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短編

母ちゃん


 原付の右ハンドルを最大限に回して走らせる。

 雨のせいでタイヤがずるりと滑りかけたが、なんとか転倒せずに到着できた。エンジンを切るのももどかしく駐輪場にバイクを止め、俺はビニール袋を抱えてエントランスへと走り出す。

 総合病院の階段を上り廊下を早歩きで移動していると、ナースステーションの見知った看護師達が「こんにちはぁ」「あらぁ、ずぶ濡れやないねー」と声をかけてくれた。「ども」と俺は短く答えて通り過ぎ、病室の扉をノックした。

 返事はない。俺はスライドドアを滑らせてベッドで眠る母を確認してから、サイドテーブルにビニール袋を置いた。水を吸った学ランとシャツを脱ぎ、備え付けの棚からタオルを出して身体を拭きながら母の寝顔を眺める。また少し、頬がこけた気がする。

 予備のTシャツを出してごそごそと着ていたら、「……まぁくん」とかすれた声で名を呼ばれた。

「起きたとね、母ちゃん」

 俺は笑いかけながら持ってきたビニール袋を掲げてみせた。

「そろそろ起こそうっち、思いよった。麺が伸びたらいかんやろ。

 母ちゃん、ちゃんぽん食いたい言いよったけん、買うてきた。冷めんうち食おう」

「いらん……」

「一口でよかけん」

 濡れたビニール袋からテイクアウトの器を出してみせ、俺は電動リモコンを使って母の身体を起こした。ベッドテーブルをセットし、椀にちゃんぽんの麺と具を取り、母の前にことん、と置く

「食べとうない……」

「なん、さっき昼メシも食わんかったっちゃろ?栄養付けんと退院遅れるばい」

 母はのろのろと箸を取ると、ゆっくり、とてもゆっくりと、ちゃんぽんを一本だけすすった。

「……もう、よか……ごちそうさま」

 身体が痛い、と母が言ったので、再びリモコンで身体を倒して布団をかけた。テーブルを外し食器類を洗い戻してから、俺はベッド横のスツールに座ると伸びた麺をすすった。

 

 母が入院してもう随分経つ。

 学校帰りに毎日見舞いに行くのが俺の日課だ。父は自営業で遅くまで働き、姉は遠方の短大の寮にいるため週に一度しか病院には来られない。

 俺は幼い頃から母の顔色をうかがいながら過ごしてきた。母は昔から身体が弱く神経質で、父と店を切り盛りしていた頃からイライラしていることが多かった。家族が聞こえない母の声も俺には必ず聞こえたから、急いで駆け付けては言われた事を率先して手伝った。それでも何かにつけて、俺はヒステリックに怒鳴られていた。

 中学、高校と進学するにつれ、俺は大柄でいかつい顔の男になった。学校でもガラの悪い奴に絡まれかけたり、教師からも目をつけられたりした。最も、俺は努めて陽気に振る舞っていたから、話しているうちに大抵の奴とは仲良くなれた。

 店の客にも愛想良くしていたし、近所の人にも挨拶を欠かさない。母親の悪口を言う友人には「母ちゃんにそげな口のきき方ばすんな!」と注意し、それを聞いた友人母達から可愛がられて「マダムキラー」と呼ばれたりした。目をつけられていた先生からは目をかけられているようになっていたし、いつの間か彼女もできていた。

 そんなわけで、俺は勉強ができないことと母の件以外は、そこそこ順調に生きてきた方だと思う。


 母が倒れたのは、癌が再発したからだった。

 食が細かった母は、症状が悪化してゆくにつれ、ますます何も食べようとしなくなっていった。

 俺は毎日見舞いに行っては、「なんが食べたい?」と聞いてみるのだが、答えは大抵「いらん」の一言だけだった。

 それでも、ごくたまにだが具合が良い時に、母は食べたいものの名を口にすることがあった。ある時は特定のパン屋のメロンパンであったり、またある時は好物の小城羊羹であったりした。それを聞くたびに、俺はバイクをすっ飛ばしてどんなに入手困難でもそれらを買いに走った。

 だが、母の容態はすぐに悪化する。食べたいと言ったものは、大抵すぐに「いらん」になって終わってしまうことがほとんどだった。

 それでも、俺は毎日母に食べたいものを尋ね、答えがもらえた日はバイクを走らせた。



 教室に生けられた花が、紫陽花に変わった。

 確か、母が好きな花だった気がする。店の前の花壇に咲いた紫陽花を見ては、

「色ん変わっていきようとが楽しかぁ。ぼんぼりんごつ丸かとこが可愛かぁ」

 と母が言っていたことを俺は思い出した。そういえば、放ったらかしの花壇にもいくつか花が咲き始めていた気がする。

「なぁなぁ、紫陽花っち花屋に売りようとや?」

 俺は隣の友人に訪ねた。

「は? 知らん。あるっちゃねぇ? 花やけ」

「だよな……」

 今日は帰りに、花屋に寄っていくことにしよう。


 病室には久しぶりに伯母が来ていた。

 伯母は俺に気が付くと「あんたちゃんと世話しよるとね?」などと矢継ぎ早に訊ねてきた。俺は一礼すると花瓶を持ち出し、トイレ横の洗面所で紫陽花を生けた。ピンクと青と紫の花が一輪ずつ白い花瓶に収まる。俺は少しわくわくしながら部屋に入り、窓辺に花瓶を置いた。途端に、母と伯母の目が丸くなる。

「何ば考えとうねっ。病人に紫陽花とか、いらんこつして! 失礼やろっ」

 伯母が金切声で喚き出した。入院する前の母と良く似た、ヒステリックな叫び声だった。

「紫陽花は色が『変わる』けん、『病気ん具合が変わる』っちいうて見舞いに持ってきたらいかんこつくらい、知っとかないかんやろ!」

「あ……ごめん、俺……」

「捨ててき、縁起でもなか! 若いもんはこれやけん……。ほらっ、あたしがお金出すけん、下ん花屋で別ん花ば買うてきんしゃい!」

 ごそごそと財布を探しだした伯母を、母は「よかと……」と手で制し、俺の方に顔を向けた。

「……まぁくん、母ちゃんが紫陽花好いとうっち、覚えとったとね」

 それは、母が入院してから初めて俺に見せた笑顔だった。


 次の日、俺は下校時に再び花屋に寄った。もっとちゃんとした切り花を買って生け直したかった。

ショーケースの中を見ていると、白い紫陽花が目に留まった。

「あのー……これって、色、変わるんすか?」

「いえ。緑に変色するものもありますけど、こちらは白いままですよ」

 散々迷った挙句、俺は白い紫陽花を一輪だけ買った。

 その日から毎日、俺は一輪挿しに白い紫陽花を飾るようになった。

 二日に一度、俺は花を入れ替えて、いつも綺麗な紫陽花を母が眺められるようにした。

 見舞いに訪れる客の中には、時折何か言いたそうな顔をする人もいた。だが、母は白い紫陽花を気に入ったようで、窓の方を見ては「今頃、店ん前も満開やろうか……」と呟いていた。



 夏に入って間もなく、母は死んだ。

 それきり、店の前の花壇に花が植えられることも無くなった。



 * * *



 今年も相変わらず雨が酷い。

 俺は車を降り、スーツに泥水が跳ねないよう気をつけながら実家の庭を歩く。店のドアを開け、中にいた父に「よう」と挨拶をしてから実家に上がりこむ。

 座敷の仏壇の前にかがみ込むと、持ってきた紫陽花を仏花の隙間に無理矢理一本ずつ差し込んでみた。渋く生けられた花々が、一気にちぐはぐな騒々しさとなる。

「お前、ちゃんと生けな」

 後ろからやってきた父が呆れたように呟く。

「いや、ここん花もまだ元気にしとうけん、捨てるの勿体なか」

「ちょっと待っときやい」

 そう言って父は物置から花瓶を出してきてくれた。

 俺は花瓶をすすいで水を入れ、紫陽花を生けた。色の付いたものは勿論、白い紫陽花も数本混ぜて仏壇の前に置く。

 こうして梅雨に紫陽花を届けにくるようになって、もう10年が経つ。妻は俺が実家に行っていることを、まだ知らない。

 線香の煙がくゆる中、しばらく手を合わせたまま仏壇の写真にぽつぽつと話しかける。


 ほっそりとした身体で微笑んだ母。

 あの年から、俺の好きな花は紫陽花になった。


「――梅雨が終わらんうちに、もう一回くらい持ってくるけん、母ちゃん」

 そう言って蝋燭の火を手を振って消すと、俺は一礼して立ち上がった。

 母の写真に目を落とすと、細い煙の向こうから、花壇の紫陽花に囲まれた満面の笑みが俺を見ていた。

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