第15話 『四日月の水浴び』
例の水鏡替わりに使った小さな泉のさらに先、森の中程のところに、小さな川があった。
この辺りは川幅は3mほどで流れも緩やかであり、さほど深くないため溺れる心配もなさそうだ。
亜里沙はそんな川のほとりに衣服を畳み、全裸で水浴びをしながら、
顔を半分ほど小川に沈め、ぶくぶくと泡を吐きながら御不満の体であった。
さわさわと小振りだが肉付きの良いお尻を触る。
ようやく先刻までの違和感が消えてくれた。
「うう~~~~~っ」
ざんぶと飛沫を上げながら川からその身をさらけ出す。
少女特有の丸みを帯びた肢体が逆光の下、水滴を滴らせながら躍動感溢れるシルエットを映し出し、
やや太めの張りのある太ももが、いずれは我が儘になるであろうその肉体のポテンシャルを幼いながらも主張している。
「紙かー。紙がないのかー」
ん~~~~~、と腕を組みながら首を大きく捻り、再びゆっくりと水面に波紋を広げ川の住人となる。
そう、先刻から彼女が悩んでいたのは用を足す際の紙の不在であった。
「紙? ああ布クズ集めて作った奴か? それとも魔法使い共が使う羊皮紙とかか?」
先刻半泣きでアールヴに尋ねた時のことを思い返す。
彼女が扉を思いっきり閉め、鼻面を強く叩きつけられていたくご立腹だった彼は、けれど少女の剣幕に気圧されるようにして質問に答えた。
「どっちでもいいけど! この家にはないの?! 紙!」
「物書きでもする奴ならともかくそうでなきゃわざわざ買うもんでもねえだろ。たけえんだから」
ぱちくり、と目をしばたたかせる亜里沙。
ようやくにそのあたりの事情が飲み込めてきたらしい。
「ええっと、聞いてもいい? 紙1枚っておいくらくらいなの……?」
「んー、布クズで作った奴なら結構な大きさで銀貨3,4枚、羊皮紙なら小さいので銀貨2枚ってとこだ」
「つづけて質問。じゃあその銀貨2,3枚ってどれくらいのものが買えるの?」
少し顔をしかめて考え込んでいたアールヴは、やがて言葉を選ぶように答える。
「エール……酒だな、なら1ガロン(4リットル)、飯なら普通に一食分、宿なら安宿一晩、ニワトリなら20羽くらい……か?」
「きゃあ!」
思わず小さな悲鳴を上げてしまう亜里沙。
……ざんぶ、と大きく川面に身を沈め、回想を打ち切る。
つまるところこの世界では紙を造る技術が進んでおらず、1枚1枚手作りしなければならないため非常に高価らしい。
「さすがにごはん一食分のお金で紙1枚買うわけにもいかないし……」
紙を自作することは可能なのだろうか。確か以前テレビでやっていたパピルスとかいう原始的な紙はそんなに難しい製法ではなかった気がするが……などと色々な事を頭にのぼせる。
なんとも真剣な面持ちである。たかが尻を拭くことくらいで……とアールヴなら言うに違いない(いや絶対に言う、とむしろ少女は確信していた)。
けれど年頃の少女にとっては、それは死活問題と言っても差し支えのない重大案件なのだ。
「う~ん、諦めるしかないのかな~~」
はあ、と溜息をつきながら岸辺の方に目を向ける。
己の衣服は無事だ。あとはアールヴが様子を見に来ている。
「きゃああああああああああああ!?」
「うおっ!? な、なんだ! どうした!?」
「見ちゃダメええええええええええっ!!!」
意味不明な少女の叫びに危険を察し。アールヴは言われた通り顔を逸らす。
正直服など人間形態ですら着慣れない彼にとって、彼女の叫びは理解しがたいものだったのだが。
「なに? 尻を拭く紙だあ? お前まだそんな事に悩んでたのか」
顔を背けながら、背後の少女が岸辺に上がる音を聞く。
ぽたり、ぽたりと滴る水音が彼の耳に響き、健康的な肢体であることが聴覚からでも十分に伝わってきた。
「乙女には重大事なんだよー」
「そんなことにたっけえ紙が使えるか。しかも捨てるんだろ、それ? 葉っぱでいいじゃねえか」
「あ……」
目をぱちくりとさせ、その後手をぽむ、と叩く亜里沙。その発想はなかったらしい。
「ねえねえねえ! なんかこれくらいの大きさですっごい柔らかい葉っぱってある!? あとは触ってもかぶれたりしないようなやつ!」
「んー? ドルイドなら詳しいんだろうがなあ」
アールヴはとっとっと……と小走りで森の中に消え、しばらくするとその口に幾枚かの歯を咥えて帰還した・
「ほれ。これでどうだ」
「あ、柔らか~い……それになにこれ! ふわふわのすべすべ!」
その葉っぱは両掌を合わせたくらいの大きさで、産毛のようなものが生えていてふわふわと手触りも良く、頬に擦りつけてもすべすべとして心地よい。
これならお手軽に枚数を集めることもできるだろう。
「きゃー♪ ありがとあーるぶっ!」
「うおっ!? 抱きつくな! それとアールヴだっ!」
少女は服を着ていないありのままの姿でその狼に抱きつき、首に腕を巻き付けて頬ずりする。
どうやらよっぽど嬉しかったらしい。
「そう言えばタオルもなかったなーなんて思って。ほら、でもこれで大丈夫! えへへ、天然タオルー♪」
「こらっ! テメェ! 濡れたカラダ俺の毛皮で拭こうとしてやがるな!? コラッ! やめろっ!」
「だってこうしないと服着られないんだもーん」
「さっきはこっちみんなとか言っておきながらテメェ、やってることが支離滅裂だぞコラァ!」
結局彼の毛皮にたっぷりと水分を吸わせ身体を乾かした亜里沙は、のしのしと追いかけてくるアールヴから逃げるように、きゃあきゃあと笑いながら川面へと駆けた。
「あー! この服こんなとこほつれてるー! あ、スカートまで! がーん……大ショック」
「なんでたかが布切れでそんなに大騒ぎできるんだ、お前は」
「だから女の子には大事なことなんだよー!」
「わっかんねー。俺にゃあ女のことがさっぱりわっかんねー」
怒る契機を失ったアールヴは、結局少し落ち込んだ彼女を背中に座らせて家に帰還した。
その中途でたくさんの例の葉を拾い集めて。
そして……彼女の強い要望により、暫くしてそのトイレには閂式の鍵がかけられるようになった。