第12話 『三日月の衝撃』
「あの……」
「なんだ、少しは落ち着いたか?」
「う゛ん……あ゛り゛がど」
「てめーで勝手に泣いて勝手に泣きやんだんだ。なんで俺に礼を言う筋合いがある」
「でもその……ありがと、あーるぶ」
「……勝手にしろ。それとアールヴだ」
やけにしおらしい亜里沙の態度に少々やりづらそうに顔を逸らすアールヴ。
涙も止まって落ち着いた亜里沙は、少しだけ頬を赤く染めて身を縮めている。
会ったばかりの男の人の前で何度もみっともなく泣いてしまった。
正直恥ずかしくて穴があったら入りたい気分である。
……いや今は狼だけど。狼だけれど。
でも人間にもなれるんだし男の人と言ってもいいのではないだろうか。
ただ……恥ずかしくはあるけれど別に嫌ではない。
なぜだかそう感じられて、亜里沙は自分の気持ちに少し不思議そうに首を捻った。
「とりあえず今日は休め。昨日はだいぶ疲れてたみたいだしな。奴が帰ってきそうな頃合いにちゃんとその魔法使いのとこに連れてってやるから」
「うん……」
のそり、とアールヴが起きあがり、彼に背もたれていた亜里沙は慌てて身を起こす。
どうやらこのまま外に出かけるらしい。
「あの……最後にひとつだけ、質問」
「なんだ?」
「あのー……私あーるう゛が人間になってるときの言葉、全然わからなくって……」
「ああ、北方語と商用共通語か」
「でゅな……? こもんっていうのはなに? きょーつーご?」
「商人の間のな。ただ便利なんでここらの地方じゃ大概の国で通用するんだ。俺の場合はまあ知らねえと不便だからなんとか覚えたってくらいだ。北方語はこの地域の地元の言葉だな。こっちゃあ最初から知ってる」
なるほど。世界共通の言葉があるのは地球よりも便利なのかもしれない。
向こうだと英語がちょうどそんな役回りなのだろうか。
世界共通語とか、もっとそれらしい言葉があると聞いた事があるような気がしないでもないが、よく覚えていない。
「でね、それなのに私今は狼の言葉はわかるでしょ、なんで?」
あの時……森の中で彼と初めて出会ったとき、狼の姿で幾度か唸ったり吠えたりしたような気がした。
けれどその時は何を言っているのかさっぱりわからなかったのだ。
彼が一度消えて、唐突に誰かが語りかけてきたのは、きっと物陰に隠れて人の姿になって喋っていたのだろう。
まあ結局その言葉もわからなかったわけだが。
そう考えるとアールヴは案外苦労性というか、初対面からかなり気を使って相手をしてくれていたのだなあと思い知って、亜里沙少しだけくすりときた。
「あン? そりゃお前が人狼混じりになったからだよ」
「わふん?」
今……何か聞き捨てならないことを言われた気がした。
言われた気がしました。
「今……なんて?」
「だから俺がお前をちょっぴり噛んで、人狼混じりにしたっつったんだ」
「ふええええええええええええええええええええええええっ?!」
慌てて自分の身体をまさぐる亜里沙。
別にどこにも異常はない。
毛がもさもさになってもないし(もしそうなっていたら彼女はさぞショックを受けたことだろう)、わさわさとお尻をまさぐるが別に尻尾も生えてない。
鼻だって突き出てないし、耳だって別に……
「……みみ?」
さわさわ、ともみあげ越しに耳があったはずの場所をまさぐっているのに……感触がない。
おそるおそる指を上の方にずらしてゆくと……
ぴこん!
自分の指に反応してぴくんと跳ねる……ちょっぴり尖った、耳。
指が何かに触れた同時に、確かに自分の耳に何かが当たった感触がして……
「きゃぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅんっ!?」
思わず子犬のような泣き声を上げてしまったのはただの偶然か、それとも人狼混じりとやらになったせいなのか。
「か、か……」
「カミソリか?」
「か、かか……」
「カモメ? カナブン?」
「か、か、かかか……」
「……かあちゃん?」
「かがみっ! アールヴ鏡はどこぉぉぉぉぉぉぉっ?!」
カモメやカナブンが一体何の対訳なのかはわからぬが、とにかく今はそれどころではない。
亜里沙は涙目でアールヴに食ってかかり、姿見を要求する。
「いやそんなご大層なモンはねえが……ほれ、あそこの森の先に湧き水がわいてる泉があるから……」
気圧されたように窓の向こうを爪で指すアールヴの言葉を最後まで聞かず、脱兎の如く階段を駆け下りる亜里沙。
軽い軽い。病み上がりだと思っていたのになんとも身体が軽いではないか。
ばたんと木製の扉を勢いよく押し開けて、そのまま彼が指さした方向へとひた走る。
そして森に近づくと同時にぴくんと耳が動き、なにやらせせらぎの微かな音をはっきりと聞き取った。
「あ、あっちだ……ってうわー、なにこれ、すごくよく聞こえる……!?」
森の中に入った途端、彼女の耳に雑多な音がわっと入ってくる。
木々のざわめき、葉ずれ、風の吹き抜ける音、鳥の声、虫の鳴き声……
もちろん森の中に入れば普通の人間だとて聞くことのできる音である。
けれど今の彼女にはそれが一層鮮明に、驚くほど小さな音まで聞こえるようになっていたのだ。
それも周囲から……特定の方向ではなく、四方からの音が一斉に聞こえてくる。
音の洪水に彼女は一瞬目眩がして、なんとか近くの木にもたれかかる。
「ええと、水場、水の音……」
耳が良くなったのはいいのだが、聞こえる音が多すぎてかえって混乱してしまう。
目を閉じて意識を集中させた亜里沙は、先刻聞いたせせらぎの音を思い出しながら、微かに聞こえる水音とその方向を再び探り当てた。
「こっちかな……あ、あった!」
それは直径3mほどの小さな泉だった。
こんこんと湧き出た水が岩に囲まれ、澄んだ水場を生み出している。
おそるおそる泉の上から顔を覗かせる亜里沙。
彼女の頭部には……確かに、見紛う事なき狼の耳が生えていた。
なんとも小さくて可愛らしいそれは、いっそ犬耳と言った方がお似合いかも知れないけれど。




