第9話 『三日月の悲しみ』
「別の世界……? 召喚?」
なにかあまりに現実感のない言葉に、どこかふわふわした浮遊感を感じてしまう。
まるで漫画かアニメか、それとも絵本やお伽噺のお話か何かのようではないか。
けれどその狼の説明が、今の自分の現状にあまりにすとんと当てはまっている気がして……あまりの違和感のなさに逆に背筋がぞくりと凍った。
「そ、そんな……じゃ、じゃあどうやったら帰れるんですか!? 私、どうやったら……!!」
少女は思わず縋るようにしてその狼へと問いかけた。
真剣極まりない面持ちの人間族の少女に、だがその狼はがるっと小さく吠えて吐き捨てる。
「知らねえよ、俺は魔法使いでも何でもねえ、ただの人狼だからな」
「じゃあ、じゃあ私、どうしたら……っ」
思い出すのはあの地下倉庫らしき場所で会った謎の老人。
彼が自分をこの世界に呼び出した『魔法使い』なのだろうか。
あの時の彼の表情、そして興奮ぶりを思い出すと思わず全身に悪寒が走って身震いした。
どう善意に解釈しだって、あれは自分にとって宜しくないことを考えていたとしか思えない、そんな顔だった。
この世界に呼び出したのが彼なら、元の世界に戻る方法も彼に尋ねなければならないのだろうか。
そう思い至ったとき……思わず鼻がツンとなってじわりと視界が涙に滲んだ。
がくり、とその場に座り込み、まるで凍えてでもいるかのように己をひしと抱き締める。
その身体は小刻みに震えていて、まるで触れればそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
それは……ずっと少女の心の隅にあった答えだった。
夕方からいきなり深夜に飛んだ時間、どこまで歩いても道路も街も鉄塔のひとつも見えない風景、地平線まで延々と続いている信じられないほどに広い草原。
少し考えてみればおかしいとすぐにわかる。
近所にこんな場所があるはずがない。
確かに北海道なり海外なりにいけば似たような場所はあるのかも知れないけれど、誘拐犯がわざわざ手間暇かけてそんな遠くまで子供を搬送するはずもないではないか。
だから……本当はわかっていたのだ。
ここが日本、いやそもそも地球ですらないことなど。
心のどこかでわかっていたのである。
でも気づきたくなかった。認めたくなかった。
だって何も知らない、何もわからない無力な自分がもしそれを認めてしまったら……きっと絶望してしまう。
どうやって帰ったらいいのか見当も付かない、帰れるのかどうかすらわからない。
そんな恐怖に耐える自信がなかったから……彼女は必死に逃げていたのだ。事実と向き合うことから。
けれど現実は残酷だった。
認めたくない推測は認めざるを得ない現実となった。
少女はぽろぽろと涙を零し、小さくなってただその身をか細く震わせる。
「ママ、パパ……!」
何も知らぬ、何もわからぬこの世界で……一体自分に何ができるんだろう。何をすればいいんだろう。
わからない。わからない。
寂しい、怖い、嫌だ、嫌、嫌、イヤ……ッ!
「落ち着け」
「あうっ!?」
ぺしん、と再び肉球で額を叩かれる。
少女は大きくのけぞって、そのままごろんと後ろに転がった。
そしてそのまま藁のベッドに突っ込んで、体中が藁まみれになる。
「ちょ、あーるぶ! 何するの!」
「アールヴだっ!」
がうっ、と吠えられてびくん、と身を竦める。
けれど……かわりになぜか心の淀みがすとんと取れた気がした。
「いちいち泣くな鬱陶しい、そんなだからチビガキだってんだ」
「だ、だからチビガキって……!」
彼女は涙混じりの鼻声で必死に言い返そうとしたけれど、のそりと近づいてきたアールヴの大きさに思わず言葉を失ってしまう。
彼は藁の上に座り込んだ亜里沙の身体をぐるりと囲むように腰を下ろし、彼女に鼻先を向けてぴすぴすと鼻を鳴らした。
毛皮の温もりが彼女の心をゆっくりと落ち着かせてゆく。
ここに至って……彼女はようやく気づいた。
彼に会ってから感じていた不思議な安心感の正体を。
ああそうか、元の世界に戻れるか戻れないか、そんな先の事はわからないけれど……
少なくとも今の自分は……もう一人じゃないのだ、と。
「少しゃあ落ち着いたか、チビガキ」
「うう、せめておチビにして……」
ひっく、としゃくりを上げながらもしっかりと言い返す。
いつの間にか……涙は止まっていたらしい。
「まあ……なんだ、そう泣くな。今度心当たりに話聞いといてやる」
「心……当たり?」
きょとん、と首を傾ける亜里沙に、アールヴは小さく溜息をつく。
「魔法使いだ魔法使い。俺は魔法なんざ使えねえからよくわからねえが、アイツならなんか知ってンだろ」
「ま、魔法使いっていっぱいいるの!?」
少女はびっくりして思わず聞き返す。
ついさっきまで彼女はあの怪しげな老人のことしか考えていなかったが、もし魔法使いというのが何か職業のようなものだと考えるなら確かに何人いてもおかしくはない。
「じゃ、じゃあ元の世界に帰れる方法も……知ってる?」
「だから俺は知らねえっつってんだろーが! そいつに聞かなきゃわからねーよ!」
「ご、ごめん……えっと、その人はどこにいるの?」
「場所はわかってる……が、今はダメだ。ちょっと出かけててな。上弦あたりまでは戻らねえはずだ」
「じょうげん……?」
少しだけ考えて、すぐに月齢のことだと気づき、天文クラブの友達から教えてもらった月齢についての知識を必死で思い出す。
狼だからかなのかは知らぬが、どうやらアールヴは月齢で日数を数えているらしい。
「今日はいつなの?」
「あン? 三日月だが」
つまり地球と月齢の進みが同じくらいと仮定すればあと4日後、というところだろうか。
少女は大きく息を吐いて、ようやく平静さを取り戻した。
わけのわからぬ状況から……とりあえず目標らしき目標ができたのだ。
「よーし……あと4日!」
ぐ、と拳を握り、背筋を反らしたところでぼふ、とアールヴの胴体にもたれかかってしまう。
それはなんともふかふかでふさふさで、たまらなく心地よい感触だった。
おそるおそる彼の毛並みに身を預けてみたが……アールヴは怒ることなく、無言のままその大きな尻尾をはさりと彼女の上に乗せてきた。




