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第14話 『四日月の一大事』

 翌日、亜里沙は狼の姿のアールヴに案内されて家の中を廻っていた。

 先日は色々あって疲れてしまって、そのまま夕方からうとうとと寝入ってしまったのだ。


「でここが物置だ。適当に突っ込んであるからお前も好きに使え」

「う、うん……」


 家は切り株型で、少女は改めてその大きさにびっくりした。

 なにせ幹の直径が20m強、幹廻り6~70mはありそうな巨大な切り株なのである。

 その樹が健在だった頃は一体何mあったのだろうか。

 途方もなさ過ぎて少女にはちょっと想像もつかなかった。


 彼の住んでいる家はその巨大な切り株を改造したもので、ところどころにできたうろを少し削り大きくして窓や扉にしてある。

 そして屋内の各種施設もまたこの木を削り作りだして作り上げたものだ。

 つまり完全な一木作りの家、というわけである。


 ちなみにこの家を造ったのは彼ではなく、彼は単に無人となったこの家を拝借し、少々改造を施して住み着いているだけのようだ。

 なんでも元の主はドルイドというまじない師らしく、基本的な内装はうんたらかんたらと術を唱えて(確かに少女の耳にはそう聞こえたのだ)整えたらしい。


 屋内は全部で三階あり、それぞれの階は外壁沿いに幾つかの部屋があって、それが短い廊下で繋がっている格好だ。

 部屋には完全に壁に囲まれたものもあれば手すりで仕切られているだけで外から丸見えのものもあり、状況や気分に応じて使い分けるらしい。

 それぞれの階層には螺旋状の階段を伝って移動可能で、階段はそのまま屋上まで繋がっている。


 螺旋階段の内側は完全な空間……すなわち大きな吹き抜けとなっており、照明が少なめなこの家を開放的で明るい印象にするのに一役買っていた。


「で水浴びをしたいなら少し行った先に川があるから……どうした、心ここにあらずって感じだな、オイ」

「そ、そんなことないよ?」


 ただ……そんな家の説明を聞きながら、彼女はやや落ち着かぬ、どこか焦っているような様子にも見える。


 本来彼女は好奇心が旺盛な性質(たち)であり、こうした案内など小躍りして喜ぶタイプのはずだ。

 それを鑑みれば今の彼女の様子は明らかにおかしい。

 一体どんな理由があるというのだろうか。


「……なんだ、用を足したいのか」

「わああああんっ! におい嗅いじゃダメぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」


 亜里沙の方に顔を向け、くんかと鼻を鳴らしたアールヴの心ない一言に半泣き顔で絶叫する。

 それはまあ人間より遙かに鼻の効く狼ならば鼻を軽くひくつかせるだけで簡単にわかってしまうのだろうが、それはそれとして人間族の少女の懸命な乙女心というものを欠片でも守って欲しいと切に願う亜里沙であった。


「トイレならその廊下の奥の扉に……」

「ありがとう! あとでねっ!」


 ぴゅうんと風切り音をさせながらトイレに駆け込み扉を勢いよく閉める亜里沙。人狼混じりの本領発揮、といったところだろうか。

 アールヴは唖然としてその後ろ姿を見送っていた。


 そう、ずっと緊張のし通しで忘れていたし、昨日は昨日で疲れてすぐに眠ってしまったからおざなりになってしまっていたけれど、今朝再びパンを食べたことで胃腸が刺激され、実のところ彼女はさっきからずぅっとトイレに行きたかったのだ。

 頼れそうな人(人狼だが)に会えて安堵した、というのもあるのだろうが。


 中に入って急いでトイレの形状を確認する亜里沙。

 どうやら板敷きの中央に穴が開いているだけというなんとも原始的な構造のようだ。

 理想とはほど遠いけれど、それでも最低限手洗いとしての用件を満たしているようで少しだけ安堵する。

 なにせ人狼とは言うけれど彼は狼寄りの人狼なのだ。森で開放的に用を足しているのかもと覚悟していただけに、扉で仕切られた手洗いがあるのは年頃の少女としてなんとも有り難いことであった。


「それはいいんだけど……これ下はどうなってるんだろ……?」


 怪訝そうに若干太めの眉を顰め穴を覗き込むが真っ暗で何も見えない。

 妙な違和感を感じるのは何故だろうと首を捻り、その穴から何に音も響いてこないからだと気づいた。


「あ~~~~~」


 試しに覗き込んで声を出してみるが、一向に声が帰ってこない。彼女の犬耳を以てしても無音である。もしかしてこの穴は相当深いものなのだろうか。しかしそれならばなぜたかがトイレごときにそこまで深い穴を掘る必要があるのだろう。


「そ、そんなことより早く、早く!」


 思い出したようにスカートをたくし上げ、少しだけ下半身に力を込める。

 わずかの間眉根を寄せていた少女の表情から……やがて緊張感が抜け、ほわっとどこか上気した、柔らかい顔になった。


「あー、ところで言い忘れたがー」

「ドア開けないでえええええええええええええええええええええええええええええええっ!?」

「おわっぷっ!?」


 いきなり背後から鼻で扉を押し開けたアールヴに仰天し、思いっきり扉を閉める亜里沙。

 鼻面を強く打ち付けたアールヴが扉の向こうで七転八倒しているようだが、少女は己の動悸の激しさにそんな事を気に掛けるゆとりもなかった。


「あー! 良く見たら鍵がないっ!? 後で何とかしないと……っ」


 落ち着いて考えてみれば一人暮らしの彼にとって玄関以外の扉の鍵など不要なのだ。

 それは逆に言えば彼には招くべき友人知人もないと言うことで……少し経ってからそれに気づいた少女は少しだけ落ち込んだ。


 あの狼は……ああ見えてかなり寂しい生活をしていたのではないだろうか……?


「いってーな! 何すんだこのチビガキ!」

「女の子が用を足してる時に覗いたらダメなんだからっ! もー! それくらいわかってよ!」


 少しだけ感傷に浸っていた少女は狼の吠え声に我を取り戻し、扉越しに怒鳴ってくるアールヴに大声で叫び返す。

 本当ならお手洗いにいるときに男性と会話するだけだって恥ずかしいのだが、状況が状況だけに早々に諦めることにした。


 こういう時の開き直りの早さは、こうした特殊な状況下に於いては長所となり得るだろう。

 なにせ異文化コミュニケーションどころの話ではない。人間と狼との間のやりとりなのだから。


「なんだそりゃ。別にいいじゃねえか減るもんでなし」

「減るの! 女の子の心の中の大切な何かが減っちゃうんだからっ!」


 下らなそうに吐き捨てるアールヴに必死に言い返しながら、亜里沙は「ああ、別に減るものじゃなしってこっちの世界にもある言い方なんだ……」などとどこかズレた感想を抱いていた。


「とにかく今度から絶対覗いちゃ……」

「? オイ、どうしたチビ」


 扉越しの相手を懸命に教え諭そうとした亜里沙の声が途中で尻すぼみとなって消え失せる。

 鼻廻りの乱れた毛並みを前肢を器用に使いていていっと直していたアールヴが怪訝そうに問いかけた。


「ね、ねえあーるぶ……」

「アールヴだっつの! で、なんだ」

「あの、あの、あの……っ」


 なんとも羞恥に満ちた亜里沙の叫びが……その切り株の家に谺した。





「さっき言ってた水浴びできる川ってどこおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」





そう、狼姿のアールヴが用を足すその手洗いには……

……紙が、なかったのだ。






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