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水晶の街  作者: iuと猫
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中編・3

 美術館での数日が過ぎると。

 ケンイチは、絵画の前で時間をつぶす事が多くなっていた。フロアの各所に配される、観賞用の長椅子ベンチ・ソファーに寝転がったり、膝を抱えて座り込んで。

 美術館に展示される絵画には、フェルメールの他にも、有名な画家の作品が幾つか在った。それを見つける度に管理人にからんでみようか、と考えもしたが。

 どうせ、本物か?本物です、奇跡ですね?のやり取りになるに決まっていた、アホらしい。

 本物だ、贋作だとこだわるのをやめて、絵画を眺めるようになってから。

 不思議にもケンイチは、絵画を見飽きる事がなくなっていた。

 変に構える物がなくなると、其処にはフロアの落ち着いた静寂と、絵画の彩り豊かな世界が在った。魅入みいるというより、付き合うように其処にいると、あっという間に時が流れるようで。その具合が丁度良いケンイチだった。

 心がザワザワする。

 その戸惑いについて、ケンイチは未だに首を傾げていた。

 それは不意の気配だった。始めの解釈は、本物の(もしくは本物と見まごう贋作の)凄味だろう、だった。ところが、それなら常に絵画がまとう筈であろうのに、例えば【恋文】は、必ずしもそうではなかった。見失う気配だった。そして、気の迷いだったかと納得がゆくのに、何かの拍子に突然、同じ印象で蘇る気配だった。

 心がザワザワする。

 それはおぼろげだった。美しさに心打たれる、あるいは恐怖に慄然とするその類の感覚ではあったが。

 それは例えば、感化されるに近かった。美しさや迫力、精緻さに心打たれながら、次に押し寄せる何かにぼんやりとするのだから、目が離せなくなるのだから。

 では何かとは?何に、どう感化されたのか。

 それはあまりにも漠然としていた。 

 仮に絵画が悲しみを伝えたとする。絵画には構図なり色彩に、それなりの要因・要素が有る筈だ。例せば、少女が悲しげに泣く姿の背後に残酷な描写が在って。絵画が、暗く寂しい色調であれば、より悲しみは伝わり易いだろうか。

 ところが、何の変哲もない風景画がそれを伝えたとする、あろう事か正確に悲しみを伝えたのだとする。要因が見当たらず、結論だけが独り歩きをしていると。

 人はその時、伝わるものが悲しみであると明確に覚知できるだろうか。又、なぜそれが伝えられるのか、説明できるだろうか。

 つまり、まるで表現出来ない要因の情報が在り、鑑賞心理の背後にそれに依って励起される感覚がある、とするなら。正体が解らない以上説明のしようがない、それは心の揺らぎである。

 勿論ケンイチは、得体の知れないその気配にさえ、拘りを捨てていた。すると、むしろその感覚は一つの発見のようで、ワクワクにもなり。

 心がザワザワする。

 まるで、絵画が変容するような気がして、何時いつしか時を忘れるのである。


 ケンイチが、絵画鑑賞にふけっていると足らなくなるのは、彼が買い込んで来た林檎など、果物の蓄えだった。ケンイチはしきりに林檎をかじっていた。何時からか、清潔な美術館を汚してはイケナイと感じて、布巾ふきんとゴミ袋を片手に。

「あのさ」

 ケンイチが事務仕事をする管理人の横に立ち。

「ゴミはどうする?」

 管理人がそれに応じて。

「館内のゴミ箱にどうぞ」

 でもさ、とケンイチ。ビニール袋一杯の林檎の芯を見せて。

「生ゴミだゾ、いいのかよ?」

 苦笑する管理人だった。結局、どうせ行き来するのだから、ゴミは街のスーパー・マーケットの生ゴミシュートへ、という話に決まると。

「よし、分かった」

 そう言って、暫くフロアから姿を消すケンイチで、彼は紙袋一杯に果物を買って、再び戻って来るのだ。

 お帰りなさいという管理人の端から、ポイと、林檎が放られる。イテッ。始めのそれは、管理人の頭に当たって。

 くすくす、とケンイチは笑うと勢い込んで、再び絵画の前に座るのである。

 管理人は呆れながらも笑みになった。フロアで大人しくなるケンイチをちらり見するのだった。

(つくづく、絵の好きな青年だ)

 彼は、行きがかり上のゲストとしてケンイチを認識していたが、早くにそれを思い直していた。行きがかりでなく、充分にゲストに値する人物であると。

 いずれにせよ、この様にして。

 ケンイチは自覚なく自分の居場所を見つけ、ついでにニコチンやアルコールの依存を絶っていったのである。


 ところで。

 勿論、ケンイチが唯、大人しかった筈もない。

 彼は退屈すると、時折(盛んに)管理人にちょっかいをかけた。

 ケンイチの内では、食堂の女主人から聞いた元・世界空手チャンピオンの一件が気になるのだが、それは力で管理人を屈服させられない位の問題に過ぎず、会話の支障にはならない。事実口論になっても、大抵言い負かされるのは管理人だった。

 ケンイチにとっては、それが返って痛快に感じられる。世界チャンプだから、何?だ。

 なぜ空手をやめたのかと、疑問は残ったが、それは管理人が自ら語らない事だった。

 ケンイチは気にせず、その質問を敢えて口にしなかった。


 まるで自由に振舞うケンイチだったが、彼が見事、管理人に撃退された事がある。

 ピカソの有名な作品を見つけて、あれが本物はいくら何でもまずいだろうと。

 表情に悪戯をにじませたケンイチが近寄ると、管理人は早々に苦々しく、机の上のピルケースの薬を、パクリ。

 ケンイチの興味が変わる。その矛先ほこさきが薬に向いた瞬間だった。

「その薬なんだけどさ?」

 質問を涼しげに流しながら、管理人が水差しから水を摂って、何か?だ。

「以前から気になってるんだが」

 管理人が更に、薬を口にする。パクリ。

「頭痛薬だろう、それって」

 ふんふんとうなづきながら、管理人は尚もパクリ。

 ケンイチが無言になる。すると、管理人が、質問は何ですかと次々に薬を飲み続けるので。

 ケンイチは、顔をしかめて見せた。

「オレと話す時いつも薬だな?それって嫌味じゃねーのか?」

「嫌味も何も」

 管理人は、もう一度冷水をくくっと空けると、やはり涼しげだった。

「事実、ケンイチさんと話すと頭痛がする場合が多い。仕方ありません」

 何だと、何でしょうかの、いつもの睨み合いになって。

 折れたのはケンイチだった。仕方ないと言われては此方だって仕方がない。薬の飲みすぎは体に悪イヨ?などと呟きながら、どれ一つオレにも頂戴。管理人がニコニコして、錠剤を分けてくれる。

 手の平に2錠。それは淡いパステルブルーの、ドロップ飴のような丸い三角形をしている。

 ケンイチは薬を口に放り込み、管理人のコップを借りて水を飲もうとして、ふと思い出す。

 以前、管理人が薬をかじっていたゾ、と。

 ケンイチのポリリ、と齧る音を受け取り、ニコりと笑って管理人が説明をした。

「普通、初めてそれを口をすると、心臓に大きな負担がかかります、心拍数・血圧値上昇。次に、ズドンと眩暈がして、膝に来ます」

 オエッとケンイチが戻しそうになる。慌ててゴミ箱を抱えて薬を吐き出すのだが、悪寒に体が痙攣し、ジタバタになる。

 可笑しそうに、管理人は重ねた。

「そして、とてつもなく苦いです。慣れてなければ、気絶するかもしれません」

 ケンイチは悶絶しながら「そ、それは早く言え」

 弱々しくケンイチが其処を離れる。その背中に、管理人は追い討ちをした。

「医薬品、劇薬です。私は何せこの体ですから大丈夫ですが。ま、薬ですから死ぬ事はありません」

 次の悶絶が来たのか、ケンイチが管理人室の奥にあるトイレに走る背後で。

 実はこの時、管理人は薬について、更にとある重要な説明をしたのである。少し寂しそうな顔をして。

 それはケンイチの耳に届かなかった。なぜか、管理人の独り言の様だったので。

 フロアに、扉が開け放たれ威勢良く流されるトイレの音が響いていた。一瞬曇った表情をすぐに明るくして、大笑いになる管理人だった。


 ひと悶着もんちゃくがあり、フロアが緊迫した事もあった。

 管理人は、毎日同じ時間に受け付けにちぢこまって座り、事務仕事に取り組んでいる(その他は、街に用事に出掛けたり、芝の手入れだ)

 退屈したケンイチが机の上を伺うと。

 机の片側には古いパソコン。もう片側には定型の黄色いA4郵便が4~5通、その上にこれも4~5通手紙が重ねられている。定型の郵便物には『水晶の街・住宅公団』とスタンプの送り主。

 管理人は大抵、手紙の返事を書いている。送られて来た手紙には、あれれ?ハートマークとかある。

「ファンレターなのか、それって?」

 管理人は苦笑いして。

「宛先はここ美術館です。ファンレターと言われれば、そうかもしれません」

 ふうん、毎日よくも飽きないな、と検分していると。

「これは電子メールへの返事です」

 ケンイチは怪訝になり「電子メール?」

 どうやら管理人は、電子メールの返信に手紙を書いているらしかった。

 普通、メールの返信はメールではないか。便利なデジタルに、面倒なアナログで答えてどうするんだ、とケンイチは考え込む。

 管理人は頭を掻きながらパソコンを示し。

「一応この美術館はWeb上にもサイトを開設しています。サイトにはいくつかの方針が有ります。悪戯に双方向の発信を行わない。極力、匿名性を排除する。その結果、多くの電子メールの差出人が実名となりました、連絡先も実在するものに」重ねる。

「そうなると、心のこもったメールには手紙の返事となりませんか?」

(ならねーな、普通)と、仏頂面のケンイチ。

 あまり真剣に聞かない事にして、傍から手を伸ばす。マウスをいじるとパソコンの画面が生き返っていた。

 管理人は。

「私の場合、メールの返信で。はじめまして(音符、顔文字、爽やかに挨拶)は変でしょう?」しつこく重ねる。

「管理人です(音符)ヨロシク(音符、顔文字、奇抜に挨拶、半角カタカナで印象的な気を惹くセリフ)では正直、キャラが違います」

(容姿は違うがキャラはそれでいけ。頑張れ、管理人)

 パソコンの画面はシンプルそのものだ。フォルダーが一つに。アイコンが2つ。YouTubeに何やら奇妙なアイコン。ケンイチが奇妙なアイコンをクリックしようとすると、その手を誘導してYouTubeにした管理人だった。「はあ?」「ニコッ」の2人。何だよと抗うケンイチをまぁまぁとなだめながらの管理人で。

「ケンイチさんに登録してもらいたいチャンネルがあります」

「登録?」ケンイチは怪訝に。

「オレはスマホもないし、パソコンも持ってねーし、ぶつぶつ」

 まるで管理人のしたり顔、のタイミングで画面にYouTube動画が開かれていた。若い女性が歌っている。これはよく見かける【歌ってみた】動画ではないのか?

「RayuTubeというチャンネルです」(*2021年10月現在実在します、作者は登録しました。読者さんも是非♪)

「Rayuさんというシンガーさんが色々な曲をカバーしていて……」

「アンタ、仕事中に何やってんだ」

 ケンイチはケタケタと笑いながらも、チャンネルを眺める。それを頷きながら確認しつつで管理人が説明した。

「歌は抜群に上手いです。面白いのはYouTubeなのに個人のホームページのような手作り風です。美人だしバズっても良さそうなのに、登録者がまだ100人余り」

「100人!」とケンイチ、そこは反応して。

「それじゃダメだろう?じゃあ始まったばかりの奴だな」

 ここで管理人は頭を掻く。

「いや、それが開設後結構経過しています、だから歯がゆくて……ケンイチさんにも是非登録を」

「おっと、HANABIじゃねーか、ミスチルだ!」どこからかお構いなしのケンイチだ。他にもあるな、あっこの曲知ってる♪とマウスを走らせる、画面をクリックする。

 画面はシンガーがHANABI を歌い始めていた。にんまりの管理人。ケンイチはきょとんとなる。

今、一瞬だった。一瞬だけ、ザワザワとしなかったか?

ケンイチは画面を凝視しつつ、チラリと管理人を見ると、管理人は楽し気に動画を見ている?

(うーん、なんだろうなコレ)と不思議な感覚で、暫くシンガーの様々なカバー曲を視聴して、ケンイチに納得できる事があった。美人なのだ。結局管理人の好みの女性なのだろう。そしてコメント返しが優しすぎる。美しくて優しい女性に違いなく、これには微笑んでしまって。

「わかったよ。必ず登録しましょう」

 これでようやく。ケンイチは美術館のサイトらしい、奇怪なアイコンをクリックするに至ったのだった。それはオリジナルのサイト風ではなかった。【美術館に管理人かいじん】これがタイトルロゴ?

「で、さっきの話はこれか?」

「私のブログです。美術館の紹介ブログですが」

 いきなりの管理人の顔写真だ、これは笑えすぎる。

 ケンイチがカチカチとマウスをクリックして、気を留めたのは。会員ページ、ゲスト紹介というコラムだった。

 マウスをカチリとやって、ケンイチは「あっ!」と声をあげた。

「何で、オレの写真が在る?」

 ブログ記事は、ケンイチの画像付きの紹介ページだった。画像は傷の手当てで寝込んでいた時のものだ。

 なぜ、こんな記事がある。慌ててクリックすると、ちくしょう、ナイトキャップを被った幸せそうな、オレだ。

「この、激バカ!」

 マウスが握り締められメキメキと音をたてるほどに、ケンイチが腹を立てた。この時ばかりは、管理人に殴りかからんばかりだった。

 盗撮だ、本人の許諾がない、しかも、と。

 ケンイチの怒りの上にすぐに覆い被ったのは、焦燥だった。

 ブログは大手の運営ブログだった。ケンイチは追われる身なのだ。露出はまずい、まずい事になった。

 ところが、うろたえるケンイチを見守るようにして管理人は。

「大丈夫。こうしなければ、貴方を守れない」

 歯軋りのまま睨み付けるケンイチを構わず、拍子抜けする程に落ち着いていた。

「会員ページのセキュリティは厳重です。簡単には入ってこれません」重ねる。

「会員は、多くが街の皆さんです。彼らは、このページに依って、貴方が美術館のゲストであると認知します。美術館のゲストとは」

 見ると、目の前のケンイチは落ち着きを失っている。続ける口調は、断りもなかった非を認め少しびる風になったが、悪い状況ではないのだからと、あくまで明瞭に。

「私が責任を以って保護する人物でもあります。それを皆さんが知る訳です。すると街の皆さん総出で、貴方を守るでしょう。怪しい連中にも決して貴方が此処にいると明かさないでしょう」

 ケンイチは押し黙っていた。目に怒りを宿したまま文句を言おうとすると、管理人に「街で、何か不快な事がありましたか?」と先に問われ、口ごもる。

 確かに、水晶の街の住人は早くからやけになれなれしかった、このブログが原因だろうか。

 考えてみれば。食堂の女主人、そういえば買い物をした商店の親父や婦人達に、何一つとげはなかった。そうだ。どちらかといえば、守護者ガーディアンのように此方こちらを見ていたのだ。

「いいのか、これで?」

 ようやく大きく息をつき、呟いたケンイチだった。なぜ管理人のブログごときが、街に影響するのか、それ程人気者なのかと疑問に思いながら。

 大丈夫、と管理人は頷いた。

「此処は、世界一の美術館です。安心して此処にいると善いです」

 ケンイチは、やっと吹き出せていた。世界一、どこかに聞いたその言葉に。

「いいや、やっぱり良くない」

 途端に騒ぎ始めるケンイチだ。

「?」

「どうせなら、写真を変えろ。寝顔はイヤだ」

 ケンイチがいきなり机の引き出しを開ける。カメラはどこだ、今どきスマホ持ってねーのか?そこはダメです、その先にはエッチな本が。と男達はガチャガチャ始める。


 美術館の日々は、そんなこんなで小気味良く過ぎていった。

 そして、ケンイチが此処で初めて迎える日曜日。再び、美術館に西野陽子が現れる。

 それは遅い朝の事だった。



2011年12月、加筆。改行スペースを削除しました。

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