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水晶の街  作者: iuと猫
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前編・4

 ヨハネス・フェルメールの【恋文】。

 それは、オランダ絵画黄金期の十七世紀半ばに描かれた、画家の後期を代表する絵画の一つだ。縦45センチ弱、幅40センチ弱の画布キャンバスの油彩画である。

 画の中央には、2人の女性が描かれている。楽器を膝に座姿の婦人、後ろに立つ次女。(大ぶりのマンドリンのような)シターンという楽器の練習中であった婦人が、次女から(届けられた)恋文を受取る。さて、意外な事で驚いたのか、念を押して何かを問いたいのか。

 絵画の構図は、そんな2人の女性の姿を中央に配して、手前のやや暗い別室から眺めた俯瞰ふかんである。

 全体の一隅いちぐうの切り取りである部屋の描写は、背後の壁に、帆船が往く風景を描いた海景画がかる。手前の壁際にほうきが立てかけられている。床面は白黒千鳥ちどりのタイル、手前に履き置かれたサンダル。それ等の配された品々には寓意性(物に託してほのめかそうとする意図)が有り、光景はメッセージ色の濃い意図的なものである、と云われている。 

 2人の女性像は、写実から進展した、精緻せいちでない簡素な表現で描かれている。シンプルな筆使いで感情を置くに留めたそれは、人物が控えめでありつつ周囲に埋もれず、まるで背景に比肩するという高い調和性を見せている。

 画家の特徴である、無限諧調でグラデートする繊細な間接光の再現は、中央の女性達を左側からの斜めに差すに、やはり伺える。彼女達の感情の揺らめきを思わせる空間の周囲に、あたかもの光を其処そこに魅せているのだ……


 管理人の、資金にまつわる裏話を聞いたからといって、納得出来る筈もなく。

 ケンイチは、はなから偽物だと言わんばかりに口をとがらせて、【恋文】に目をやっていた。

 勿論、その真偽がどうだからと、彼に何か利害がある訳ではない。更に言うなら、ケンイチはふらりと現れ其処にいたというだけの部外者だ。いわば意見できる立場にない。それで強いて意見を差し挟むのは、滑稽というかこくな横車ですらある。

 それでもケンイチは、あからさまに不信の様子を見せていた。

 彼には、管理人が渋い顔になっていると判っていた。大男は怪我の手当てをしてくれた、此処にかくまってもくれている。憎い訳がなく、困らせたいとも思わないのだが。

 だけど信じません、お生憎様あいにくさま、そんなケンイチだった。彼が 敢えて管理人の言い分を否定するのは(後々明らかになっていくが)それなりの思い入れが、絵画にあったからで。

 【恋文】が嘘という華で飾られるのは、ケンイチには不快だった。

「あのさ」と、静かな中でケンイチがポツリと言う。

「管理人、騙されてるんだよ、きっと」

 管理人の眉が上がる。陽子が彼を伺うと、大男はおもむろにゴソリと動いた。

 見ると、彼は人はズボンのポケットからピル・ケースを取り出す(ケンイチが以前見た、あれだ)例の如く、手の平に錠剤をてんこ盛りにすると、それを口に放り込んだ。

 陽子が不審がると「ただの常備薬です、頭痛がしてきました」

 管理人はモゴモゴ、ご心配なくと続けて、水がない事に少し困った様子を見せる。事務机に水差しがあったが(此処は2Fで)仕方なくか、それをガリガリとかじり、そして飲み込んだ。

 あきれ顔になる陽子だった。彼女がケンイチにも大丈夫なのか、と顔を向けたので、ケンイチは苦笑いで応じる。それが、再び話し始める糸口となった。

 陽子は何気なく、問う風もなく。 

「絵画にお詳しいんですね。美術を勉強なさっていますか?」

 何食わぬ顔で、問う意味が解らないといったケンイチだったので、陽子が続けて。

「画家の名前くらいなら、聞いた事もあります。でも私には、絵画を見ただけで作品名なんて、判らない」

 何か考える様子のケンイチだった。ひと呼吸して、陽子をジロリ見した。

「よくそれで、此処に来たもんだな」

 彼は「役人さん」と言葉を添えた。忘れてはならない、ケンイチは西野陽子を追い出したくて、其処に立っているのだ。

「オレは、絵には詳しいよん。中学の時は、校内のコンクールで入賞の常連だった」

 ケンイチが薄笑いを浮かべる。横で管理人が、半歩踏み出しこちらを伺い、ダメダメと仕草しているのが判る、でニカッと笑った。

「オレはヤクザだ。市街のZ会。アソコの一員だ」

 たちまち陽子の顔色が変わった。当たり前だった。彼女は飛び退くのだ。が、その腕をケンイチは掴んで「心配するな、変なヤクザじゃない」と、早口に言い「黙って、聞け」とも言った。

 心配して安心したと、管理人がケンイチを見ていた。

 ケンイチは笑う(大丈夫だ、任せろと言ったろ?)

「いいか。絵には本物と偽物を見抜く方法がある」

 彼は人差し指を立てる。注目、と素振りをする。

 すると、額面通りに注目する管理人ではないか。

(コイツは馬鹿野郎かも)

 一方、一応注目はしたが、その瞳が明らかにおびえる陽子だった。

 そんなに怖がらせるつもりはなかったと、後悔になるケンイチは精一杯優しい笑顔を作ってみるが、今更ダメかとすぐに諦める。せめて声だけでもと、優しく、明るく言った。

「まず、絵の前で目を閉じる。今日の出来事を全部忘れる。嫌な事も楽しかった事もみんな忘れて、それから目を開く。で、最初に目に飛び込んで来るイメージを観る、だ。その時心がザワザワしたら。それは正真正銘、本物だ。他人の評価はまた別の話だ。偉そうに絵を語るのもそれからだ」

 沈黙となった、それが流れた。場のどん退きとは異なる、やや不思議な間だった。


 ツイと、陽子がケンイチから離れてしまう。

 勿論、ケンイチはその反応が痛いほどに分かり、それを気にしなかったのだが、彼が陽子を気に留めない理由は他にもあった。それどころではなかったのだ。

 ケンイチはこの時、【恋文】の前から動けなくなってしまっていた。

 自らの言葉を素でやってみた。すると、何かザワついた、異様にだった。

 本物ならば、ザワザワすると自分で言って置いて、本当にそうなっていたのだ。それに驚いて息を呑んでいた。

 ザワザワすると言ったのは、人の直感力を馬鹿にできないと言ったつもりだった。仮説と呼ぶにも馬鹿げた作り話だった。どんなに精巧な偽物も、何となく人には見破られてしまう筈だ。それが道理だしそうあってほしいという願いも込めた、ケンイチなりの表現だったが。

 何が間違って、そんな事になったのだろうか?

 例えば、本物にしかない気配というものがある。人が試行錯誤の末に辿り着いた結論という、本物。ひしひしと伝わって来る執念。それは一種畏怖に近いものだろう。それでザワザワするのだろうか。

【恋文】を見つめるばかりだったケンイチの脳裏に、ふと浮かんだのは、本物かも知れない、という思いだった。

 考えてみる。此処はまがりなりにも美術館だ、可能性だけはある、と。

 では100歩譲って、仮に【恋文】が限りなくクロに近いグレーだったとする(それを本物、偽物、何と呼ぶのか判らないが)

(でも、そんな話は聞いた事もない)

 【恋文】とは名の知れた国際絵画だ。国内に本物らしきそれがあるのなら、もうテレビやマスコミで御馴染みになっている筈だった。東京に、スカイツリーが在る。知ろうとしなくても、人の口にのぼるので(例えば地方に住む、一生上京しない人がいたとしても)認知するのではないか。

 200歩譲ろう、かなり譲歩して、【恋文】がレンタルのような借り物ならどうだろう。確かにオリジナルだが、あくまで借り物だとする。

(で、何で此処なんだ?)

 都会でもない、寂しい地方の山中の美術館に、なぜ【恋文】だろう。当たり前だが、見よ。有名な名画であろうのに鑑賞者が一人もいない。展示する意味がないではないか。

 もう信じられない程の歩数を譲ってしまう、管理人の主張が全て正しいとする。

(すると、他の美術館は嘘つきなのか?)

 管理人が言うように、公に所蔵をうたう世界の名だたる美術館が、公然と虚偽を図るだろうか。ヤクザのケンイチが良識を問うのもどうかだか、それでは世間は通らないだろう。どうやったら大男一人で、世界の常識をくつがえせるというのか。

 ケンイチは、絵画を見つめながら苦虫を噛んでいた。

 やはりどう考えても、状況は【恋文】を本物とは語ってくれなかった。

 目の前にある【恋文】は贋作なのだ。ザワザワしたのは、贋作であっても人の心を打つオリジナルの凄さの故か。

 だが、ケンイチは視線を背けられなかった。

 オリジナルではないと始めから結論出来ていた。心のざわめきも推理出来たが、何かが違う。

 今まで感じた事がない感覚があった。観ていると、やはりザワザワし始める。

(目利きってやつか?才能があったか、オレ)

 ケンイチの内心が、ついそんな冗談に向いてしまう。誤魔化したいからだった、その不可解さの故に。


 不意に、辺りに響いた音だった。音楽だった。

 ケンイチが目をやると、右手の奥の方に、陽子と管理人が立っていた。2人はいつの間にか其処に移動したようだ。

 2Fフロアは、1Fフロアを一回り小さくして宙にある、柱がそれを支える造りだった。壁面ガラスに一部接触して、他は壁面から数メートル離れて、フロアを囲む手摺から全体が見渡せる。

 一回り小さくても、十分に広いフロアの、階段付近から一番遠い端の一角が、絵画の展示でない区画となっていた。

 視聴用か、ゆったりとした洒落た白のレザーのソファーが、幾つか並んでいる。その正面に、離れてオーディオ・システムが在った。2人はそれを操作したようだ。

 ケンイチは視線を【恋文】に戻す。すると「ちょっと、ヤクザ屋さん!」

 怒鳴どなり声。女性だった。

 西野陽子が、そんな風にケンイチを呼びつけたではないか。

 耳を疑うケンイチだった。

(何だと。この野郎、いいや、あのアマ?)

 ケンイチの顔が紅潮した。ただし、今しがた陽子を怖がらせた負い目もあり、本当には腹が立たなかったが、管理人がニカッと笑ってこっちを見ていた。そっちに腹が立つ。

(チクショウ、全然なめらてるじゃん、オレ)

「今、ヤクザ屋さんって言ったか?それって差別用語じゃねーのか?公務員がそんな発言していいのか?」

 ケンイチがドカドカと歩み寄って行く。すると、待ち構えた陽子は、ひどく怖い感じで睨みつけるのだ。

 出鼻を挫かれて(え?何で彼女が怒るんだ)と、はケンイチはたじろいでしまう。勿論、管理人も慌てる。また薬を口にしようと、ポケットをゴソゴソするほどに。

 口ごもるケンイチの腕を荒々しく掴んで、陽子は「ちょっとこっち」「そこ!真ん中!」とか、まるで命令口調だった。

 無理矢理、ケンイチをオーディオ・システムの前に立たせる。管理人はピル・ケースを振ってみたが、ポロリしか錠剤がなかった。オロオロしていた。

「どうなのよ?貴方、心がザワザワする?」

 詰問というより抗議、そんな陽子の口ぶりと瞳に「何だ、どうしたんだよ」と、ぼやくしかないケンイチだった。

 ケンイチが右に左にと引っ張られ、突き飛ばされた正面には、小ぶりのスピーカーを両翼に配したオーディオ・システムが在った。

 ガラスで出来たような奇怪な形のアンプの、小さなランプが一つだけ淡く点滅している。よく聴くチンケなクラッシックが流れているなと思いながら、ケンイチは不意に眉を寄せた。

「あれ?」

 無言の陽子の、刺すような視線がケンイチに向けられていた。

「何だ」

 心がザワザワした。【恋文】の印象。絵画と音楽は違うが、何か同じ印象だ。

 呆然とするケンイチ、呆然と呟く。

「……ザワザワするぞ、絵と同じだ、何だコリャ?」

 そこでいきなり、バチンとシステムの電源を落としてしまう陽子だった。

「貴方。さぞやザワザワしたでしょう」

 彼女の肩はワナナと震えていた。

 訳が分からずうろたえるばかりの男達を見てか、彼女は少し寂しげな表情になって「とても不愉快です」と、言った。そして続けた。

「公益法人で在りながら、高額な納税額。それは有名な絵画を有するから、ですか?でも国際的に価値がある絵画なら、然るべき公的施設下に所蔵するべきで、在り方として不自然じゃありませんか?そもそもお役所でいくら調べても、運営する法人の実態が見えてこない……正体不明の美術館に、高価な絵画、とても不思議なオーディオ、そして馬鹿が一人。此処は変です、此処は何ですか?」

 最後に辺りを一瞥し「帰ります」、と言い放つ。

 西野陽子は、そんな嵐のような怒りを見せて、足早にフロアを降り(逃げるようにして)去って行ったのである。


2011年11月に加筆、改行スペースを削除しました。

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