第2話 『新月の夜に』
怖い。
怖い、怖い。
怖い、怖い、怖い……!
目尻に涙を浮かべながら必死に暴れる亜里沙。
頭が混乱していて思考がまとまらないが、それでも必死に現状を把握しようとする。
とりあえず夕方の通学路から見たこともない地下室に運ばれたのは確かなようだ。
ここが地下であることは周囲に一切窓がない事と、唯一の出入り口らしき扉の向こうに見える階段が上りのみであることから推測できる。
とすればいかに幼い彼女であってもすぐにたどり着ける現状の解がたった一つだけある。
そう……誘拐だ。
目の前の老人が誘拐犯で、変質者で、変質者だから無理矢理首輪を巻いて、これからきっともっと変質なことをするに違いない!
(幸いなことに、彼女はそれ以上の変質に関する具体的な知識を有してはいなかった)
ただ……知らぬ、わからぬというのはそれだけで十分な恐怖の源泉である。
怯え涙を流ししゃくりを上げながら彼女はもがき、足掻き続ける……が、それでも大人の腕力には敵わない。
どうしよう、どうしたらいいのだろう。
必死に考えるが答えが出るはずもない。
「やだ、やだぁ、パパ、ママぁ……っ!」
ただ幼い頃の呼び方に戻った父と母の名を……鼻にかかった声で泣き叫ぶのみだ。
……と、その時、突然巨大な揺れがその地下室を襲った。
地震と呼ぶにはあまりに短すぎる、けれどあまりにも大きな地響き。
その大きな揺れに老人は何やら動揺したらしく、苛立たしげに喚きながら天井を睨む。
そして……少女から気を逸らしたその老人の腕の力が、ほんの僅かに緩んだ。
……今しかない!
そう確信した少女は、思いっきり身体をねじると目の前の老人の顎を膝で蹴り上げた。
思わずのけぞる老人の腕を強引に振り解くと、一目散に出入り口らしき扉を抜け、一息に階段を駆け昇る。
幸いなことにどこも拘束はされておらず、彼女の脚は実によく動いてくれた。
部屋を去るとき、一瞬足元に円と線で結んだ光る幾何学模様のようなものを見た気がするが、それを確かめる余裕もなくさらに速度を上げる。
背後から聞こえる失意の叫び。だが彼女にはその意味はわからず。知らぬ言葉でただ喚いているようにしか聞こえない。
(とりあえず……英語じゃ、ないっ、みたい、だけどっ!)
息を切らせながらそんな事を考える。
英語についても別に詳しく知っているわけではないが、それでもそれらしい単語が全くないのは不自然だろう。
けれど彼が喋っているのが何語で、彼が何人なのか、という話になると、専門知識のない彼女にはさっぱり見当がつかぬ。
少なくとも白人ではあるようなのだが、目が紅いのは一体何人だっただろうか。
……と、背後から何か物音がする。
それは明らかに地を蹴る足音で、しかも自分の方に向かってきているようだ。
誰か……もしくは『何か』の足音である。
さほど早いというわけではないが、一切速度を緩めずに、一定の速度で彼女を追ってくる。。
おそらく全力疾走の彼女よりは遅いが、速度を落とせばすぐに追いつかれてしまう、そんな厄介な速さだった。
不気味な追跡者の存在に彼女は恐怖し、さらに速度を上げる。
母親に逆らって外を遊びまわっていたおかげか、亜里沙の四肢はよく彼女の気持ちに応えてくれた。
息が苦しかったが必死に耐える。
背後は振り返らなかった。振り返ったら何かが終わってしまう……そんな理由もない確信が彼女の心を満たしていた。
所詮ただの直感だが、この緊急時に於いて彼女は迷わず己の直感に従った。
……結局最後まで彼女が知る事はなかったが、その直感はおおむね正しかったのだ。
なにせもし背後を振り返ってしまえば、“それ”と目を合わせてしまえば、彼女は石像と化してあの老人の元に引きずられていっただろうから。
少女……亜里沙は走る。背中のランドセルが少し重かったが、今は投げ捨てる時間すら惜しい。
彼女は必死に廊下を駆け抜け、玄関らしき扉の目の前で急停止、祈るようにノブに手を掛けた。
「開いたっ!」
どうやら運良く扉に鍵はかかっていなかったようだ。
亜里沙は扉の隙間にするりと身を滑らせ、大きなアーチをくぐり、庭を越え、正門の柵の間をすり抜けて、その不気味なお屋敷から脱兎の如く逃げ出した。
彼女の感覚ではつい先刻まで夕刻前だったはずなのに……いつの間にかすっかり日が沈み、夜となっていた。
本来なら……彼女にはさらなる追っ手がかかるはずであった。
せっかくの獲物を逃がすまいと謎の老人が操る不可思議な化け物どもが彼女を追いかけ、きっとすぐに捕らえられていたに違いない。
けれど……あの老人は、結局彼女を追跡する事を断念せざるを得なかった。
少女が先刻くぐったアーチ……実はあれはこの屋敷の構造物ではなかったのだ。
彼女の後を追うように屋敷を出た老人がそこに見たのは……大きな人間。
大きい。実に大きい人型の生き物だった。
全長4mを超えるような巨大な人間……そう、それはまさに巨人と呼ぶに相応しい。
そんな巨人が、巨大な斧を持って屋敷の前で彼を待ち構えていたのだ。
そう、志藤亜里沙は巨人の股ぐらの下をアーチだと勘違いして駆け抜けていったのだ。
少女はその巨人に気づかなかった。
いや、気づけなかった。
だって身長4mの巨人だなんてそんなものこの世にいるはずがないではないか。
それはあまりに彼女の知っている常識とかけ離れていたから……だから、それを彼女は現実と認識できなかったのだ。
けれど……この後彼女は、この世界の常識と「当たり前」を、嫌でも学んでゆくことになる。