第1話 『それは白昼の出来事で』
少女の名は志藤亜里沙、10歳。小学四年生である。
彼女はその時、ちょうど学校からの帰宅途中だった。
ただその足取りはやけに重く、家に帰るのを億劫がっているように見える。
実のところ彼女は現在母親と喧嘩中であった。
だから家に帰りたくなかったのだ。
亜里沙の母親は彼女が物静かな少女であって欲しいと願い、そうした教育を施していた。
幼い頃の彼女は、母親の望むことに素直に従っていた。
単純に親の喜ぶ顔を見るのが嬉しかったからだ。
だから料理もよく手伝ったし、家事や繕い物なども頑張って覚えたし、今だって図書館で本を借りて読むのが日課になっている。
けれど成長するにつれ、彼女は自分自身……正確には自分の身体がより活動的であらんと欲している事に気付いた。
体育の時間のかけっこは凄く面白いし、友だちと自転車で遠出するのはとても刺激的な体験だった。
ほとばしる汗、躍動する四肢、一歩でも先へ、先へと伸ばされるくるぶし、ふくらはぎ、肉付きの良い太もも。
それは少女にとって何物にも代え難い楽しみとなっていった。
結果として……彼女は“母親の望んだ自分”をこなす事が疎かになってゆく。
母親にとって……それは娘が道を踏み外してゆくように映ったのだろう。
親というものは己の子供が自立した一個の人格である事をしばしば忘れ、己の分身、或いは常に己の保護下にある存在だと思いがちだ。特に母親に於いてそれは顕著である。
手塩にかけて、それこそ腹を痛め乳房を与えて育てたという自負もあるのだろう。
けれどそれは度が過ぎれば子供の人格や主張を認めない、親による支配もしくは強圧的な理想の押し付けに陥りかねない。
親にとって己の子供が「まだまだ自分の世話が必要だ」と感じる時期と、
子供にとって「自分はもう一人前である」と感じる時期は重なっている。
ゆえに彼女の家でもまた、当たり前のように親子の諍いが発生した。
これを一概に少女の反抗期と片付けることもできまい。
最近は親離れできぬ子供と同じくらい、子離れできぬ親も増えてきているのだから。
いずれにせよ亜里沙にとって現状我が家はなんとも帰りたくない場所であって、その足取り自然遅く、重いものとなっていった。
「ハァ……帰りたくないなあ……」
ぼそり、とそんな事を呟く。
「このままどこか別の世界にでも行けたらなあ……」
彼女がそう呟いた瞬間……
世界が、歪んだ。
ぐにゃり、と視界がたわみ、ひずみ、激しい目眩に襲われる。
頭がずきん、ずきんと痛み、世界がぐるぐると渦のように廻った。
以前母親が酷い頭痛がすると言っていたが、きっとそれはこんな感じなのではないだろうか、と少女は思った。
気分が悪い。
胸がむかつき、吐き気がする。
亜里沙はいつの間にか地べたに倒れていた。
立ちくらみだろうか。一体どうすれば治るのだろうか。
誰か、助けて欲しい。
誰か、誰でもいい、誰でもいいから……!
そんな彼女の願いが聞き届けられたのか……何物かが彼女を抱き起こそうとしている。
うっすらと目を開けて、なんとかお礼を言おうと口を開きかけ……
……少女は、己の目を大きく見開き、二、三度しばたたかせた。
濃紫の布を巻き付けたような服を着て、先端の折れた三角帽子を被ったいかにも怪しい老人。
それも日本人ではない。外国人のお年寄りが彼女を抱き起こしていた。
なぜか随分と興奮した様子で、彼女に理解できぬ外国語をまくし立てている。
倒れていた少女の元に慌てて駆けつけたからだろうか。
(あ、れ……?)
混乱する少女は周囲を見渡した。
おかしい。なにかがおかしい。
自分は学校から家に帰る途中で倒れたはずだ。
ならばなぜ……ここは屋内なのだろう。
煉瓦が敷き詰められている壁、ひんやりと冷たい石畳。
それは昔両親に連れられて尋ねた古いワイナリーの地下蔵を彷彿とさせた。
だがそれよりも異常なのがその老人の様子だ。
随分と気を昂ぶらせているようで、それでいてどうも彼女が倒れたことを心配して……という風情ではないのである。
むしろその表情から窺えるのは……歓喜。
まるで実験成功を喜ぶ科学者か何かのような喜びようであった。
「え……あ、な、なに……?!」
不意に腕を固められ上にのし掛かられて、そのまま顎を掴まれる。
必死に抗うが流石に大人と子供である。さらに言えば彼女は現在気分が悪く、力も殆ど入らない状態だった。
だから結局、志藤亜里沙はその老人に強引に巻かれてしまったのだ。
首に、それを。
……紫色の、不気味な首輪を。