プロローグ 『十日夜(とおかんや)の休息』
……大きな月である。
地球で目にするよりも数倍は大きなそれは、神秘的ながらもどこか不気味な薄紅色の光を放ち宵から夜に差し掛かった地表を暗く照らしている。
だがそんな月でもきちんと満ち欠けはするものらしい。
今はちょうど半月から満月へと近づく、やや膨らんだあたりの大きさである。
その月が妖しい赤光を届けた先に……大きな森があった。
ゲッフェンの森、という名が人間によって付けられていたが、森に住まう者どもにとっては割とどうでもよいことであった。
森は森である。
外の連中にどんな呼ばれ方をされていようと、彼らにとっては単なる生活と生存の場所に過ぎぬ。
鬱蒼と茂る木々、夜風に揺れる木の葉ども。
獣どもが微かに放つ葉ずれの音と鳴き声。
森を識らぬ者を拒む深き闇。
そんな鬱蒼とした森の中ほどに……大きな広場があった。
広場と言っても人工的に作られたものではない。
どうやら長い年月をかけて自然に育まれたもののようだ。
そして……その要因となるべきものが、かつて広場の中心にあった。
木だ。
非常に大きな木。
びっくりするほど大きな木が……昔そこに生えていた。
その樹……『大樹』と呼ばれるそれは、かの世界樹の近縁種とも言われる巨樹で、格別の神性こそ備えていないもののとにかく大きく、見る者に畏敬の念を抱かせるのに十分な威容を備えている。
この樹が生えている森ならば、まず例外なく森の守り神として鳥や獣、狩人たち、そしてドルイドに敬意を払われていることだろう。
だが……今やその大樹も枯れてしまった。
数百年の時が流れ、残されているのはもはや根元だけだ。
大きな大きな、切株のような根元部分だけが、今やその大樹の往時の隆盛を偲ばせるのみである。
その切株状の根元部分は直径にして凡そ20mほどはあろうか。高さはその半分程度である。
全盛期であればその上にさらに200mは伸びていただろう雄壮な幹は、もはやない。
全天に渡って張り巡らされ生い茂り、直下に他の樹木どもが繁茂するのを妨げていた枝葉も今やなく、広場には紅の月光が何者にも遮られることなく差し込んでいた。
ただ……その切株には少々奇妙な部分が見受けられる。
大木の根元だというのにやけにうろが目立つのだ。
あまりに長い間風雨にさらされて、すっかり腐ってしまったのだろうか。
いや、よくよく見ればその小さなうろにはなにやら別種の木材で蓋がされている。
それは簡素ながら跳ね上げ式の窓であった。
そして地面に面している大きなうろには上部がアーチ型になった木製の蓋……とくれば、もはや疑うべくもあるまい。おろらくそれは扉だろう。
……そう、この巨樹の残滓たる切株には、何者かが住んでいるのだ。
「ん……ちゅ、れろ……ぴちゃ、ん、ぺろ、れろ……んんっ」
切株の中は薄暗かった。
壁面のところどころがぼう、と薄暗く光を放っているが辺りを照らし出すほどの明るさはなく、むしろ周囲の仄暗さを一層強調している。
唯一光源と言えそうなのはどこからか差しているらしき灯火だがそれも微かなもので、あたかも夜というものは本質的に闇である、という事を無言で主張しているかのようである。
その灯りの出所を探ってみれば、どうやら階段らしき不恰好な段差の先にあるものらしく、つまりはこの切株……いやもはや“家”と言った方がいいだろうか……その上方から階下へと漏れ出たものらしい。
「あん、れろ……ぴちゃ、ぺろ、ぺろ……ん、ちゅ、れろ……んっ」
灯火に近づくにつれ、なにやら奇怪な音が聞こえてくる。
鼻にかかった女性……それも少女の声。
そして彼女が喘ぐような声音と共に放っている不可思議な音。
それが幾度も幾度も、繰り返し聞こえてくるのだ。
音だけで判断するならば……それは少女が何かを舐め、ねぶっている音に聞こえる。
けれどこの薄暗い家の中で、少女は一体何に、そしてなぜそれほど熱心に舌を這わせているのだろう。
「おう……悪くねえ塩梅だ。続けてくれ」
「うん……ちゅっ、れろ、ぴちゃ、ん、んちゅ、れろ、ぴちゃ……んっ」
何か、犬が機嫌よさげに喉を鳴らすような音が聞こえる。
だが……少女はまるでその意味が理解できるかのように返事をすると、再び何かに舌を這わせ始めた。
階段を登り、だいぶ灯火が近づいてきた。
それは先刻外から見たうろ……いや窓か、その窓の縁に置かれた簡素な燭台の灯りだったようだ。
冷たい青い光……周囲一面すべて木製だというのに、無防備に炎を剥き出しにしていて平気なのだろうか。
さて……その灯火の下に、なんとも奇妙な光景が広がっている。
平たい床の上に敷き詰められているのは藁である。ベッドの代わりか何かだろうか。
そしてそこに寝そべっているのは……狼だった。
犬と呼ぶにはあまりに強面すぎるその姿、その威厳は、まさしく狼と呼ぶに相応しい。
全身の毛は見事な灰色で、額の部分だけまるで刃で傷つけられたかのような白い筋が浮かんでいる。
その全長は……凡そ2m半、と言ったところだろうか。
狼としては相当に大きい。並の狼の倍ほどはあるのではないだろうか。規格外と言ってもいいレベルの巨狼である。
その狼の瞳には何やら叡智の閃きがあって、それが今気持ちよさげに細められている。
彼……そう、その狼はどうやら雄のようだ……は、だいぶリラックスした様子で、床にべったりと寝そべっていた。
そんな巨狼の背に乗って、彼にしがみつくようにして丹念に肩から首筋にかけて舌を這わせている……少女が一人。
そう、先刻から聞こえていた音は、彼女がその狼の毛に舌を這わせていた音だったのだ。
灯火の下で見ればより詳しくわかるだろうか。
少女の年はおおよそで10歳前後であろうか。
着ているのは白いフリルブラウスに赤地に黒のチェック柄のスカートと、いかにも現代風の衣類である。
ただ薄暗いせいで目立たぬが、よくよく目を凝らせばそれらの衣類にはところどころに擦り傷や切り傷があり、少々痛んでいるのがわかる。
他に目立つ点と言えば彼女の首元あたりだろうか。
そこにはギリギリで悪趣味と言えぬほどに紫色の、光沢のあるカラーが巻かれていた。
……そう、いわゆる『首輪』である。
少女の容貌は幼いながらも整っており、鼻筋の通った綺麗な面立ちだ。
ただ眉毛が少々太めで、これについてはおそらく当人も随分と気にしているに違いない。
愛らしいと呼ぶのに十分な愛嬌を残してはいるが、やがて結構な美貌を備えるであろう事が予測できる顔つきでもある。
もっとも今現在に限って言うなら……美人と呼ぶにはまだ少々幼すぎるだろうか。
張りのある四肢、特にそのすらりとした太ももは見ているだけで今にも走り出しそうな躍動感に満ちていて、単なる若さ以上に活動的な印象を与える。
ただそれにしては先述の衣服はやけに上品かつ大人しめであり、そのあたりに彼女の気質と親の教育方針との齟齬が垣間見える。
髪は濃茶で、別に染めているわけではなくこれが地毛のようだ。
セミロングより若干短めで、耳元は完全に隠れている。
いや……違う。
彼女の耳ははっきりと目に見える場所にあった。
まるで犬かと見紛うような尖った耳が、本来耳のあるべき位置よりもう少し上方にぴょこんと生えていたのだ。
もしかしてこの少女は人間ではないのでは……?
その耳を見れば当然そんな疑問も浮かぶのだが、だとすると部屋の隅に転がっている真っ赤なランドセルは何を意味しているのだろう。
使い古された、けれど大事にされていたらしき赤いランドセル。
そのランドセルもまた……少女の衣服のようにところどころに傷が付いていた。
「ん、ちゅるっ、れろ、ぺろ、ん、れろろ……んっ」
少女は少しずつ場所を変えながら、丁寧にその狼の毛に舌を這わせている。
時折手指でその毛を梳いて、ぽんぽん、と軽く撫ではたきながら。
彼女は一体何をしているのだろうか。
それについては実はさほど難しい問題ではない。
仮に彼女が人間ではなく狼であったなら、と仮定すれば、実にあっさりと解答が導き出せるはずだ。
「ふう……じゃあ今度は頭の方を頼む」
「うん、わかった……れろ、ん、ぴちゃ……」
相手の毛を舐めて奇麗にする……それは狼同士が行うグルーミングとして考えるならば、なんらおかしい事のない行為である。
そう……少女はその狼に対し、毛づくろいをしていたのだ。
「ん……きゃんっ!? けほっ、ん、んん~~~~~っ!!」
だがやがて少女は顔を顰め、真っ赤になって狼の背中から顔を離した。
「うえっ、けほっ! うう~~~~、あーるぶ~、舌に毛がいっぱい~~~~っ」
あーんと口を開け、毛だらけになった舌を突き出して狼に見せる。
少女の舌の上にはたくさんのその狼の体毛が唾液でぬらぬらと絡まり、光っていた。
舌の先端から零れた涎が一滴、床へと落ちて粘つく飛沫を上げる。
「泣き言抜かすな。毛づくろいってなあそういうモンだろうが。飲め飲め。飲み込んじまえ。どうせ後で毛玉ンなって下から出てくるだろ」
「ムリだよぉぉ~~けほっ、うぇっ、ん、れろ……」
己の突き出した舌に人差し指を這わせ、その上にたっぷりと溜まった唾液まみれの体毛を抓んで丸める。
淡い灯火の下で、指先と舌の間に粘つく唾液の吊り橋が垂れた。
少女は丸めた毛玉を床に落とすと、涎にだらけの己の指をちゅぷんとその小さな唇に咥える。
けれど少女は一体誰と話しているのだろうか。
目の前の狼はただ「ぐるる……」と軽く唸っているのみだというのに。
「えう~~、すんっ、えーっと、あーるぶ、まだして欲しい?」
少女は少しだけ鼻を啜り、わずかに目尻に涙を湛え、再び狼の背中にしがみついて問いかける。
不思議なことに……彼女の口調は今の行為それ自体を忌避しているというより、その行為によって生じる毛玉などの副産物を嫌がっているように聞こえる。
そう、どうやらその少女は……狼に毛づくろいをする、ということ自体を嫌悪しているわけではないようなのだ。
それに良く聞けば、彼女の言葉にはどこか甘えた声音が混じっていることがわかるだろう。
それはとりもなおさず……目の前の狼を恐れてはいない、嫌がっていない、という事を意味する。
「ったく、何度も言ってるだろう……“アールヴ”だ!」
「きゃんっ!?」
狼が小さく吼えると、闇の中に突然光芒が生まれた。
紫色の光が……彼女の首元、その首輪から洩れて周囲に放たれる。
「ア、アールヴ……ッ」
「よし。何度も間違えんなよ、アリサ」
「うう~、だって言いにくいんだもんっ」
唇を尖らせた少女……アリサは、アールヴの背中から首にかかるあたりに顔を埋め、その灰の毛並みに鼻面を擦り付ける。
「そうさな……まあ無理ぁしなくてもいいぞ。俺としては気持ちいいからもう少し続けて欲しいがな」
「もう……アールヴの命令、私が拒絶できないの知ってるくせに……」
小さく溜息をついたアリサが左手で髪をかき上げる。
本来耳があるべきはずの場所に感触がない。
最初は随分と違和感を覚えたものだが、たった一週間で随分と慣れたものだ。
彼の命令を聞くのは別に嫌ではない。
少なくともあの怖い怖い魔法使いや誘拐犯の連中なんかよりはよっぽどマシだ。
そんな事を考えながら、首を伸ばし、彼の耳の後ろへと舌を伸ばすアリサ。
ただ……その気持ちが自分の心からのものなのか、それともその魔法の首輪によって生じたものなのか、わからない。
わからないけれど……とりあえず今は彼を満足させてあげたい。
その気持ちにきっと嘘偽りはないのだろうと、少女は信じていたから。
……巨大なハイイロオオカミと、まるで言葉が通じるかのように彼と語り合う少女、アリサ。
衣服といい、ランドセルといい、容貌といい、彼女……アリサはどう見ても現代の日本人の少女に見える。
だがこの地が果たして日本なのか、と問われれば大いに疑問を呈さざるを得ない。
いやそれどころか紅い月、奇怪な巨木、その中に住み暮らす巨狼、そして彼女の犬耳と、いっそ地球であるかどうかすら疑いたくなる状況ではないか。
一体少女の身に何が起こったというのだろう。
彼女は一体どんな経緯でこんな状況に陥っているのだろう。
それを知るには……少しだけ時を遡り、新月の晩から語り始めなければならない。
なろう初投稿です。
基本的には根底がシリアスベースのほのぼの異世界日常物になると思います。
人狼と少女のカップリングが好みの方に少しでも気に入ってもらえるような作品になれば、と思います。
よろしくお願いします。