に続いているのは街道ではなくどうやら獣道のようだ。

 一体どっちへゆけばいいのか、どちらへ進めばいいのか、さっぱりわからない。

 ただ藪の中などを強引に突っ切ってきたからか、二の腕や健康的なその太ももなどに幾つもの切り傷やミミズ腫れができていて、もし朝日の下で見たらなんとも痛々しく映ったことだろう。

 少女は先刻転んだ際に擦り剥いたらしき膝頭の泥を払い、僅かに滲んだ血を舌を伸ばしてちろりと舐め取った。


「月……見えないや。今走ってきたのはどっちの方角なんだろ……」


 ぼんやりと空を眺めながらなそんな事を考える。


 もし……今日が新月でなかったら、彼女はすぐに気づくことができたかもしれない。

 ここが異世界だということを。たとえそれが理解できなかったとしても、少なくとも己が置かれているのが異常な状況であることを。

 なにせこの世界の月は、地球のそれとは色も大きさもだいぶんに違うのだから。


 けれど幸いというか、不幸というか、とにかく彼女はこの場でそれに気づくことはなかった。


「えーっと、あ、そうだ!」


 何かを思い出したように背中に背負っていたランドセルを下ろし、中身をごそごそと漁る。

 そしてこっそり忍ばせておいたキャンディーを取りだした。

 学校に菓子類の持ち込みは原則禁止である。けれど身体をよく動かす彼女は空腹もまた人一倍覚えて、最近は内緒でこうした非常食を常備していたのだ。、

 粒状の飴が8つ程入っている、コンビニなどで売っているごくありふれたものである。


 口に放り込んでその甘味に思わず頬が緩める。

 これほどの空腹を覚えたのは生まれて初めての事かも知れない。いつも、いつだって親がご飯を作ってくれていたし、学校に行けば給食があった。食事など特に苦労もせず食べられるものだと思っていた。

 家に帰ったら母にお礼を言わなければ……そんな事を考える余裕も生まれる。

 そう、この期に及んですら、彼女はすぐ家に帰る事ができると疑っていなかったのだ。


「えーっと、私が攫われたのがたぶん4時頃で、目が覚めたのが……いつくらいだろ。車で何時間くらいかなあ」


 色々と考えを巡らせるが、答えは出ない。

 疲労困憊だった少女は……そのまま木の幹にもたれかかりながらうとうとして、やがてそのまま寝入ってしまった。


 翌朝目が覚めた亜里沙は、飴玉を一個だけ口に放り込んで再び歩き出す。

 お腹が喧しく空腹を騒ぎ立てるが、未だ人家のひとつも見つけられていない。

 サバイバル経験などは当然ながら皆無であり、外で寝たことなんてせいぜい家族で行ったキャンプくらいだったけれど、そんな彼女でも食料をできるだけ節約する必要性は感じていた。

 なにせ次にいつ食べられる物が入手できるかわからないのだから。


 道中の森の木陰に兎を発見する。

 なんとも可愛らしい兎で、こちらをじっと見つめていたが近づこうとするとすぐに藪に消えてしまった。

 少々残念に思ったが、まあ野生の動物だしそんなものだろうと諦めて再び歩き始める。


 まともに出会えた生き物に少しだけ元気をもらって。


 しかしなんとも珍しい兎もいるものだ。赤い兎なんて聞いたこともない。

 家に帰ったら辞書で調べてみよう、と亜里沙は一人頷く。


 さらにしばらく歩いたところで、小さな池を見つけた。

 喉の渇きを癒したいという欲求に駆られるが、飲んで大丈夫なものかどうか確信がもてなくてなくなく諦める。


「んー、どうすれば綺麗な水にできるのかなあ」


 これが科学の実験などであればビーカーに入れた水をアルコールランプで炙り、立ち昇る蒸気を上部でどうにかして集めて冷やして水にする……などとは思いつくのだが、なにせ今はビーカーどころか水筒もない、それどころか火の起こし方にすら事欠く有様だ。

 摩擦熱で火を起こせればいいのだろうが……彼女はライターもキャンプ用の着火器具もなくそんな事をしたことがなかったし、生憎と近くに落ちている枝葉は皆生乾きのようだった。


「みゅう……ひねるだけで火がつくコンロって偉大だったんだなー」


 などと今更ながらに文明の利器に感心する。


「残念だけど諦めるかー……」


 念のため人差し指を水面に付けて軽く舐めてみる。

 だが明らかに強い苦味を感じて、彼女は慌てて吐き出した。


「あ、でももしかしたら……」


 何かを思いついた少女は、静かに水面に身を乗り出して覗き込んでみた。

 水は飲用には耐えなかったが水鏡としての用は果たしてくれたようで、亜里沙の姿が映し出される。

 服装は気を失う前とまったく同じだ……が、森の中を走っている間に枝にでも引っかけたのか、服もスカートも少々傷つき、ほつれていた。


「あ~あ、お気に入りだったのにい」


 母親が用意してくれた中ではそれなりに上品な割になかなか動きやすくて、少女はその服がお気に入りだった。

 まあ派手に動くと短めのスカートの下が丸見えになってしまうため、母親は彼女がその恰好で激しい運動をする事を嫌っていたが。

 服のほつれを指先でいじくり、溜息をついて少々落ち込むが、そんな余裕があるのも今無事だからこそだと己を励ましてみる。


「……って、そうだ、これつけたままだった」


 そして、己の姿を確認したところでようやくに先日あの老人に無理矢理取り付けられた首輪について思い出す。

 言われてみれば一体なぜ今まで忘れていたのだろう。自分の首にまるであつらえたかのようにぴったりと巻かれていて不快感もなく、殆ど違和感を感じなかったからだろうか。


「んー、あれ? あり? んにゅー!?」


 妙な奇声を上げながら色々いじくってみるのだがなかなか上手く外れない。


「ん~~~~っ! ダメだ~~! っていうかこの金具最初から取り外すように出来てないし! 一体どうやってつけたんだろ、コレ」


 なんとも奇妙な首輪である。一見するとごく普通に留め金で取り外しするような形状に見えるのだが、こうしていじくり回してみるとそれは外見だけであることがわかる。

 なんというか外すべきとっかかりがどこにも見当たらないのだ。まるで最初から首に巻かれていたかのようである。だがそれではそもそも装着することだってできないはずだ。一体どういう構造なのだろう。



 少女は腕を組んでうんうんと考え込んだが……結局答えは出なかった。




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