第30話 『上弦の帰り路(みち)』
「そうね、おそらくだけれど……その魔法使いの手を借りなくても貴女を送還する事は可能だわ、亜里沙ちゃん」
「本当ですか!?」
しばしの熟考の末、何やら結論が出たらしきゲルダがそう答え、亜里沙の声のトーンが一気に上がった。
「ええ。自分の屋敷の地下室ですもの。位置情報をわざわざ隠匿する理由がない。異界からの召喚は難度が高いし、少しでもリスクは減らしたいでしょうから、それらの情報は詠唱ではなく魔方陣に既に組み込まれていると考えた方が自然だわ」
彼女の説明は専門的すぎてアールヴと亜里沙にはさっぱりではあったが、ともかくあの老人の手を借りる必要がないかもしれない、というだけでも大きな前進である。
「ただ本人ではないのだから簡単にはいかないわよ。いくつかの条件をクリアする必要がある」
「条件? どんなだ」
アールヴのぐるるる……というせっつくような問いに、ゲルダは片目を閉じて答える。
「まず時間。もっとも魔力が高まる満月の夜が望ましいわ。次に場所、これは亜里沙ちゃんが呼び出されたそのお屋敷ね。そして人員。送り返す亜里沙ちゃんは当然として、魔方陣を扱うのに私の同行が必須。それに場所が場所だから護衛にアールヴ、といったところかしら。そこで何を……と言ったら当然その魔法使いが組んだ魔方陣を。本人ではないから魔方陣に魔力を込める事はできないけれど、そこは満月の力で無理やり励起させればいい。最後に……どうする? その構築式をそのまま逆用して亜里沙ちゃんを元の世界に……送り返す」
「…………!」
滔々と述べる彼女の言っている事を全部理解できたわけではないけれど、とにかく条件さえ満たせば元の世界に帰る事が出来る、という希望が彼女の中にようやく芽生えた。
がくり、と腰の力が抜けて、ふにゃあ、とテーブルの上に上体を投げ出す。どうやらよほど緊張していたらしい。掌が汗でぐっしょりである。
腋の下にも汗が染みていて、少女は今度服を洗濯しなくちゃ……などと少々場違いな感想を抱いた。
「あ、でもでも、それって……」
「どうした、まだなんか不安か?」
アールヴの問いかけに、亜里沙はふるふると首を振る。
不安なのではない。ただ今の話には素直に喜んでいられない部分があった。
「私の説明がわかりづらかったかしら?」
「違うんです。そうじゃなくって……その、もしかしたら危ないかもしれない場所なんですよね。なのに私の都合でゲルダさんを巻き込むのって、その、なんか悪いっていうか……わ、私ゲルダさんに何にもしてあげられないし……!」
立ち上がって懸命に主張する亜里沙の言葉を聞いて、二人……もとい一人と一匹はしばしの間動きを止める。
だがやがてその身を小刻みに震わせて、遂にはどっと腹を抱えて笑い出した。
「ええええええ?! なんで!? 私真面目に言ったのにぃ!!」
「ハッハハハハハハハ! いやあこいつぁ傑作だ、なあゲルダ!」
「ええ、ええ! 私が、好意で! 手助けすることが前提にされてるだなんて! ふふ、あはは、あーおかしい!」
事情はよくわからぬが、ともかくも自分はかなり恥ずかしい事を言ってしまったらしい。
亜里沙はみるみると犬耳まで赤く染めて、肩をすぼめてちょこんと椅子に座り小さくなる。
「ああスマンスマン。別におめーが悪いって言ってるわけじゃねえよ」
あっはっは、と笑いながら(狼語を解さぬものならばばうばうばうっと聞こえただろうが)、アールヴが少女の膝にべしべしと肉球を叩きつける。
「魔法使いはてめーの研究の役に立たねえような事ならそもそも一切手伝わねえよ。それこそ研究費の足しになるような大金でも積まねえ限りはな」
「そ、そうなの?」
「そうそう。だからお前が気に病むまでもなく善意やら好意やらで手伝うってこたあハナから考えなくていいのさ」
アールヴのニヤニヤしながらの物言いに亜里沙は唖然とする。
そんな失礼な物言いを当人の前でしていいのだろうかと。
「ええ、アールヴの言う通りよ。魔法使いは無駄な事はしない。そんな無駄な事をするくらいなら自分の研究にかまけている方がマシというものだわ」
「ということは……」
亜里沙は先刻のゲルダの言葉を思い返す。
話の流れから手伝う気はあるように見えた。けれど好意や善意は一切ないと断言されている。
つまり……
「ゲルダさんにはゲルダさんの、私に同行したい理由があるってことですか?」
「ええ、そうそう。そういう事よ」
感心したように手を幾度か打ち鳴らすゲルダ。ただし打ち鳴らしているのは髪の毛で作った掌だったけれど。
「なかなかどうして賢い子じゃない? 貴方のところに住まわせるのはちょっともったいないかしらね、アールヴ」
「ほっとけ!」
見下ろすような視線のゲルダと、がうっと吠えて反駁するアールヴ。
「私には他の魔法使いの研究成果が必要なのよ、色々とね」
「研究成果……?」
「ええ、異界から望んでいない相手を無理やり呼び出すなんて、よからぬ魔法使いのすることだって言うのはわかるわよね?」
ゲルダの言葉に亜里沙はこくこくと頷く。その点については疑問の余地はない。
「ならそんな魔法使いにはこれ以上魔法の研究なんてさせてはいけないわ。危ないもの。そうでしょう?」
「ええっと……はい」
「でも魔法使いは他人に言われたからって自分の研究をおいそれとやめるような人種じゃないわ。だから止めるためには実力行使しかない」
ゲルダの視線がアールヴに注がれ、やれやれ、と言った風情のアールヴががうっと吠える。
それはいやいやながら確かに受諾の返事であった。
人間の言葉でいえば「やれやれ、しょーがねえなあ」と言った感じのニュアンスだろうか。
「でもそうして無理矢理できなくさせてしまったなら……その研究成果は誰かが引き継がないといけないでしょう? もちろん悪事に利用したりしない人が……ね?」
頬杖をつきながら、背後の長い翡翠の髪を風もないのにゆらゆらと揺らめかせつつ、ゲルダは優しげな微笑を浮かべてそんな意見を述べる。
けれど彼女が言っている内容はとてもではないがそんな微笑みで済まされるような中身ではない。
要は彼女は亜里沙を呼び出したその魔法使いを襲撃し、亡き者にして、彼の研究成果を根こそぎ奪おうと言っているのだ。
そのためにはアールヴの助けが必要で、おそらく彼への報酬代わりに亜里沙を送還してやろうと、つまりはそうした趣旨の発言をしているのである。
これでは一体どちらが悪者かわからないではないか。
「あの……っ」
何かを言いかけた亜里沙の太ももに再びアールヴの肉球が乗せられる。
ただこれまでと違ってほんの少しだけ爪先が伸びていて太ももにチクリとした痛みを感じた。
「それで問題ないぜゲルダ」
「でも、アールヴ……っ!」
「こんなでも“魔法使い”っつー枠ン中では相当マシな部類なんだよ、コイツは。相手はお前を強引にこっちの世界に連れ出したような悪モンだろ? いちいちお前が気にかけるこたあねえ」
違う。違うのだ。
なんとも失礼な話なのだが、亜里沙はあの老人がゲルダにどうこうされる、ということについてはそこまで深い感慨を持たなかった。
別に自分を酷い目にあわせたのだから当然だとか、ざまを見ろとかそういう気持ちではない。
ただ魔法使いというのはそういう人種なのだろうな、という妙な理解と達観が少女の中にあって、あまり同情や反感を抱かなかったのである。
彼女が心配していたのは……アールヴのことだった。
ゲルダが己の目的のために亜里沙の件を利用する、それはいい。けれどそのためにアールヴがゲルダに協力するのは、それこそ完全に彼の善意以外にあり得ないではないか。
だって彼女はその人狼に対して何もしてあげられていないのだから。
足を引っ張り迷惑をかけてばかりなのだから。
ぐるぐると経巡る気持ちがない交ぜになって、少女は泣き出しそうな瞳でアールヴを見つめる。
そんな彼女の瞳を見返しながら……アールヴはその狼の鼻先で彼女の俯き加減な顎を押し上げた。
「前にも言ったろ、俺達は群れだ。群れのボスは群れを守るために全力を尽くすもんさ。だからお前が気にするこっちゃねえんだ、おチビ」
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。




