中編・1
水晶の街と呼ばれるその街は、正確には水晶町という。
その所在は山間の僻地であった。前身は時代性のある炭焼きの煙立ち上る山村であったか、という程に人里離れた山奥の地だ。だがその隔地性に反して、街は新生の息吹溢れる、近代的な新興地域だった。
そこに横たわるのは巨大な峰々である。海洋に面する表側の平野を、人口数百万人を抱えるZ市という大都市が埋め尽くしていた。開発の波が、周辺に次々と衛星都市を生んでいる。それはついに山塊を迂回し、峰の背後のこの山間にまで達したのか。
山峡というより山脈規模で、扇状地形が大きく拓かれたその開発域は、数万人が容易に生活できる郡市の様相で(人口は、その密に達していない)街には、大都会の喧騒から離れた静かなベット・タウンの趣きがあった。
山稜がなだらかに整備され、その稜面を住宅が埋めていた。下流には広範な造成平地が拡がっている。
住宅街は、一つの意匠を以てひと時に造られた、美しい流れを魅せる街並みだった。家屋は一様に、屋根の色が濃い赤茶色、壁面が白基調の淡いパステルカラーで建ち並んでいる。
同じ形をした箱庭のミニチュアを思わせる平屋が、ひな壇を飾るように並ぶ区域がある。屋根の大きな、個性的な洋館風の住宅が、そこかしこに点在している。背の低いマンションがある、団地群の纏う空隙には山から分けられた緑が足されている。緩いすり鉢状の居住域のシルエットは、なだらかに波打ち、周囲の山々に溶け稜線の一部を描いていた。
住宅街を背に、平地地域にはおよそ街の機能が、不足なく縦横に巡っていた。
中心繁華街がある。金融機関、ショッピングモールや商業地区が其処に集まっている。連らなって(多くはZ市街からの出向オフィスの)背の低いビル群、小・中を兼ねた学校、大小の病院がある。周辺に小規模ながら町工場がある。それらの外郭に、更に幾つかの空き用地が在り、街が未だ拡大の機運に満ちているのだと明示している。
美術館は(美術館の丘は)街を見下ろす山中の施設だった。深い山林が覆うように両者を隔て、其処を縫う林道が両者を結んでいた。
(美術館正面ゲート付近から)林道は未整備の細道で始まり、路幅を広げながら山稜を下っていく。左右に何度か曲がり、周囲の林が杉からヒノキや橡へと変わると、其処で、住宅街の中心を貫き下る石畳の大通りの上層に繋がる。
石畳の大通りは、大きなコンクリート路材を敷き詰めた、長い坂道だった。
坂道は傾斜を浅くしながらその両翼に住宅を従え、家々の屋根を大河の川面のように輝かせて下方へ推し進み、街のメインストリートにT字に行き着く。そこからは、辺りはどこにでもある地方の気配で、アスファルト舗装のメインストリートは、様々に分かれ、いつしか県道へと延びていく。
ちなみに県道の一部は、街から遥かに離れた先で迂回して、美術館をかすめる山道に結んでいる。(意図的にか)車で美術館に向かうのには、随分な遠回りとなる。ケンイチが美術館を発見しないまま山道を走り続け、その(判り難い)分岐までも見落としていたら。
彼は、山麓を幾度も回り山脈を超えに越えて、列島の3分の1を横断する距離を走る羽目になっていただろう。やはり命拾いをしたのだ。
そうとも知らぬケンイチは、ただただ、美術館の裾に広がる街並みの出現に驚いていた。
Z市街にいたケンイチには、そもそも、山中の美術館が思いがけない施設だった(山間のどこかに開発の気配があるとは知っていたが)其処に、既に姿を成した街が在ると、思いもよらなかったのだ。
山脈の裏側に隠されたミステリアスな街が在る。いや、認知を更新するよりも、開発のペースが早いのだ。
新しく生まれた風景は、清楚な佇まいでどこかリゾートを思わせた。目に鮮やかな、水晶の街である。
街中はマズイんだよな、管理人って変わってるよな、と。
ケンイチは思いつくままの世間話で管理人をつつき、石畳の大通りを歩んだ。連れ添う管理人は、相変わらず笑顔で「いいえ」とか「そうですね」と答えてばかりいる。
ケンイチの見立てでは、管理人とは自ら進んで口を開く人間ではないようだった。怪物のような外見なので、お喋りを億劫がるのかというとその風でもなく、会話が実に楽しそうであるが。
大男は(偉そうに)余裕の受身の聞き上手、を演じているにすぎない。実はやはりマシンガンのように喋るのは苦手で、内容が込み入って来ると、途端に滑舌(未広辞苑)が回らなくなるのだ。本当に話したい時に、言葉の端がカクカクになる。
(ガイコクの大男か、コイツは)と、ケンイチはその発見に大喜びしつつ(どこか憎めないヤツだ)
人通りのある商店街に辿り着く頃には、ケンイチは管理人に当たり前に親近感を抱いていた。
商店街といっても、其処は通りに面していくつかの商店が並ぶだけだったが、管理人によると大抵の用件はこの辺りで済ませられるのだという。
管理人が食事は此処で、と立ち止まったのは通りに一つしかない大衆食堂である(路地を行けば食事処はいくつかある。だが管理人が此処しかないと言い張るから、仕方がない、此処なのだ)
小さなビルの地上階を店舗に充てた「おでん・めし処」の暖簾が掛かる、お世辞にも立派とはいえない店構えはこれ又この男らしいが、こざっぱりしたこんな場所がケンイチの趣味にも合う。
食堂は、女主人が一人で切り盛りしているようだった。
やや小柄で、やや細身の50才前後の女性だ。彼女が笑顔を振りまいて客の相手をしている。店内の気配は明るく昼時ともあって、そこそこに賑わっている。
管理人はテーブルに着くなり「管理人さんは、人の倍食べるから大変なんだよ」と、女主人から冷やかされていたから馴染みなのだろう。だが彼女は変わらぬ調子で。
「キミがゲストさんだって。噂通りのヒョロヒョロ兄さんだ。何を食べる?」
女主人は始めから、ケンイチにも歓迎モードだった。
噂通り?ケンイチが美術館にいる事を知っている?
ケンイチが表情をこわばらせ、目だけを動かして店内を探ると。
カウンターに、テーブルが5、6。店内は老若男女で適度に満席で、女主人のひと声に皆が微笑んだ?錯覚があった。怪しい連中はいないが、このアットホームな雰囲気は何だろう。テーブルには、ざくっと大きく白いクロスが掛けられている。シミ一つない、綺麗な店でいいかもなどと、ない交ぜに色々感じていると。
すぐに運ばれてきた料理ではないか。
管理人お勧めの逸品、焼肉定食だった。まだケンイチは注文をしていないのに。まだ壁に張られたメニューを見ていたのに。
2011年11月、加筆。改行スペースを削除しました。