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有馬真尋の事件簿

ある検視官の奇妙な死 — 有馬刑事の検証録 —

掲載日:2026/05/07

本作は「法医学」をテーマにしたミステリーです。

物語の性質上、遺体および昆虫の生態に関する生々しい表現が含まれます。

お食事中の読書や、虫の描写が苦手な方は、あらかじめご了承の上お読みいただけますと幸いです。

「今回の被害者はこれ……どういうことなんだ? 自殺、でいいんだよな」


現場に入るなり一言、森本刑事がそう言った。


棺桶の中で、無数のシデムシとゴキブリが這いまわり、遺体を喰らっていた。

カサカサと虫の這いまわる音と、遺体の中に入り込んでモゾモゾと動く姿。

それを見た新人は、こらえきれずに廊下で戻すものもいた。


2020年5月5日のお昼ごろ、先生が死んでいる、との通報を受けて、西池上署 刑事課 強行犯係が臨場した。


現場は、蒲田から大森へ抜ける大通りにある南邦大学医学部の検死室の一室で、入口には施錠がされていた。

掃除に入ろうと鍵を開けたパートの女性によって発見された。


「いや、こんな経験は、俺でもそうないぞ」


室内には、解剖台が1台置かれ、棺桶が乗っていた。蓋はされていない。

検死室が完璧に密封されていたためか、ハエはおらずウジも涌いていなかった。

そのため、普通ならハエの飛び回る音でうるさいはずの死体周りは妙に静かだ。


室内には目に染みるような強烈なアンモニア臭と腐臭が充満している。

鑑識の作業が終わるまでは、換気もできない。


「あぁ、まぁ、こんな異常な遺体はな……」


普段なら根性のなさを怒鳴るだろう福さんも口元を抑え、吐き気がこらえきれないようだ。


「どうやら自殺らしいぞ」


福さんが呻くように、搾りだした。


棺桶の乗った解剖台の上には、白い封筒が置かれ、中には遺書が入っていた。


『自分は末期がんのステージ4で、余命はごく僅かである。どうせこのまま死ぬのであれば、私が今まで研究してきたシデムシに喰われながら最後を迎えたい。自分で処方した睡眠薬とモルヒネを過剰に摂取した。これでもう、目が覚めることはないだろう。これまで世話になった』


真新しい便箋に、達筆な字で認めてあった。

きっちりした生来の性格を表すように、検視室は常に清潔で、物が整理整頓されている。

本来、どれだけ綺麗にしても死臭が取れないのが検死室だが、ここだけは常に消毒液と石鹸の香りがしていたものである。


被害者は、榊原恒一(さかきばら こういち)

この遺書を書いた人物は、警察関係者であれば誰もが知っている、検死の権威で法医学の第一人者だ。


「榊原先生、よりによってこんな死に方を選ばなくても。まさかそんなご病気だったとは。……お辛かったのかもしれんな」


係長が現場に入ると、小さく黙礼し、顔をしかめてぽつりともらした。


「俺も若いころは色々教えてもらいましたよ。事件に行き詰って相談に乗ってもらった奴は、俺以外にも大勢いますよ。異動したときも、よく相談に行きました」


福さんがそう漏らすと、後ろで頷く警官や鑑識の人間は思いのほか多い。


「それで係長、もう、決まりですよね。かなり特殊な死に方ですけど、完璧に遺書もありますし。ママに任せてよろしいでしょうか」


「福さん、それは早計だと思いますよ」


「うわっお前、いつも驚かせるな」


存在感のなさのせいか、驚かれることは相変わらず多い。

地味な灰色のスーツを着ていることも、影の薄さに貢献しているかもしれない。


「お前さん、榊原先生のこと頼んだぞ。俺たちは他の事件で忙しいんだ。どうせ検挙率も最下位のお前さんは暇だろう?」


「構いませんけど、これ、僕は自殺とは考えてないんです」


「おいおい。確かに死に方は異常と言っていいが、遺書もあるし、自殺だろう。殺しにしちゃこんな手の込んだことをする意味もなし」


係長が黙っているのをいいことに、福さんが鼻息荒く捲し立てた。


「いえ、ここを見てください」


そう言ってママ、こと有馬真尋(ありま まひろ)は、遺体の一部を指さした。

まの字が2つ並んでいるから、あだ名はママ。

検挙率は西池上署で最下位。

そんなことから、ママなどとふざけたあだ名を付けられてしまったが、本人は全く気にしていない。


「なんだ? そこがどうかしたのかよ」


腐臭から顔を庇うように腕で口元を隠した福さんは、険しい顔で見つめている。


「よく見ると、体の左側の鎖骨と首の後ろ、それに喉仏ですかね。シデムシが死んでるんですよ。他の部分を食べたやつらは死んでないのに。おかしくないですか? こいつらは、腐肉を食す虫です。よっぽど何かがなければ、こんな風に不自然に死ぬことなどありません。それに、死んでいるのはシデムシだけで、ゴキブリは死んでいないんです」


ママが指をさす先には、確かにシデムシの死骸はあっても、ゴキブリのはなかった。


「こんな有様だ、ゴキブリが喰っちまったんじゃねぇのか。こいつら共食いもするんだろ」


「ええ、確かに共食いします。ゴキブリは生命力に溢れた虫で、ある種の危険察知能力は他の虫より高いんです。この死んだシデムシには、ゴキブリが回避する何かがあるんですよ。それと最後に」


「まだあるのかよ」


森本刑事がもう勘弁しろとばかりにママを睨みつけた。


「ええ、この皮膚についた注射痕が気になります。モルヒネを注射したのか? と思いましたが、それにしては場所が妙です。モルヒネなら、腕の血管や足の血管など、血管の見えやすい場所に打ちますよね。でもこれは、ほら、シデムシの死に場所と一致しています」


「さっきから細かいことをネチネチ。こんな特殊な死に方だ。手元が狂ったとか、そういうやつだろ」


福さんがめんどくさそうに、こちらも見ずに答えた。

ママがさらに言い募ろうとすると、


「まぁまぁ、福さん、こりゃーコイツの言うことも一理あるかもしれんぞ」


先ほどから、虫たちを1匹ずつ回収している鑑識の細井さんが手を止めて割り込んできた。

全身防護服を着て作業しているため、見るからに暑そうだ。


「細井さん、なんだってこいつの肩を持つんですか」


森本刑事が不満そうに口を尖らせると、それをみた細井さんはやれやれといった具合に肩をすくめた。


「俺も、ママさんの言う虫の死に具合が気になってな。簡易検査にかけてみたんだよ。そしたらコレだ」


手元には、青く変色した試験薬が握られている。


「青いだろ? これは毒物が検出されたってことさ。今のところ何の毒だがわからんが、榊原先生は自殺に睡眠薬とモルヒネを使ったって話なんだろ? それならこの反応はでないはずだ」


「じゃ、自殺に見せかけた他殺の可能性があるってことですか」


先ほどから黙って成り行きを見守っていた係長が口を開いた。


「ええ、まぁ。それを判断するのは俺の仕事じゃないですけどね。事実を言ったまでで」


そう言って、軽く頭を下げると、細井はまた回収作業に戻っていった。


「福さん、森本、他殺の疑いが出てきた以上、これを放置するわけにはいかんぞ。前も有馬の目に救われたことがたくさんあるだろ。それに、遺体は大恩ある榊原先生だ」


じろりと睨め付けられた二人は、居心地が悪そうにもじもじとした。


「遺体は当然、司法解剖に回せ。それから、念のために同僚と周辺への聞き込みと、怨恨の線も洗っておけ。もしこれが殺しだとしたら、相当な恨みを買っているはずだ。法医学の第一人者だったんだ、どこかで知らんうちに恨みを買っている可能性もある」


決まり悪そうにしていた二人は、はい! と返答すると、さっさと出て行った。


「係長、ありがとうございます」


いつもに増してぼさぼさの頭をカリカリと掻きながら、小さく礼を述べた。


「有馬、お前は全く。……まぁ、今回も頼むぞ。せいぜい励んでくれ」


そういうと、ポンと背中を叩いた。



その日の夕方、捜査会議が開かれた。

出席者は係長、福さん、森本刑事、それにママ。途中から参加した、高梨と本田。計6名である。


・発生日時:2020年5月5日 12時12分

・被害者:榊原恒一(67歳)

・発生場所:南邦大学医学部 検視室 A室

・死因:睡眠薬とモルヒネの過剰摂取によるショック死

・末期がんで余命わずか

・前科なし。※軽微な交通違反のみ

・他殺の疑いあり。

・特記事項

 ①検視の権威・法医学の第一人者

 ②昆虫研究・死体分解過程にも精通


一番に森本刑事が手をあげ、報告を始めた。


「係長、鑑識の細井さんからの報告で、毒物は、ある種の神経毒だそうです。まだ成分分析が出ていませんが、人体には影響がなく、虫にしか効かないのではないか?とのことでした。……そんな毒あるんですかね。


また、監視カメラを確認しましたが、GW中だったために、人の出入りは限定的で、ここ数日は第一発見者の女性と、榊原先生、それに相沢恒一(あいざわ こういち)と、三島恒一(みしま こういち)という助手のみが写っていました。警備室に確認したら身元が割れましたので、明日、詳しい話を聞きたいと思います。しかし三人とも恒一だなんて、紛らわしくて困りますね」


今度は福さんが続けた。


「係長、大学病院内で聞き込みをしましたが、特にトラブルなどはないようです。厳格で他人にも自分にも厳しい人物だそうですが、困っている教え子を放っておけない、優しい一面もあったそうです。周辺で恨まれているようなことはなさそうに思いますね。


で、第一発見者のおばちゃんですが、発見時のショックが強すぎて、医務室で手当を受けています。今日来たのは特別な用ではなく、いつものシフトで掃除に来ただけで、鍵は管理室から正当な手続きで借りていたのを確認しています」


「なるほどな……怨恨の線はどうだ?」


係長が難しい顔をし、高梨と本田に報告を促した。

コクリと高梨が頷き、報告を始めた。


「はい、こちらも問題はなさそうです。同じ法医学の先生方に聞いてみましたが、福さんの報告と似たような回答が複数得られました。厳しく教えられたが、理不尽に怒られたり、人前で叱責されたりなどのパワハラめいたことも何一つないそうです。皆さんが先生の死を悼んでいたのが印象的でした。


それと、親族は、奥様、ご兄弟も鬼籍に入られていて、遺体は大学病院の方で引き取ってくださるそうです。これは、生前に先生から、自分の研究成果を病院に捧げる対価として、依頼していたそうです」


本田が続けた。


「あの棺桶ですが、どうも先生がご自分で購入して用意したもののようです。カバンの中に領収書が入っていました。葬儀社に確認しましたが、先生が自ら相談に行き、材質とサイズについて相談された、とのことでした。


死ぬ前に棺桶を注文する人はほぼいないとのことで、担当者がよく覚えていました。届ける日も指定されて、用途を聞いたら、実験に使うのだ、と言っていたそうです。


それよりも、妙なことが。配達する時には必ず冷凍便にするように言われたそうなんです」


「冷凍便?」


「ええ。中身は空なのに冷凍便で、と何度も念押しされたそうです」


「実験に、冷凍便、ですか」


ママがぼそっと呟いたが、誰の耳にも入らなかった。


「ママからは何かあるか」


「いえ、僕は今の段階ではまだ何も」


福さんと森本刑事がせせら笑ったが、ママは気にしていないようだ。

係長がやれやれと苦笑いしたのち、


「その助手から話を聞いたほうが良さそうだな。明日の朝一で話を聞いて来い」


と発言し、捜査会議はいったん解散となった。


□相沢恒一の証言


南邦大学医学部の検視室を訪れると、相沢が部屋から出てきたところだった。


「相沢さん、榊原先生が亡くなった件について、少々お話よろしいでしょうか」


福さんが優しく話しかけた。


「ええ、そうですよね、こちらへどうぞ」


相沢さんは、多目的ルームへと案内してくれた。

そこは、主であった榊原先生の人柄を表すよう、綺麗に整えられた清潔な空間だった。

物は必要最低限で、大学病院特有の白い部屋は、どこか居心地が悪かった。

福さんと森本刑事はチラッとお互いの顔を見やった。


「ああ、すみません。まだ昨日の今日なので、動揺してしまって。お茶でも入れましょうか」


泣いたのだろうか、目が腫れているように見える。

服装も、どことなくちぐはぐな様子で、相沢からは明らかな動揺が見て取れた。


「いえ、お構いなく。形式的な質問になるのですが、最後に先生にお会いになったのはいつでしょうか」


立ったままウロウロと落ち着きのない彼へ、ジェスチャーで座るように示し、福さん&森本刑事も腰かけた。


「最後にお会いしたのは、一昨日ですね。教授に呼び出されて、検視室に来たんです。朝の10時ごろだったと思います。なんの用事かと思ったら、数日出かけるからと虫の世話を頼まれまして。いつもは絶対に人に任せないのに、おかしいなって思いました。


その後は、実家に帰省するために品川から12時の新幹線に乗りました。着いたのは、確か14時半でした。京都駅まで地元の友人が迎えに来たので、確認してもらえればわかると思います」


「なるほど、よくわかりました。ありがとうございます。しかし、虫の世話、ですか」


「ええ、教授が検視の権威なのはご存じと思いますが、他にも腐食性の昆虫について研究をされていまして。特にシデムシについて。なんでも死体分解過程に興味があるとかなんとかで、数千匹ほど飼育されているんです。詳しくは、三島君に聞いていただいたほうがいいと思いますよ。僕は虫にはさっぱり興味がなくて」


昨日の捜査会議で出てきた名前であることを確認し、福さんは森本刑事にそっと目配せした。


「なるほど。ありがとうございます。それで、先生が普段からちょっとおかしな言動を取っていたりとか、誰かから恨まれていたとか、そんな事はないですか」


そういうと、相沢は驚いたように目を見開いた。


「恨まれるなんて、そんなことあるわけないですよ。誰からも尊敬される、立派な先生でした。少なくとも僕はそう思っていましたよ。変な言動、は……その、先生が末期がんだったことはご存じですよね」


「ええ、まぁ」


少し目線を落とした相沢は、声のボリュームを押さえ、話しづらそうに続けた。


「余命がわずかだとわかってから、先生は、そのうち自殺するんだ、とよく口に出すようになりました。ガンが左腕に転移してからは、腕もよく動かせなくなって、気弱になったのかもしれません。利き腕じゃないだけマシ、と言って笑ってましたが、内心は穏やかじゃなかったはずです。


自分は独居老人だから、死んでとろけて発見されるくらいなら、自分で棺桶を作って愛する虫をいれ、遺体は虫に喰わせるんだと話していました。虫に食わせると、骨だけが綺麗に残るそうで、骨格標本になるのもいいかもな、などと笑い話のように言うこともあって。


モルヒネは、ガンの痛みを取るのに常用していましたし、睡眠薬を自分に処方して、それを飲めば苦しくないだろうと、口走ることもありました。


最初は口にする度に取りなしていたんですけど、まさか実行するとは思わないじゃないですか。それが今回こんなことになってしまって。僕がまともに取り合わなかったからこんなことになったんでしょうか」


頭を抱えてうなだれる相沢は、どう見ても尊敬する先生を亡くして取り乱す、中年男にしか見えなかった。


「あなたのせいじゃないですよ。実行する気のある人間は、誰が何をどう言おうが実行するもんですから」


福さんが優しく言葉をかけたが、ここから最後まで相沢は顔を上げることがなかった。

福&森本コンビは、今日はここまでにしようと、声をかけ部屋を後にした。


□三島恒一の証言


「えっ先生亡くなったんですか?」


三島の第一声がそれであった。


「ええ、昨日、遺体が発見されました」


「もしかして、ガンのせいですか? え、でもそれなら警察は来ませんよね。まさか殺されたって言うんですか? えっそんなまさか、自殺でも病死でもないなんて驚きですね。あんなに自殺するんだって言ってたのに、まさか殺しとは」


一人で勝手に結論をだして暴走し始めた三島に、慌てて高梨が声をかけた。


「いえ、念のために形式的な質問をしにきただけで、他殺と決まったわけじゃありませんので」


「え、そうなんですか? ふーん? まぁ、死んだ相手が検視のプロじゃ、色々調べるのが大変なんですね」


一応納得したかのように見える三島は、研究室へと入れてくれた。

が、入らなければよかったと後悔した、本田&高梨ペアである。


そこら中に虫の入ったケースが置かれ、中には、薄気味悪い虫ばかりで、至るとこからカサカサ、シュワシュワという音がし、体中が痒くなりそうだった。


「ああ、こんなところですみませんね。それで、先生が亡くなったって本当ですか」


椅子を勧められて腰かけてみたものの、どうにも居心地が悪くてたまらなかった。

本田が切り出した。


「ええ。昨日ご遺体が発見されました。それで、最後に先生に会われたのはいつか、お伺いしたいのですが」


「ああ、アリバイってやつね。最後に会ったのは4/28ですよ。いつも通り、虫の話をして別れました。その後は毎日、15時頃にこの子たちの世話をしに来た以外は、特にこれと言って。家でゴロゴロしてましたよ。GWですもん。


あ、そういえば、宅急便を受け取りましたね。昨日の18時頃かなー。たぶん覚えてると思うんで、聞いてみてくださいよ。虫屋敷に荷物を配達したのはいつですかって」


いぶかし気に高梨が問いかけた。


「虫屋敷ですか?」


「ええ。前に鈴虫を通販で購入したら、段ボールから逃げちゃって、配達のトラックがえらいことになって大変だったんです。これがもう傑作で。それ以来、虫屋敷の虫男って呼ばれてます」


本田が合点がいったとポンと手を合わせた。


「それから、先生の不審な点とか、恨まれていたなんてことは」


「いやーそれはないんじゃないですか。前から死ぬ死ぬとは言ってましたけどね」


「自殺をほのめかしていた、と?」


「まぁそんな感じです」


ここからは相沢とほぼ同じことが語られ、虫の気持ち悪さでいたたまれず、本田&高梨コンビは早々に退散することにした。

本田と高梨は、肝心の研究内容を何一つ聞かぬまま帰署し、後ほど係長に叱られることとなった。



夕方、2回目の捜査会議が開かれた。

まず、司法解剖の結果が、細井さんから報告された。


「被害者は、やはり睡眠薬とモルヒネの過剰摂取によるショック死に変わりありません。血中からアルコールも検出されましたが、これは薬を飲むために一緒に摂取した可能性が高いです。


また、死後硬直と、遺体の状況から遺体発見日の2日前、5/3の13時から15時の間に死亡したものと見られます。胃の内容物は虫に食われていたため、虫の死骸を調べましたが、ほぼ間違いないと見られます」


福さん&森本コンビ、そして高梨&本田コンビが互いに顔を見合わせる中、続けて毒についての報告がされた。


「例の毒についてですが、これはどうも新種の神経毒のようです。人体には影響がほぼないものの、一部の腐肉食の昆虫の神経を麻痺させ死に至らしめる、神経毒のようです。先生の薬品庫の中にいくつか薬物があり、同じものがあるか、科捜研で鑑定中です」


珍しく冒頭にママから質問が飛ぶ。


「そうだ、細井さん。あの注射器痕の注射針がどの角度で刺されたものか、調べてくれましたか」


「ああ、科捜研に頼んだよ。それがな、なんと8度だったんだ」


「8度ですか……なるほど」


難しい顔をしてむっつり黙り込んだママを横目に、森本刑事と福さんから相沢についての報告があった。


「なんだか普通の中年のおっさんのようにしか思えんなぁ。アリバイの裏どりもしたんだろ?」


係長が顔周りをマッサージしながら、そう呟いた。

全身から疲れがにじみ出ているようだ。


「ええ。確かに相沢の言った時間に、友人が迎えに来ていました」


そうか、と言いつつ得心のいかない係長は、高梨&本田コンビからの報告をせっついた。


「とすると、三島にはアリバイがないんだな。お前たちが聞いてこなかったが、昆虫の研究をしているっていうのがどうも怪しい気もするし」


うーん、決め手にかける、と肩をマッサージし始めた係長。

これは壁にぶち当たるとよく出る癖だ。


「そういえば、クール便の裏は取ったのか?」


焦ったように、高梨が手をあげた。


「報告忘れていました、すみません。シロネコ急便に確認したところ、珍妙な配達だったせいか、担当者が配達日時までよく覚えてましたよ。


GWに入る前、4/28に、他の実験道具やら薬品と一緒に、検視室に届けたそうです。いつもは相沢に受け渡しするのに、先生が来たので驚いたと言いてましたね。好奇心で何が入っているのか聞いたところ、まだ空なんだ、と言っていたそうです。……どういう意味でしょう」


「訳が分からんな」


勘弁してくれという風に、福さんがおどけた。


「もしかして、シロネコ急便は検視室まで運んでませんでしたか?」


シロネコ急便の話に興味があるのか、ママの瞳がギラギラとしていた。


「あ、よくわかりましたね。今回の現場まで運んで、しっかり鍵をかけた所までドライバーが見てました」


「そうですか、そうですか、なるほど。面白いですね」


天井を見上げてブツブツと呟き始めるママを不気味そうに見つめた後、


「現時点で、被疑者として絞り込める段階じゃねえですが、三島を重要参考人としてマークしてみちゃあどうでしょう」


と福さんが係長に言い寄った。


「……なぜ、わざわざ自分が疑われるような情報を口にするんでしょう」


ママがぼそっと呟いた。


「あぁ??」


森本刑事がまたお前か、という顔で、頭を掻き毟った。


「いえ、今回はかなり特殊な状況です、入れる人間も限られる。自ずと容疑者もかなり絞られることがわかるはずです。大学の助手なんてやるくらいに頭の切れる人間ですよ。


なのに、三島はなんで疑われるようなことをペラペラと話したんでしょう。アリバイがないことも一切取り繕わない。妙ですよね。


妙なのは相沢も同じです。虫の世話を頼まれたと言いましたね。なぜわざわざ虫に興味のない相沢に世話を頼むんでしょう。自分の虫の世話をしに、三島が大学に来ることは、先生ならわかっているはずです」


全員が示し合わせたように、あっと言った。


「それに、今回は薬物過剰摂取のショック死ですからね。何かしらのトリックを使えば、死亡時刻をずらすこともできるんじゃないかって思うんです」


福さんが噛みつかんばかりに、


「じゃあ何か? 完璧なアリバイがある相沢が犯人だっていうのか?」


と言った。人差し指で腕をつつき回されるのをかわしながら、ママは続けた。

相手にしてもらえない福さんが、しょんぼりとしている。


「相沢を犯人扱いしているわけじゃないんです。そのアリバイ自体は崩せないでしょう。それから、相沢にしろ、三島にしろ、どうにも先生に関する証言が完璧すぎて、違和感があるんです。


誰しも後ろ暗い過去の1つくらいあります。でも、先生に関しては何一つ悪い話が出てこない。もう少し調べたほうがいいと僕は思いますね」


「それはただのママの勘じゃないですかね。証拠も何もないのに」


高梨が呆れたように言い、ポリポリともみあげをかいている。


「ええ、でも、棺桶を買いに行った先生が、実験に使うんだ、と言っていたことがどうにも気になるんです。まだ空なんだ、という発言も気になります。


あれが実験に失敗して死んだように見えますか。そもそも失敗して死んだとして、一体何の実験のために棺桶に数千匹の虫と一緒に入るんですか。気色悪い。


実験ならば大学に申請しなければいけないのに、申請もなし、実験計画書もないんですよ。おかしいことが多すぎます」


それは確かに、実験だとして目的がわからなさすぎる。誰もが理解できない謎である。


「ママが証拠もなしにここまで食い下がるなんて、珍しいな」


係長が物珍しげな視線をママに向けた。


「よし、ママがそこまで言うなら、もう少し先生の周辺を探ってみろ。相沢と三島には俺とママで、もう一度話を聞いて来る」


係長がそういうと、どこか不満の残る顔でママ以外の捜査員がうなずいた。

ママは何も言わなかった。


□相沢恒一の証言


「刑事さん、またですか」


多目的ルームにもまた、ちぐはぐな恰好の相沢がいた。なにやら片づけをしていたらしい。


「いやぁ、色々お忙しいでしょうにすみませんねぇ。どうしてもこちらのママが話が聞きたいと言いまして」


「ママ?」


まの字が被っているから、ママと呼ばれているとことを告げると、相沢は気の毒そうにこちらをちらりと見た。


「単刀直入にお聞きます。相沢さん、何か弱みを先生に握られていませんか?」


ママが唐突に切り込むと、わかりやすく相沢が狼狽えたのがわかった。

係長に視線をやると、責めろと言われた気がしたので、言われるままに責め立てることにした。


「なるほど、心当たりがおありのようですね。なぜ隠しているんです。このまま隠すのは結構ですが、疑われますし、いずれこちらで調べが付きますよ」


小さく震えていた相沢が、大きなため息と共に、重い口を開いた。


「実は、以前スーパーで万引きをしたところを、たまたま居合わせた先生に見られてしまいました。スーパーにはお詫びして、穏便に済ませてもらいました。でも……」


「脅された、と?」


係長が身を乗り出して、続きを促した。とんでもない事実が出てきたものである。


「いえ、脅すなんてとんでもない。先生は、胸の内に収めて誰にも話さないと約束してくれました。その頃の私は極貧生活をしていたので、哀れに思ってくださったのかもしれません。でも、それがかえって怖かったんです」


「どういうことです? 黙っていてくれるなら、好都合じゃないですか」


「いえ、黙っている代わりに、いつ何時なにを要求されるのだろうと、毎日ビクビク暮らす羽目になりました。いっそばらしてくれた方がスッキリするのにって。でも、だからって殺しませんけどね」


「脅されても脅されなくても怖い、と」


「ええ。先日呼び出されたっていうのも、嘘をついていました。先生から例の話は誰にも漏らしていないから安心してほしい、と言われたんです。


でも、ワザワザ呼び出してそんなこと言うなんて、どういうつもりなんだろうと思っていたら、亡くなったと聞いて。もう訳が分かりませんよ」


下を向いて泣きながら震える相沢は、嘘をついているようには見えなかった。


「お酒をお飲みになるのですか」


先日はなかった酒瓶が、実験道具の陰に隠されるように置いてあるのを目ざとく見つけたママが、問いかけた。


「ええ、恐ろしさを紛らわせようと思って、最初は少しだったのに、段々量を飲まないと気が済まなくなって。もう、全然酔えないんです」


先ほどから相沢が震えているのは、アル中の気がある可能性が高い。

係長も同じことを考えていたらしい。視線がぶつかった。それで話題を変えることにした。


「そうでしたか。話は変わりますが、先生の薬品庫の鍵は、どなたがお持ちだったのでしょう」


「は? 薬品庫ですか。先生と私だけです。常に肌身離さず持っていろとおっしゃって、今もここにあります」


そう言って、首にかけた革ひもの先に、鍵がついているのを見せてくれた。


「他に、例えば三島さんもお持ちってことはないですか?」


「それはないですよ。ほら、見てください。この鍵、古すぎてもう複製出来ないんです。先生が1本、私が1本、それですべてですよ」


「そうですか……3Dプリンターでなら作れるなんてことはありませんか?」


「いえ、無理なんです。この鍵、単純に見えるでしょうけど、再現できないんです。一度試して失敗してますから、確かですよ」


動機と、遺体に使われた薬物も使うことのできる相沢が一気に怪しく見えてくる。

ひとしきり話を聞いたところで、お暇することにした。


「おいママ、相沢はかなり臭うな。だが、あのアリバイを崩すのは骨だぞ。しかし、先生は本当にいい人だったみたいだな。最後まで悪口1つでなかった」


こくりと頷くママ。


「このまま三島の所へ行ってもいいでしょうか」


「ああ構わんぞ。俺もそう思っていた」


□三島恒一の証言


「あっもしかして疑われちゃってる感じですか?」


三島のアパートへ赴くと、ちょうど宅配便を受け取っているところに鉢合わせした。


「本当にこの方を虫屋敷の虫男って呼ばれてるんですか?」


シロネコ急便のドライバーは困ったように笑った。


「ええ、まぁ。前に虫が逃げて大騒ぎになって。事務所の子が泣いちゃったんですよ。それからは、そう、お呼びしてます。ご本人の目の前で言うことじゃないですけどね」


「なぁにーそんな裏とってどうするの。さ、ドライバーさんは帰った帰った」


しっしっと追い払われたドライバーは一礼して、駐車場から出て行った。


「どんな経緯でつけられたのか、興味がありまして」


ママが無表情に告げると、三島は少したじろいだ。


「ま、いいけど。それで何が聞きたいわけ? 2回も来ちゃってさ。さ、立ち話もなんだし、こっちへどうぞ」


通されたアパートの中は、やはり虫だらけだった。

ムカデのような多足類や、各種ゴキブリ、毒蜘蛛など、そこら中からカサコソ、シュワシュワと虫音が聞こえる。

できるならこんな所にいたくはない。研究室から逃げ帰ってきた本田と高梨の気持ちが、わかる気がした。


「ええ。先日の刑事が、三島さんの研究内容を何も聞かずにいましたので、改めて教えていただきたく、伺いました」


「そういえばそうだったね。私は、食糧危機を虫で乗り越えられないか、というテーマで、昆虫食の研究をしているんです。ほら、この本、見たことあるでしょ?」


そこには、≪人類を救う昆虫~あなたも昆虫が好きになる~≫と書かれた、1冊の本があった。

中には、昆虫を使ったレシピや、安全な昆虫の見分け方など、虫嫌いの人が嘔吐しそうな内容が書かれていた。


「こ、これは強烈ですね。では、教授の研究は分解生態系だと伺ったのですが、どういう繋がりでお知り合いになられたんですか」


渡された本を見た係長は、青い顔をしながら、かろうじて質問した。


「ああ、元々そっちをやっていたんですけど、分解して土に戻すより、いかに美味しく食すかのほうが面白くなってきちゃって。それで全然違う方面に進んだんです。


でも、教授とは話も合いますし、二足の草鞋も面白いんですよねぇ。牛や豚なんかと同じで、与える餌で、昆虫の旨味も全然変わるんですよ。面白いでしょう。


そうそう、最近はシデムシにだけ効くなんとかって物質を開発した、とかで、実験もしてたなぁ」


実験という単語に、ママが激しく反応した。


「実験というのは?」


「え? ああ。人体に影響がでないのか、まずはマウスで試して、徐々に段階をあげているところだったはず。


何用で開発したのかは、ついぞわからず仕舞いだけど。なんの役にもたたない研究を、先生がするとも思えませんからね。前に言ってた、後世に残る功績を残したいって奴の1つなのかもね」


「その、後世に残る功績とはなんです?」


引っかかりを感じたママが、三島をじっと見つめながら疑問を呈した。


「いや、よく言ってたんだよ。“人は二度死ぬ”って。肉体が死ぬのが一度目で、名前を忘れられた時が二度目だってさ。……だから、自分の死に方すら、研究対象にする気なんじゃないかって、冗談で言ったこともあったんだ」


「なるほど。興味深いですね」


急に考えこんだママを見て、係長は一拍置いてから、話題を変えた。


「念のために伺りますけど、薬品庫の鍵はお持ちではないですよね?」


「ええ、あれは先生と相沢さんしか持ってないはずですよ。三島に渡したらよだれが出そうな薬品があるとかで、見せてもくれないんです」


三島は少々ふてくされたようだ。

そこで聞くべきことは聞いたとばかりにママが立ち上がり、お暇することにした。

やはり虫のカサコソ音には最後まで慣れなかった。


彼の元をお暇した帰り道を、プラプラと二人で歩いた。


「係長、どう思われますか?」


つま先で路端の小石を蹴ってしまい、小石がコロコロと転がる。


「どう、とは?」


「いえ、どうもすっきりしなくて」


「その違和感は大事にしろ。今回のヤマも、お前さんのその違和感から始まってるんだからな」


ジャケットを小脇に抱えて歩く係長の後ろを、ママが歩く。

小石は下り坂をコロコロと転がり続けた。



3回目の捜査会議が開かれた。3回目だが、今回は熱気よりも困惑のほうが渦巻いている。


「例の神経毒ですが、先生の薬品庫の物質と一致しました。ですが、こんなものを何に使うのか、科捜研でも首を傾げてましたよ」


「そうか、一致したか」


係長が険しい顔で、細井さんの報告を受けた。重い空気の中、森本刑事が後を続ける。


「先生の周辺を再度聞き込みましたが、やはり悪い話は何も出てきませんでした。正真正銘、ただの聖人君子みたいです。珍しくママの違和感が外れましたね」


森本刑事が、ママを見ながらニヤニヤとしている。福さんが後を続ける。


「念のため確認ですけど、第一発見者のおばちゃんが犯人です、なんてことは」


「それはありませんね。この大学病院は、国家機密の研究も行われています。そこに出入りする人間は、パートやアルバイトまで念入りな身元確認の上に雇われるんです。


その上、この女性は、大の虫恐怖症です。あんな状況の中で犯行に及ぶことは絶対に不可能です。事実、遺体を発見した後はショックが強すぎて数日入院されています」


ママにばっさり切り捨てると、福さんは忌々しそうな顔で彼を睨んだ。ママはどこ吹く風である。


高梨と本田が続けて報告するも、新しい事実は出てこない。

高梨が報告忘れがないか、手帳をみながら確認している。

几帳面な彼は、きちんと毎回メモを取っている。

行き詰まった部屋に、沈黙が重く落ちた。


「そうか、8度。これはおかしい。どうして今まで忘れていたんだ」


とママが急に立ち上がった。福さんが、呆れたように声をかける。


「おかしいって、なにがおかしいんだ」


「やってみればわかりますよ。福さん、手を貸してください」


ママは、細井さんから注射器を借り受けた。


「いいですか、皮下注射するときは、このように針を刺しますよね」


福さんのシャツの袖をまくり上げ、実際に注射器をあてがった。


「この刺し方の注射針の角度は、何度くらいだと思いますか? 本田さん」


「ん? いや。30度、40度くらいですか?」


何が起こるのかと成り行きを見ていた本田が、腕組みをしながら答える。


「ええ。場合によって変わりますけど、皮下注射の時は10~30度、もしくは45度と角度が決まっているんです」


ママが、角度を変えながら実際に様子を見せてくれた。


「そんなに細かく決まってるのか?」


「ええ。静脈注射はもっと浅くて、筋肉注射は45度から90度」


ママの手が一瞬止まった。


「……そして、10度未満は、皮内注射のみです」


「皮内……? なんだそれは」


ママに解放された福さんが、袖を直しながらみんなの疑問を代わりに聞いてくれた。


「皮膚の真皮内に打つ注射です」


「それで?」


「普通は、そんな打ち方はしません。注射と聞けば、先ほど見せた皮下注射を思い浮かべるはずです」


「つまり――」


本田が顔を上げる。


「最初から“そう見せるつもりだった”ってことですか」


ママは小さく頷いた。


「ええ。これは――先生が自分で設計した“死体”です」



「設計した死体ってのはどういうことだ?」


ざわついていた部屋が静まったタイミングで、係長がママに声をかけた。


「ええ。これは、あくまで僕の考えだ、という前提で話を聞いてください」


ゴクリと唾を飲み込む音がした。音の主は高梨で、緊張しているらしい。


「まず、整理します。監視カメラの映像から、先生と相沢、三島、それから掃除の女性の出入りのみが確認されています。ですが、女性と相沢は、虫恐怖症と完璧なアリバイのため、容疑者から除外できます」


ママが、意を決したように、先を続けた。


「そして三島です。彼も同様に、動機がない。つまり、三島も殺せない、いや、殺さないと言ったほうが正しいです」


「だから!! 犯人は誰だって言うんだよ」


焦れに焦れた森本刑事が、ママに掴みかかった。


「ほら、一人だけいるじゃありませんか。動機も薬品庫の鍵も持ち、そしてアリバイのない人物が。榊原恒一その人ですよ」


次の瞬間、水音を打ったように、部屋がシーンと静まり返った。


「僕は、榊原先生によって設計された死体に、まんまと踊らされてしまいました」


森本刑事が、ママへ掴みかかった。激高してしまっているように見える。


「お前が最初に自殺じゃないって言い出したくせに、自殺でしただと!!?? そんなことよく言えたな!」


ママの襟首を掴み、激しく揺さぶるのを慌てて他の課員が引きはがした。

森本は本田に羽交い絞めにされ、椅子に無理やり座らせられたが、まだフーフーと鼻息が荒い。

ママは、意にも介していないようだ。


「ええ、他殺ではありません。最初の違和感は、シデムシの死骸があったことでした。


そこから神経毒が検出されたために、殺しの疑いになり、捜査を開始しました。ここでまんまと先生の罠に嵌まってしまったのです。


ご自分で8度の角度で、左側の鎖骨と首の後ろ、それと喉仏に刺そうとしてみてください。ね、どこも手元が見えないでしょう。


この皮内注射というやつは、うっかりすると皮下組織に針が刺さってしまうんです。そんな繊細な作業を手元も見ずに、手が震える相沢と、医学知識のない三島にできたはずがないんです」


「でも、結果的に8度の角度で注射されただけで、皮下注射でも別に良かったんじゃないですか」


高梨が解せないという顔をしている。


「それはダメです。皮内注射でなければ、この仕掛けは成立しません。薬剤がその場に留まる必要があるからです。


これで不審なシデムシの死骸を作ることが可能になるんです。なにせ、皮膚を食い破れば、すぐに薬剤が漏れだすのですから。シデムシもイチコロだったでしょう」


「じゃあ、冷凍便の棺桶はなんなんだ。あれはなんの意味がある」


森本刑事がお前にわかるのかと言いたげにジロリと睨みつける。


「あれは、ハエの卵を殺すためにやったんです。今回の仕掛けは、蛆虫に湧かれると成立しなくなってしまうので」


「蛆虫が邪魔ってことですか?」


高梨が興味深そうにメモを取りながら聞いている。


「ええ。蛆虫には例の神経毒は効きません。その上、好き勝手移動するんです」


「毒を喰ったままでか?」


福さんが高梨に続いて呟いた。


「そうです。そして、シデムシは蛆虫を喰うんですよ。もしあれが動いた先で死なれたら……」


「死骸が散らばるな」


係長が、低く呟いた。


「だからあらかじめ、冷凍便を頼んだんでしょう。ゴキブリが紛れ込んだのは、先生の計算外だったと思います。


ですが、彼らは危険察知能力を発揮して、死んだシデムシを回避しました。これは先生の唯一の誤算でしょう」


パズルのピースがゆっくりとはまり始めた。


「じゃ、つまり先生は僕たちを翻弄して弄んだと、そういうことなんでしょうか」


「いえ、そうではないはずです」


本田がおずおず手をあげて質問したが、ばっさりとママに否定され、撃沈した。

ママが一呼吸おいて続けた。


「先生は、困っている教え子を放っておけない性格だ、と福さんが言っていました。そうですね?」


福さんがコクリと頷いた。


「では、困っている教え子、とは、どこからどこまででしょう。大学の学生まででしょうか? それとも、自分に法医学の相談に来る教授たちまで? それとも、司法解剖の結果を聞きに来る警察官まで、でしょうか」


はっとしたように、刑事たちに緊張の色が走った。

自分の担当した事件で、この先生に世話になっていないものなど、この西池上署の中にはいない。少なくとも、強行班係には。他の署は? すでに退職した者たちは? どこまでが教え子なのだろうか。


「僕は思うんです。先生の自分の死体を使った講義、だったんじゃないでしょうか」


ママが視線を下に落とした。


「死体はたやすく設計できる。お前たちは、どこまで解明できる?」


かすれるような声が、ぽつりと落ちた。


「……先生の助言なしに、ってことですか」


高梨が、誰にともなく呟いた。


痛いくらいの張りつめた雰囲気を打ち破ったのは、軽快なノック音だった。

ノックの主は、意外にも受付の警察官だった。


「強行班係宛に、お荷物が届いてます。差出人は、榊原恒一様となってますね」


故人からの小包みに強行班係はどよめいた。

係長が代表して受け取り、念のために鑑識を呼びつけると、慎重に中身を開封した。


そこには、1通の手紙と薬品庫の鍵が入っていた。

指紋、毛髪もご丁寧に添えられており、概ねママの話した通りのことが書かれていた。

遺体設計で、自殺なのだ、と。


手紙の最後はこのように締めくくられていた。


『なぜこのような事をと思われているかもしれない。私は、もうじき死ぬ。そうわかったとき、急に死ぬことが恐ろしくなった。何十年も死体を扱ってきた私が、おかしいだろう。もう看取ってくれる人間もいない。それならいっそ、自分で死を選おうと思ったんだ。


準備している時はね、とても楽しかったよ。自分の自殺の準備が楽しいだなんて、頭がいかれてると思うだろうね。こんなにも計画し、実行することが心躍るとは知らなかった。私が検視した者の中にも、同じように思った人がいないか、もしあの世があるのなら、あっちで聞いてみるとしよう。


さて、私の遺体設計が解けただろうか。もし解いた者がいるのなら、あの世で続きを話そう。その日を、楽しみにしている。榊原恒一』


後日、先生の葬儀がしめやかに営まれた。


警察関係者の参列が圧倒的に多く、近年では見かけないほどの盛大な式となった。

通夜が終わった斎場で、有馬は先生の遺影を見つめていた。

遺影の中でも厳しい顔をしている。


「先生、僕もお世話になりました。よくこうおっしゃってましたね。細部に気をつけなさい、死体なぞ簡単に偽装できるのだから、と。その言葉で、僕は今回、真実を見抜けました。でも、先生は真実を手紙に書きませんでしたね」


ろうそくの炎が、風もないのに揺れている。


「先生は、忘れられたくなかったんですか。法医学界でもてはやされた自分が、ガンであっけなく死んで、やがて忘れられていく。だからこんな死に方を選んだ」


有馬がわずかに目を細めた。炎の揺れが激しくなっていく。


「検視官の間で語り継がれますよ。虫を使った他殺偽装なんて。ねぇ、そうじゃないですか、先生」


ビュウ、と風が吹き込み、遺影が揺れた。

その顔は、どこか笑っているように見えた。


翌朝、西池上署はいつもの日常を取り戻していた。


「今回は、結局のところ、自殺だものな」


最初はママに押し付けられたヤマだったにもかかわらず、自殺ということで犯人はおらず、やはり今日もママの検挙率は最下位のままだった。


「ええ、まぁ。いつものことですから」


無精ひげにボサボサ頭のママは、全く気にしない風でそういった。

係長はそんなママを見て苦笑し、次はまた頑張れ、とポンと肩を叩くのだった。

ご拝読ありがとうございました。

法医学と昆虫、そして一人の老学者の執念を描いた一編でした。


癖の強い作品ではありますが、有馬刑事の事件簿、またどこかでお会いできれば光栄です。

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